まこちゃん日記

まこちゃんのピンポン日記です。

11月29日(日)ピンポンやって、話して笑い、食べて笑えば…!!

2015-11-29 20:37:02 | Weblog



            「 お庭の柘榴を収穫 」

                  高橋カリン 11月に 写す

          今日の自由練習は7人だった。この3日間は良い天気に恵まれた。
          富士山がとてもきれいだった。一般開放からの岡崎さんと山本さんが
          来てくれた。卓球部の兄妹は学校の論文提出やら試験の時期だという。
          上手な人が来ると俄然楽しい。つい無理して打ち合ったりしてしまうので
          疲れるけれど、いつもとは一寸異質の楽しさがある。
          そして不思議に球の回転が違うのか、打った時の感触がいつもの我々の
          とは違う様な気がするのである。
          この球筋が、いわゆるドライブが掛かっている球の感触というやつなの
          だろうか。この話を誰だったか、少なくても私よりは上手な人に話したら、
          そんな感覚や違いが分かるようになっただけでも進歩しているということだ!
          と言われた。成る程そんなものかもしれない。

          さてところで、最近つくづく思うのだが、全くこの世は様々色んなタイプや
          性癖や考えの人が居ると言うことである。
          しかも私も含めてだが、人は皆が自分だけは常識的で特に優秀ではないが悪く
          もない、まあ中庸というところのまずは平均的な善人であると思い込み、
          そう固く信じているのだから始末が悪い。
          しかしこの位なら案外謙虚で微笑ましく、そして冷静で客観的に自分をよく
          見ている、身の程を知っているという好ましい人かも知れない。

          しかし時には、自分は人より全てに優秀で自分が正義で、自分の思うことや
          していることが常に正しく常に善で、全てのことを分かっているのだと
         、芯からそう思い込んでいる、見ていると楽しい様でもあり、憎らしくもあり、
          悲しい様でもあり哀れや気の毒にと感じさせられたりといった、一見さぞ自分
          では幸せなのあろうと思うような、そんな面白くもお目出度い人も羨ましい様な
          人も結構いるようだが…。
          最も人間はそんな心情にかなり近い気持ちで自分を鼓舞したり、思い込んだり、
          自分だけはと信じなければ生きていけないという、案外弱い存在なのかも知れない。

          よく人間はその生まれ育ちの氏素性やその後に備わる品性、頭脳、教養、その上に
          人間の性格形成に大きな影響を与えるという家庭や生活環境、そして社会環境と
          いった内的外的な要因によって、様々な個別の人間性とか性格や趣向とか考え方等の
          全てが形成されると言われる。

          従って十人十色で1人として同じ人間はなく、だから様々な人間模様があって面白い
          とも言えるのだが、善も悪も正も邪も、仏も鬼も、軽い人も重い人もいるという
          わけである。唯物論者もいれば唯心論者もいるし、現実主義、拝金主義、権威主義が
          いれば、一方には詩人がいてロマンチストや博愛主義者までいるのだろう。

          しかしそんな様々な人間に唯一平等に例外もなく訪れるものが「老い」という奴で
         (最近では栄養や環境が良くなった勢か、千人に1人位の割合で例外的な人も居る
          らしいが)であるという現実がある。
          どんな金持ちにも私の様な貧乏人にも、偉い人にも凡人にも善人にも悪人にも
          全て等しくそれだけはやって来るところが、何とも心憎い自然の摂理であり
          天の采配なのかも知れない。

          老いはその肉体的な衰えは命ある生物としては必然のことだが、その肉体の一部でも
          ある脳細胞の減少作用により、体と共に精神面での気力、意欲の減衰もこれも又、
          仕方がないことと言われている。

          この精神上の衰えは、人から明るさ、笑い、他人との会話、協調性、ユーモアも冗談も
         (昔から大変無口な人とか、冗談軽口などは軽薄者のすることだと信じてきたような人は
          別だが)、人の話を聞くという人間らしくて好もしい動作をいつの間にか奪い取って
          しまう。これ等のことが老人が嫌われる諸現象の元になるのだという。

