村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

府立二中へ進学

2007年05月31日 | Weblog
私は昭和十七年、旧制東京府立二中、いまの立川高校へ入学した。しかし、しばらくすると太平洋戦争がはじまり、学徒動員も行なわれるようになった。最初の頃は授業に出られたのだが、三年生の頃になると、自宅から毎朝、いま多摩ニュータウンの一角になっている稲城の火工廠、つまり陸軍の火薬工場へ通うことになった。

火工廠での仕事は検査係だったが、その頃とくに覚えているのは、配属の中尉が学者だったせいか、午前中は勉強させてくれたことである。本職の軍人が配属されていた部門に行った同級生は朝から晩まで、ときには夜勤までさせられたことを思うと、立派な将校だったと記憶している。

やがて戦争も末期に近づくと、米軍のB29が上空を通って東京空襲へ行くようになるし、グラマンなどの戦闘機までくるようになった。私たちは防空壕に身をひそめているのだが、何しろ火薬工場だから、爆弾を落されたり、機銃掃射を受けたら、それでおしまいである。誘爆を起こして火工廠も人間も影も形もなくなるのはよくわかっていたから、実に恐ろしかった。しかし、不思議なことに、終戦まで火工廠は一発の爆弾も機銃弾も受けなかったのである。幸運だったとしかいいようがない。

終戦が近くなると、私たちも学年上は卒業の時期にきていた、時代の要請で同級生たちはどんどん陸軍幼年学校とか予科練あたりに志願していったが、私は前にも述べた通り、まったく体力に自信がなかったので、そういうところから戦争の第一線に行くのはどうにも気が進まなかった。

そうこうしているうちに「君はどうも体力的に問題があるから、海軍主計学校へ行ったらどうか」とすすめてくれる人があり、願書を出すことになった。海軍主計学校とは、海軍の経理将校を養成する学校である。

しかし、願書を出した時点で終戦。火工廠の工場で天皇陛下の玉音放送を聞いた。放送が終わると大さわぎになって、日本刀で抗戦するといいだす人までいたことを覚えている。終戦直前の八月一日に、八王子市の中心部が米軍の爆撃を受けて火の海になったことも忘れられない。

さて、戦争が終わって、私が進学するかどうかが問題になった。しかし、私が軸性視神経炎という眼病をわずらっていて、近所の眼科医では直らず、秩父の専門医まで通わなければならなかったことと、米軍支配下の日本が今後どうなるかという見通しがなかったため、進学はやめたほうがいいという気持になった。

中学の先生など、進学をすすめてくださる方はたくさんいたが、もし進学していたら、また別の生き方をしていたろうと思う。しかし現在の道を選んだのはけっして間違いではなかったという確信がある。

府立二中時代、大戦のさ中で、ほとんど勉強らしい勉強もできなかったにもかかわらず、私が幸運であったのは、今野先生という、秀れた教育者が担任になられたことだった。今野先生はその後、府立一中の校長から大妻女子大学の講師になられたが、先生の適切なご指導のおかげで、私の成績も入学時二百七十人中の十六番から、三、四番まで上ることができた。

その時の同級生の中には、トップ競いのよきコンペティターであり、のちに東大から読売新聞へ入り、科学記者として、月や地震に関しての研究と著書で有名になった伊佐喬三氏、更に伊佐氏の友人であり、コマーシャルの分野で、幾多の受賞をしている日本テレビの加藤芳孝氏がいる。

この両氏には広告はじめ、多面にわたって教えられることが非常に大きかったことを特に付け加えておきたい。 次へ

豚小屋を改造して木工所に

2007年05月30日 | Weblog
先生方のありがたいおすすめにもかかわらず、私は病気のために進学しなかった。そこで私は「日本一の百姓」になろうという志を立てた。

私の家は代々、百姓である。そんなところから、少年の頃読んだ「日本一の百姓」という無名人の伝記にひどく心ひかれるものがあったのである。伝記といえば、エジソンとかナポレオンとか野口英世などがほとんどだが、その中に、岡山県の一農民を扱った伝記があり、それが私の夢になったのである。

しかし「日本一の百姓」の夢も、時流によって転換せざるを得ない日が来た。昭和二十二年からはじまった農地改革である。

農地改革で村内家に残された土地は山林を除いて田畑二町二反。自作農としては何とかやっていけるにしても、とうてい「日本一の百姓」になれるような面積ではなかった。戦後、農家がよいといっても、それは一部の「米どころ」だけであり、それ以外の一般の農家の生活は非常に厳しかったのである。

これではだめだ、どうにもならないと私は直感した。なんとか窮地を脱する方法を考えなければと思ったのである。

そんなとき、ふと頭に浮んだのは、裏山の雑木林の存在だった。自宅の裏山にはまともな木ではなかったが、名前もよくわからないような大木がたくさんあった。普通ならタキギにして売ろうなどと考えるところだが、父と私が二人で考えたのは、それで家具を作ってみようということだった。

八王子市街の七割は昭和二十年八月一日の空襲で焼失していた。しかし戦争が終わり、復興がはじまり、民家や学校などが建ちはじめた。裏山の木を使い家を建てるというほどの木材ではないが、家具ぐらいならできるかもしれない。学校が建てば机や椅子も必要ではないかと考えたのである。

今思えば、裏山の木はほとんど松や杉だった。松や杉が家具になると思い込んだのだから、今となってみれば滑稽なのだが当時としては大真面目だったのである。

家具をつくるには、まず製材工場をつくらなければならない。そこで、自宅の前にある古い豚小屋を改造し、あちこち探し回って安い製材機械を買ってきて据えつけた。豚小屋は父が競馬に夢中になって家へ寄りつかなかった頃、母が豚のお産のためにいつも泊り込んでいたという例の建物である。

