菅原神社(八橋本町)
御祀神:菅原道真(すがわらみちざね)
慶長年間(1596年~1615年)南秋田郡天王村北野の天神を川尻村箱岡に勧請し、
箱岡天満宮と称した。 その後日吉神社の南隣りに移したが、延享3年東照宮寿量
院造営のため、現在地に遷座し菅原神社と改称した。
明治4年焼失したので、廃寺となった寿量院の向拝を移築し、現在の拝殿となった。
天満宮
菅原道真を祀る神社で、道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、
清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である
天神(火雷天神)と同一視されるようになった。
道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされる。
天神様は本来、高天原にいる神や天下った神の総称で、一般的には雷神を指す。
八橋の天神様として菅原神社の境内で八橋人形(土人形)が売られるようになり、
「お天さん」と親しまれ、それが「おでんつぁん」と訛るようになった。
八橋のおでんつぁん。
菅原道真と天神(雷神)として模ったものと言われている。
三皇熊野神社(牛島西)
御祀神:
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)
須佐之男大神(すさのをのおおかみ)
八幡大神(はちまんおおかみ)
創立年月日不詳なれど再建は桓武天皇の延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が
竹原三皇の神に祈誓して高清水丘に向って矢を放ったと言われており、賊を討った
報賽として社殿を再建したという。 境内には田村将軍の杖に根がついたという大木
があり、戦前まで、地上8尺位の所から、こんこんと水が流れ、霊水の大木と言われ
た。明治7年村社に、明治4年1月10日神饌幣帛料供進神社に指定され、明治33年
に本殿と拝殿が改築された。明治43年5月20日大野中道上段無格社八幡神社、
明治44年7月5日、字古川端無格社神明社、同年村社熊野神社を合祀し、三皇熊野
神社と名称が変り、その後幣殿は昭和48年増改築した。
文久年間(1861~1864)に制作され、猿田彦大神として奉齋された秋田藩主・佐竹
氏の五本骨月扇紋が付された獅子頭が伝わっており、古くより、鬼門・方位除け、
九曜星厄除と星の巡りによる災難除けの神社として崇敬があり、特に厄除開運、
八方除に御利益があるといわれる。
御祀神:菅原道真(すがわらみちざね)
慶長年間(1596年~1615年)南秋田郡天王村北野の天神を川尻村箱岡に勧請し、
箱岡天満宮と称した。 その後日吉神社の南隣りに移したが、延享3年東照宮寿量
院造営のため、現在地に遷座し菅原神社と改称した。
明治4年焼失したので、廃寺となった寿量院の向拝を移築し、現在の拝殿となった。
天満宮
菅原道真を祀る神社で、道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、
清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である
天神(火雷天神)と同一視されるようになった。
道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされる。
天神様は本来、高天原にいる神や天下った神の総称で、一般的には雷神を指す。
八橋の天神様として菅原神社の境内で八橋人形(土人形)が売られるようになり、
「お天さん」と親しまれ、それが「おでんつぁん」と訛るようになった。
八橋のおでんつぁん。
菅原道真と天神(雷神)として模ったものと言われている。
三皇熊野神社(牛島西)
御祀神:
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)
須佐之男大神(すさのをのおおかみ)
八幡大神(はちまんおおかみ)
創立年月日不詳なれど再建は桓武天皇の延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂が
竹原三皇の神に祈誓して高清水丘に向って矢を放ったと言われており、賊を討った
報賽として社殿を再建したという。 境内には田村将軍の杖に根がついたという大木
があり、戦前まで、地上8尺位の所から、こんこんと水が流れ、霊水の大木と言われ
た。明治7年村社に、明治4年1月10日神饌幣帛料供進神社に指定され、明治33年
に本殿と拝殿が改築された。明治43年5月20日大野中道上段無格社八幡神社、
明治44年7月5日、字古川端無格社神明社、同年村社熊野神社を合祀し、三皇熊野
神社と名称が変り、その後幣殿は昭和48年増改築した。
文久年間(1861~1864)に制作され、猿田彦大神として奉齋された秋田藩主・佐竹
氏の五本骨月扇紋が付された獅子頭が伝わっており、古くより、鬼門・方位除け、
九曜星厄除と星の巡りによる災難除けの神社として崇敬があり、特に厄除開運、
八方除に御利益があるといわれる。