          こうした現象や傾向や性癖は大なり小なり、人間皆が持ち合わせているものだが、
          その様々な部分の内の、より強い大きな所が特化して年齢の影響を受けてしまう、
          するとその所の性癖が強調されて顕在化してしまう。こうしてその特性がその人の
          個人的な特徴として顕著なものになってくる。

          それはあたかもその人が持って生まれた性格かのようにその人に住み着いて、
          そんなタイプの嫌われる事が多い頑固で意地悪な立派な老人に変えてしまう。
          だからそれぞれ程度の差はあっても、かなりの異常状態でもない限りは、生理現象だ位に
          考えて気にしない方が良いらしい。ご本人も勿論だが周りの人もだそうだ。
          互いに理解をして上げるのが思いやりだろうか。

          気軽にのんびりと心を穏やかに、平穏な気持ちで毎日を過ごし、ピンポンで体を動かし、
          何より人と話をして(自分が話すのも大切だが、それと同じ位に或いはそれ以上に人の話を
          聞くことも理解するのも大事)、美味しいものを食べ大いに笑えれば、ウツ知らず、イライラ
          知らず、ムッツリ知らずで、腹立ちも切れることも人を怒るのも知らずで、明るく楽しく
          過ごせること請け合いだと、老人精神衛生学の教科書には必ず出ている。

          しかしなかなかそれを実践できないのが、我々わがままな後期高齢者なのである。


11月23日(月)仲良しピンポンは生き甲斐になれるのか!

2015-11-23 15:03:41 | Weblog

       

              (11月21日の鎌倉妙本寺の空)「 鰯雲 」 

        今日は6人。祭日で変則日だったから少ない。朝からかなり肌寒くて小雨が今にも落ちて
        きそうという天候だったが、それでも皆で楽しく3時間を大いに笑い大いに動き
        大いに疲れて(これは私だけかも)、一寸汗ばんだ体に充実感を覚える。

        終わっていつものレストランで、定年ランチならぬ(もはや無くなってしまった様だが)
        今では後期高齢者ランチとでも言うのか、それを食べながら、政治談義、経済談義、
        スポーツの話題、昔話、冗談話などでしばし談笑する。

        同年輩の共通の話題や思い入れや共感や感慨などがあり、多少の違いはあっても似たり
        寄ったりの過去であり今の生活振りだし、こうした気の置けない顔触れとの、こうした一時は
        楽しいものだ。

        会話の中にも、何となく相手への思いやりや労りが感じられるのが嬉しい。
        人は様々で時には意見の違うこともあるけれど、そこは心の健康な中高年ばかり、
        軽く聞き流したり或いは相手の考えを思いやったり理解したりしながら会話は進む。
        しかし自分が振った話題の取りっこの競争は案外激しい。そこが又面白い。

        思えば、昔は年をとった近所のおじさんというのを想像すると、「いつも家で黙って1人で
        ムッツリして何だか機嫌が悪そうでちょっぴり怖い」というイメージが強かったが、
        自分がその近所のおじさんの年になって、まさか週に1回でも明るく楽しく運動して、笑って、
        たわいもない会話をして時には議論もして、皆で美味いものを食べているとは想像しなかった。
        これは今ではもう、自分ではあまり意識しないけれど一つの生き甲斐になっているのかも知れない。

        生き甲斐なんて言うと大袈裟かもしれないし、そんな事しか君の生き甲斐は無いのか? 
        他に何もないのかいと揶揄する人もいるかも知れない。
        週に一度のあんなことが、或いはたかがピンポンが生き甲斐とは何とも気の毒な人生だね!と
        言う皮肉屋さんも居るだろう。

        そう言うなら、そちらの生き甲斐は何なのと問う。ただ歩く事か、ゴルフか小旅行か、
        ハイキングか、老人クラブの役員か、釣りか、お酒かそれともTVのスポーツ観戦やドラマか、
        孫のお守りかいと聞きたい。それぞれどれもこれも全て同じ様なものではないだろうか。
        それが周りに受け入れられて楽しければ何でも生き甲斐になるのだろう。

        もし、相手にボランティアが生き甲斐だとか、お金を貯めることや増やすことが生き甲斐ですと
        でも言われたら、全く自分には分からない、私とは異次元で別世界のことだし、とても自分には
        出来そうもないことなので、尊敬を込めて理屈を抜きにすぐ納得してしまうけれど…。

