村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

耕して後実求む(9)

2007年02月28日 | Weblog
オイルショック後の社会的不況感と、コスト節約キャンペーンの反動ともいうべき社内士気の沈滞を、まとめていっ気に吹き払うために立てた道昌の「史上最大の催事企画」は、兄事に成功した。

しかし、あまりにも見事に成功したが故の反動が内外に発生した。

「村内倒産」の根も葉もないウワサもその一つであったが、もう一つの問題が社内で発生しはじめた。「よりよいものを、どこよりも安く」のアピールを掲げての「史上最大の作戦」の余韻が、なんとなく店内のアチラコチラに残り、社員の接客姿勢を含めて、社内が微妙に粗雑になりはじめたのである。

「商売は売って喜び、買って喜ぶようにすべし。売って喜び、買って喜ばざるは道に非ず」の二宮尊徳翁の言葉を教えとして追求しつづけてきた道昌にとって、そうした社内の微妙な変化は見逃すことのできないものであった。

「倒産」のウワサは確かに困りものであったが、放っとけばいつしか消えていくだろう。しかし、社内のムードをこのままにしとけば、悪い方へ悪い方へと転がっていく、と判断した道昌は、社内全体を「商売の原点」に引き戻すことを考えた。

しかし、「お各様を誠心誠意でお迎えする」ことの大切さを、朝礼でただ繰り返し説いたところで、その効果は漠としている。

そこで道昌は、これまでにも様々な課題に取り組む際にとってきたマニュアル化を図るとともに、キャンペーンを行う。

そのテーマは「迎賓館運動」であった。いかにも道昌らしい遊び心の入ったネーミングではある。

耕して後実求む(10)

2007年02月27日 | Weblog
迎賓館運動を社員一人一人によく分かる形で進めていくために、道昌はマニュアルを作成した。

その骨子は①掃除は完全に。清潔で美しい環境づくりを行う②明るく元気な挨拶③いつも笑顔で④さらに一層、深く正しい商品知識を身につけるために勉強しよう。応用も忘れない⑤より良い商品をおすすめしよう⑧高級品はクレジットで⑦伝票は早く正確に作成する⑧必ずお茶の接待を⑨送迎の手配は早く正確に⑩手荷物はお持ちする⑪お帰りには心からの一言、「お幸せに・・・ ・・・」「お大事に・・・ ・・・」⑫お見送り厳守--といった内容で、その文書を八王子本店はいうまでもなく、各支店の玄関前に貼り出した。

道昌が提唱した迎賓館運動とは、要するにお客様は王様であり、その大切なお客様をお迎えする店は、迎賓館でなければならない、という考え方にもとづくものであった。

お客さまのご来店を、そして商品のご購入を心からありがたいと感ずる心は、商売の原点であり、道昌が心の支えとしてきた二宮尊徳翁の「凡て商売は売って喜び、買って喜ぶようにすべし。売って喜び、買って喜ばざるは道に非ず」の教えにそうものであった。

そのキャンペーンの内容を、各店の玄関前に大きく貼り出したのは、そうした村内としての姿勢を、お客さまにも知ってもらうとともに、その内容を実行しない社員がいれば、遠慮なくお客さまからも注意してもらいたい、という考え方によるものであった。

さらに道昌はなぜ、そうしたキャンペーンが今、必要なのかをよく社員に理解してもらうために、自らその内容を実践することに努めた。

生活文化テーマに(1)

2007年02月26日 | Weblog
三月二十九日、村内ファニチャーアクセスにとっては、六店舗目に当たる厚木店がオープンした。

その前日、道昌は新店披露のために招待した関係者を幹部とともに迎えたが、道昌の列の反対側では、ダイクマの森田茂文社長をはじめとする同社の幹部が、やはり招待者と挨拶をかわしていた。

厚木店は村内にとって、初めての本格的なコンプレックス(複合)方式による出店であると同時に、計画からオープンにいたるまでの大筋の遂行責任を、後継者である村内健一郎常務が担った、いわば次世代型の店舗ともいうべきものであった。

