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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

盤上の向日葵 上   柚月裕子/著

2021年05月20日 04時41分15秒 | 読書・文学


平成六年、夏。埼玉県の山中で身元不明の白骨死体が発見された。遺留品は、名匠の将棋駒。叩き上げの刑事・石破と、かつてプロ棋士を志した新米刑事の佐野は、駒の足取りを追って日本各地に飛ぶ。折しも将棋界では、実業界から転身した異端の天才棋士・上条桂介が、世紀の一瞬に挑もうとしていた。重厚な人間ドラマを描いた傑作ミステリー


伊豆の御蔵島(みくらじま)でとれる島黄楊(しまつげ)で、木目が虎の模様に似ていることから虎斑(とらふ)と呼ばれている高級品だ。駒字は、一番手間のかかる盛り上げ駒と呼ばれる製法で彫られている。

奨励会退会者には、2種類いる。
退会後、規則に従い一定の年月を置いてからアマチュア棋戦で活躍する者と、将棋ときっぱり縁を切る者だ。

「初代菊水月作のものでした」
「依頼した鑑定士の話によると、この駒は錦旗黄楊根杢盛り上げ駒といって、大変高価なものだそうです。値段をつけるとしたら、およそ600万円」

菊水月は、江戸後期から明治にかけて活躍した駒師だ。
景山、静風とともに、三大名工と呼ばれている。
初代菊水月の駒を、現在、見ることができるのは、天童市にある将棋資料館と、駒木地の生産地として名高い伊豆の御蔵島にある御蔵島美術館だけだったはずだ。

「そういう意味じゃ、将棋の世界は遺恨の塊だなあ」
「遺恨なんてひと言で片づけられる世界じゃない。
妬(ねた)み、嫉(そね)み、怒り、プライド、強烈な劣等感、人生の崖から落下するかもしれない恐怖が、ドロドロに煮詰まっているところだ」

箱の材質は、島桑だった。
島桑とは、御蔵島産の桑の木のことだ。
江戸時代から鏡台や手鏡などの材料に使われ、独特の美しい杢(もく)から銘木中の銘木と呼ばれている。

一流と二流の差は、先を読む力だ。
何手先まで正確に読めるか、それがプロになれるかどうかの別れ道になる。
将棋のプロは、一度に100手以上を読む。
有望な手を3手から5手くらいに絞り、それにつき数十手先まで検討する。
それには、卓抜した記憶力が必要だ。
頭のなかに将棋盤を持ち、駒の配置を瞬時に図形として把握する力が必須となる。

4段昇格を目指す3段リーグだ。
初段になっても、3段リーグを勝ち抜くことができずに、多くの才能が消えていく。
1日でも早く初段になれば、3段リーグに挑戦する時間がそのぶん長く確保できる。
プロ棋士になれるチャンスが、それだけ広がるのだ。

警察手帳を見せたときの人の反応は、大別して3つある。
興味を示すか、迷惑そうな顔をするか、怯えるか、だ。
女性のそれは1番目だった。刑事ドラマの撮影を見るかのように、目を輝かせる。

「刑事;デカに一番必要なのは、諦めの悪さだ。頭がよくても、読み筋がよくても、小さな躓きで諦めるようなやつは刑事には向かねえ」
「お前は筋はいいが、いかんせん腰が弱い。もっと粘り腰になれ。それがいい刑事になる条件だ。それに腰が強くなると、もっといいことがある」
「なんですか」
「女が寄ってくる」
「おちょくってるわけじゃねえよ。どっちも本当のことだ。腰に粘りを持て。そうじゃなきゃ、刑事も男も務まらん」


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