村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

府立二中へ進学

2007年05月31日 | Weblog
私は昭和十七年、旧制東京府立二中、いまの立川高校へ入学した。しかし、しばらくすると太平洋戦争がはじまり、学徒動員も行なわれるようになった。最初の頃は授業に出られたのだが、三年生の頃になると、自宅から毎朝、いま多摩ニュータウンの一角になっている稲城の火工廠、つまり陸軍の火薬工場へ通うことになった。

火工廠での仕事は検査係だったが、その頃とくに覚えているのは、配属の中尉が学者だったせいか、午前中は勉強させてくれたことである。本職の軍人が配属されていた部門に行った同級生は朝から晩まで、ときには夜勤までさせられたことを思うと、立派な将校だったと記憶している。

やがて戦争も末期に近づくと、米軍のB29が上空を通って東京空襲へ行くようになるし、グラマンなどの戦闘機までくるようになった。私たちは防空壕に身をひそめているのだが、何しろ火薬工場だから、爆弾を落されたり、機銃掃射を受けたら、それでおしまいである。誘爆を起こして火工廠も人間も影も形もなくなるのはよくわかっていたから、実に恐ろしかった。しかし、不思議なことに、終戦まで火工廠は一発の爆弾も機銃弾も受けなかったのである。幸運だったとしかいいようがない。

終戦が近くなると、私たちも学年上は卒業の時期にきていた、時代の要請で同級生たちはどんどん陸軍幼年学校とか予科練あたりに志願していったが、私は前にも述べた通り、まったく体力に自信がなかったので、そういうところから戦争の第一線に行くのはどうにも気が進まなかった。

そうこうしているうちに「君はどうも体力的に問題があるから、海軍主計学校へ行ったらどうか」とすすめてくれる人があり、願書を出すことになった。海軍主計学校とは、海軍の経理将校を養成する学校である。

しかし、願書を出した時点で終戦。火工廠の工場で天皇陛下の玉音放送を聞いた。放送が終わると大さわぎになって、日本刀で抗戦するといいだす人までいたことを覚えている。終戦直前の八月一日に、八王子市の中心部が米軍の爆撃を受けて火の海になったことも忘れられない。

さて、戦争が終わって、私が進学するかどうかが問題になった。しかし、私が軸性視神経炎という眼病をわずらっていて、近所の眼科医では直らず、秩父の専門医まで通わなければならなかったことと、米軍支配下の日本が今後どうなるかという見通しがなかったため、進学はやめたほうがいいという気持になった。

中学の先生など、進学をすすめてくださる方はたくさんいたが、もし進学していたら、また別の生き方をしていたろうと思う。しかし現在の道を選んだのはけっして間違いではなかったという確信がある。

府立二中時代、大戦のさ中で、ほとんど勉強らしい勉強もできなかったにもかかわらず、私が幸運であったのは、今野先生という、秀れた教育者が担任になられたことだった。今野先生はその後、府立一中の校長から大妻女子大学の講師になられたが、先生の適切なご指導のおかげで、私の成績も入学時二百七十人中の十六番から、三、四番まで上ることができた。

その時の同級生の中には、トップ競いのよきコンペティターであり、のちに東大から読売新聞へ入り、科学記者として、月や地震に関しての研究と著書で有名になった伊佐喬三氏、更に伊佐氏の友人であり、コマーシャルの分野で、幾多の受賞をしている日本テレビの加藤芳孝氏がいる。

この両氏には広告はじめ、多面にわたって教えられることが非常に大きかったことを特に付け加えておきたい。 次へ