        いつもと一寸違った非日常的な世界で、そしてしばし時間の経つのを忘れて時間を潰せると言う
        ような、もしそんな趣味があるならばそれはきっと生き甲斐なのだろう。
        その意味ではピンポンであろうと何でも良いわけである。
        皆が仲良く笑いながら、しばし同じ空間と時間を共有すると云うことが楽しいのである。

        そこでは峻厳さ、狷介さ、嫉妬、策略も打算もそして昔のような生存競争や淘汰や勝負といったもの
        とは無縁の世界が(何の趣味の世界でもそうありたいものだが)あるならば、晩年をもっとも自然の
        ままの人間らしく、その人間の本来の姿で生きる為の糧や手段になる本当の生き甲斐になるのでは
        なかろうか。

        もっとも人間って奴は、生き甲斐なんてものは何も無くても、何も考えないても、もし考えるとしても
        自分のことだけ、利己的でも我が儘と言った人でも、或いはどんなに意地悪でも悪い奴でも、
        ちゃんと年金も支給されて案外平気で生きて行けるものらしいけれど……


11月20日(金) ピンポンレッスンのことあれこれ!

2015-11-20 16:50:22 | Weblog


             「国鉄時代のメガネ橋」   8月写す。


       朝からまあまあの天気だった。一寸ぽつぽつ落ち掛けたが大丈夫だった。
       今回は変則時間のレッスンで12時から15時という時間帯だった。
       それでもレッスン日とあって、用事で遅れた方が何人かあったがまずは8人もが参加。
       それにしても早いものでもう今年最後のレッスンだった。

       1月から3,5,7、9月と奇数月に、今日を含めて今年6回のレッスンだったわけだ。
       一体この回数が多いものなのか、それとも少な過ぎるのか分からないが、我々のピンポン
       としては丁度良いというところなのだろうか。

       体をそこそこ動かしながら(運動になって)只、何となく3時間を過ごす、或いは潰せる
       ということだけで良いという人ならば、もっと少なくても良いか、年に1~2度か或いは
       無くても良いのかも知れない。事実そう感じている方も何人かは居られるかも知れない。

       一方で、定期的で良い運動になって、人と交わり笑ったり話したりを楽しんでいるのだが、
       どうせやるなら少しは上手になろう、美しくやろう、あまりに無様なスタイルやあまりに
       下手なのは、自分の信条や美学とは相容れないものだというタイプの方には、いささか
       物足りないのかも知れない。

       スポーツとして捉えている方には、向上心、好奇心が豊かだから当然ながら上達志向や
       研究心も旺盛だし、せめて月に1回位に回数を増やすべきだろう。

       そして正しい基本を身に付け、そのものの本質とか奥深いところを一寸でも知りたい
       ものだとか、今日より明日は少しでも上手に、少しでも高等技術を覚えたいという、
       人間として極めて崇高で極めて自然な気持ちを未だ持ち続けておられる方などからは、
       月に2回位が良いなんていうリクエストがあるかも知れない。

       そこまでの若さもなく上達指向も好奇心も研究心も、自分なりの美学も信条も全ての物事に
       対する情熱も何もかもが、もうかなり衰え萎えてしまった我々でも、こんな事をふと思ったり
       感じたりすることがあるだろう。

       それは、スポーツに限らず、その物事の本当の難しさの一端でも知ってみたいとか、
       少しでも上達すればする程それは難しくなること、しかしそれだけにやり甲斐があって、
       今までには分からなかった真の面白さが朧気ながらも見える様な気がすることである。

       しかし我々の年齢や青鳩の雰囲気、あり方などから考え、全員の最大公約的な状況や考え等
       から言えば、この一寸物足りないような一寸多いような、それでいてちゃんとしたピンポンの
       形を覚えたいという気持ちが自然に湧いてくる位の、この平均的な一寸あやふやな中庸さでは
       あるが、今のこの程度の頻度が現状の我々にとってはベストなのかも知れない。


11月15日(日) ピンポン久し振りの自由練習日!