戦後の混乱が続いて、社会が騒然としていた昭和二十二年のことである。

小さな木工所をつくり、山から木を切り出して引き下しても、父も私も家具のことは何も知らなかった。そこで、専門家をやとうことになった。八王子から七キロの山奥の製材所にも、製材職人二人、家具職人三人が来てくれて、翌昭和二十三年三月、加住木材工業有限会社が正式に発足した。これが今日の村内ホームセンターの母体である。このとき私は十九歳だった。
 
この頃のことをもう少し詳しく書くと、やはり父、万助のことになるだろう。

父はどちらかといえば、他人に対して面倒見がいいというか、自分の利益になるというより誰かのためになるという理由づけがないとやる気を起こさないタイプの人物だった。だから、木工所を開いて家具をつくるという動機の基本に〃他人の為に尽そう〃という精神があったからではなかろうか。当時市内の学校にほとんど机も椅子もなくなってしまっていて、子供たちが板の床の上に直接座って授業を受けているのを見て、子供たちのためにどうにかしたいという気持があったのだと思う。この気持は後年の地域社会に対する奔走ぶりをみているとけっして表面だけのものではなく、明治人の本性のようなものであり,そこから教えられるものがたくさんあったと私は思っている。

さて、木工所は二軒の村内の共同出資という形ではじまった。私の家は地元では上村内と呼ばれていて、こちらが三分の二出資、下村内という家の当主村内登久一という人が三分の一を出資して登久一さんの弟正三さんが工場長になった。この人は工場長とはいっても、製材も、家具も知らなかったので、もっばら営業、すなわち注文取りに歩いた。近隣をあちこち歩いて、机や椅子の注文をとって来る役目である。しかしそれだけでは十分な仕事はなかったので、賃引きという他の業者の下請けの仕事もかなり受けなければならなかった。

木工所の私の最初の頃の仕事はもっばら事務的なものだった。一般的な計算とか帳簿づけのほかに、材木の石数計算に計算尺を応用した簡単な方法を考案して便利がられるといったこともあった。やはり体をつかうのは不得手だったのである。

しかし、そのうち、そんなぜいたくはいっていられない段階になってきた。私が第一線になって働かないことには、どうにもならない事態にたちいたったのである。 次へ

設計もセールスも

2007年05月29日 | Weblog
私たちの地方に「手をつるった」という言葉がある。仕事がなくなってすることがないという意味である。山奥ではじめたばかりの木工所だから、信用があるわけでもない。注文がストップして、「手をつるった」状駿が続くようになった。そのままでは倒産は目に見えている。勤め人なら倒産してもどこかへ行けばそれで何とかなるが、こちらは倒産すればそれでお終いである。私も事務などとってはいられなくなった。

そこで、私は外へ注文を取りに出ることにした。梅干弁当を自転車の荷台にくくりつけて毎朝家を出るのである。当時私は芯だけは強かったかもしれないが、人前に出るとロをきくのも恥しかったぐらいの内気だった。それが知らない家を一軒一軒回って「家具のご用はありませんか」と聞いて歩くのだから、逃げ出したいどころの気持ではなかった。

しかし、なぜか四軒に一軒ぐらいは注文がとれた。外交がうまかったのではなく、子供っぼくて可愛いかったから好感を持たれたのではないかと今では思うが、とにかく木工所は「手をつるう」ことは少なくなった。

私が取った小さな注文の中でもとくによく覚えているのは真四角な勉強机である。ある家へ行くと、「日当りのよい廊下で二人の子供を勉強させたいがどうしたらよいか」といわれた。机を二つ置くには都合の悪い場所だった。そこで私は真四角な机を作って、両側に二個ずつ引出しをつけたらどうかと提案してみた。子供たちが向い合って座るというものである。すると先方は、

「それはいい。アイディア賞ものだ」

とひどく感心してくれた。食器棚の注文も取れたが、これも普通のサイズではなく、空間に合わせた特別製だったが、何とか作って納品することができた。

しかし、一番困ったのは座卓の注文をもらつたときだった。ある土建業の立派な家へ飛び込んだとき、

「カリンかケヤキで座卓をつくってくれ」

といわれた。こちらは何も知らないので、

「はい、わかりました、ありがとうございました」

といって帰ってきた。知らなかったのだが、カリンもケヤキも本格的な家具用の木材で、裏山などに生えている代物ではなかったのである。木工所にいた職人は洋家具と建具が専門で座卓は指物師がつくるということもはじめて知った。

「そんなもんできるわけがないだろう」

というわけである。だが、できないといわれても注文を取ってしまった以上、だめだというのでは信用にかかわる。困りに困って父、万助に相談すると「しかたがないから家具屋から買って納品しろ」などという、いまから思うと笑い話のようなこともあった。

家具財であるカリン、紫檀、黒檀、桜などの製品をはじめてよく観察したのも、座卓を買いに行った八王子の家具店の倉庫の中だった。

私のセールスは大成功だった。そこで外交は私が専門ということになった。しかし木工所のほうは少しも黒字にならなかった。なぜかというと、素人外交なので正直すぎたのである。たとえば学校で注文を受けても、これこれの予算しかないから、といわれると、それでやらなければならないと思い込んでしまって、使命感のようなもので引受けたりした。そうなると、たくさん受注しても、外注に出せば赤字になってしまう。しかたがないから、専門の職人の工場へ弟子入りして勉強したこともあった。「そんな腰つきではだめだ」と塗装職人にどなられたり、とにかく特訓につぐ特訓で何とか家具職人の技術を覚えた経験もある。

木工所は七年続いた。しかし万事がこの調子だから、はじめの五年間はまったくの赤字続き、あとの二年も収支とんとんという程度で、それこそ血の出るような努力にもかかわらず、素人家具メーカーは結果的には失敗だった。

しかし、この失敗はそのまま、水泡に帰してしまったわけではなかった。それどころか、現在の村内ホームセンターはこの失敗の連続の中で大きく育つ芽がふくらんでいったのである。

