夏風邪で瀕死中。
先週稚内で被爆し、山場は超えたが咳淡鼻水が止まらず喘息の如し。脱力感MAX。
天気も毎日、雨雨雨曇雨雨な感じ。ヤフ天気2週間先まで雨のち曇でフルマーク!どーなってんだ北海道!
道内どこ逃げたって雨雨雨。完全足止め。10日間程の空白、旅ロスになりそうだ。
オホーツク側南下してサロマ湖まで来た。が、連日の土砂降り、好転の兆しゼロ。
もー覚悟しただ。8月の北海道は梅雨なんだ。晴れは9月からだ(無根拠)。道東は紅葉シーズンに戻ってこよう!
土砂降りの中、オホーツク沿岸人気ポイントをそれなりに廻ってみた。
ほとんどが景勝ポイントなので雨天では台無し。撮影も問題外、どうにもならず。
そんなんで、車中病床より執念のブログでござる。
九人の乙女
前回予告しちゃったので、とりあえずまとめてみた。
↓九人の乙女の碑(再掲)
終戦後まもなく、ソ連が樺太に侵攻しました。「九人の乙女」とは、樺太真岡町にあった真岡郵便局(正式名:真岡郵便電信局)に交換手として勤務していた9人の女性の自決悲話です。
各地の史碑や資料館を訪ねました。
↓樺太(真ん中下の港が真岡)
↓真岡町(当時)
↓現在
↓真岡郵便局(左の終戦後は窓外壁に銃撃痕が残る)
↓交換台実機
↓交換手は女性の花型職業でした
日本の敗戦は無条件降伏、武装解除が進む中、ソ連はヤルタでの英米ソの密約(日本が負けたら樺太はソ連領土とする)に乗じ、一気に樺太+千島列島侵攻を開始します。
当時、電話交換は軍事情報の連絡にも大変重要な役割を担っていました。
ソ連が国境線を超え日本領に侵攻する様子が、交換局のリレーで逐一伝えられ、各地の防衛機能の要にもなっていたほか、内地からは方面軍や大本営からの指令を正確に伝えるホットラインでもありました。
因みに、このとき司令部からの命令は「積極的に迎撃し、越境すべからず」でした。敗戦国日本には自衛抗戦以外の行為は許されなかったのです。
聞こえは立派ですが、本質は帝国最期のお家芸、絶望の玉砕戦です。もはや十分な武器もありません。
ソ連の本土進攻(ソ連の北海道分割統治計画=留萌・釧路ラインで領土分割)を阻止するため、なんとしても樺太でソ連軍を止める必要がありました。
一方、千島列島への侵攻も激しく、こちらは守備隊が司令部の停戦命令を無視、無駄に降伏するより主権を守る!と、交戦を継続します。
結果、ソ連側に大打撃(死者数:ソ連3000、日本600)を与えるも、ポツダム宣言受諾を決めた日本に、戦闘維持する大義はなく部隊は軍命による自首降伏となります。
しかしソ連にとってこの損害は、満州・朝鮮侵攻で受けた損害を大幅に上回り誤算でした。彼らが北海道に侵攻しなかった(できなかった)のは、この抵抗があったためとも言われています。
ソ連が、対日参戦したのが8月9日。
樺太、千島列島、北海道の、今につながる運命は、その後わずか2週間で決まることになります。
このように、極めて緊張した状況の中、電話通信による局面情報の適切な判断は樺太市民40万人の生死を左右し、更には日本の戦後の姿にも影響する重要な業務だったのです。
ソ連対日参戦直後から民間人の北海道方面への疎開が始まりました。高齢者や婦女子が優先されますが、ソ連軍の無差別攻撃は容赦なく、引き揚げ船が撃沈され1700名、地上戦で2000名の市民が犠牲になりました。
結果的に疎開が成功したのは10万人と言われています。
真岡郵便局の乙女たちは、全員に引揚指示が出ていたものの、その業務の重要性から皆が自主残留を求めます。
残留=死、であることはだれもが理解していました。
ソ連兵による性的虐待が酷いことが定説になっていて、辱めを受けるくらいなら清いまま死を選ぶ!と、誰が用意したのか、彼女たちには致死量の青酸カリやモルヒネが渡されていました。
