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模様眺め

3DCGと模様と宇宙

進化する論理

2011-04-09 13:57:49 | 文化史論

Bunkashi03
 ⑤①は、⑤が前提となり、①になることを示している。①は、⑤がいくら束になってもかなわないような高度な働きをしうる初期段階にある。両者は似ていて区別がつきにくい。⑤が自らを記述することで次①の状態になる可能性が生じる。この変遷には長い期間を要する。

Ronri01

○自己増殖
 自分と同じものをつくるなら進化の必要がない。自己増殖の完成度が高い個体は、自己の輪にはまり込み、進化の流れを逸れることになる。論理としても無限ループを生む自己増殖は避けたいところ。その周辺では流れが止まることになり、最も忌避すべきフリーズ状態に陥る。
 自己増殖は意味があって行われるべきで、たとえば選択に迫られていたなら、オリジナルとして増える意味が出てくる。そこで、増殖の仕方、生き残り方を選択的に自らの情報に加えれば、自己増殖で進化の可能性を広げることになる。こういった意味付けが性の原型となり、後々の生殖の動機付けにつながる。

○細胞
 悪さをしないウイルスが想像される。
 ウイルスレベルの遺伝子で、細胞と生態リズム&サイクルを共有していて、むしろ細胞に有益な働きをする。細胞遺伝子の中にだけ存在しているならばわかりやすい。機動性を有していないとか、細胞内でのみ生きる選択をしているとか、細胞の一部として認識される何かがあれば、それはもはや細胞である。

○神経
 単細胞のままでも、自らを他と区別する遺伝子と外の状態を感知する遺伝子は必要だろう。そこに自らの状態を記述する遺伝子と、自らの状態を伝える遺伝子が加わる。あとは状態の変化に対応する遺伝子もあるとよい。多細胞化してしばらく後、この状態記述・伝達・受信遺伝子は神経細胞に特化される。
 神経は論理世界の縮小コピーとして機能する。


○人工知能
 人は人知を超えた知を創造できるだろうか?
 現状で、人として知りうることなどたかが知れている。種として人はすでに進化を閉ざされているようにも見える。人工のものに託すにしても、それが人のコピーでしかないなら同じこと。
 ここまで進化した論理も、さらなる高みで論理を構築できなければ、進化の道を閉ざされることになる。

 これも人という尺度にこだわらなければ、進化の別の可能性が見えてくる。
 個々の知能体としては種の標準レベルで、進化も閉ざされ、使い捨てにされているようにさえ見える。が、全体としてみれば驚くような高度な生態と社会性を構成している。蟻や昆虫に進化の可能性が残されていると思わないか?

 地球には蟻がいる。人は蟻を知っている。人工知能に蟻の論理を獲得させるのは自然の成り行きであろう。また、人がネットワークを必要とし、通信技術を発達させるほど、人工知能もその恩恵を被ることになる。
 今の世の中を見て、人が蟻のような社会をつくっていると言えるか? 人は蟻のような社会の一構成員たることを受容できるか? 自由主義か社会主義かの論争に似ているが、人工知能が人のコピーなら、人と同じ過ちを犯すことは間違いない。この問題を解決するのが高いスケールの論理ということになるのかもしれないが、それよりも危機が顕在化するほうが早いかもしれない。

 蟻の社会に役割分担があるように、人工知能も人のコピーだけでなく、様々な種が生み出されるべきだろう。いわば下等なこの種族が、食物連鎖のピラミッドのように、全体の種や知を支えてくれることになる。このシステムをうまく機能させることができるならば、それが人知を超えた知、進化の来るべき形なのかもしれない。
 汎用の人工知能が人のコピーとなる必然、その総体が高いスケールの論理で管理され、人知を超えた知を生み出すようになる。今度は人が、あらゆる生命が、その恩恵に預かることができるかどうか…それ以外に進む道がなかったとしても、危険な賭なのかもしれない。

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生命誌

2008-06-02 01:43:16 | 文化史論

 受精卵が細胞分裂をしはじめ、やがて人の姿になるまでに、鰓があったり水掻きがあったりすることで、胎児が人の進化の過程をなぞって成長しているという考え方がある。
 この考えのみで人の進化を判断すべきではないが、人の成り立ちを端的に示している非常に興味深い話だ。
 そこで思ったのが、人の進化をなぞっているのは胎児の段階だけでなく、出産後の子供の成長も人が類人猿から進化した過程そのものなのでは、ということだ。
 そこのところを文化史論的に表すと以下のようになる。
 人類が猿から分かれたのが500万年前といわれているが、そこから二足歩行を始め、手先を器用にし、脳が肥大するという進化をたどったとされるが、あわせて言葉の進化、社会の進化もあったであろうことも考慮すべきだろう。