カリンの座卓のときのように、家具の注文は簡単に作れる洋家具の類いだけではなく、桐だんすをはじめとして、本格的なものも数多かった。最初は家具は家具店で買ってそのまま納入したのだが、それはあくまでも便宜的な手段であって、いつまでも同じことをしていたのでは余分な手間がかかるだけである。つまり、そのような注文を受けたときは、専門のメーカーから品物を探してきて、それなりのマージンを加算して納品するべきだということがわかってきたのだ。家具専門店への道はこの辺から少しずつ芽ばえてきたのである。 次へ

メーカーを探して

2007年05月28日 | Weblog
長い素人家具メーカーの経験で、商品の材質のよしあしからメーカーの技術のよしあしまでわかるといった知識を持ったことは大変な強味であった。

私が外交をしている頃、桐だんすの注文も世の中が落ち着いてくるにしたがってだんだんふえてきた。そこで、私は桐だんすの産地が埼玉県の川越だという情報だけを頼りにメーカーを探しにいったことがある。どこに何という人がいるかまったく知らなかったので、川越の町をウロウロ歩き回ったのだが、そのうちに宮大工をしている家がみつかったので「桐だんすの腕のよい職人さんを知らないか」と聞いてみた。その時紹介してもらつたのが、いまだに我社の問屋・メーカーの親睦団体の会長をしている吉田さんという家だった。

ついているというのか、私が顔を出したときはちょうど試作品ができ上った直後だったのである。戦争も終わり、息子たちもやっと帰ってきたから、そろそろ桐だんすを作ろうかと最初の品を作って座敷へ置いた日に私が顔を出したというのである。タイミングというものは恐ろしいもので「これを持っていっていいですよ」という話になった。それ以来数年にわたって、私は桐だんすの注文があると、オート三輪やぼろトラックに乗って、多摩から川越へ抜ける未舗装の凸凹道を一日がかりで往復したものである。桐だんすの受注販売ははじめの年が二十五本、翌年が五十本、三年目が百本、四年目が二百本と一年ごとに倍々にふえていったのである。

桐だんすだけでなく、そうなると洋服だんす、整理だんす、鏡台といった注文もくるようになり、これも、産地を深し、一流の職人といわれる人に製作を依頼し、受け取りにいって納品した。もちろんいずれも木工所でできるような品物ではない。しかし、私は山奥の木工所が注文を受け納品するというたてまえである以上、他の家具店より大幅に安くなければいけないという方針は崩したくなかった。だから、一般の家具店のように問屋に、電話一本で注文をして持って来させて売るということはしなかった。安く売るために直接メーカーを探して取りに行くという方法を取った。これならば中間流通経費をカットして、消費者に安く商品を提供できるということである。現在大型専門店の主流になりつつあるシステムは、私の場合、システムとして考え出したわけではなく、やむにやまれぬ事情からそうなったといってもよい。

商品の質にしても同じことがいえた。質を落し、技術面の手を抜けば当然ながら安く仕入れられる。他店より安く売っても利幅はそうとう出るから儲かる。だが、そのような粗悪品は扱いたくなかった。せっかく村内の品物はいいという評判がたちはじめたのに、粗悪品を出して信用を落せば、山奥の木工所業家具店としては致命傷になりかねないと思ったからである。

このため、メーカー深しには当時相当に苦労に苦労を重ねたといってもよい。あちこちの産地に行き、事前にどこの人が腕がよいか、生産能力がどのぐらいあるかを聞いて、現金で買ってくるのである。のちに昭和三十二年頃、「村内会」ができる頃にはいろいろな情報も入るようになり、メーカーの人たちとはもっと質の高いつきあいになっていくのだが、はじめの頃は実に大変な仕事だったのである。

父も私も家具店になるつもりなどまったくなかった。しかし、木工所を真面目にやっているうちに必然的に販売の占めるウェイトが大きくなっていった。木工所の方は毎年赤字続きだから、家計を支えたのも販売のほうだったのである。

そうしているうちに、それまでは受注してから納品していたのに、村内の家具は安くてよいという評判がロコミで拡がり、近郊から七キロも八キロも、手押し車を押して買いにくる人がふえはじめた。家具店など八王子の街中へ行けばいくらでもあるのに、わざわざ街中を通り越して山奥まで足を運んでくれるのである。それまでの苦労を考えると、そんな人が実に有難く思えたのである。

そこで、父と私は自宅十二畳一間と六畳一間の畳の上に桐だんすをはじめとして鏡台、下駄箱など並べておくことにした。農家だから部屋は広いが、それにしても、知らない人が見たら、ずいぶん珍妙な風景だったに違いない。周囲は何キロ行っても山と畑ばかりで、庭先には鶏が遊んでいる家具店など、日本中どこを探してもなかったはずである。

それでも店は繁盛した。遠く川崎のはうから手押し車で買いにきてくれた人さえいた。自動車もほとんどなく、道路も悪かった時代だったから、その人は多分、朝早く家を出て夜遅くやっと帰りついたに違いない。申しわけないという気持で一杯だったのをよく覚えている。 次へ

山奥の家具店、周辺人口三十人

2007年05月27日 | Weblog
木工所から本格的に家具店へ事業の切り替えをはかったのは昭和二十七年であった。この年、自宅から百メートルほどの場所に売場面積二百八十平方メートル(八十五坪)の店を建て、家具店への第一歩を踏み出した。翌二十八年、名称も有限会社村内家具店と改称した。資本金は百万円だった。

この加住の旧本店を、私は十等地と呼んでいる。八王子駅前の繁華街を一等地とすると、裏通りになったり、駅から遠ざかるごとに二、三、四等地とランクが下がる。駅から七キロもある山と畑ばかりの土地は、あきらかに商業地としては十等地としかいいようがない。駅から遠く離れた山奥の、さらに山へ入った加住村は文字通り村落という感じだった。いまならまだ車がある。しかし当時は、乗用車を持っている家など、探しても見つけられないはど交通が不便な時代だったのである。