しかし、「生活文化の創造」をテーマとして「ライフスタイルとライフステージの様々な組み合わせ提案により、多様なユーザーニーズにお応えしていく」という道昌の店づくりの基本姿勢は、デザインテイストを四つの区分で鮮明に提案した新しい売り場内容などの面で、健一郎常務に引き継がれ、より具体化したともいえる。

その意味で、厚木新店は単なる出店という物理的拡大ばかりではなく、道昌の商法、そしてその根本に流れる精神の継承確認という手続き作業が、その過程にあったともいえそうだ。

複合方式の出店で手を携えたダイクマの森田社長は「なぜ、村内とタイアップしたのか」という記者会見の席でのある記者の質問に対し、「数多い家具専門店の中でも、村内の商法はその基本姿勢において、他とは違う何かをもっていると判断したからだ」と答えたが、その何かこそ、道昌が求め続けてきた「生活文化の提供者」としての経営姿勢であり、その姿勢の後継者へのバトンタッチの一つが厚木店で行われた、ともいえる。

生活文化テーマに(2)

2007年02月25日 | Weblog
「生活文化」という言葉は、家具企業人の多くが好んで使う。

しかし、その言葉を使うにふさわしい家具企業人は少ないのではないか。

道昌の歩んできた道をたどると、道昌が文化を単なる使い勝手のよい言葉としてではなく、自らが消化し切った言葉としてロに出していることがよく分かる。

たとえば、道昌は家具業界はいうに及ず、広く専門店業界に郊外ロードサイド型専門大店のパイオニアとして知られる一方で、バルビゾン派絵画の世界的コレクター、また、日本人初のフランス・ルーブル美術館特別名誉会員として、知る人ぞ知るの文化人でもある。

道昌の文化性を示す象徴が、八王子本店アネックス館内に開設されている村内美術館である。

同美術館は、昨年まで現在の本館内にあったが、昨年一月、アネックス建設とともに移設。

「単に絵画を鑑賞する場ということではなく、美術館全体そのものが”総合芸術”であるべきだ」という道昌の考え方により、それまでの総面積を二倍以上の一千七百三十六平方メートル、作品展示数を約一・六倍以上の八百六十五平方メートルに拡大。また、万一の火災に対しては従来からのハロンガスではなく、これからの主流と見られている二酸化炭素を利用、照明も最新の設計システムを導入するなどの配慮のもと、名実ともに一流美術館として再スタートする。

生活文化テーマに(3)

2007年02月24日 | Weblog
道昌が絵画に関心を持ちはじめたのは、インテリアエレメントとして「絵画は不可欠」という認識が、いつの頃か心に定着しはじめたことによる。

洋の東西を問わず、絵画(油絵、墨絵、日本画など、その様式は異なるにせよ)は、住まい空間にうるおいをもたらす重要な素材として重用されてきた。

欧米ではカラーコーディネートの基本に絵画を置き、その絵画に使われているカラーに合わせて、ソファの張り地、カーテン、カーペット、さらには寝装品などの色柄を合わせていくというコーディネート手法があるぐらいだ。

それほどに、インテリアに占める絵画の意味合いは大きいということだが、道昌は家具インテリアのスペシャリティーストアである以上、絵画をインテリアエレメントの一環として積極的に販売していくべきだと考えた。

昭和四十六年、八王子本店内に「ギャラリーむらうち」をオープン。国内作家の洋画や日本画の展示販売に着手するとともに、ソヴィエト(現ロシア)絵画展などを企画、海外作品の紹介販売にも力を入れるようになる。

ちなみに、ソヴィエト絵画展はその道のプロも驚くほどの売り上げを記録するなど、しばらくの間、村内の当たり企画となる。

そうこうするうちに都内のある画商がディアズ・ド・ラ・ペニアの「マルグリット」という作品を持ち込んでくる。マーガレットの花で占いをする少女を描いた愛くるしい作品であったが、その作品の購入が商売人としてではなく、新たにコレクターとしての道を、道昌に歩ませることになる。

