どの分野も、誠実に学び、修行していけば神仏の領域に近づく・・・・
というのが日本の考え方のようで、
柔道、華道、剣道、茶道、武道、芸道・・・と修行を何処か高みに至るための
道筋として、先人たちは精進を重ねて参りました。
昨夜、テレビを見ていたら体操の内村航平選手を
追いかけていて、そこで見た内村選手の倒立の美しさに
息を呑んだのです。
天と地を一直線に結んで揺るぎもなく。
身体で表現する悟り、のごとき。
極めれば、きっと神仏の領域。
天才を例に凡愚の身でおこがましいことながら、異分野とはいえ
書く、というその一筋の道をひたひたと歩み続けようと
新たに思ったのでした。
その内村選手が、夜のみ食べる一食主義だそうです。
誤変換他、後ほど。
神道や仏道の “道” と
明治以降に創設された “〇道” の “道” は、意味合いが少し違うのかもしれないと思いました。
創設当初はどうか解りませんが、少なくとも今現在は違うものになっていると。
“〇道” のいう “道”は、 技術と共に人間形成も目指す、というような認識なのではないかと思います。
むしろ、 “〇道” の元になった剣術や体術の方が、長い歴史の中で少数ながらも霊妙な技や “道” を体現していた人物がいたようです。
これは、長年の修行によって技術を研鑽したが、人間のする技としての限界を迎えた時に、
技術を越えた何かを求めた中で、稀に到達する人がいたというレベルのようです。
井沢先生もおそらく文筆活動でこのような境地を目指しておられるのかなと思いました。
井沢先生が傾倒する(と言って良いのでしょうか?)三島由紀夫氏もそこまでは、到達していなかったのではないでしょうか。
天賦の才や語彙力により美しい文章を残されましたが、可能性として更なる境地への到達があったかも知れない、とちょっと考えました(その辺りは、井沢先生の方が専門ですね)。
ええ、何かで読んだ記憶があるのに、筆が滑りました。
神道は消しておきます。
ありがとう。
芸も技も、神韻を帯びるということだと思います。
文字の世界は、雑駁なのでそのような澄み渡った世界に到達するのは至難かもしれませんが、一心に励みたいとは願っています。
まれに、神が宿っている・・・・と脚本に言って頂くことがあり、何よりの励みです。
これは結果、徳を積む(或いは陰徳を積む)事にもなり、先生の修行の一つになっている面もあるのかなと、思いました(検討違いでしたら、すみません)。
先生が長生きすれば、
《稀に神が宿る》から、常が《惟神》になる可能性もあるのではないでしょうか。
偉そうにすみません。