こんな不便な山の中で商売をやっていくには、それなりの覚悟が必要だった。町中の家具店と同じものを同じ値段で売っていたのでは,誰も来てくれないのは明らかであった。なるべく良い品物を置くというのははじめからの方針だったが、これを他店より大幅に安く売るのである。

たとえば、その頃卸値が五千円のたんすがあったとする。一般の店ではこれを一万円で売るのが普通だった。しかし、私の店ではこれを五千五百円で売ったのである。赤字を覚悟の廉価多売方式であった。

当時は戦後のすさんだ時代だった。見てくればかりの安物がはんらんしていた。今でもそうだが、家具の本当のよしあしを消費者が判断するのはむずかしい。安い粗悪品を仕入れ、安く売ってもそれはそれで商売になったはずだ。しかしそれでは長続きするはずがないと思った。苦しかったが、百姓から商人になった以上、まともにやっていくべきだと思った。

廉価多売方式は多売でない限り経営は成り立たない。家具は売るだけでなく、配達しなければならないのだ。その頃、配達は私がオート三輪で行なっていたが、ガソリンは配給制でヤミ価格は十八リッター缶が二千円もした。リッター当り百十円以上である。いまでも同じぐらいだから、物価の上昇を考えればいかに高かったかよくわかる。遠くへ配達すれば、ガソリン代だけで赤字になりかねない状態だった。

しかし、「あそこの品物なら間違いない」と、一度買ってくれた人が次から次へと紹介してくれるようになった。まだ宣伝はなにもしていなかった。宣伝らしい宣伝をはじめて行なったのは昭和三十年代に入ってからであり、それまではまったくロコミで向うから人が来てくれた。

この廉価多売主義が成功したのは、信用がつくと「高級家具は村内で」と思ってくれるようになったからであろう。家具にもいろいろあり、下駄箱とか小さな勉強机といったものから、婚礼の三点セットまでさまざまである。簡単な家具は少しぐらい高くても近くで買ったはうが便利だし、長く使うものでもない。しかし、婚礼セットになると、一生使うものである。品質の良し悪しはおろそかにできない。また値段も良いから、一回の買物で高い店と、安い店とでは何万円という価格差が出てくる。だからたとえ遠くても、高級家具に限っては信用のある安い店が一番なのである。村内ホームセンターでは、いまでも全体に婚礼家具の占める割合が大きい。これは外渉(外商ではない・・・・後述)方式によるところも大きいとは思うが、基本にあるのは長年つちかってきた信用がものをいっている。安い家具は近所の店で買うが、まとまったものを購入するときは村内へ来るという人が非常に多いのである。

商業地としてはとてつもない山奥、「十等地」の不利をはね返すためにはこれしか方法がなかった。その不利を克服するための努力が、やがて私の店の強味に転化したのである。 次へ

田舎の心、商談室

2007年05月26日 | Weblog
最初の店を作ったとき、一階に「商談室」という部屋を併設した。二部屋あって、入口のほうの部屋は土間にテーブルと椅子が置いてあり、奥の方は畳でこたつが切ってあった。

耳慣れない言葉だとは思うが、たしかに日本にも、あるいは外国を探しても商店が「商談室」という特別のスペースを持った例は聞いたことがない。

この部屋は、農家である自宅に家具を並べて売っていたとき、お客と商談をするときは別室に案内して、お茶を出したり、ときには酒を出したりしながら話を進めてきた、いわゆる「百姓商法」と私がいっている商売の発想の原点にあるシステムのひとつである。

はじめは「こんな山奥まできていただいて申しわけない」という気持で、自然発生的にお茶や酒を出していたのだが,やがて、商売には売り手と買い手の気持の交流の場が不可欠だと気づいたのである。

普通はレジで代金をもらうと「ありがとうございました」で終わりである。この場合のありがとうは「さようなら」と同意義である。必然的に地域の人たちと心情的な連帯を持たなければ、成立するはずのない商店がこんな素ッ気ない応対でよいのか。少なくとも、加住の山奥にある私の店ではよいはずがなかった。

家具店を新築したとき、意識的に商談室のスペースをとったのはこのためだったのである。

商談室では茶だけでなく、和菓子まで出した。婚礼ということになれば奥のこたつの部屋に通して、酒を出しながら、いろいろな世間話をした。このときに生まれた心のつながりが、やがて他の客をどんどん紹介してくれる、という結果につながっていったわけである。

さて、私はいま「百姓商法」という言葉をつかったが、これは父のロぐせだった「麦をつくるつもりで商売しろ」という言葉を要略したものである。農家出身の人ならよく知っていると思うが、米と違って麦は非常に安かった。種まきをして、冬の寒いさ中に麦ふみをして、肥料をやり、やっと収穫にもち込んでも当時一俵千二、三百円でしか売れなかった。ところがたんすなどは、一割の利益でも他人のつくったものを右から左へ動かすだけで、五~六百円の利益が出た。根っからの農民である父は、ことあるごとに「おかしい。間違っている」といい続けていたのである。

商売には商売の苦労もあり経費もかかるのだから、いちがいに「間違っている」とはいえないが、父にしてみれば、百姓が麦をつくる努力とその代償を考えれば、やはりそういわざるを得なかったのだろうし、私にもその気持はよくわかった。経営コンサルタントなどは、判で押したように「商売は利潤の追求が唯一の目的」というが、いまだに私は百姓商法の発想から抜け出せないし、また抜け出したいとも思わないのである。商売は「百姓商法」でいいのではないだろうか。それだからこそ、村内はわずかの年月で、これだけ成長したのではないだろうかと考えるのだ。利潤追求だけを考えていたら、いまの村内は間違いなく存在しなかったと私は断言できるのである。

