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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

日本アルプス再訪 W.ウェストン/著 水野勉/訳  

2021年05月18日 11時09分08秒 | 読書・登山


南アルプスの金峰(きんぷ)山ではオパール、銅、そして、日本で最も良質な水晶などが産出する

日本人の温泉好きはけっして変わることがないだろう。
ある非常に有名な硫黄温泉では、軽い病気なら何でも治るが、恋の病だけは治らないといわれている。

その良質なイチイ(アララギ)がある山の名は位山という。

また、花崗岩地域は米、麻、茶などには特に適している。

日本人ほどその全歴史を通じて、日本人的生活のすべての面で、山に影響されている民族はいない

同時に、そのような野生的で荒涼とした地域のきびしい生活環境から、敵の侵略を免れた、島国民族の間に、質素と忍耐と独立独歩の習性が生まれ、日本人を、世界でも類稀な、非常に熱烈で、誇り高く、ひとりよがりな愛国者に作り上げた。

山伏が最も好んだ山は、加賀の白山および日本民族が大昔から住んでいた大和地方の山奥であった。

この「日出づる国」の山岳宗教の最も有名な代表者とすべきは、明らかに、真言宗の開祖である弘法大師であろう。

五という数は、多種あるいは多数を意味する場合が多い。
その例として、日本アルプスで高山植物の最も多い場所の1つは、立山近くにあり、五色ヶ原と呼ばれている。

山で最も強く心を打つのは、見えない霊の世界の存在であり、目に見えない全能の神の力である。さらに、山で目にふれる光景は、人類も他の生物も全く手を下し得なかったあらゆる創造物の中で、最も偉大で高貴なものである。

1913年「富士山登山競争」を企画した。
御殿場口の太郎坊から頂上の噴火口の縁にある10合目まで、標高差にして約3,000mの距離を、優勝者の伊達という学生は2時間38分で登り、第二、第三着はそれぞれ2時間46分、2時間50分だったと報道された。優勝の賞金は300円であった。

1915年に噴火して梓川をせき止めて大正池を作った焼岳が、・・・

藤田東湖は「華麗に彩られた雲がかかった」富士こそ、最も美しいとした。
富士山についてはさまざまな格言がある。
「富士でさえ、飢えと寒さに困っている者にとっては、美しくはない」
「空が曇っていようと晴れていようと、富士の姿はけっして変わらない」
「山頂から吹きおろす微風は、富士を守る女神の息吹きで、山に降る雨は女神の涙である」

「開いた扇子が空にぶら下がっているような、その均整のとれた姿は、周囲のあちこちから同じ形で、思う存分眺めることができるだろう。その姿を見た人は、みな称賛するばかりである」

葛飾北斎の生前の最後の言葉は、
「もし、天が私にもう5年の生命を与えてくれたなら、私は真の画家になれただろう」

「フジ」が、アイヌの火の女神の名「フチ」に由来する。

かつてこの山頂に参拝するために登山する前には、100日間、断食苦行するのが普通の山岳信仰登山者の慣習であった。ところが近江の国の人々は、特別にそれが免除されていた。

上部の最も急な斜面は西側で、その傾斜は約35度である。

日本の格言に
「日本に2種類の馬鹿がいる。富士に登らぬ馬鹿と二度登る馬鹿である」

登山杖(金剛杖)は、白い松材でできていて、断面が八角形である。
これは一般の仏教では八という数字に特別の意味があることからきている。
この杖には、白装束と同じように、巡礼する山の最高の場所である神社の名と印が入念に押されている。

日本の山岳信仰の山のうち、最も聖なる山はもちろん富士山だが、それに次ぐのは御嶽山である

「私たちが登拝に来た山の神々に、自分たちの心は誠実であり、生活は正しくありたいと思っていることを示すために白衣を着ています。そうでなければ、神々は私たちの願いを聞いてくれないことを、私たちは知っているのです」