2015-11-15 18:25:18 | Weblog

  
            「 庭の花 」 高橋カリン 写す
  

  昨日からの雨も止んで午後からはいい天気になった。
  皆さん何かと忙しいのか、一般開放からの方は顔を見せないし、鳥居さんの卓球部の選手達は
  学校の論文作成に忙しいとか。この自由練習の常連メンバー遠藤さんは最近始めたテニスの
  やり過ぎだろうかテニス肘が痛んで暫くは休養だそうだ。やはり常連で所用のあった人が
  2人も居たから今日は少ないかな、台は2台も出せばいいかななどと思っていた。
  幸夫氏が見えたし簗瀬さんも鳥居さんという常連さんに私。そして2ヶ月ぶりになるか伊藤さん
  が登場。この所やけに忙しいとか。いろいろあって火曜の青鳩会員から休日の自由練習のフリーー
  メンバーに変わることになった。
  彼の大学の競争部の選手で、眼をかけていた一人の選手が、学校始まって以来初めての快挙で
  箱根駅伝の学生選抜チームに選ばれたと言って嬉しそうだった。まあご本人も元気だったようで
  まずは何よりだ。

  膝の痛い人、風邪の治らぬ人、用事で早く帰りたい人などあって今日は早じまいとすることにした。
  2時間だけだったが、結構汗もをかけた。やはり週に1回は体を動かしたいものだ。
  自由練習の参加者をもう少し増やす事にした方が良さそうだ。火曜日の青鳩ではグループという
  感じなので、どんなタイプの人が来てしまうのかと躊躇して、なかなか新加入者の募集が出来ない
  が自由練習では気楽に声を掛けても良いかと思っている。

  明るくて、もちろんピンポン好きで、やさしくて常識あって、妥協性と思いやりのある人なら
  大歓迎だ。そうした性格の方なら、顔なんて無くても良いくらいだ! そんな人、大募集だ!!

11月11日(水) 生活視力とピンポン視力!!」

2015-11-11 14:20:04 | Weblog

             

               「吾妻山の望遠鏡で茅ヶ崎方面を覗くが…」
                         8月  高橋果鈴 写す

          今日は6人。水曜日という変則日なので一寸顔触れが淋しかったが、いつものように
          元気に練習する。自由に打ち合いを交替しながら、その都度違った相手と6分のラリー
          を4回、パートナーを替えながらのダブルス戦を試合形式で3戦とを、休み休みしながら
          の2時間だった。
          すっかりこのパターンのメニューが固定したようだ。2時間でも濃い練習が出来て、
          楽しい大声があちらこちらで上がり、ラリーのリズミカルな打球音が会場一杯に響いて快い。

          今日の私は一寸目の調子がおかしく涙目になって、いつも以上に見にくくて、辛かった。
          そこで久し振りに眼の話になってしまうが、私の「加齢黄斑変性網膜症」の左眼は、もう
          治ることも視力を回復することもない。
          それでもこれ以上のダメージを防ぐために新薬「アイリーア」の硝子体への注射を今月で
          10回目と続けている。
          この新薬は、脳や心臓への血栓が起こりやすいと言う副作用があり両刃の剣なのだが、
          とにかくもう少し世の中を見ていたい、周りの人の顔もまだまだ見ていたい、絵を描いたり
          ピンポンもしていたい気持ち等が優先して、逡巡したりかなり迷い悩みながらも意を決して
          その注射を続けてきた。その前にはルセンテスという当時の新薬を10本も打ってきた。

          お陰でと言うか何というのか、その左眼の黄斑部の疾患はやっと涸渇という状態で、
          枯れてカサブタのように固まったから、(未だ一カ所出血箇所が残っているが)それなりに
          薄くなって落ち着いて爆発(大出血)する心配はより少なくなったそうだ。
          視力は(矯正で0,01)で失ったも同然だが、定期的に観察していこう、そして何より
          大事なのは残った右目の観察であると言われた。(片方が発症した人のもう片方の発症率は
          100%だと言うのだから悲しいことだ)

          今後も注意して観察し、少しでも発症が発見されたら直ちにアイリーアを注射すればその時点の
          症状状態で食い止められるらしい。左眼の時は未だその薬がなかったのだから、医学の進歩は
          凄いものと、心臓にステントを入れた時と同様に感心したものだ。
          これからもこうした観察を毎月細かくやっていくことになっている。