あせらず、忍耐強く、着実に一歩一歩進んでいくというのが私の方針であった。まさに農民気質の典型である。自然を相手にしている農民が急いで事をなせば、待っているのは死だけである。自然に逆らわず、自分のできる範囲で黙々と努力を積み重ねて何千年も生きてきたのが日本の農民であり、私の中にもその経験の重さがどっしりと居座っていたのだろう。

その間、知られるために広告もしたし、女性ドライバーによる送迎サービスというアイディアも実行に移して喜ばれた。十等地の不利をなんとか克服しようと、八王子駅と店の間に送迎のマィクロバスを定期的に走らせるという方法も思いついた。それは現在も行なっているが、とにかくやれるだけのことはしてきたのである。しかし、階段を飛び下りるような冒険だけはしなかったし、十等地の家具店では、一気に勝負を決するというような、乗るかそるかといった戦略は立てようにも立てられなかった。私の二十代、三十代は次の飛躍のための準備期間として、実力を蓄える期間だったのである。 次へ

老母と幹部社員たち

2007年05月25日 | Weblog
村内ホームセンターは、加住の旧本店時代からずっと「百姓商法」の精神で通してきた。村内万助のロぐせだった“麦をつくる気持で商売をしよう”ということである。

これはキャッチフレーズではないと前に述べたが、現実にも、加住時代は「百姓をしながらの商売」の毎日だった。私たち一家は田んぼで草取りをしていて、店には女の子が一人店番をしている。そこへお客様がくると、店番の女の子が田んぼまで自転車で呼びにくる。私たちは急いで手足を洗って店へかけつけるといった調子であった。

この村内家具店を、陰で支えていてくれた人の筆頭をあげるなら、なんといっても、老母、村内正子であろう。労をおしまず、かいがいしく気をつかってくれただけでなく、従業員が一人増えたといって喜び、車が一台増えたといって喜んでくれた。また、勢いづいて失敗しないようにといって、心配してくれたのも、村内正子であった。この精神的な支えがあればこそ、私たちは毎日、毎日を新たな気持で迎え、心を引き締めることもできたのである。

さて、ここで、村内家具店時代から、ここまで店を育ててくれた幹部社員たちにちょつとふれておこう。彼らが村内精神を本当に理解して協力してくれなかったら、村内ホームセンターも存在しなかった。ただし、全員について、思い出すままに、一人一人ふれていくには紙面が足りない。ここでは役員だけにとどめておきたい。

現在の役員は村内泰代専務取締役、石井良一専務取締役、木口南常務取締役の三人である。

まず村内泰代専務。私の妻である。本来なら、妻が役員に名をつらね、実務につくというのは、近代経営では好ましいことではない。しかし、それは一般論であって、村内ホームセンターの場合、名実ともに現場のリーダーを果たしているので、妻を家庭に入れてしまうと現場に大きな支障が出てくる。

常務の木口君などは「村内専務がいなかったら村内ホームセンターはここまで大きくならなかったろうし、これからも現場にいてくれなくては困る」と私に面と向かっていう。いささか耳が痛い気もするが事実であるからしかたがない。百姓商法-村内精神を一番よく理解し、それを実践に移しているのは妻であるということを、認めざるを得ないのである。

私が結婚したのは「村内家具店」時代のごく初期である。商品の配達のときに知りあったのがきっかけで、結婚話になったのだが、村内家に入るに際して、私はひとつだけ注文をつけた。

「結婚するからには、実家に泊りに行ってもらっては困る」

というものであった。実家に気持を残しておかず、嫁入りしてきたからにはすべての意味で村内家の人間になってほしいという意味である。妻は私の言葉を忠実に守ってくれて、現在にいたるまで、実家に泊りに帰ったことは一度もない。

男というものは、概して理想に走りやすく、論理には強いが、現実問題の処理能力になるとどこか抜けている場合が多い。論理が先行して実際が粗雑になりやすいのである。村内家具店時代、村内万助も私も、この論理先行タイプであり、現実の細かい問題を処理してきたのは母の正子と妻であった。商談室にお客様を招き入れ、お茶やお菓子を出すといった細々とした心づかいを実際に行なってきたのは主に村内泰代であり、それだけに村内商法の実際面での創始者といってもほめすぎではないと思う。

ここまで村内が大きくなっても、妻を家庭に入れてしまえないのは、そうすれば「百姓が時流のために商売をやっているのだ」という村内商法の精神を現場へ伝えるものがいなくなってしまうからである。生まれつきの商売人が商売をやっているのではない。本質的に違うのだということを全社員にはっきり知らせておかないと、村内精神は根底から崩れてしまうのである。

次に石井良一専務。この人は八王子の会計事務所に勤めていた人で、経理面での仕事を昭和二十六年頃から担当してもらっていた。正式に入社したのは昭和三十六年。はじめから総務部長として入社してもらったものである。根っからの経理・財務の専門家であるだけに、この人の村内に対する頁献度は非常に大きい。

木口常務はまだ三十五歳の若さだが、生粋の村内マン重役第一号といってもよいだろう。法政大学を出て㈱サンウェーブで二年間営業の仕事をしていたが、当時大型倒産と騒がれたようにサンウェーブがつぶれ、村内家具店の社員になった。まだ二十三歳の若さだったが、その能力を見込んで、私は商品仕入の仕事をまかせてみた。

商品仕入といっても、当時は少しばかり大きい個人商店にすぎなかった頃だから、仕事は仕入れから販売まですべてをコントロールしなければならないわけであり、実に大変だったと思うが、素人の木口君はこれをやってのけた。私としては得がたい人材を発見できたという思いであった。このほかにも、最初の社員であり、何から何まですべてやってくれた小磯君など、ふれなければならない人たちはたくさんいるが、紙面の関係で次に移りたいと思う。 次へ

