先日、胸が痛くて医者に行ったのだが、結局何事もなかった。
レントゲン、血液検査、心電図をとってみたのだが、特に問題なしとのこと。
いったい痛みはなんだったのだろうかと思ったが、問題ないと言われたので、気が抜けた。
自分では、気管、心臓、胃が弱いと思っている。
60位まで生きられれば良いほうなのじゃないかと感じていたのだが、いざ痛くなるとやはり考えてしまう。
20代のころと違って、30代になって死に対する恐怖感はかなり少なくなったと思う。
長く長く生きるということは、ただ、考える時間が間延びしていくだけだと思うようになっている。
指輪物語のビルボが指輪の力で長く生きたことについて、薄っぺらになっていく気がすると言っていたのを思い出す。
長ければ長いほど、感じることが薄くなっていく。
自分は何のために生きているのだろうか。
とはいえ、病気だと思った時に、ふと非日常の価値観に戻れた。
仕事がメインの日常を生きていると、何が大事で何が大事ではないのかという感覚がおかしくなってくる。
仕事が大事な気がしてくるのだ。
たかだか、100万、200万くらいの差をつけるために、時間を使っている気がした。
100万、200万の差でいったい自分は何をやりたいのだろうか。
いいところに住みたいのだろうか、おいしいものを食べたいのだろうか、いろんなところに行きたいのだろうか。
昔々、学生のころか、社会人なりたてのころか、幸せについて書いたことがある。
自分が幸せと感じられれば、それは、幸せなのだなどと、偉そうなことを書いた記憶がある。
100万、200万あっても、幸せじゃないかもしれない。
逆に、借金があっても幸せかもしれない。
いやまぁ、良くある話なのだが、とても大事なポイントが含まれている。
父が人間は、快か不快かのどちらかで行動が決まっていくと言っている。
会社の中で生きているうえでは、たくさん仕事をして、認められることが快につながるかもしれない。
だが、快の赴くままに生きていて、最後に良かったなぁと思えることはないと思う。
僕のじいさん(父はあまり好きではなかったらしい)が、言った言葉で、ひとつだけ心に残っている言葉がある。
その言葉を言った時は、すでに、パーキンソン病に侵されていたじいさんは、言葉があまり聞き取れなかった。
「喜びと、楽しいは違うのだ」
じいさんは、確かにそういった。
が~っと書いていって、かなりとりとめがなくなっているが・・・
ポイントは3点。
人は、快・不快で動く。
快のままに動くことが満足にはつながらない。
快・不快を決める(幸せかどうかを決める)のは、自分自身である。
まだ、とりとめもないけれど、きっとリンクするポイントな気がする。
最近、仕事が忙しく、あわただしい毎日を過ごしていた。
ゆっくりと、日常を見直して、価値観をもう一度考え直してみようと思う。