村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

設計もセールスも

2007年05月29日 | Weblog
私たちの地方に「手をつるった」という言葉がある。仕事がなくなってすることがないという意味である。山奥ではじめたばかりの木工所だから、信用があるわけでもない。注文がストップして、「手をつるった」状駿が続くようになった。そのままでは倒産は目に見えている。勤め人なら倒産してもどこかへ行けばそれで何とかなるが、こちらは倒産すればそれでお終いである。私も事務などとってはいられなくなった。

そこで、私は外へ注文を取りに出ることにした。梅干弁当を自転車の荷台にくくりつけて毎朝家を出るのである。当時私は芯だけは強かったかもしれないが、人前に出るとロをきくのも恥しかったぐらいの内気だった。それが知らない家を一軒一軒回って「家具のご用はありませんか」と聞いて歩くのだから、逃げ出したいどころの気持ではなかった。

しかし、なぜか四軒に一軒ぐらいは注文がとれた。外交がうまかったのではなく、子供っぼくて可愛いかったから好感を持たれたのではないかと今では思うが、とにかく木工所は「手をつるう」ことは少なくなった。

私が取った小さな注文の中でもとくによく覚えているのは真四角な勉強机である。ある家へ行くと、「日当りのよい廊下で二人の子供を勉強させたいがどうしたらよいか」といわれた。机を二つ置くには都合の悪い場所だった。そこで私は真四角な机を作って、両側に二個ずつ引出しをつけたらどうかと提案してみた。子供たちが向い合って座るというものである。すると先方は、

「それはいい。アイディア賞ものだ」

とひどく感心してくれた。食器棚の注文も取れたが、これも普通のサイズではなく、空間に合わせた特別製だったが、何とか作って納品することができた。

しかし、一番困ったのは座卓の注文をもらつたときだった。ある土建業の立派な家へ飛び込んだとき、

「カリンかケヤキで座卓をつくってくれ」

といわれた。こちらは何も知らないので、

「はい、わかりました、ありがとうございました」

といって帰ってきた。知らなかったのだが、カリンもケヤキも本格的な家具用の木材で、裏山などに生えている代物ではなかったのである。木工所にいた職人は洋家具と建具が専門で座卓は指物師がつくるということもはじめて知った。

「そんなもんできるわけがないだろう」

というわけである。だが、できないといわれても注文を取ってしまった以上、だめだというのでは信用にかかわる。困りに困って父、万助に相談すると「しかたがないから家具屋から買って納品しろ」などという、いまから思うと笑い話のようなこともあった。

家具財であるカリン、紫檀、黒檀、桜などの製品をはじめてよく観察したのも、座卓を買いに行った八王子の家具店の倉庫の中だった。

私のセールスは大成功だった。そこで外交は私が専門ということになった。しかし木工所のほうは少しも黒字にならなかった。なぜかというと、素人外交なので正直すぎたのである。たとえば学校で注文を受けても、これこれの予算しかないから、といわれると、それでやらなければならないと思い込んでしまって、使命感のようなもので引受けたりした。そうなると、たくさん受注しても、外注に出せば赤字になってしまう。しかたがないから、専門の職人の工場へ弟子入りして勉強したこともあった。「そんな腰つきではだめだ」と塗装職人にどなられたり、とにかく特訓につぐ特訓で何とか家具職人の技術を覚えた経験もある。

木工所は七年続いた。しかし万事がこの調子だから、はじめの五年間はまったくの赤字続き、あとの二年も収支とんとんという程度で、それこそ血の出るような努力にもかかわらず、素人家具メーカーは結果的には失敗だった。

しかし、この失敗はそのまま、水泡に帰してしまったわけではなかった。それどころか、現在の村内ホームセンターはこの失敗の連続の中で大きく育つ芽がふくらんでいったのである。

カリンの座卓のときのように、家具の注文は簡単に作れる洋家具の類いだけではなく、桐だんすをはじめとして、本格的なものも数多かった。最初は家具は家具店で買ってそのまま納入したのだが、それはあくまでも便宜的な手段であって、いつまでも同じことをしていたのでは余分な手間がかかるだけである。つまり、そのような注文を受けたときは、専門のメーカーから品物を探してきて、それなりのマージンを加算して納品するべきだということがわかってきたのだ。家具専門店への道はこの辺から少しずつ芽ばえてきたのである。 次へ