海外で知ったホームセンター方式

2007年05月24日 | Weblog
企業というものはいつまでも同じところにとどまっていることはできない。沈滞を招いてはならないのだ。私が次の展開の方法を思い悩んでいた昭和三十七年頃、家具業界の中でヨーロッパ視察に行くという話が持ち上った。今日のように誰もが気軽に海外へ出かける時代と違って、旅費も高く、国も国民が仕事以外の目的で海外へ出るのを制限していた時代だった。海外へ出る人間ははとんどいない頃だったのである。

「先進国の業界を見ればなにか飛躍のためのヒントが見つかるかもしれない」

と思った私は家具専門店「カタヌマ」の潟沼社長や「ハヤミズ」の速水専務らとともに勇躍渡航することにした。少ない利益の中から渡航費を稔出するのは、いまでは考えられないはど大変だったが、思い切って参加したことが私を大きく変えるきっかけとなった。

はじめての海外旅行はイタリア、スペイン、ポルトガル、スイス、西ドイツ、フランス、イギリス、北欧諸国というコースだった。

このとき非常に印象に残ったのは北欧家具の立派さ、デザインのよさだったが、それにもまして私を刺激したのはスイスのチューリッヒ郊外四十キロにある「フィスター」という巨大な家具専門店だった。

スイスの首都チューリッヒの街中を抜けて、バスでヨーロッパの明るく澄み切った大気の中を一時間ほど畑や林を見ながら走ると、やがて行く手に間口二百二十メートル、八階だてという途方もなく巨大で美しい建物がある。

これが世界的に有名な「フィスター」という家具専門店だったのである。『すごいな!』と一同がため息まじりに見上げるのも無理はないほど、それは当時の日本の家具店とはあまりにもケタ違いなたたずまいだった。

このとき、私は直感的にフィスターと村内家具店をダブらせていた。村内家具店も、東京都心から車で一時間の畑や林の中にあるではないか。大きさこそ、象と蟻ほどに違うけれど、チューリッヒの郊外でこの巨大店がヨーロッパ一をはこっているのなら、村内も八王子の郊外で、日本一の家具店になることはできるのではないか。

私は目を皿のようにして、この世界一の専門店の隅々まで記憶にとどめようとした。フィスター側の説明者の言葉を一語一句聞きもらすまいと注意した。

驚いたのはまず、その駐車場の広さだった。説明者によると一千台の駐車が可能だという。たしかに、ここへは車以外で来るすべはなかった。また売場の総面積二万坪というのももちろんだが、驚きはそのディスプレイの方法だった。

家具店というのは常識で考えると、ごたごた、それこそ人が通り抜けるのも困難なほど商品を積み上げ、それも、洋服だんすは洋服だんす、応接セットは応接セットとまとめて狭いところに大量に置いてあるものである。

しかし、フィスターのディスプレイ方式はまったく違っていた。全売場を何百という小さなモデルルームに区切り、そこにあたかも人が生活しているように家具が置かれていたのだ。私たちはまるで映画やテレビのセットを前にしているような気持だった。フィスターは、日本の家具店のように雑然と商品を並べたてて、どれでも勝手に買っていってくれというのではなく、トータルな部屋のデザインまで売っていたのである。多種多様なベッドルームがあり、リビングルームがあり、それらがどれも空間利用とデザインの両面から考えつくされてディスプレイされていた。

「これからの家具専門店は大型店舗でなければだめだ。大型店舗こそ家具店の理想的な形だ」

と確信したのはこのときだったのである。

フィスターを出るとガソリンスタンドがあった。スタンドの店員が休むひまもなく、次から次へ給油を行なっていた。見ると誰もスタンドの店員にお金を払っていない。不思議に思って聞いてみると、買い物をした客にはガソリンの満タンサービスをしているということだった。

私は納得した。いくら安くても交通費がかかっためでは、消費者としてはそれだけ高いものになる。まして郊外四十キロ、五十キロとなると、都心からのガソリン代もそうとうかかる。郊外店はそこまで気を使って客を招かなければならないのである。このガソリン満タンサービスの意味は、同行の業者の中で私が一番よく理解しただろうということは疑うべくもないだろう。

いまに私も日本のフィスターを作ろう。そう決心した私は、帰国早々、加住の店にモデルルームをいくつか作ってみた。本場とは内容もスケールも問題にならない幼稚なものだったが、フィスターに近づく第一歩であった。 次へ

ジェフサ会と経営の恩師たち

2007年05月23日 | Weblog
日本ではじめてのホームセンター作りという構想を立て、それを実行に移すに当っての心構えや方法論を私はどのようにして手に入れることができたのか。

そのきっかけは、ジェフサ会(日本優良家具販売協同組合)に加盟したことからはじまった。

ジェフサ会は大型家具店の組合であるが、村内家具店が加盟させていただいたのは、十七年ほど前の第三回の会合のときだったと記憶している。この会は当時松下電工の企画課長をしていた沢田光明氏の努力で結成されたものである。会合のごとに沢田先生が松下イズムを下敷きにして、家具業界はどうあるべきかを熱心に講義して下さった。

私は、もし沢田先生にめぐり会えなかったら、村内は田舎の家具店で終わってしまったであろうと信じて疑わないほど、沢田先生に教えられることが多かった。私は毎回、期待と一抹の恐怖心まで抱いて沢田顧問の講義を聞きに出かけ、帰ってくると、その理論を村内にどう適用すべきなのか、考え続けたものである。

私がまず、沢田先生に教えられたことは、業務の標準化、マニュアル化であった。普通中小企業といえば、経理はどんぶり勘定だし、やることすべて思い付き、変化が起こればあわてふためくという調子である。

しかし、沢田先生が私たちに徹底的に叩き込んでくれたのは、

「街の家具店という形態で終わりたくなければすべての業務を標準化せよ」

ということであった。(この教えに従って、私が村内ホームセンターでどのような標準化、マニアル化を行なってきたかについては、だんだんふれていくことになる。この教えこそ、村内ホームセンターの理論的出発点になったのである。

