村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

モータリゼーションの先取り

2007年05月22日 | Weblog
3.日本初のホームセンターづくり

私は、三十代の半ばではっきりした自分の目標を持つことができた。少年の頃思った「日本一の百姓」になろうという目標が、ヨーロッパでフィスターを見ることによって、「日本一の専門店」になろうという目標に転化できた。

だが、目標を持つということと、それを現実化するということはまったく違う作業である。それは果たして可能なのだろうか。もし可能なら、どういう手段を積み重ねていかなければならないのだろうか。               

そこでまず、日本でのフィスターづくりは可能なのかどうかを私は考えはじめた。昭和三十年代の後半といえば、日本は池田内閣の高度経済成長政策が徐々に実を結び、試行錯誤を繰り返しながらも、世界の大国の一角に位置を占めつつあった頃である。東京オリンピックをきっかけに、日本人が国際的な自信を取りもどしはじめたのもこの頃だった。

その頃、私が考えたのは八王子郊外に大型家具専門店を開くとすれば、必然的に日本も欧米並みにモータリゼーションが発達しなければならないということであった。

当時のモータリゼーションをわかりやすくいえば、まだ東名、中央の両高速国道は完成していなかったし、国産乗用車は、最近ではごくまれにしか見られない、ブルーバードとコロナの一三〇〇CCが昭和三十九年に誕生したばかりだった。同じ年の生産台数をみても、乗用車が年間六十二万台に対して、トラック(軽も含む)が百十二万台と、圧倒的な生産機械優先時代だった。しかし、その前後数年の乗用車生産台数は毎年三〇パーセント以上の高い伸び率を示していて、私は乗用車大衆化時代はまちがいなくすぐ近くまできていると判断せざるを得なかったのである。当時アメリカは八千万台の自動車を持ち、普及率は二、三人に一台だった。ヨーロッパ諸国も五~六人に一台まで普及率が高まっていた。しかし日本はトラックも含めて、二十五人に一台、南アや中南米の小国ベネズエラにも及ばない普及率だったのである。この数字は不当に低かった。これらの数字を根拠に私は八王子郊外店をモータリゼーションに焦点を合せて建設しても大丈夫だと判断したのだった。

乗用車大衆化時代が来るとしたら、いったいどこへ大型店舗を置けばよいかという問題もあった。スイスのフィスターは郊外とはいっても国道の沿線にあった。加住の店の近所の国道といえば八王子から横浜へ抜ける国道十六号線があった。あまり立派な道路とはいえなかったが、それでも舗装道路だった。しかしローカル国道であることは間違いない。期待してよいのだろうかという疑問もあった。そんなとき、建設計画があった中央高速道路の八王子インターチェンジ予定地が発表になり、それが国道十六号線との交差地点の近くになるということがわかった。

「ここだ」

と私は思った。まだ一面の畑で何もないところだったが、インターチェンジ近くの国道ぞいこそ、日本のフィスター誕生の地にふさわしいと思えたのである。東京都心と八王子近郊を往復する車が必ず前を通る場所に大型店舗を構えれば、どんな大宣伝にも及ばない効果があるはずである。

昭和四十年に入ると土地探しがはじまった。しかしインターチェンジ附近の土地はすでに農家の手から離れていて、地価もうなぎ昇りだった。資金的にも一家具店には手に負えそうもないということもわかってきたが、しかしあきらめるわけにはいかなかった。

繰り返すようだが、目標はフィスターのような大型店舗である。やがて来るだろうと思われるモータリゼーションの時代に合わせた店だから、フィスター並みの千台駐車可能の大駐車場だけは確保しておかなければ意味がない。店の敷地の分だけ土地を買っても何もならないのである。

中央高速道路が開通したのは昭和四十二年の十二月だったが、その六力月前、声をかけていた地元の不動産屋から電話が入った。インターチェンジのすぐそばの土地七千坪が売りに出ているというのである。価格は何と六億円だった。六億円といえば加住の山の中にある㈲村内家具店の昭和四十一年度の年商と同じ金額だった。

その前年、アメリカに渡って「ゴールド・ブラッツ」という、やはり郊外の大型家具店も見てきた私は何が何でも買いたかった。しかし六億円だけは絶対にどこからも出てきそうもなかった。せめて半分の三億円ならという交渉を続け四千五百坪、三億円で話がついた。もちろんそんな大金があるわけではない。何とか銀行に貸してもらおうと思ったのだ。ここであきらめたら大型店の夢は一生実現できないだろうというのが私の気持だったのである。

