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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

天空の犬 南アルプス山岳救助隊K-9 樋口明雄/著

2021年05月05日 13時02分50秒 | 読書・文学


南アルプス山岳救助隊の新人隊員・星野夏実は、相棒の救助犬、ボーダーコリー=メイとともに、北岳にある現地警備派出所に着任した。過酷な訓練と、相次ぐ山岳事故、そして仕事への情熱と誇り。そんな日々の苦楽をともにする仲間にも打ち明けられない秘密が、彼女にはあった。東日本大震災の被災地で目の当たりにした凄惨な光景―“共感覚”という能力を持つがゆえに受けてしまった深い心の疵が、今もなお越えられぬ岩壁のように夏実の前に立ちはだかっていた。やがて立て続けに起こり始める不審な出来事。招かれざるひとりの登山者に迫る陰謀と危難を察知した夏実は、猛り狂う暴風雨の中、メイとともに命をかえりみず救助に向かった…。

目睫(もくしょう)の距離

北岳東面にそびえる高さ600mの巨大な岸壁ーーバットレス

「東北地方太平洋沖地震」

警備犬はいわゆる警察犬と違って、全国でも警視庁警備部警備第二課第四係りと、
千葉県警警備部成田国際空港警備隊にしか存在しない。

メイはイギリス原産の牧羊犬として知られるボーダーコリーの牝。
メイは天性の資質を持つ理想的な災害救助犬だった。
ことに臭気判定能力にかけては抜きんでた成績を出した。

犬は生存者を見つけたときに激しく吼えるバークアラートと呼ばれる反応をするが、対象が遺体であれば、黙ってその場に伏せたり、あるいは前脚で瓦礫を掘るような仕草をするよう訓練されている。
犬が対象を見つけるたびに、夏実たちは呼び戻しをして、大げさなほどに褒める。そしてジャーキーなどのご褒美を与える。犬にとって何かを捜す、見つけるという行為はゲーム感覚なのである。しかし、見つける対象が遺体ばかりだと、次第に犬の行動に変化が起きてくる。
最初はあからさまな戸惑いを見せる。何度もハンドラーの許へ自分から戻ってくる。そのうちにだんだんと気が萎えてくる。ご褒美のオヤツを口に入れなくなり、しまいに背中の毛を立てるようになれば、バーンアウト直前だ。
何度目かに戻ってきたメイは、体当たりするようにからだをぶつけてきながら、彼女を見上げ、明らかに哀しげな目をした。
「ここに生きてる人はいないよ」
そう訴えるメイを、夏実は黙って抱きしめてやるしかなかった。

「共感覚;シネスシージア」
夏実の場合、視覚の中に色の感覚が共存する。

白根御池小屋;
標高2,230mにあって、広河原から北岳に至るルートでは、最初に到着する山小屋である。
1994年の4月に雪崩で一度、倒壊している。
現在の建物が完成したのが2006年。
120人を収容できる大きな山小屋として甦った。

川上犬は、信州川上村原産の固有種で、ヤマイヌつまりニホンオオカミの血をひくといわれ、クマやイノシシ猟に使われていた。柴犬のように見えて、精悍な顔をしている。

犬の食餌はふつう一日に2度だが、朝に限って3時間おきに3回、つまり小分けに与えることになっている。食餌直後の激しい運動は犬が胃捻転になるリスクがあるため、常に出動の可能性がつきまとう山岳救助犬は、腹いっぱい食べることが許されない。
餌は厳選されたドライフードに、肉と魚をミンチにし、玉子を溶いてペースト状にしたものを混ぜるのが基本。運動量の多い山岳救助犬には、比較的高カロリーのものが必要だが、もちろん犬種によって内容は異なるし、体型によって量も違う。ジャーマン・シェパードのバロン(男爵)は、肉類の割合を増やし、小柄なボーダーコリー、メイの2倍以上は食べるのだ。

無線免許は警察学校での取得が義務づけられていて、夏実も所持していた。
警察無線は秘匿通話のためにデジタル通信となっているが、山岳救助隊の場合は一般の登山者やアマチュア無線家とも交信することが多いので、パーソナル無線のアナログFMバンドを利用した遭難対策無線を使う。

各山小屋との定時通信は朝夕2回。
それ以外は遭難を知らせる緊急連絡用としても使われる145・00メガヘルツの呼び出し周波数にチャンネルを合わせて、無線を待機させておく。