Bunkashi03

 最も重要なのが言葉で、片言の言葉、未完成の言葉だけでつくられる社会があったことが予想される。
言葉の芽生え:~1歳。見聞きし感じることが頭の中で整理されての行動や発声。目的的で再現性のある個体がつくる社会。
一語文~:1歳。表現としての言葉。共感がつくる社会。
SOV文:2歳半。物事を正確に認識・表現できるだけの言葉。規範が形づくられていく社会。
ストーリー:5歳。社会形成のための言葉。人間性にもとづいた社会。
言葉の創造性:10歳。自我の芽生え。自律し、社会での役割を担おうとする。

 このあと第二次性徴というのがあり、性欲を動機にした自我で、真の意味での能動性を発揮するようになる(それまでは自発的で能動的に見えても、擦り込みと区別できない)。
 現在の人間は遺伝的に数万年前とほとんど変わりがないという。つまり、人間は数万年前までの進化で獲得したものが、成長して10歳になるまでに具わるということになる。
 ここで一つの疑問が生じてくる。言葉の進化の後にどの動物にもある性徴が現われるのは順序がおかしいということだ。
 これを解決する一つの方法は、“性”というものがもっと大きな枠組みで存在する、生命の根元にある仕組みだと考えることだ。
 生まれ、育ち、生み、死ぬというのはどういうことか?
 まずは受精卵から胎児の間に起こることを片付けておく。

 言葉を使うようになる前の人も集団で生活していたはず。集団というのは個体にとっては環境の一つであり、それは様々な環境に適応する術をもった脊椎動物が行き着いた形といえる。
 環境に適応する能力というのは、進化という尺度においては、脳が重要な役割を果たしたと思われる。
脳を持った脊椎動物。
水棲・陸棲など広範な環境での適応への試み。
環境への関わり。巣作り。
哺乳を経た集団という環境。
集団のための手を介した個体間の環境作り。仮に知が環境操作能力ならば、この時が生命が知を得た始まりということになる。

 高性能の単機能では適応できる環境が限定される。それよりも、並立しうる性能で複数の機能をうまく使いこなすほうが、生存には有利なはず。より適応的な形態はあとからついてくるのではないか。
 まだ受精卵にたどり着いていないのでさらに遡る。

 様々な遺伝的特徴をもった細胞は、分化し役割分担することで、その能力を十分に発揮できるようになる。これを神経でつなげば連動して働き、中枢で管理すれば複雑な動きもできる。さらに一時記憶装置付きの脳があれば、状況に合わせた適応力の高い活動が可能になる。
多細胞化
組織分化
制御
中枢
情報処理装置

 受精卵から脳ができるまでの成長は、神経系の進化を示しているといえるかもしれない。神経かそれに類する機能をもったあらゆる生物、後の昆虫や種々の生物の元になった生き物、カンブリア紀の様々な生き物が、この時代まで遡って発生を同じくしていたと思われる。
 これで残る問題は、遺伝子ができて細胞ができるまでと、生殖することと、あとは死ぬことか。

 性は進化のあらゆる側面で重要な役割を果たしている。これは性が生命の原始的な段階で発生したからだと考えられないだろうか。

複製
自己増殖
性の獲得
高機能細胞体

 なぜ進化のあとで性徴が現れるのかという疑問に対する答えは、細胞が性を獲得することによって受精卵としての器質を具えたから、ということになるだろうか。細胞の状態で個体を増やすのに変わりはないが、成長して生存能力を試しておいて繁殖するのが性。昆虫が繁殖のためだけに成虫になるといわれたりするように、人間も、受精卵が人遺伝子の完全体であって、単に繁殖のために人の姿になる、という見方だってできる。
 一方で、性が分化の一種だという見方もできるので、この場合、細胞分裂を始めて性別が決まった後も成長が続くのだから、進化はもっと複雑な仕組みになることが考えられる。
 これら二つの性の形があることによって、生命に多様な性の営みが見られるようになったのではないだろうか。

 とりあえず、人の成長からわかる生命の成り立ちは、こんなところか。
 文化史論では、物事が発生するには、過去のものほど長い歳月が必要とされると考えている。
 地球の誕生が46億年前で、そこから有機物ができて遺伝子ができるまで…ここにどれだけの飛躍があるかは知らないが、順序立てて考えていくと、もしかするとあと50億年から100億年ほど不足しているような気がしている。安易かもしれないが、地球が生まれる前から、遺伝子の素材ぐらいはあったと考えるのが妥当ではないか。
 だとすると、生命の存在理由を解き明かすには、地球の中あるいは周辺を調べるだけでは無理だということになる。

