村内まごころ商法 & 剛毅の経営

昭和53年に出版された本と、ホームリビングに掲載された記事でたどる、村内道昌一代記

小学生の頃

2007年06月01日 | Weblog
小学校は三年まで古山先生という女の先生が担任であった。非常に立派な教育者で、すでに結婚しておられたが、ご主人も教育者ということであった。私は三年間ずっと級長だったが、苦手は体操と音楽だった。体操は虚弱体質のせいで「乙」。音楽にいたっては「丙」だった。

音楽で「丙」を取ったとき、これは、また父にカミナリを落されるとビクビクものだった。しかし、通信簿を見た父は、音楽が丙であるのを見てひどく喜んだ。

「オレは音痴だったから、宴会嫌いで村内をつぶさずにすんだ。おまえも歌は下手らしい。これで村内家は安泰だ」

というのである。物事にしくじって叱られなかったというのは、これが最初で最後であろう。

四年生になって、担任は酒寄先生という男の先生に替った。この先生は、いつも真赤なネクタイをしていて、怪談話が大好せな先生だった。子供を前に四谷怪談などを大真面目にやるのだから一風変っていたわけである。この先生の前任地は伊豆七島の式根島で、いまはひらけているが、当時は孤島という感じだったらしく、ことにつけて「白砂青松、風光明媚、式根島ほど住みよいところはない」というのがロぐせだった。四年生のときは書取りのテストで連続百点の新記録を
作ったのを覚えているが、これは古山先生に教えられた結果であった。

五年生のときの先生は「ブルトーザー」というアダ名の横山先生。甲種合格で、兵隊から帰ったばかり。すごい迫力のある人だった。たとえば、体操の時間に雪が降っていると、

「全員裸になれ!」

とパンツ一枚にされて裸足で砂利道を走らされる。三キロぐらい離れたところに住んでいて、病気で休んでいる子の家へお見舞いにいくわけである。病気見舞いが終わると雪の滝山城址のガケを登らされるという調子だった。古山先生も名教育者だったが、この横山先生にきたえられた一年間も私には忘れられない思い出である。父に教えられた「攻撃精神」と「負けじ魂」をもう一度叩き込まれたという感じであった。

六年生になると、今度は小牛田先生という男の先生が担任になった。この先生は人格者で、私のこともよく面倒を見て下さった。

小学校の頃、私が一番名誉に思っているのは、習字の全国大会で特選をもらったことだった。小学校四年生のときだったが、夏休みを棒に振って、約一千枚ぐらい練習し、その中で、一番よく書けていると父がいってくれた一枚を、上野美術館で行なわれた展覧会に出品したところ、特選に選ばれたのである。いまはもう書に自信はないが、そのとさは父がそばで墨をすってくれているので遊びにいくわけにもいかず、ただ必死に書いたという感じであった。物事はいいかげんにやるのではなく、徹底的にやれという父の教えの一つだったと思うが、それが報われて特選になったときは実に嬉しかったと覚えている。 次へ