目的が定まっている間は、その方向に向かっていけば良いので、心が安らぐものである。
人生には途中途中に個人個人が目的地点を持っている。
だけど、最終的な目的地点を持っている人はいないと思うのだ。
父はがんという不治の病に冒されている。
このがんというのは、恐ろしい病気で、治らないうえに痛みがある。
ああぁ痛いと思う時に、なぜ我慢できるのかというと、その痛みを我慢すれば、治癒して痛くなくなるからなのに、このがんというのは、治らない。
痛みがなくなるという希望を、持たずにその痛みに最後まで耐えなければならない。
これが恐ろしいことではなく何なんだろうかと思っていた。
そもそも、死ぬとわかった時に、いったいぜんたい僕はどこに目的地点を設定すればいいのだろうか。
ましてや、がんなどという不治の病に冒されてしまった場合、死という絶対的な終点を前に、僕は僕を納得させるための次の目的地点をどこに設定できるというのだろうか。
今回の帰郷で、ふと思い出した。
父が周りの人が生きてほしいといったから、できる限りは生きることにしたという言葉を。
この死の間際、絶対的な終焉が近付く中、父は目的を見出したのだ。
僕にとっては、大きな大きな勉強をさせてもらえたのだ。
僕が今、生きている意味。
それは最期によりどころとなる何かを模索している過程なのかもしれないと思った。
遠い先に希望の目的を設定して今を生きている。
父とは、そんな話をした。
そんな話をしながら、僕は、そんな先の希望の目的の先にあるものについて考えていた。