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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

ウェストンと歩く日本アルプス 古き絵葉書より

2021年05月24日 15時12分18秒 | 読書・登山


ウェストンが愛した峠、徳本峠
近代登山発祥の地 上高地
ウェストンが愛した日本アルプス
ウェストンが歩いた街道
ウェストンの富士登山
ウェストンが登ったその他の山々
ウェストンが暮らした街
ウェストンの故郷イギリスとヨーロッパの山々
ウェストンと高山植物
ウェストンの交通手段
ウェストンと信仰
ウェストンの四方山話
ウェストン最後のお別れ

スキーとスキーテクニックの本格的な伝来は、明治44年:1911年、オーストリア陸軍のT・レルヒによってもたらされました。明治43年に日本の軍事事情視察を任務に来日、スキー専将校を指導した。さらにスキーを軍隊内に留めず、冬季のスポーツや雪上の足とし民間にも広く普及させようとしました。ウェストンはこの事は当然、情報として知っていて記述しています。
また自分なりの考察も述べており、「日本のスキーが、かのように急速に、やすやすと発達した理由のひとつは、たぶん、日本人が革靴を履かないので、足が拘束されずに弱くなったりしないため、普通の人でも足が非常に強く、形が自然のままであるせいだろう」とあります。

燕岳;2,763m
ウェストン 大正元年、大正3年;1914年登頂
大正元年8月、中房温泉から燕岳とんぼ帰りで中房温泉に戻り、島々から槍ヶ岳に登頂。
当時は燕岳~槍ヶ岳の表銀座縦走コースである喜作新道はできていなかった。

大正10年に「燕の小屋」が建設された。
昭和3年に「燕山荘」と改名し現在に至っている。

有明山;2,268m
ウェストン 大正元年1912年登頂
中房温泉から、朝8時15分に出発し登りに2時間15分、下りには1時間15分。

聖職者であったウェストンは短い行程であっても、日曜日はほとんど安息日としていました。

「信濃名勝 白骨温泉雑炊橋」

平湯峠から安房峠を越えるときの表現が大変素晴らしい。
安房トンネル完成前の旧道

赤沢森林鉄道、木曽森林鉄道の気動車

「親不知新道」ウェウトン像
「素晴らしい絶景の風景と見事な海」

明治36年の青森の飢餓の際、ウェストンは救援の手を差し伸べました。
それに感謝し、新郷村にはウェストン碑が設置されています。

明治33年に私製絵葉書が許可され日露戦争以降、絵葉書が大ブームとなりました。
今では想像もつかないことですが、ありとあらゆる事柄が絵葉書となって発行されました。
絵葉書の専門店が次々と出来、絵葉書収集が庶民に浸透して行きます。

手彩色絵葉書
明治後期から大正時代に、多くみられる絵葉書です。
白黒印刷した物を1枚づつ主に、内職の手により彩色した物です。

「富士を見るなら乙女峠」

桜島;1,117m
ウェストン明治23年;1890年登頂

戸隠山;1,904m
ウェストン夫妻、明治37年;1904年登頂
「戸隠山表山の峻険千刃の断崖上を登頂する蟻の塔渡り」
天の岩戸伝説で有名な戸隠山

妙高山;2,454m
ウェストン夫妻 明治37年;1904年登頂
「赤倉温泉瀧の湯付近より見たる妙高の残雪」

妙義山;1,104m
大正元年;1911年、1912年登頂
標高は高くないが難易度は超一級です。
「妙義山 片手下り」

大正3年8月、ウェストンが日本から去る日が近づいてきました。
8月17日に軽井沢から中房温泉を経由し、燕岳から大天井岳を登頂しました。
二ノ俣小屋から槍沢、白沢出合を経て上高地に到着しました。
上高地に2日間滞在後、白骨温泉を経て島々、そして松本から最後の富士山登頂へ続きます。
大正4年1月帰国の途につきます。
26歳で来日し、3回の帯日を経て、のべ12年余りの日本での滞在は終わりを告げます。
その後日本を訪れることはありませんでした。



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