また、沢田先生には、「稼業精神」も徹底的に叩き込まれた。これは大松下の根底に流れている精神であった。やさしく説明すると「この会社は俺たちのカでささえている。俺がやらなければ誰がやるんだ」という気持を企業構成員全員が持つようにならなければ、企業は伸びない、ということである。のちに説明する「社員の態度能力」なども、ここから出てきた理論である。

沢田理論には、家具店時代だけでなく、ホームセンターを建設してからもさまざまな形で貴重な発想を与えられた。たとえば、オイルショック直後のパニックのときも、松下流の徹底した節約のシステムを教えていただいた。私はそれを村内流に翻訳して、オイルショックの激流を乗り切ったのである。

私が師と仰ぐもう一人の人は、日本マーケティングセンターの船井幸雄氏である。船井先生のいわゆる「船井理論」は流通業界ではあまりにも有名で、いまさら私が解説を加えることさえ失礼な感じもするが、村内ホームセンターが船井理論に従って実行したことは次の通りである。

①地域一番店になること……地域での商戦に勝つために、一番大きな店を設置し、アイテム数も一番多くする。

②ごちゃまぜ要素を強くする……売場をきちんと整理してしまわないで、なるべく多くの要素を混在させる。

③レジャー要素を強くする……家族連れで遊びにいっても一日中楽しめるというような店づくりを心がける。

④包み込み……他店にあるものはすべてそろえる。

⑤ファッション的経営……家具店にもファッションの要素は不可欠。

この船井理論を頭に入れてアメリカへ行ったとき、なるほどと感じることが多かった。たとえば、ニュージャージー州へ行くとショッピングセンターが六つも七つもあって競争が激しい。この中で一番繁盛している「アラマスパーク・ショッピングセンター」は、まるで遊園地か公園の中に店舗を置いたという感じで、家族づれが遊びに来ている。商品も、普通のレベルから高級品まで非常に数が多い。

村内ホームセンターが、どの店より広い売場と商品数を置き、さらに家具用材公園などもつくり、レストランや、外車まで展示しているのは、この船井理論に従ったものなのである。

村内ホームセンターを造るに当って、私は私なりに知恵をしぼったつもりである。しかし、その基本になる理論を沢田先生、船井先生にいただけたのは幸いであった。

「それなら、村内ではこの理論をどう具体化していけばよいのか」

という方向にしぼって、沢田理論、船井理論を総論とすれば、各論である「村内イズム」を開発していけばよかったからである.

ジェフサ会はその後、好調に発展し、昭和五十三年二月には第八十九回目の会合を持つまでになった。また本部機構も充実し、さまざまの部会活動も活発に行なわれるようになった。これもひとえに、先生方のご指導のたまものなのである。 次へ

モータリゼーションの先取り

2007年05月22日 | Weblog
3.日本初のホームセンターづくり

私は、三十代の半ばではっきりした自分の目標を持つことができた。少年の頃思った「日本一の百姓」になろうという目標が、ヨーロッパでフィスターを見ることによって、「日本一の専門店」になろうという目標に転化できた。

だが、目標を持つということと、それを現実化するということはまったく違う作業である。それは果たして可能なのだろうか。もし可能なら、どういう手段を積み重ねていかなければならないのだろうか。               

そこでまず、日本でのフィスターづくりは可能なのかどうかを私は考えはじめた。昭和三十年代の後半といえば、日本は池田内閣の高度経済成長政策が徐々に実を結び、試行錯誤を繰り返しながらも、世界の大国の一角に位置を占めつつあった頃である。東京オリンピックをきっかけに、日本人が国際的な自信を取りもどしはじめたのもこの頃だった。

その頃、私が考えたのは八王子郊外に大型家具専門店を開くとすれば、必然的に日本も欧米並みにモータリゼーションが発達しなければならないということであった。

当時のモータリゼーションをわかりやすくいえば、まだ東名、中央の両高速国道は完成していなかったし、国産乗用車は、最近ではごくまれにしか見られない、ブルーバードとコロナの一三〇〇CCが昭和三十九年に誕生したばかりだった。同じ年の生産台数をみても、乗用車が年間六十二万台に対して、トラック(軽も含む)が百十二万台と、圧倒的な生産機械優先時代だった。しかし、その前後数年の乗用車生産台数は毎年三〇パーセント以上の高い伸び率を示していて、私は乗用車大衆化時代はまちがいなくすぐ近くまできていると判断せざるを得なかったのである。当時アメリカは八千万台の自動車を持ち、普及率は二、三人に一台だった。ヨーロッパ諸国も五~六人に一台まで普及率が高まっていた。しかし日本はトラックも含めて、二十五人に一台、南アや中南米の小国ベネズエラにも及ばない普及率だったのである。この数字は不当に低かった。これらの数字を根拠に私は八王子郊外店をモータリゼーションに焦点を合せて建設しても大丈夫だと判断したのだった。

乗用車大衆化時代が来るとしたら、いったいどこへ大型店舗を置けばよいかという問題もあった。スイスのフィスターは郊外とはいっても国道の沿線にあった。加住の店の近所の国道といえば八王子から横浜へ抜ける国道十六号線があった。あまり立派な道路とはいえなかったが、それでも舗装道路だった。しかしローカル国道であることは間違いない。期待してよいのだろうかという疑問もあった。そんなとき、建設計画があった中央高速道路の八王子インターチェンジ予定地が発表になり、それが国道十六号線との交差地点の近くになるということがわかった。

「ここだ」

と私は思った。まだ一面の畑で何もないところだったが、インターチェンジ近くの国道ぞいこそ、日本のフィスター誕生の地にふさわしいと思えたのである。東京都心と八王子近郊を往復する車が必ず前を通る場所に大型店舗を構えれば、どんな大宣伝にも及ばない効果があるはずである。