最近、銀行の上手な利用法といった種類の本がたくさんでているようだが、基本的にいえばこちらがイザというときに頼りになるかならないかということであろう。こちらが預金をしているときはいい顔をしているが、金を貸してくれというと、とたんにそっぽを向くといったケースが意外と多いのである。銀行と信頼関係を確立するということも企業にとって欠かせない大切な仕事である。

私の場合も、いよいよ本店の土地購入という大切な場面で当時の主力銀行に、そっぽを向かれ、約半年の間、金のことで頭がいっばいになり夜も寝られないというひどいめにあった。

当時、村内家具店の主力銀行は某相互銀行だった。私はこの相互銀行を主体にあと二、三の金融機関から融資を受け、ホームセンター建設用地を買うつもりだった。そのつもりで相互銀行に話をすると、まず計画書を出してくれといわれた。

そこでスイスやアメリカの大型専門店から説き起こしたファイル一冊分にもなる計画書を提出した。その間、他の地元金融機関(立川に本店のある多摩中央信用金庫)から五千万円だけは借りられる約束ができていたので、残り二億五千万円までいかなくても、二億ぐらいは何とかならないだろうかと期待したのだった。

ところが主力銀行は、いつまでたっても言葉を左右にしてはっきりした答を出してこなかった。土地の契約もそう引き伸ばすわけにはいかない。どうなのかと催促してみると、期日を指定してきて、都心の本店で相互銀行の責任者が会うといってきた。

考えればうかつな詰だが、呼び出しをかけてきたのだから融資の話はOKだと思い込んでしまった。そこで、土地の売り手と不動産屋に連絡して当日の午後、契約をしようということにした。

ところが当日出かけてみると、そんな先行投資は危険だから金は貸せないという話だった。私は唖然としてしまった。自宅にはすでに売り主と相手の銀行員、それに仲介の不動産屋が書類をそろえて待っていたのだ。そんな話なら事前に電話でもしてくれれば他の手を打ったのに、と思っても遅かった。

そのまま私はどこかへ逃げ出してしまいたい気持だったが、そうはいかない。すぐ八王子にとって返し、多摩中央信用金庫から借りられる五千万円を手付金として渡し、残りの二億五千万円は登記完了する二ヶ月後までに用意するという条件でなんとか契約書を作った。もし登記完了までに金が都合できなかったら、五千万円は違約金として返ってこないのである。

それからは眠っていても、借金の夢でノイローゼ寸前だった。一生のうち、これほど苦しい毎日が続いたことはなかったと断言できるほどだった。

しかし、幸いなことにというか、必死の努力が実ってというか、いまは主力銀行になっているが、当時はサブ銀行程度の取引しかなかった協和銀行が、私のホームセンターの計画を理解して五千万円を融資してくれることになり、残りも、先に五千万円を貸してくれた多摩中突信用金庫が追加融資してくれることになった。昭和四十二年の暮れ、私はタッチの差とでもいうべききわどい差で、四千五百坪のホームセンター用地を手に入れたのである。

たいへんな苦労の後だっただけに、有難さもまたひとしおであり、一生忘れ得ぬ感激であった。

それまで、村内家具店は、まったく健全経営だった。金融機関から借金をしたこともなく、支払いに手形を切ったこともなかった。いつも、自己資金の枠の中でやりくりしていたのである。このことは、それ自体としてはよいことだとは思うが、反面健全経営であるがゆえに、対金融機関接渉法を学ぶ機会に恵まれなかったという結果にもなっていた。強さはしばしば裏返せば弱点にもなりうることを私は身をもって学んだのである。

こちらが預金するだけなら銀行はどこでもよいし、相手もいい顔をしている。こちらも相手がどんな発想法で何を考えているか、などということを推測したりする必要はないから楽である。しかし、イザというときに健全経営も弱点になりうるのだということがいえるのである。

企業経営者は、たとえ小企業主でも若いときからできるだけ金融機関と接触するように努め、相手の物の考え方、行動様式などを知ると同時に、その中から人間的なつながりを育てていくよう心がけるのは大切だと思う。土地購入の際に、とんだ危ない橋を渡らなければならないはめに追い込まれたのも金融機関のせいだし、苦境に立たされたとき手をさしのべてくれたのも金融機関だったことを思えば、金融機関の勉強はけっして過ぎるということはないのである。 次へ