フジテレビの「報道2017」というタイトルでよかったか・・・・
(新報道2001だそうだ)
須田アナの仕切っている政治関連だが、とかくの風評があるフジテレビでも
この番組で、ざらつく思いをした記憶はないので局全体がそうだというわけでもなく
セクションによっては公平なのかもしれぬ。
おまけに今朝は、藤原正彦氏がゲスト、解説委員が平井文夫氏で安定感のあること。
途中から観たテーマは「日本の美」であり、だから藤原氏が呼ばれたのか?
外交に長けた安倍総理だが、教育に関してはゼロ点だという意見には
私も首肯する。
グローバリズムなど不要のことで、最も日本らしきものを護り取り戻すことが
結局はグローバルに通じる、というのは私の意見だが。
藤原氏は、英語なんか小学生から勉強することはない、とおっしゃる。
それより国語を学ばさせよ、と。まったくもって然り。
日々痩せていく国語がこの国の、あらゆる分野のものを貧しくする。
大いに賛同しながら観たのだが、藤原氏のかたわらにいた落語家さんが
「秋深き」という人口に膾炙した芭蕉のあの句を「秋深し」と
言ったのには閉口で、しかも藤原氏までもが「深し」と落語家氏の
誤った引用をリピートされ、せっかくの日本語論だったのに残念だった。
「秋深き」が正しく「深し」は間違い。ずいぶん多くの人々が間違って記憶しているが。
言葉への感性が鋭ければ「深き」であって「深し」では秋のあのしんと澄んで
張り詰めた大気の感触が出ない、とすぐ解かる。
秋という言葉の語尾「き」と呼応する連体形の「き」だから、音としての鋭さが
出る。「し」では、句がゆるむのだ。
「き」の次に来るべき名詞が来ていないことから、人々は安定感のある「深し」で
覚え込んだのであろうが、名詞を省いたことで次に来るべき箇所が空白になり、
その空白こそが「・・・・・」こそが、俳句の余白でありすなわり広がりであろう。
「笈日記」(弟子の各務支考元禄7・1694年)の「深き」が正しく、このかなり後(元文3・1738)年に
野坡(やば)という弟子達が選んだ句集『六行会』には「し」で記録されていて、さして
優秀な語感の持ち主たちではなかったと思われる。
芭蕉の句の本意は、弟子の根来芝柏宅で行われた俳句会に病気のためやむなく欠席したとき、句会の発句(最初に出される挨拶句)として書き送ったものとされていて、だから「隣りの人」とはその句会に参加の皆さん、という意味合いだそうな。
大阪蕉門の連衆を「隣人」に見立てた、自身の欠席への詫びを込めたわけだ。
だが、芭蕉ほどのお方が句の心をそういう狭いところにのみ置いたとは思えず、一般に
流された時裏事情を知らぬ者たちが、どう読むかの計算は当然していた、というのは
私見である。
私見を抜きにしても、秋の寂莫と孤独を詠んだ句として人の心に沁み入り広がっただろう。
孤独が隣人の気配をふと求める、そんな心境だろうか。孤独も、浅い孤独ではなく
人間の実存的孤絶感であろうよ、というのはこれも私見だ。
ならば、さらに「し」でいったん止めては感傷に流れすぎ、やはり「き」という
冷ややかな語感でなくてはならぬ。
秋深きは、芭の蕉病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の前に詠まれた最後から
二番目の句であり、つまりは死の予感をも孕んだ一句か。
秋には近づく死の気配も漲る。しかし、しんと静まった孤独感ではあっても恐怖ではない。
誤変換他、後ほど。
『管見妄語 グローバル化の憂鬱』中に、ちゃんと「秋深き」の形で引用されているのですが (「父と私の五七五」)。
そう、私は藤原先生のファンでもありまして。井沢先生と藤原先生の夢の対談、というのを密かに待ち望んでおります。お二人で日本語・国語の大切さを語っていただければ、と。本日の前哨戦?は、あらら、でございましたが、もし機会がおありになれば、ぜひ!
「秋深き」の句。井沢先生もご存じでしょうか、芭蕉はこの年六月、大津で「秋ちかき心の寄(よる)や四畳半」と発句を詠んでいます。狭い四畳半に、句会の仲間が親密に寄りあう。芭蕉を囲んで。
それが三か月後には病床にあって、せっかくの句会に、「隣は何を」の句を届けることになる。その「秋ちかき」から「秋深き」までの最後の時期に、「この道や行人なしに秋の暮」など、秋を詠みこんだ句が何句も遺されます。
秋の寂莫と孤独…でも、隔絶したものではなく、人恋しさが漂っている。芭蕉らしい境地でしょうか。
深し、全く気が付きませんでした、学ばせていただきました。
それにしても、私、パソコンと格闘中です。
ちょっと溜息。
藤原さんのは、あるいは落語家のコメントを受けてのことだったので、彼に恥をかかせないための敢えてのリピートだったかもしれません。
マユババさん
私もパソコンをやり始めた当時は、悪戦苦闘、失敗の連続でした。慣れですから、結局は。
今も基礎的なことしか出来ませんタイピングだけjは早くなりました。執筆に使用しているので。