ここ白根御池小屋から北岳山頂に向かう登山道はふたつある。
大樺沢(おおかんばざわ)ルート・
小太郎尾根をたどるルート

6月の北岳は、高山植物の固有種であるキタダケソウが見られるということもあって、平日でも登山者が多い。

「馴れる・・・っていうか、気がついたら馴染んでいる。
今だって俺も訓練はつらい。だが、つらさが当たり前みたいになって、その意味に気づくときがくるよ」
「つらさの意味?」
「遭難者を救助して、誰かの命を守りきったとき、日頃の訓練で流した涙の価値がわかる。そのときになって、初めてこの仕事に誇りを持てるようになるんだ。俺たちは警察官だが、階級は無意味だ。ここで価値があるのは、いかにベテランであるかということ。それから、どれだけ山が好きかってことだ」

ペミカンというのは山用語で、肉や野菜などの食材を適度な大きさに切ってパック詰めにしたものだ。

その集中が持続するのは、メイが夏実を信頼しきっているからだ。
ハンドラーの指示に従うことが自分の歓びと自覚しているのである。
大切なのはメイにストレスを感じさせないこと。犬が笑顔を失えば、それは人と犬の関係が絶たれるときだ。だからメイに向ける笑みをたやさぬよう、いつも意識する。オーバーアクションで褒める。メイも口を開き、笑顔を返す。
犬という生き物はよく笑うが、ことにメイは満面に力いっぱいの笑みを浮かべる。
はち切れんばかりの歓びを身体全体で表す。

青を基調にした塗装に赤い首輪の機体色は、各都道府県警察ヘリに共通したデザインだ。

救助犬が遠く離れた場所にいる遭難者を発見できるのは、「ラフト」と呼ばれる、微小な皮膚細胞のフレーク状の剥片(はくへん)が、バクテリアによって腐敗したガスをキャッチしながらたどるからだという。人間の身体からは、毎分4万個ぐらいの「ラフト」が常に剥離し、そのひとつひとつが様々なバクテリアを有していて、揮発性肪酸という独特の腐敗ガスを発生させる。この臭いの組み合わせが、まるで指紋のように人間によって異なるため、犬は臭源の人間を特定できる。

「トラバース道から滑落した遭難者が亡くなっていることは、メイの反応でわかった。
だけど、君もそれを知っていたんだね」
「きみのその力はたんなる共感覚ではなく、おそらくもっと特別なものなんだ。実際に事象を目視する以前に色を察知することができる。だから、きみは遭難者のことを前もって知ることができたんだ」
「あの人の思念の色が、あそこに残っていました。きっと落ちたとき、即死じゃなく、しばらく生きていたんだと思います。苦しみ、痛み、恐怖と孤独・・・それに暗黒。私にはぜんぶ見えていた」

ゆっくりと視線を上げて空を見た。
蒼穹(そうきゅう)を一筋の飛行機雲が白く横切っていた。

つらくてもつらくない。重くても重くない。
それは山岳救助隊員らが、しごきのときに口にする呪詛のような文句だ。

要救助者の死亡が予想される場合、「オロク袋」と呼ぶ水色の納体袋は、必ず持っていかなければならないアイテムだった。

ハンドラーが救助犬の動きを追って歩いてはならない。
常に犬のほうがハンドラーの位置や距離を意識し、捜索行動を取るようにコントロールする。

犬は頬髭と眉毛で風を感じるという
最初に対象を察知するのが嗅覚で、次に視覚と聴覚でカバーする。メイの動き、表情、ボディランゲージを見ていると、それがよくわかる。

発見時の直腸温は33℃を切っていたと思われ、低体温症は軽度から中度へ移行しようとしていた。

「犬の嗅覚は人間の鼻の数千から数万倍といわれている。だけど、それだけじゃないんだ。犬は匂いという情報を、脳内で視覚化できる能力を持っている。三次元の映像のように立体化して捉えることができるからこそ、遭難者の居場所や状態、些細な情報を獲得できるんだ」

夏実は初歩的な観天望気(かんてんぼうき)の知識しか持っていなかったが、それでも時間が経つにつれて天候が悪化していくことはわかった。

その細井が、気息奄々(きそくえんえん)という様子で夏美の看病を受けていた。

眉宇(びう)を立てて、険しい顔で前方を睨んだ。

凡百(ぼんひゃく)の操縦士とは慣熟(かんじゅく)の度合いが違う。

ダケカンバの疎林に囲まれたヘリポートは、小型発電機で電源を確保された3つの投光器によって「H」の文字がくっきり浮き立って見える。

あと少し下れば、八本歯のコルに出る。コルというのは山の鞍部のことだ。
前方を見ると、ギザギザの回転刃のような岩稜帯が、すぐ目の前にあった。
八本歯のコルを過ぎた吊尾根のとっつきにある難所。
地図上では八本歯ノ頭とある。

間髪容れず、静奈が地を蹴る。裂帛(れっぱく)の気合が風雨を引き裂いた。




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