生活文化テーマに(4)

2007年02月23日 | Weblog
「絵画は住まい空間を彩る重要なインテリアエレメント」と考えた道昌は、昭和四十六年から常設のギャラリーで絵画の展示販売に取り組んでいく。

一過性の催事企画でもなければ、催事業者まかせでもないところに、道昌の絵画販売に取り組む姿勢がうかがわれるが、もともと道昌の心の中に、絵画に対する関心や理解力が潜在していたのではないだろうか。

都内の画商から、たまたま手に入れたディアズ・ド・ラ・ペニアの「マグリット」で、その潜在していた美術に対する関心が触発され、商売とは別次元の絵画コレクターとしての道を、道昌に歩ませることになる。

ただ、いかにも道昌らしいのは、バルビゾン派の絵画「マグリット」---の〃バルビゾン派″に関心と興味をもち、こつこつとその研究をはじめたことである。

当時の日本では、バルビゾン派絵画については、まだほとんど知られておらず、研究するに必要な解説書や画集は海外から取り寄せるしかなかった。ようやく手に入れた資料類の一つ一つを頼りに、道昌は時間の合い間をぬいながら、地道に研究を続けた。

そうした研究と自らの目を頼りにアドルフ・モンティセリの「王の帰還」、ジュル・デュプレの「嵐」といった当時の日本ではあまり知られていない作品を収集していく。

そうこうするうちに道昌はオークションに興味を持ちはじめる。画商との一対一よりも、カタログの中から自由に作品を選択できる幅の広さが何よりの魅力であった。

生活文化テーマに(5)

2007年02月22日 | Weblog
絵画はもとよりアンティーク家具からペルシャじゅうたん、さらには著名人の私物にいたるまで、欧米ではなにかとオークションが盛んで、長い伝統をもつ。

しかし、道昌が絵画のオークションに興味を抱いた頃の日本ではまだ一般人が気軽に参加する段階にはなく、参加者のほとんどが画商達であり、当然のことながら、競り価格は低水準に抑えられていた。

それなりの勉強をした上で、道昌はオークションに参加していく。初のオークションでミレーの素描「カテルの答」を取得、それをキッカケとして、ミレーのパステル、デッサン、ドローイングなどを集中してコレクトしていくが、「ミレーの油彩画のある美術館」として、村内美術館が知られるようになるまでには、なお多くの月日を必要とする。

その後、道昌の関心はバルビゾン派の中でも、ロマンティックな作品から印象派の作品へ幅を広げ、機が熟する様に、ほんの数年のうちにミレーの代表的作品やコロー、クールベなどの大作を次から次へ手に入れることになる。

ミレーの「鏡の前のアントワネット・エベール」、「ミレー夫人の肖像」、クールベの「フラジェの樫の木」「ボート遊び」、コローの「ヴィル・ダヴレーのカバスュ邸」---など。中でもミレーの「鏡の前のアントワネット・エベール」は昭和六十一年の海外オークションで、米国ヒューストン美術館と最後まで競い合うことになる。

生活文化テーマに(6)

2007年02月21日 | Weblog
ちなみに「鏡の前のアントワネット・エベール」は購入直後、最後まで競り合った米国・ヒューストン美術館から貸し出し依頼があり、一年近く道昌の手元を離れる。

その後、クールベ、コローなどの作品を購入、村内美術館はバルビゾン派の美術館として次第に知名度を高めていく。

昭和六十三年にはモネ、ドガ、ボナール、ヴュイヤール、カサットなどの印象派作品を十二点、いっ気に購入する機会に出会う。

米国の収集家が、所有している印象派作品十二点を「できれば、より多くの人に鑑賞してもらえる美術館に売却したい」という条件のもとに売りに出したものであった。まとめ買いの有利性はあったとはいえ、金額はおいそれと右から左に動かせるものではなく、さすがの道昌も、その決断によほどの勇気を要した。