昭和四十年に入ると土地探しがはじまった。しかしインターチェンジ附近の土地はすでに農家の手から離れていて、地価もうなぎ昇りだった。資金的にも一家具店には手に負えそうもないということもわかってきたが、しかしあきらめるわけにはいかなかった。

繰り返すようだが、目標はフィスターのような大型店舗である。やがて来るだろうと思われるモータリゼーションの時代に合わせた店だから、フィスター並みの千台駐車可能の大駐車場だけは確保しておかなければ意味がない。店の敷地の分だけ土地を買っても何もならないのである。

中央高速道路が開通したのは昭和四十二年の十二月だったが、その六力月前、声をかけていた地元の不動産屋から電話が入った。インターチェンジのすぐそばの土地七千坪が売りに出ているというのである。価格は何と六億円だった。六億円といえば加住の山の中にある㈲村内家具店の昭和四十一年度の年商と同じ金額だった。

その前年、アメリカに渡って「ゴールド・ブラッツ」という、やはり郊外の大型家具店も見てきた私は何が何でも買いたかった。しかし六億円だけは絶対にどこからも出てきそうもなかった。せめて半分の三億円ならという交渉を続け四千五百坪、三億円で話がついた。もちろんそんな大金があるわけではない。何とか銀行に貸してもらおうと思ったのだ。ここであきらめたら大型店の夢は一生実現できないだろうというのが私の気持だったのである。

最近、銀行の上手な利用法といった種類の本がたくさんでているようだが、基本的にいえばこちらがイザというときに頼りになるかならないかということであろう。こちらが預金をしているときはいい顔をしているが、金を貸してくれというと、とたんにそっぽを向くといったケースが意外と多いのである。銀行と信頼関係を確立するということも企業にとって欠かせない大切な仕事である。

私の場合も、いよいよ本店の土地購入という大切な場面で当時の主力銀行に、そっぽを向かれ、約半年の間、金のことで頭がいっばいになり夜も寝られないというひどいめにあった。

当時、村内家具店の主力銀行は某相互銀行だった。私はこの相互銀行を主体にあと二、三の金融機関から融資を受け、ホームセンター建設用地を買うつもりだった。そのつもりで相互銀行に話をすると、まず計画書を出してくれといわれた。

そこでスイスやアメリカの大型専門店から説き起こしたファイル一冊分にもなる計画書を提出した。その間、他の地元金融機関(立川に本店のある多摩中央信用金庫)から五千万円だけは借りられる約束ができていたので、残り二億五千万円までいかなくても、二億ぐらいは何とかならないだろうかと期待したのだった。

ところが主力銀行は、いつまでたっても言葉を左右にしてはっきりした答を出してこなかった。土地の契約もそう引き伸ばすわけにはいかない。どうなのかと催促してみると、期日を指定してきて、都心の本店で相互銀行の責任者が会うといってきた。

考えればうかつな詰だが、呼び出しをかけてきたのだから融資の話はOKだと思い込んでしまった。そこで、土地の売り手と不動産屋に連絡して当日の午後、契約をしようということにした。

ところが当日出かけてみると、そんな先行投資は危険だから金は貸せないという話だった。私は唖然としてしまった。自宅にはすでに売り主と相手の銀行員、それに仲介の不動産屋が書類をそろえて待っていたのだ。そんな話なら事前に電話でもしてくれれば他の手を打ったのに、と思っても遅かった。

そのまま私はどこかへ逃げ出してしまいたい気持だったが、そうはいかない。すぐ八王子にとって返し、多摩中央信用金庫から借りられる五千万円を手付金として渡し、残りの二億五千万円は登記完了する二ヶ月後までに用意するという条件でなんとか契約書を作った。もし登記完了までに金が都合できなかったら、五千万円は違約金として返ってこないのである。

それからは眠っていても、借金の夢でノイローゼ寸前だった。一生のうち、これほど苦しい毎日が続いたことはなかったと断言できるほどだった。

しかし、幸いなことにというか、必死の努力が実ってというか、いまは主力銀行になっているが、当時はサブ銀行程度の取引しかなかった協和銀行が、私のホームセンターの計画を理解して五千万円を融資してくれることになり、残りも、先に五千万円を貸してくれた多摩中突信用金庫が追加融資してくれることになった。昭和四十二年の暮れ、私はタッチの差とでもいうべききわどい差で、四千五百坪のホームセンター用地を手に入れたのである。

たいへんな苦労の後だっただけに、有難さもまたひとしおであり、一生忘れ得ぬ感激であった。

それまで、村内家具店は、まったく健全経営だった。金融機関から借金をしたこともなく、支払いに手形を切ったこともなかった。いつも、自己資金の枠の中でやりくりしていたのである。このことは、それ自体としてはよいことだとは思うが、反面健全経営であるがゆえに、対金融機関接渉法を学ぶ機会に恵まれなかったという結果にもなっていた。強さはしばしば裏返せば弱点にもなりうることを私は身をもって学んだのである。

こちらが預金するだけなら銀行はどこでもよいし、相手もいい顔をしている。こちらも相手がどんな発想法で何を考えているか、などということを推測したりする必要はないから楽である。しかし、イザというときに健全経営も弱点になりうるのだということがいえるのである。

企業経営者は、たとえ小企業主でも若いときからできるだけ金融機関と接触するように努め、相手の物の考え方、行動様式などを知ると同時に、その中から人間的なつながりを育てていくよう心がけるのは大切だと思う。土地購入の際に、とんだ危ない橋を渡らなければならないはめに追い込まれたのも金融機関のせいだし、苦境に立たされたとき手をさしのべてくれたのも金融機関だったことを思えば、金融機関の勉強はけっして過ぎるということはないのである。 次へ