          右目の矯正視力が(0.9)もあるから左右の差、アンバランスは大きい。その勢か目眩や
          眼精疲労が激しい。
          現在の視力検査では、白地に黒いCの字の開いている方を当てるわけだが、歪んでいても、
          ぼやけていても、開いている方向がぼんやりでも分かれば視力の数値が出るわけで、
          その見え方の質は問題にしていない。
          私でもその検査では(0.02)と判定される事があるが、これは日常生活での視力ではないの
          ではなかろうか。

          現実の生活では、その視界の背景はすこぶるゴチャゴチャしているし、その上動いてもいる。
          その上自分も動いているのである。こうした条件下で何処まで見えるかが「生活視力」であって、
          動かず白いバックに太く黒いCの文字を見るのとは大きな違いがあるわけである。
          その意味での生活視力の私の数値はどうなってしまうのだろうと思う。
          どうやら眼科の世界では少しでも明るかったら、光りを感じるならば失明とは言わないのかも
          知れない。障害者手帳というのも片目だけでは貰えないと聞いた。
          形は分からなくても明るければと言うところに、何だか納得できない面もある。

          右目と左眼とで見たのは角度が違う。これを視差というが、それを脳が直ちに計算して距離感と
          立体感そして質感を感じ取れるものという。
          私の左眼からは脳への信号が行かないか、あっても歪んだノイズ信号が届くという。
          右目からは正しい信号が行くわけだから、それが合わさり却って計算処理が混乱して見えにくく
          なるそうだ。従って左眼をつぶるが塞いで信号をなくして右目からだけの信号の方が、
          立体感距離感はなくなるが日常の生活視力としてはその方が良いということになる。

          私の下手な絵の場合は、描いていると疲れて涙が出て、肩が凝り頭が痛くなるけれど、
          それに耐えればあまり支障は感じない(絵には肝心な立体感、質感などがないのに気付かずに
          描いているのだから、私の絵のレベルがどんなものかおおよそ知れるというものだが)。

          街を歩いていてもあまり周囲を見ようとすると、歪みやぼやけによって、体がふらついたり目眩の
          不快感があったりしてくる。左側から出てくる自転車が怖い。自動車免許は既に返上したし
          自転車も極力控えているが、家の中では緊張がゆるむのか不安定感が一層ひどく、テーブルの
          角や柱や壁に体をぶつける事が多い。
          本もPCもTVも見にくい(これが結構辛いことだが)と言うハンディがある。
          それでも駅の階段、道路の段差などに気を付ければ何とか生活は今の所は出来ている。

          しかしピンポンでは不自由だ。しかしこんな状態の片目でのプレーもかなり長くなったので
          それにも大分慣れて来た感じがする。
          両目を開けていると、左眼のおかしな視界が入ってきて右の正常な視界と混ざり合って視界が
          おかしくなるのだから、当然片目をつぶった方が良いわけである。

          ある時、眼帯をしてピンポンをやって人を驚かしてしまった事があるが、実は本人はその方が
          はるかにやり易いのである。しかし眼帯をしての運動は何とも鬱陶しいものだ。
          周りの人もきっと嫌なことだろう。
          そこで最近は眼帯をせずに、両眼を開いたままだが、左眼は使わない、見ようとしないという
          習慣を会得しようと努めている。

          しかしまだまだその境地に達する事は出来ないで居るが、球をよく見ようとすればするほど、
          可愛いい左眼もけなげにも見ようとして呉れて、却って視界が乱れてしまう訳である。

          右目だけだと幾ら慣れてきたと言っても、確かに不便である。
          距離感覚がないから、来た球が今自分に近いのか遠いのかが判らないので、対応が間に合わ
          ない。
          しかしピンポンというものが、かなり勘とか感覚、反射神経にたよる部分が大きいのを発見
          した。あのスピードで来る球を打つには、感じとか感覚だけで、球を見ないでも打っている
          要素が、他の球技スポーツに比べて多いのではないかと思っている。
          これが私にとって、一寸は救われる所だと感じている。

          感覚、神経を鍛えそして慣れさせて研ぎ澄ますとが出来れば、これからも続けられる様な気が
          するのが嬉しいことだ。
          両目を開けてやっても、フォアー(右サイド)に強く打って貰う分には、ほとんど対等に
          打ち合える迄に慣れてきたのがそれを証明している。
          私の運動神経や五感もたいしたものだと自画自賛しているのである。