日本と日本人について、われわれに最初に科学的記述をしてくれたのは、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンプフェルである。彼はオランダ東インド会社勤務の外科医として日本を訪れ、1690年から1693年まで滞在した。彼の著書『日本の歴史』は、1727年になってやっと発行された。
「この山は信じられないほど高く、テネリフェ峰;標高3,718m;に似ている。この山の美しさを表現しようとして、どんな詩人が試みてもうまい言葉が見つからないし、どんな画家が試みても十分な技量がなく、適当な色彩がみつからない」

ヨーロッパ人による富士登頂として最初に記録されているのは、「サー・ラザフォード・オルコックが1860年9月に村山登山口から登ったものである。

ごく最近まで女性は富士山への登頂を禁止されていて、許されていたのは、村山登山口の標高1,500mまでであった。富士の山腹には、概念的な登山禁止線が巡らされて、女人道と呼ばれ、そこから上には女性は誰も登ろうとはしなかった。
しかしながら、これは多くの信仰の山で、それぞれやり方が違っていた。
御嶽山では2,500mまでだし、立山では2,100mにある直立した石がその標である。

しかし、この制限がいまだに固く守られている信仰の山がある。
それは大和の大峰山である。
この山は役小角(えんのおづぬ)の宗派にとって神聖な山であり、・・・

私がこの未踏の地域を初めて訪れたのは、1892年に赤石山を探検したときである。

中央線は、八王子からたいへん美しい興味深い田園地帯を通っている。
無数の低い山々の間を縫って走るので、この汽車の旅はまるで巨大なフルートの中を滑っていくような気持ちである。

3つの峰を持つ白根山の巨大な山容がそびえている。
さらに、甲斐駒ケ岳のみごとな花崗岩の頂上および鳳凰山の先鋒がそびえている。この鳳凰山の頂上にはまだ誰も登ったことがない。

驚くほどおとなしいライチョウの群れが、尾根の西側の岩とハイマツの間に姿を見せた。
それで夢中になってライチョウを追いかけ、6羽ほどを食料として追加することができた。
この鳥は食料としても貴重だが、農家では落雷に遭わないためのお守りとして、ライチョウを描いた絵を高いところに貼っている。

11時間歩いて芦安に戻った。
そこは相変わらず未開の汚さですさまじい匂いがしたが、心から親切な善き人々であった。

1881年にアーネスト・サトウが農鳥岳、間ノ岳を登っている。

奈良田峠;1,550mへは、呼吸も苦しく、手足も疲れて、やっとの思いで登った。
そのジグザグの道は、日本の山地でそれまでに経験した最も急峻な道であった。

《 嵐のときにはどんな港でもよい 》

南アルプスの山々のうち、最もアプローチしやすく、しかも最も人目をひく山は、甲州(甲斐)駒ケ岳である。

実際、大切な蚕の食欲はすさまじく、絶えることがない。
夜も昼も、少なくとも2時間ごとに餌をやらねばならない。
蚕室では喧嘩口論は一切禁止である。
そうでないと、蚕糸は光沢と強度を失うのである。

私は、この鳳凰山を1904年夏の、《新しい》山旅のリストの最初に選んだ。
それは1つには、その山へのアプローチが困難だといわれていることに、2つには、暗い急峻な尾根からそびえ立つ、尖峰の挑発的な山容に刺激されたからである。

シラビソの材木は紙の製造にかなり利用されているそうである。

鳳凰山塊の最高峰、地蔵岳に達した。
「この山の名は、自分は今、神聖な高みへ向かう途中に地上の汚れを払い落としているのだと、登山者自身に思わせるようにつけられたのだ」そうである。
ファンタスティックな形の、白から紫までのさまざまな色のした岩が、ガレ場から立っている。