これに先立ち、8月16日、ソ連軍が上陸した恵須取では、病院のナースたちが同様の理由で、服毒による集団自害をしています。
その様子は現場から電話で伝えられ、真岡の交換手たちは直接その臨場に触れていたわけです。
8月19日。結局、局の上司が彼女たちの家族関係を基に、子供が居る者、親の介護が必要な者等を引揚者とし、それ以外の二十余名を残留者に決めます。
つまり、年齢や能力に関係なく、波及ミニマムな身軽な者から犠牲になるという人間消去法でした。
結果、交換手21名で2班を形成します。高石班(11名)、上野班(10名)。
8月20日早朝、高石班の当直中、目前の真岡港からソ連軍が上陸を開始します。
↓真岡港(当時)
街中にロシア兵があふれ、いよいよ局舎も交換台も被弾するようになり、、乙女達は最期を迎えるのであります。
以下は局舎内の自決場所と状況推移です。
↓自決場所(お国の為の行為なので自害とはいわない)
↓9人の乙女写真(高石班11名中の9人)
高石ミキ(24)、可香谷シゲ(23)、伊藤千枝(22)、志賀晴代(22)、吉田八重子(21)、高城淑子(19)、沢田キミ(18)、渡辺照(17)、松橋みどり(17)
①高石ミキ
高石班の班長であり、関係各所に最後連絡をした後、最初に青酸カリを服毒し死亡。
②可香谷シゲ
副長として高石班長に続き服毒、死亡。
③伊藤千枝
他の乙女たちも次々と死亡して行く中、服毒後もまだ息が続いた伊藤は、ただ一回線生きていた泊居郵便局へ連絡、最後の言葉を送った。
「高石さんも死んでしまいました。弾がどんどん飛んで来ます。もう、どうにもなりません。さようなら、さようなら」
④渡辺照
渡辺も泊居郵便局へ最後の言葉を送っている。
「今、皆で自決します」「高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら」
当時の証言記録の曖昧性もあり、伊藤と渡辺のどちらが最後の言葉だったのか、もしくは一人の発信内容を基に、別人として2つの内容が生まれたのかは定かでない。
また誰もが思う疑問。。
高石班は11人居たのでは?ほかの2人はどうなった?
記録によれば、次のようになっています。
高石班11人中、生き残ったのは3人(2人は服毒するも絶命せず。もう1人は机の下に避難していた)。これをロシア兵が発見し保護。
更に1人(志賀晴代)は、高石班所属ではなく緊急招集された交換手だった。
つまり、11-3+1=9人。の乙女なのです。
当時、樺太の作戦行動は札幌に本部を置く第5方面軍の指揮下にありました。
そして北海道と樺太を結ぶ通信ラインは、猿払村にある「猿払電話中継所跡」から海底ケーブルで宗谷海峡を渡していました。
国の為、人々の為、彼女達の命の声が行き来した場所は、とても静かな浜辺にありました。
観光客ゼロ。たっぷり思う存分合掌させて頂きました。
↓猿払電話中継所跡
この悲劇、映画:氷雪の門、のタイトルでYoutubeでも見れます。
映画公開時、ソ連からのクレームがありお蔵入りになった作品です。
9人の乙女以外にも、戦時下では様々な悲劇がありました。
国や同胞を想う軍国少女たちは、当時の体制が作り上げたものです。
しかし、時代に関係なく、人が命を掛けた行為は誰にでも究極です。
真岡郵便局の交換手だけでなく、有事の重要な歯車となった彼女たちの献身が無ければ、今の北海道も日本で無かった可能性も否定できません。
残る人、続く未来の幸せを信じ、彼女たちは散っていったのです。
8月20日が9人の命日です。
どうぞ北を望み、合掌とお祈りを捧げてあげてください。
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