異動先は、セキュリティ関係のコンサルタントをやっている部署だ。
異動せずとも十分に今の部門でも評価されているし、もったいない気もしたのだが、今の部門は、将来を考えると若干不安になる。
経営的な視点からみると、今の部門の方が収益を上げているのだそうだが、個人的な感覚でいうと数年先はダメになっていくのではないかと思う。
あくまで個人的な感覚なのだが、信じたい。
久しぶりの更新なので、今日は手短にしておこうと思う。
徐々に復活させていきたい。
今日は、大学の時代の友人たちに会った。
まさかとは思ったが、10年ぶりくらいに顔を出した2名の同期がいた。
2人とも元気そうで何よりだったのと、大学のころと少しも変わっていないことに少し驚いた。
料理はスペイン料理で、沸騰したオリーブオイルに、海老やら鶏肉やら、マグロやら入っているものが次々に出てきた。
僕らは、中の料理を食べた後に、残ったオリーブオイルにパンをつけて食べた。
なかなかに、うまかった。
転職の話は、そうそうできなかったのだが、残された時間はそんなにないということがわかった。
大体、転職できるのは35くらいまでなのだそうだ。
理由は、募集要項がそうなっているかららしい。
なんだか、少し乗り遅れちゃったかなという感じだ。
とはいえ、後日、転職サイトを教えてもらって、登録することにした。
今日の食事は恵比寿での食事だったのだが、着て行った服がずいぶんとヨレヨレだったので、なんだか、行く途中の電車では気恥ずかしかった。
特にいわゆる高級な洋服店が並ぶ通りを歩いた時は、下を向きたくなるくらいだった。
こんな風にみじめに思ってしまうことは無いはずなのだが、なんだかみじめな気分になってしまった。
みじめに思ってしまう自分を思うと、なおさらみじめになってしまう。
出来ることなら、颯爽と肩で風を切れる程のかっこいい身なりになりたいと思ったのだが、そうなるにはお金がかかるし、そんなお金をかける気は起きないし余裕もない。
こんなくだらないことで、劣等感を感じるなんて、と、家に帰ってきてから、少し悲しくなった。
昔、母が口癖のように言っていた、「ぼろは着てても心は錦」という言葉を思い出して、なんだか、母を踏みにじったような気がして、なおさら悲しくなった。
僕は、ぼろを着ていて、心は錦になれなかった気がした。
家に帰って、メールを見ると妹から重くなくて、軽くて、面白い本ないのか?というメールが来ていた。
僕がパッと思いつくのは、ヘルマンヘッセの「少年の日の思い出」かな。
小学校の時に、国語の教科書に載っていたのだが、授業中の暇な時間つぶしのために、何度も何度も読み返したのを覚えている。
あとは、羅生門だろうか。
どちらも、短編ながら人間の本質について書き切っている良い本だと思う。
他には本では無いかもしれないが「泣いた赤鬼」だ。
これは、子供向けの話なのだが、失うということについて、考えさせてくれるいい題材だ。
赤鬼が失ったもの、青鬼が失ったもの。
今日は、朝から妻と子供たちが出かけて行った。
妻の母の妹の旦那さんが、がんで手術をしたので、お見舞いに行くのだそうだ。
特段やることもなかったので、一緒に行ってもいいかなぁと思ったのだが、なんとも言われなかったので、行かなかった。
行っても、それほど、親しいわけでもなく、なんともかける言葉も無いので、良かったと思う。
人柄的には嫌いな人でなく、むしろ好きな人なのだが、妻から誘われなかったということは、行かないほうがいいということなのだろうと解釈する。
父が年末に退院できそうとのことなので、一度行こうと思う。
父の具合と都合次第なのだが、子供達も連れていければなぁと思う。
明日は、大学時代の研究室の友人たちと飲むことになっている。
先日、結婚式で顔を合わせた後、2次会で転職したいという話をしたところ、なぜか、僕を励ます会開いてくれることになった。
飲み会は夕方からあるのだが、先に会社を起こしている先輩のところへ寄ってから行くという段取りになった。
その先輩は、自分で何かを作りたいと思って、研究の延長のような感じで、会社を起こしている。
技術も、コミュニケーションも、きっちりとしている人なので、小さいながらも会社は成り立っているようだ。
転職するということは、家族にリスクを負わせることになる。
30を過ぎて、なんとなくだが、自分の適性がわかるようになった。
こういう職種・仕事なら、たぶんうまくやっていけるんじゃないだろうかという感触がある。
行動を起こすとしたら、そろそろなのだが、なかなか踏ん切りがつかないでいる。
踏ん切りがなかなかつかないのは、そもそも、僕は、仕事のために生きるのだろうか、プライベートのために生きるのだろうか。
どちらを重点的に生きていきたいのだろうか。
よくわからないからだ。
適正のある仕事をバリバリやって、経験と経歴をつけていくことが、本当に僕の望んでいることなのか、そんなことは望んでいないのか。
夢とかそういう以前に、自分にとっての幸せとは、いったいぜんたい、なんなのだろうと、ふと考えてしまう。
まだまだ、先は長いようだ。
さて、今日は、妻も子供もいないので、これから、お気に入りのラーメン屋へ行こうと思う。
ラーメンを食べて、かえって、梅酒でも飲もうと思う。
昨日は、ウィスキーを飲んで、バタンキューといってしまった。
お酒のおいしさが、なんとなくだが、わかってきたこの頃である。
今日は、藤沢の駅まで子供を連れて出た。
いつもは車で出るのだが、今日は祭りということで、交通規制がいろいろ出ているので、電車で出ることにした。
9月に入って、一番秋らしい気候だと感じた。
外は冷たい空気で、湿気があまりない。
個人的には、この気候が1年の中では一番好きだ。
何かをやりたくなる、そんな気候だ。
来月から、悠月君も保育園に行くことになるので、保育園近くの駐車場を契約することにした。
妻は仕事に復活するので、かなり落ち込んでいるが、まぁ、彼女も彼女の理由があって、先方の会社の上司に絶対戻ると話をしている手前、戻らざるを得ないようだ。
ともあれ、契約を済ますと、祭りを見ることにした。
神輿が練り歩き、太鼓や笛の音が聞こえてくる。
航生君は、祭りを認識できるようになったのか、何か楽しそうだ。
来てよかったと思った。
昨夜、つらつらと書いたことについて、さっそく父から返答のメールがあった。
快・不快の話だ。
昨日僕が書いた快・不快は、父の言っていたことを曲解しているようだ。
(メールを読んで、あ、そういえば、そうだったと思いだしたのだが・・・)
「生命は、快・不快によって動いている」
人間ではなく、生命といっている。
その中で、人間はイレギュラーな存在で、「人間は本能のまま生きているわけではない。人間は大脳によって生きているのである。」
「人それぞれの価値観が違うのも、そのためである。」
父のメールからの引用をかっこでくくった。
父は、考えた結果をまとまった形で伝えてくれる。
普段、年配の人とろくに話をしない僕にすると、そういった考えた結果を聞く機会は、今のところ父からしかない。
普通の人は、あまり考えないのか、そんな話を人前ですることはしないのか、どちらかよくわからないが、とにかく、父以外の人とこういった話をする機会は滅多にない。