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知覧特攻平和会館を訪ねて

2012年09月20日 | 旅行

特攻隊・・・ご存知ですよね。

国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら勇士たちは・・・・・・・

沖縄の海に散りました。

旅の2日目・9/11に鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館に行ってきました。









特攻銅像「とこしえに」

特攻隊員の出撃時の姿。右手は平和を左手は固い決意が秘められ
開聞岳を仰ぐ目は生もなく、死もなく、すでに我もない隊員の仏心をあらわしています。



「とこしえに母と共にやすらかに」の願いをこめて母の像



テレビや映画で見聞きして知ってるつもりでした。

しかし、遺影、遺品、戦闘機を目の当たりにすると

何もわかってなかった事を実感しました。

特攻隊の最年少は幾つだと思いますか?

4月に17歳になったばかりで5月に出撃されました。

殆どが20代の若者、1036名が特攻戦死。

知覧から沖縄まで約2時間。

出撃指令が出て戦闘機に乗り込むと2時間後には

戦闘機もろとも爆死で遺体さえもありません。

その事実を受け止めているのが10代・20代であった。

その我が子が死に行くのを見守るしかなかったご両親も40代位では?

平和ボケして命を粗末にする今・・・・

この方たちの命に申し訳ない気がしました。

三角兵舎

特攻隊員が出撃まで起居していた半地下式の三角兵舎。
日の丸に寄せ書きをしたり故郷へ送る遺書や手紙を書いていた。



映画「俺は、君のためににこそ死ににいく」の為に実寸大で精巧に製作された「隼」




特攻の母・島濱トメさんと隊員の碑






--館内は撮影禁止HPから写真をお借りしました。また、パンフレットを転載---


海軍零式艦上戦闘機

昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m,水深約35mに
海没していたものを知覧町が昭和55年6月引き揚げた零戦。
機体が真ん中からパックリ折れています。


陸軍四式戦闘機「疾風」



若き特攻隊の英霊コーナー

1,036柱の隊員の遺影が出撃戦死した月日順に掲示、
その下には家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等を展示してある。  





英語のパンフレット


死を前にして愛する人たちへどれだけの言葉が残せるだろうか?


印象深い遺書がありました。すべてカタカナ書き。

29歳で4歳の男の子と2歳の女の子のお父さんの遺書。

まだ文字が読めない子供たちのためにすべてカタカナ書きにした父でした。

小学校に入るとまっさきにカタカナを習うんだそうです。

字を覚えた時に目にするのが、父の遺書・・・・・・なんとも哀しい。


枝幹二大尉(22歳)の遺書

早稲田大学から学徒出陣し、第165振武隊長として指揮をとりました

“あんまり緑が美しい 今日これから 死にに行くことすら 忘れてしまいそうだ。
真っ青な空 ぽかんと浮かぶ白い雲 
6月の知覧は もう蝉(せみ)の声がして 夏を思わせる。 
 
作戦命令を待っている間に 小鳥の声がたのしそう 
「俺も今度は小鳥になるよ」日のあたる草の上にねころんで 
杉本がこんなことをいっている

笑わせるな 本日13時35分、いよいよ知覧を離陸する 
なつかしの祖国よさらば 使い慣れた万年筆を形見に送ります。”

英語のパンフレットの1を見て下さい。

「元気で征きます。」

I am happy to go.

征くには遠方まで戦いに行く。敵を打ち倒すの意があります。

死の間際の魂の叫びを英訳は表現は出来ないでしょうね。

映画「月光の夏」で知られるフッペルのピアノ



ホタル館

富屋食堂は特攻の母として慕われた「島濱トメさん」の食堂でした。
トメさんの証言通り、当時の場所に資料館として復元。


「一つしかない命を投げ捨てて
散っていった若者の事・・・忘れてはならない」

「わたしは、みんなのお母さんになりたかったの・・・・・」(島濱トメ)

島濱トメさん(1902~1992)特攻の母として隊員に愛情を注いだのは
40代だったんですね

特攻隊員と言い、親御さん、そしてトメさん・・・この時代を生きた人達。
思った以上の若さなのに、気高さと精神年齢の高さに驚きます。

私・・・何やってんだろうな・・・・

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そして、最後に

特攻花と地元の人たちに言われる花の逸話をご紹介します。。

※特攻花については諸説あります

大金鶏菊

特攻基地だった海軍航空隊鹿屋基地周辺に多く群生し、
毎年、特攻隊の出撃が始まった3月下旬頃から発芽し始め、
出撃が続いた6月頃まで咲き誇ることから、いつしか『特攻花』と呼ばれるようになった。



天人菊

九州と沖縄の中間に位置する喜界島は知覧から出撃する特攻機の中継地点で
自らの命を犠牲にして沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所。

喜界島の特攻花の逸話はこちら。
 


特攻花には否定説はあるけど、私は信じます。

この花が咲き続ける事で風化することなく後世に

陸軍特別攻撃隊員の事が伝えられる事を願います。

もっともっと、伝えたい事、書きたい事があるのに・・・・・・

気持ちを言い表せない文書力のなさが悔しいです。

言える事は、是非一度訪ねて今の平和を感謝して欲しいです。

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実は・・この平和会館に行くのを正直、ためらいました

なんか背負いそうな気がしてた。

それは「霊がつく」とかではなく、

なんて言うのかな~。自分の気持ちの中で処理しきれない衝撃。

ズドンと居座りそうで・・・気持ちを引きずる。

大丈夫だろうか・・・・心配が当たってしまった。

突然なんだよね。それが来たのが・・・

会館を出た後、何気なく横を向いたら首がクチって・・・

寝違え状態になって痛くて首が回らない。肩も痛い。

「あ!やっぱり・・・」って思った。
「ごめんなさい。私は力不足です。何も出来ません」って語りかけた

痛みは3日間、ずっと場所を変えつつ続きました。

温泉にも入ってるのに治らない。

「こりゃ・・・病院に行かないと治らない」程の痛みが

家に着く頃には嘘みたいに痛みは消えた

単なる、偶然。疲れ。家に着く安心感でしょうか?

でも、私は何かメッセージをもらった気がしたんです

それは「今を生きなさい」みたいな・・・・

「わかるよ。」って言ってくれる方いますか?

長々と稚拙な記事を読んでいただき有難うございました。