三角点からは素晴らしい展望が広がっていた。
東は八ヶ岳から富士山まで、西は北岳と仙丈ケ岳、すぐ前には、木曽駒ケ岳のピラミッド峰が見えた。

しばらくの間、若者の自殺の名所として、日光の華厳の滝の次に、浅間山の噴火口が選ばれたことである。最後の救いは意外なところから現れた。滝の下で発見される遺体の埋葬費が増加してきたので、将来はそれらの遺体を埋葬しないで、そのまま朽ちるに任せると日光の村役場が突然宣言したのである。しかしそれは主として自殺の場所が変わっただけで、華厳の滝で溺死する代わりに、浅間山の噴火で、次いで阿蘇山の噴火で自らを火葬することになっただけのことである。

中房温泉までの13キロの道は、びっくりするほど美しい谷を登っていく。曲がりくねった渓谷に沿って曲がるたびにロマンティックな景色が次々と現れる。右岸は大天井の、左岸は有明山の絶壁が、1,500か2,000mの高度までそそり立っている。
温泉そのものは谷の奥の開けた、標高1,600mのところにあり、全くのどんづまりである。源泉から出る湯の温度は摂氏93℃以上で・・・将来日本の知られざる地域の中の、最も魅力的な場所の1つに、きっとなるに違いない。

有明山と燕岳の登頂が、今はじめてヨーロッパ旅行者によってなされようとしている。
燕岳は温泉の北西にそびえていて、5時間ほどの苦しい登攀で達することができる。

松本という地名は《マツ林が始まる場所》という意味から由来するが・・・

徳本(とくごう)峠;2,166m

目的のピークは、奥穂岳;3,111mと呼ばれており、花崗岩の絶壁からなる巨大なカールの頂点である。

焼岳そのものの登頂は全く容易で、たいへん興味深い。
火山岩と軽石の砕片とがしわのように波打つ支脈を越えて、2時間ほど登ると2,165mに着く。

安房峠
平湯温泉
平湯はその外観がスイスの山村に似ている。
昔は交通が不便なために、人はめったに訪れなかった。

上高地から普通の世界に戻るのは辛いことである。
徳本峠を越え、沢を下って島々へ出てそれから松本へ向かった。

糸魚川街道
仁科3湖のうち最北にある青木湖は、絵のように非常に美しい。
最も小さい中綱湖は真ん中にあり、その先にひょうたん形の木崎湖がある。

最近、白馬岳の雪渓が日本人登山家からたいへん注目されている。

長い間念願していた大天井岳を北から南へ縦走する山旅を実行することとした。
今や大天井岳も新しい友人となった。
標高は2,928mで、この大天井岳の尾根と槍ヶ岳の尾根とは全長にわたって平行に走っており、槍ヶ岳からは離れている位置にあるので、ここからの眺望はじつに素晴らしい。

白骨温泉

日本の最もすぐれた兵士は、ほとんど農民の出身である。
彼らは丈夫で、鈍重で、忍耐強く、神経質でないからである。

日本人は、その生来の本性や習慣から、個人的には世界で最も清潔な国民である。

山の登攀はいわば勝負のない《引き分け試合》である
活動的な肉体的レクリエーションは、登山以外には存在しないと考えただけでも愉快である。
登山は、しっかりした目的と着実な根気強さが、ただの腕力よりもすぐれていることを教えてくれる。そしてどんな山頂1つでも、ときにはわずか一歩でも、忍耐強い労苦によって得られるのだということがわかる。

1902年(明治35年)・・・北岳
1903年・・・甲斐駒ケ岳、浅間山
1904年・・・鳳凰山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、富士山、戸隠山、八ヶ岳
1912年・・・妙義山、有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳
1913年・・・槍ヶ岳、焼岳、霞沢岳、奥穂高岳、白馬岳
1914年・・・立山、立山温泉から針ノ木峠越え、燕岳、大天井岳、富士山
1915年にはついに帰国の途につく。これ以後もう日本に来ることはなかった。

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