村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

作戦変更のフランチャイズ方式

2007年05月10日 | Weblog
3章 これが現代の大型店戦略だ

1.オイルショックに負けるな大作戦

企業に安全保障はないとよくいわれる。経営ミス、体質の劣化、経済変動などあらゆるファクターによって、企業は常に危機状態に置かれているといってもよい。企業とはいっても郊外ショッピングセンター程度の規模であると、毎日毎日が台風の中の小舟のようなもので、いつ大波をくらつて沈没するかわからない。波にもいろいろあるが、オイルショックと、それに続く不況は村内ホームセンターにとって、とてつもない大波であった。

昭和四十八年のオイルショックまで、一応順調に伸びてきた。その頃、私はホームセンターのフランチャイズ化という計画を進めていた。私どもが開発したホームセンターのシステムを活かし、フランチャイズで展開しようとしていたのである。

このフランチャイズ計画の名称は「MU500」システムであった。MUは村内だが、500には多くのシンボル的な意味が込められていた。五百坪の売場に五百アイテムの商品で年間五億円の売上げを目標にし、五百店のフランチャイズを張りめぐらすことであった。

五百坪の売場といえば、ちょうど一般的なボーリング場の広さである。そして当時、斜陽化して閉鎖されたボーリング場は全国に無数にあった。この閉鎖ボーリング場の所有者に、ホームセンターのノウハウを与え、一挙に全国展開を図るのが私の計画だったのである。

相模原店はボーリング場を買収した店である。直営店ではあったが、この店を、MU500店のモデル店としたかった。

昭和四十八年の暮れ、MU500丸は出帆したばかりだった。将来は欧米のマクドナルドやデニーズのような大型フランチャイズに、という壮大な夢を描いて出帆したこの小舟は、沖合わずか数キロの地点で、オイルショックという超大型台風に直撃され、再び岸壁にもどらざるをえなかった。

オイルショックは残念ながら予測できなかった。東西の政治力学、中東紛争、国際石油資本などが複雑にからみあった末の、産油国による突然の廃油価格四倍値上げなどという大事件を予想しろといっても無理であった。半年なり三ヶ月前に可能性を予測できたのは、商社情報がフルに利用できる一部の大企業だけで、一般の国民と同様、一専門店経営者の私にはオイルショックはまさに寝耳に水だりたのである。

原油大幅値上げのニュースで私はMU500の計画を断念した。廃油が上れば、石油エネルギーを依存している世界経済はマヒするにちがいない。石油化学製品だけでなく、電力をはじめとする公共料金が上がり、公共料金が上れば一般的な商品価格も当然上る。トイレットペーパー探しに庶民が走り回る、といったパニック現象が起こるのも無理ない大事件だった。

郊外型ショッピングセンターにとって、オイルショックはもっと深刻な事態をもたらすであろうということは容易に推測できた。急上昇する物価に賃金が併行して上るなどということは考えられない。

そうなれば、皆がなるべく車を使わないように心がける。家具のような大型耐久消費財の購入もひかえるようになる。仕入価格も上るし、ガソリン値上げで配達コストも高くなる。これはどの悪材料が一挙に出てきたのだから、手をこまねいていては、間違いなく倒産であった。とてもフランチャイズ展開どころの話ではない。全力没球で防衛に回らなければならなくなったのだ。

いまになってみれば、ここ数十年の世界経済は中東の安い石油をエネルギーに使うことで成りたっていた。構造そのものが、石油抜きには考えられないところまできていたということがよく理解できる。

とにかく、防衛を考えなければならなかった。このとき多くの会社がまず経費の節減を考えた。三センチまで短くなった鉛筆を持っていかないと替りを出さないとか、不用な書類はすべてメモ用紙にといった、ドロナワ的でうまくいきそうもないような節減策を実行に移した会社が話題になったりした。 次へ