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遠海

母の眠る遠い海へ

祭り

2008-09-28 22:22:57 | 日記

今日は、藤沢の駅まで子供を連れて出た。
いつもは車で出るのだが、今日は祭りということで、交通規制がいろいろ出ているので、電車で出ることにした。


9月に入って、一番秋らしい気候だと感じた。
外は冷たい空気で、湿気があまりない。
個人的には、この気候が1年の中では一番好きだ。
何かをやりたくなる、そんな気候だ。


来月から、悠月君も保育園に行くことになるので、保育園近くの駐車場を契約することにした。
妻は仕事に復活するので、かなり落ち込んでいるが、まぁ、彼女も彼女の理由があって、先方の会社の上司に絶対戻ると話をしている手前、戻らざるを得ないようだ。
ともあれ、契約を済ますと、祭りを見ることにした。


神輿が練り歩き、太鼓や笛の音が聞こえてくる。
航生君は、祭りを認識できるようになったのか、何か楽しそうだ。
来てよかったと思った。


訂正

2008-09-28 22:22:42 | 日記

昨夜、つらつらと書いたことについて、さっそく父から返答のメールがあった。
快・不快の話だ。
昨日僕が書いた快・不快は、父の言っていたことを曲解しているようだ。
(メールを読んで、あ、そういえば、そうだったと思いだしたのだが・・・)


「生命は、快・不快によって動いている」
人間ではなく、生命といっている。
その中で、人間はイレギュラーな存在で、「人間は本能のまま生きているわけではない。人間は大脳によって生きているのである。」
「人それぞれの価値観が違うのも、そのためである。」


父のメールからの引用をかっこでくくった。


父は、考えた結果をまとまった形で伝えてくれる。
普段、年配の人とろくに話をしない僕にすると、そういった考えた結果を聞く機会は、今のところ父からしかない。
普通の人は、あまり考えないのか、そんな話を人前ですることはしないのか、どちらかよくわからないが、とにかく、父以外の人とこういった話をする機会は滅多にない。


胸が痛いことから考えたとりとめもないこと

2008-09-28 03:25:21 | 日記

先日、胸が痛くて医者に行ったのだが、結局何事もなかった。
レントゲン、血液検査、心電図をとってみたのだが、特に問題なしとのこと。
いったい痛みはなんだったのだろうかと思ったが、問題ないと言われたので、気が抜けた。


自分では、気管、心臓、胃が弱いと思っている。
60位まで生きられれば良いほうなのじゃないかと感じていたのだが、いざ痛くなるとやはり考えてしまう。


20代のころと違って、30代になって死に対する恐怖感はかなり少なくなったと思う。
長く長く生きるということは、ただ、考える時間が間延びしていくだけだと思うようになっている。
指輪物語のビルボが指輪の力で長く生きたことについて、薄っぺらになっていく気がすると言っていたのを思い出す。
長ければ長いほど、感じることが薄くなっていく。
自分は何のために生きているのだろうか。


とはいえ、病気だと思った時に、ふと非日常の価値観に戻れた。
仕事がメインの日常を生きていると、何が大事で何が大事ではないのかという感覚がおかしくなってくる。
仕事が大事な気がしてくるのだ。
たかだか、100万、200万くらいの差をつけるために、時間を使っている気がした。
100万、200万の差でいったい自分は何をやりたいのだろうか。
いいところに住みたいのだろうか、おいしいものを食べたいのだろうか、いろんなところに行きたいのだろうか。


昔々、学生のころか、社会人なりたてのころか、幸せについて書いたことがある。
自分が幸せと感じられれば、それは、幸せなのだなどと、偉そうなことを書いた記憶がある。
100万、200万あっても、幸せじゃないかもしれない。
逆に、借金があっても幸せかもしれない。


いやまぁ、良くある話なのだが、とても大事なポイントが含まれている。
父が人間は、快か不快かのどちらかで行動が決まっていくと言っている。
会社の中で生きているうえでは、たくさん仕事をして、認められることが快につながるかもしれない。
だが、快の赴くままに生きていて、最後に良かったなぁと思えることはないと思う。


僕のじいさん(父はあまり好きではなかったらしい)が、言った言葉で、ひとつだけ心に残っている言葉がある。
その言葉を言った時は、すでに、パーキンソン病に侵されていたじいさんは、言葉があまり聞き取れなかった。
「喜びと、楽しいは違うのだ」
じいさんは、確かにそういった。


が~っと書いていって、かなりとりとめがなくなっているが・・・
ポイントは3点。
人は、快・不快で動く。
快のままに動くことが満足にはつながらない。
快・不快を決める(幸せかどうかを決める)のは、自分自身である。


まだ、とりとめもないけれど、きっとリンクするポイントな気がする。


最近、仕事が忙しく、あわただしい毎日を過ごしていた。
ゆっくりと、日常を見直して、価値観をもう一度考え直してみようと思う。


なれあい

2008-09-09 14:44:26 | 日記

物を作って売る人。
物を買って使う人。


今は、とある大病院さんのシステムを、うちの会社が一手に引き受けている。
物を作るのも、うちの会社だし、その物を使ってサービスを提供するのもうちの会社になるのだ。
IT業界では、SIとか、SOとか呼ばれる。


現在の僕の仕事は、後者の物を買って使う人の役割に近い。
実際に物を買うのはお客さんだが、お客さんがものをきちんと使えるようにヘルプするのが、メインの仕事だ。
すごく困るのが、物を作って売る人と、それを受け入れるのが同じ会社だと、物を作る人達が、すごく甘えるのだ。
要するに、品質が低いものを無理やり受け入れさせようとする。
当然、受け入れる側としては困るので、反発するのだが、同じ会社だと波風を立てないようにというか、波風を立てると、なぜか孤立するのだ。
これが、別会社だと会社一丸となって、抵抗できるのだろうが、なれ合いというか、すごく嫌な感じだ。


父が、相手の意見も聞いて物事を・・・という話をしていたのを思い出すが、仕事に関しては、完全に割り切れる。
仕事はシンプルだ。答えが明確で分かりやすい。
譲れない部分は、逆立ちしても譲れないし、譲れる部分は、逆立ちしなくても譲れる。
正しいことと、正しくないことが、はっきりと分かるような単純な構造なのだと思う。
プライベートとは違って、価値観の相違が無い、純粋なビジネスの世界だからだと思う。
責任範囲等は、契約で決められている。
とはいえ、なんで、孤立するのかなぁ・・・