          もし何かの拍子に話でも弾んで、市民卓球大会のシニアのCクラスにでも出るなんて事が起き
          たとしたら、私は迷わず眼帯をするだろうから、相手の選手は驚くだろう。
          驚いている隙に勝っちゃったりして……。
          生活視力としてはやはり何かと不便だが生活は何とか出来るし、その中でもピンポンなどを
          出来るのは嬉しい。

          残った右目の発症をいたずらに恐れずに、如何に早くそれを発見するかに留意さえしていれば、
          まだまだこれを人にあまり知られることも、迷惑を掛けることもなく普通に生活して行けそうな
          気がする。

          ついつい今日の日記が、書き始めたらこんなに長くなってしまったのは、眼のことを考えながら
          キイーを叩いていたら、大学病院の眼科外来の患者で大混雑の惨めな風景が浮かんできて
          しまったからです。その様子を是非皆さんに伝えたいと思ったのです。
          そんな目に遭わないように、皆さんに注意喚起をしたかったのです。

          最近この「加齢黄斑変性網膜症」が中高年に(女性も多くなった)爆発的に増えているからで、
          明日は我が身ですよと皆さんに伝えたかったのです。
          病院でも5年前と比べてみてもまさに様変わりです。昔は患者が少なくて、皆の前で視力検査を
          受けるのさえ恥ずかしかったし、治療法はないと言われて絶望し、生活は不便で辛かった。

          数年前までは全く治療法はなかったが、この1~2年には治すことは出来ないが進行を止める
          新特効薬(アイリーア)が出現し僅かに明るい希望が出てきた。
          いまでは大学病院には同病の人が溢れ、眼帯をして帰っていく人も全く珍しくなくなった。
          よくIPS細胞で数年後には治せるように思われているとみえて、よく「良かったね!」と
          言われるが、あれが実際に使われるのは残念ながらまだまだかなり先(一世代先)のこと
          なのである。

          それにしても黄斑変性がこれだけ多くなると、ピンポン愛好の貴方も、たまたまこのブログを
          ご覧になった方々にも、何時そうなるか他人事ではありませんよと警告したいのです。
          それでも私の様な例もあるから、今なら例え発症しても(特効薬も出来た事だし)悲観すること
          なしても大丈夫ですよとお伝えしたかったのです。

          後期高齢者になったら、せめて年に1~2度は自覚症状がなくても、眼科へ行って眼底網膜の
          チェックを受けられることをお勧めします!!

11月3日(火) 青鳩のピンポン練習法とその上達度!!「

2015-11-03 17:02:06 | Weblog


                     礼文から利尻富士を 
              
                7月  カリン(小5)、北海道旅行にて  撮影

         今日は8人。早くも11月で朝は肌寒い位でまさに秋深しである。しかし日中にはまだ夏の名残りが。
         秋は人を想う頃、人を恋する頃、そしてものを考える時、芸術の季節、物思いに耽るものというが、
         年の勢か残念ながら一寸もそんな気分にならない。
         デリカシーとかそういった神経や感受性の類も、見かけと同様に老け込んで錆び付いてしまった
         のだろうか。
         それでも何とも言えぬ一抹の寂しさや、気持ちに体が付いて来ないというアンバランスへの焦燥感
         を覚えるこの秋ではあるけれど…。

         私は絵の展覧会の為に休んでいたので3週間振りのピンポンだ。久し振りに皆さんの顔を見るのも
         嬉しい。
         もはや慢性化した風邪がスッキリせず、咳や痰や夕方の微熱が収まらず体がだるいが、やはり無理
         しても体を動かすのは気持ちが良いものだ。頑張って参加した。途中苦しくなったが2時間だけ
         なので助かった。
         軽く汗をかいて美味いものを食べて、夜は風呂に入って卵酒でも飲んですぐ寝れば、きっと今度こそ
         は完治するだろう そんなことを祈っているのだが、果たして……