しかし、この時の購入作品で、ほぼ今日の村内美術館の基本的なコレクションは整い、同館は同年五月に東京都教育委員会から博物館相当施設の認可を受けることになる。

平成七年三月、本店アネックス館に村内美術館は移設された。施設内容は世界のどの美術館と比較しても遜色のない一流のものだ。

そのオープン披露に招かれた人の多くが、その施設と展示作品を見て、道昌の商法に相通じた剛毅を感じ取るとともに、その一方で、道昌が巻き込まれたある世界的な事件を思い起こしたのではないだろうか。

生活文化テーマに(7)

2007年02月20日 | Weblog
昭和六十二年の十月道昌は自らが企画提案した「ヨーロッパ美術・歴史探訪の旅」のツアー旅行でローマ、フィレンツェ、ヴェニス、パリなどを巡行していた。旅も終わりに近く、パリ郊外のエスクリモント城に宿泊、ディナーを楽しんでいる席に、東京・本社から道昌に電話が入った。

「社長、実は国際的な犯罪シンジケートの手で盗まれたコローの名画数点が、いつの間にか日本に入り込んだとのことです。当美術館が保有している”夕暮れ”が、どうやらそのうちの一点のようなんですが・・・・・・」。

「まさか」と思いつつ二十六日帰国してみると、コロー名画盗難事件、しかもそれらの数点が日本に持ち込まれていることが、一般紙に大々的に取り上げられていた。”夕暮れ”もそのうちの一点であることが記事中にあった。

道昌は躊躇することなく、疑惑のコロー作品のうちの一点″夕暮れ″が自らの手元にあることを警察に連絡、その作品は証拠物件として押仮される。

十月二十八日、読売新聞は朝刊で「盗難のコロー作品”夕暮れ”見つかる」の見出しのもとに、大きなスペースを割いて報道。他紙も追随するとともに、他の盗難作品と合わせて、週刊誌も興味本位の記事を続々と取り上げはじめた。

道昌は突如、大事件の当事者の一人として、マスコミ報道合戦の渦中に放り込まれることになった。

そんな騒ぎに追われるある日、フランス駐日大使館から道昌に「事情を聞きたいので、来てもらえないか」という連絡が入る。

生活文化テーマに(8)

2007年02月19日 | Weblog
問題の作品が、道昌の手元に置かれるようになったキッカケは、全くひょんなことからであった。

村内ギャラリーの常客がある日、「コローの作品が欲しい」と言ってきた。そこで社員が都内のある有力画廊と相談、″夕暮れ″を借り受け、その客に見せたところ「イメージが暗すぎる」と断られた。

そこでしばしの間ということで、村内美術館の入り口に展示。それが道昌の目に止まり、画廊との価格交渉の末、村内美術館の所有となったものだ。

そのコロー作品が事件に巻き込まれるやいなや、道昌は事の重大さを認識、国際的な事件に活躍し、その名を知られた田中耕造弁護士に一切を相談。

「あなたは善意の第三者であり、しかも所有権があなたに移転して二年を経過しており、法的には全く問題がない。堂々としていていいですよ」とのアドバイスを背にして、道昌はフランス大使館からの呼び出しに応じた。

ところが、道昌に応対した一等書記官の姿勢は、最初から高圧的で横柄そのものであった。

「日本人にコローの名作など理解できるはずがない。盗品なんだから四の五をいわず、とにかくフランスヘ戻せ」という相手の非礼な態度に、さすがの道昌も怒り、その一等書記官の胸ぐらをつかみ、もう一方の固く握りしめたこぶしを思わず振りおろす寸前、部屋の険悪なムードを察知してか、公使が入ってきた。

さすがにその公使は礼をわきまえた人で、道昌の言い分を聞き、一等書記官の非礼を率直にわびた。