2月の真っ只中。でも天気も良く暖かく富士も大山も公民館の後ろの方角にくっきりときれいだった。8人が参加して、今年の初レッスンを受ける。
いつもは1人10分位しか個人レッスンが受けられないのが残念なのだが、今日はその後、先生に入って貰ってダブルス戦をしてみる。やるも楽しく、見るも楽しく大いに参考にもなり、又違った世界だった。何かこれからのやり方や練習法のヒントを頂いた様な気がした。
このレッスンも、規則的に毎月1回或いはせめて二月に1回でも教えて貰える機会があれば良いのだが…。
私など、終わるともうすぐに、何を注意され、どうしなさいと教えられたのかも忘れてしまう。ましてや次の練習日になると、もう完全にいつもの自己流になって黙々と何のこともなく、只々打っているだけのような気がしてならない。
折角、良い先生に習って居るのだから、すぐメモでも取って忘れぬ様に、次回の練習時に自分で生かしてみるという真面目な努力、姿勢が必要なのだろう。
こんな事を書いていると、この日記をご覧の中にはいろんな方が居られるから、
たかがピンポンだ! たかが遊びなのだから今さら何もそこまで!何でそんなに真面目にやろうとするのか、 下らない!これしかないのか!などとという声が聞こえて来そうだ。成る程それももっともかも知れない。
ピンポンしかないのか! 他にやることはないのか! 他に趣味はないのか!お前の人生それしかないのか!いい年こいてピンポンなどほんの小さな取るに足りない遊びに過ぎないぜ等と言われると一寸悲しくもあり何だか複雑な気持ちになるが、果たして本当にそうなのだろうかと思ったりしている。
しかし、中高年の精神衛生学では、我々の年代は「今さら」とか「この年だから」というセリフはタブーなのである。
どんな事にでも(例え時間つぶしの趣味でも習い事でも、運動であっても或いはほんの小さな又は下らないと思われる雑事であっても)、そのことに対して真摯な姿勢を取れなくなったり、どうでも良い、遊びや運動なのだから適当でいいと思うようになったり、何事に対しても(自分が偏執的にやってる事は除いて、その事の普遍性の無さと独りよがりや思い込みは、老人精神衛生上は良い面もあるのだが問題もより大きいと言われているけれど、これはまた別の機会に考える事にして)、好奇心や向上心、真摯に向かえる気持ち等がなくなり、適当でいいや、どうせ大したことじゃない、下らないことだ等と、こう思うようになったら初めて老人と呼んでもいいのだ。その時からその人は階段を転げる様に本当に老いの世界に入ってしまうのだ。という説がある。
さあ!立ち上がろう!!頑張ろう、団塊世代以前の諸兄よ。麗しき諸姉よ。
好奇心と向上心とをもって、明日の些細な大したこともないことに真摯に向き合おう!!
練習の後はビールがとても美味しく家でグラス片手に、ぶっつけでいきなりいつもこの日記を打っているので、「てにおは」の間違いはしょっちゅうだが、時には支離滅裂やら、書き過ぎや、飲み過ぎたときは感情の儘、一寸テンションの高すぎてしまうことがあるかも知れない。日記だからそれはそれで良いのだが、このブログの日記ではあまりそれもいけないのかなぁと難しい所である。本当の私の日記はもっと激しく、且つもっともっと面白いのだが…。
ところで自己流という奴は、慣れによる進歩の過程が過ぎるともう残念ながら上達は限界に達しているという。勿論例外はあるだろう。凄い体力或いは稀な運動神経や大変な練習量などだ。
我々の仲間でもSD氏などは、すごい器用さと手首の柔らかさで素晴らしいプレーをする。いわゆる正しい卓球の形ではないが、自己流も此処まで来るとあの卓球独特の小さな型にはまったスタイルでなく、大いに楽しく個性的な素敵な自己流で、行くところまで行って貰いたい様な気がする。
偉大なる自己流、個性的なのはまさしく素晴らしい。しかし一般にはそこまでなかなか行けるものではない。
楽しくやるから面白くて続けられるのだろう。楽しくやるには最低の上達、継続し続ける進歩が必要条件と言われているが、それにはやはりその方法を練習、やり方を一考すべき必要があるのだろう。
ピンポンなど我が人生の後半に、ふと出会ったもので今までの人生での様々な大事なこと、体験、出来事等の中のささやかな一つに過ぎないものだが、しかしやるならば他のことと同様に真摯に真面目に考えてやってみたいものである。
これが、例え大したことのない下らない私の人生であっても、自分の人生の全ての事に対する大切で必要な姿勢だったのだろう。
こんな小さなことに気付くのが、かなりというか何十年というか遅すぎた様でこれだけは残念で仕方がないのだが…。