         会場では皆が、昔からまさに10年1日の如しといった感じで練習している。
         それぞれ思い思いの練習、というより運動といったところである。ある人には散歩の替わりであり、
         又別な人には楽しい単なる時間潰しであり、或いは完全にお遊びのつもりであり、何かに替わる
         健康法でもあるからだ。

         考えてみればこれが我々には一番合ったベストな練習法だったのだろう。
         最も他のやり方は出来なかった。練習法を提示されても我々に未だそれを受け入れる力や技術や
         理解力がなかったと言う理由もあった。

         少しでも早く簡単に、中級辺りの最初のレベル位には達するために、自己流が固まってしまう前に、
         飽きが来る前にそこそこ上達してピンポンそのものが少しでも楽しくなる様に何かをしなければと
         志向したりで困惑もしていた。

         倦怠感が芽生える前にピンポンの奥深さ、難しさの「さわり」や「とば口」の一端でも味わうこと
         が出来るためにと、焦ったり悩んだりしていろいろ練習法や方策を試行錯誤したものだが、
         それも今や昔の物語になった。

         皆揃って先生とか誰かの号令で、同じアイテムを一斉に反復練習をするという古典的ながら最も
         効果的あると言われている練習法を放棄した時から、上達は(特に、正しく急激な上達は)
         望むべくもないが、それから10年間勝手気ままで自由な、しかし楽しい無手勝流の練習を守って
         きた。

         勿論これでも、慣れという効果で少しづつだが上達はしてきた。そしてそれなりに少しは面白く
         もなる。考えようで我々にはこれで十分なのである。
         選手養成でもなく試合に出るでもない、我々の健康ピンポン、お遊びピンポン、お楽しみピンポン
         では、皆の楽しそうな笑い声が聞こえればそれ以上は何も必要はないと思えてくる。

         何事も上達するとかワンランクアップするにはそれなりの苦しみとか悩みが必ず伴うもの
         なのだから、あえてそれを求めることもないのだろうという思いが、何か対策をしなくてはと
         言う気持ちを抑えていた。

         しかし或る程度慣れてラリーも続き多少は変化球も使いだすと、不思議なもので遊びながらでも
         何も考えずやっているだけでは物足りなくなってくるのが人間としてごく自然なことである。
         もっと上手になりたいという気持ちが湧いてくるものだ。そして只慣れに頼っているだけの上達は、
         それ以上は望めないということを皆が自然に自分自身で分かって来るものだ。

         そして端から見ていると(自分の姿は見えないから言えるのだが)、自己流のフォームややり方は
         何か不自然だし何とも格好も悪い。美しさがない、リズム感がない、夢もないものだ。
         これでいい、何も必要ないという頑固な考え、上手になんかならなくても良いというもう夢も向上心
         も失せてしまった人、あまり前向きでない思考のタイプ、現状維持の保守的な考えの人ありと様々
         だったが、しかし賛同の方も何人か居られたので、思い切って知人の紹介で先生に頼んでみること
         にした。
         ほぼ同年代の女性の先生で実績もあり、各所で教えているやさしい方と聞いて直ちにお願いした。

         そしてレッスンを受け始めて、もう数年間にもなるがマンツーマン方式で毎回各人なりのテーマで
         10分間のラリーをしたり球出しをして貰いながら、アドバイスや矯正をして貰ったりしている。

         これだけの数年間で皆が見違える程ピンポンらしくなった。
         やがて、いつもの練習開始時には30回のラリーを意識的に続けること、そして最近では準備体操後
         に30回の素振りを皆でするということも先生のご指示で加わった。
         これで又一段と皆がレベルアップしたような気がする。

         我々の年齢では、一旦身に付いてしまった、自分が一番やりやすく楽なだけに、自己流という
         悪癖はなかなか直すことは難しい。完全には直らない様だ。
         しかし以前に比べて間違いなく段違いにフォームは安定し、フォアー打ちもバック打ちも形になって
         きて、様になりつつあるようだ。

         これからは年齢による肉体や神経の衰えとの競争にはなるけれど、正しい基本と正しいフォームを
         身に付けた上で、美しいフォームで如何に省エネで、ケガもしない、体にやさしくて新しい幾つに
         なっても出来る様なピンポンの高等術を工夫し日々の練習で作り上げ、これからでも身に付けたい
         ものだ。