「人は、生まれてからの3~40年間は、前生の続きを生きている。
本当の今生が始まるのはそれ以降だ」
以前、知人が話していた言葉を、今、深い感銘とともに思い出します。
カトリックの洗礼を受けた10年ちょっと前。
思うことあって教会に飛び込み、それなりの思いを胸に受けたはずなのですが
何故か 遠い昔のことにように感じます。
あれは、前世の続きだったのかもしれない。
でも、それも確かにひとつの始まりであって
以降の10年は、嘘で塗り固めた自分に気づき
自分を、そして神を否定し、模索を繰り返した年月でありました。
4月4日に控えた復活祭を意識し始めたある朝。
起きた時から何かが違いました。
あの大風の夜からの 身の置き所のない気持ちはどこへ行ったのか・・・
ぼんやりと
「私は 帰ってきた」と 思いました。
自分が大嫌いでした。
でも、再び描くことに出会い
新しいものを生み続けるには 嫌いな自分ともひとつにならなければ と
嫌いな自分こそが 私をより強く 豊かにするのだと知り
それでも、見たくないと駄々をこねる自分ともまたひとつになり過ごす日々。
それは、規模の違いこそあれ 誰にとっても一生の仕事です。
私の仕事はあまりに大規模で、
頑なに一人ぼっちで続けるには あまりに非力であることを
やっと 受け入れるに至りました・
宗教という、人間が造り出した“形式”は
全ての人に必要なものではありません。
強制したりされたりするものでもなく
人の価値に優劣をつける物でもなく
帰依すれば 全てがうまく運ぶというものでも勿論ありません。
ただ、私にはキリストという名の“道”がとってもしっくりしたのです。
(やはり 前世ですかね)
それは“宗教”ではなく“信仰”という道かもしれません。
※関係ないですが・・・“道”コチラで聴けます。泣けます。
大ちゃん優勝おめでとう(またかオイ(笑))
逃げ、迷い、否定するも
私は初めから 常にその手のひらの上にあった。
遠回りしたと思ったけど 遠回りしてもなおあまりあるほど
道を外れたと思っても 外れきれないほどに
その手はあまりに大きく この上なく安全なものだったのです。
自由だったのです。
愛に降参しました。
一度、自ら離したものを 再びこの手で掴みなおし
ここから 私の今生が始まるのです。
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