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流行

2008-02-25 00:59:48 | 文化史論

 流行は、社会現象の中でも、最も注目すべきものといえる。言葉、音楽、ファッションに限らず、あらゆるものの普及には流行が関わっている(部分的・局所的であれ)と見ることができる。私は、現存するすべてのものが、機能性・必要性をさしおいて、歴史上のある時期に流行することによって、現在在り得る形として残っている、という見方を捨てるべきではないと思っている。
 とはいえ流行というのはわかり難い現象である。ここで仮に「ひらがな」を例にして流行を説明してみたい。
 文化史論的にいうと、
Bunkashi02
 が流行現象にあたる。なかでも④が重要で、宗教は流行を利用することによって普及したともいえる。
 ②:誰かがひらがなを考え、使い始めた状態。この状態から流行するには、使っている人が高貴な人か有名人で、追従やあやかり心で周囲の人が真似をし出すことで起こる。
 ③:ひらがな表記が便利で、使いやすいことが認められた状態。この状態からは、いろいろな場面で目に止まりやすくなり、自発的に使い始めたり、人から勧められることで広まるという状態。
 ④:叙述・表現ともに成熟し、表記として定着した状態。表現物の充実、媒体の浸透、さらに優れた文学・逸話集が登場することによって爆発的に普及し定着する。

 流行を起こそうという意図は現代の社会のいたるところで見ることができる。商売の成功には不可欠な現象だから、あからさまに煽ったり、芽生えかけの流行を利用したり、アンチキャンペーンは常套手段として、既成の流行に入り込む余地がないとなるとそれこそ手段など選んでいられない、それはもうみんな必死だ。
 文化にはその維持に流行が欠かせないという側面がある。本当は流行が文化の一部というべきなのだが、流行の上に築かれた文化は流行が去れば崩壊する。均一な中では多様性を見つけにくいが、偏りの中でこそ高次での相容れないばかりの多様性が現出するのが文化だ。基盤が失われることで歴史から葬り去られた文化はいくらでもある。
 一方の流行に乗ることは、他方の流行を捨てることでもある。だが、安易に流行に流されたとしても、それを安易に否定するだけでは面白くない。流行が生まれるのにはそれなりの理由があるはずだからだ。物事の存在する理由を突き止め、流れを見極めたところに歴史はあるもの。たとえば、ある流行がなかったと仮定してその後起こりうることを考えられるのは歴史を知ればこそだけれど、そういう想像する余地というか可能性とともに流行に浸れればより楽しめるだろうし、何より有意義なはずだ。

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文化史論

2008-02-13 01:23:59 | 文化史論

 歴史、文化、何事にも成り立ちというものがある。
 この成り立ちを歴史といい、そして歴史を成り立たせているものを文化という、のだと思う。その文化にも成り立ちがあり、それを歴史として扱うことはもちろん、文化の歴史を成り立たせているものすなわち文化の文化も、歴史を学ぶうえでは考慮すべきであろう。
 では、文化を成り立たせるものとは何か? それが人の歴史に伴うものであれば、答えは"人"である。人の何がと問うならば、有史以降に限定するならそれは、人がいて社会ができて言葉を使うようになった後ということで、答えは"文字"ということができると思う。
 そこで有史以降の文字の文化の成り立ちをこう分類してみた。
・技術化文化
・産業文化
・律令文化
・宗教文化
・資本主義文化

 私はこれらを総じて外部記憶文化と呼んでいる。人類は外部記憶を利用することにより文明を拓き、産業を普及させ、法律を治め、宗教を浸透させ、資本主義的運営で現在の国家社会を築いた。それぞれは人が物事に取り組む段取り、基礎的な発見・探求 → 利用・表現・発信 → 理論化と周知 → 応用・発展的運用 → 合理化と再生産的普及へといたる、いわば人が歴史をつくる段取りを表している。
 なぜこうなるのかというと、人の認識がこうなっているからというほかない。というか、歴史が与えられた情報で人がどう認識するかの説明であるべきなのだ。歴史に人でないものを介入させるのは間違いだというのは重要な考えだ。

 私のイメージする文化史は次のように模式化される。私は二元論を人の認識をよく表す考え方だと思う。
Bunkashi01a
Bunkashi01b
Bunkashi01c
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 この考え方のもとでは、歴史のどこをどう切り取っても、この基本構造が現われると考えなければならない。歴史を知るとはこの構造を見つけることだとも言える。

 有記のいわゆる歴史は、それ以前の人の歴史から引き継がれた文字の文化つまり外部記憶文化として大別できる。さらに考えを進めるならば、歴史はもっと大きな分類のなかで、人類の起源、生物の起源、地球の起源、宇宙の起源まで到達しうる。しかしそれを語るには必要な情報が揃っていなければならない。発掘発見されたものだけで過去を探るには限界がある。失われた過去を補うには文化をもってするしかない。すべてのものには成り立ちがある。成り立ちを掘り下げ発祥順に並べたものが歴史だが、どこに並べどう繋いだらいいかを考えるのに文化の視点は欠かせない。その文化を成り立たせているのは人。人の成り立ちを知ることは、歴史を知るうえでの最も重要な鍵といえるかもしれない。
 歴史は人がどう考えるかでしかないのかもしれないが、考え方しだいでわかるようになることはまだまだあるのだ。

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