Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20160229 エレミヤ5:10~19 「つるを取り払え」

2016-02-29 | Weblog
2月29日(月)
現在のテーマ「背信のユダに対して」
今日のテーマ「つるを取り払え」
■聖書 エレミヤ5:10~19 (10)
■聖句 「ぶどう畑に上って、これを滅ぼせ。しかし、滅ぼし尽くしてはならない。つるを取り払え。それは、主のものではない」。(10)
■解説
今日の拝読箇所にはユダの民の思い違いの有り様が描かれています。ユダは北からの貪欲な民(バビロン)が作物、土地、人々、城壁のある町々を神の裁きの執行者として食い尽そうとしていることに少しも気がつかないのです。彼らの罪は「欺き」(11)、「傲慢」(12)、「御言葉の軽視」(13)に集約されます。その結果、主の裁きが臨もうとしているのです。それでも主は「滅ぼし尽してはならない」(10)、「滅ぼし尽しはしない」(18)と残りの者の存在を信じ、イスラエルとの契約に誠実であろうとされます。今日の聖句に注目しましょう。ユダは神のぶどう園です(イザヤ5:1-7)。「これを滅ぼせ」は侵略者への侵入許可です。主が選ばれたぶどうの木は手厳しく刈り込まれます。傷んだ「つる」、腐った「つる」、実を結ばない「つる」は取り払われます。しかし、幹まで切り取られることはありません。この表現はヨハネ15:1-6でキリストが語られたぶどうの木のたとえ話を思い起こさせます。イスラエルとユダはその不誠実によって自分から生命力の源である主から離れてしまったのです。「主のものではない」は、人間にとって最も厳しく、悲しい現実を示しています。
■祈り
「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)。御名を呼ぶことで主のものであり続けることができますように。

今日の御言葉(日曜版) 20160228 詩編129:1~8 「迫害されたシオンを通して」

2016-02-28 | Weblog
2月28日(日)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「迫害されたシオンを通して」
■聖書 詩編129:1~8 (3-4)
■聖句 「耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った」。主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。(3-4)
■解説
「わたしが若いときから‥‥、わたしが若いときから」という印象的な繰り返し(同文反復法)や敵の中にあっても主が守ってくださるという信仰の告白が、歴史的な体験を通して表明されているという点において、本編は124編とよく似ています。さらに2つの詩編には苦難からの解放という共通点が見られ、そこにメシアの受難が隠されているように描かれているのも共通項です。シオン(イスラエル)の歴史は長い迫害の歴史です。その始まりはエジプトにおける奴隷の状態であり、パレスチナ定住時の困難であり、バビロン捕囚と帰還後の迫害です。その中でも神の民イスラエルは、神の贖いの約束を忘れることなく信仰を告白し続けるのです。聖句の「耕す者はわたしの背中を耕し」はシオンへの迫害の壮絶さを表しています。それでも「主は正しい」と言い、「束縛を断ち切ってくださる」と信じるのです。この時、彼らにはまだはっきりと見えていないのですが、彼らが(そして私たち人類が)罪の束縛から断ち切られるためには大きな代価が必要であったということです。ここで表現されている「背を耕し」は、やがて「打つ者に私の背中をまかせ」(イザヤ50:6/新改訳)の背景となり、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(同53:4)というメシアの受難へと移行します。聖句は「主は正しい」と表現される「神の義」と「背を耕す」ほどの痛みを受けて成し遂げられる「贖い(神の愛)」を表している御言葉とも言えます。
■祈り
わたしたちを束縛しているもの(罪と死の法則)から断ち切られるために、払われた大きな犠牲を忘れることがありませんように。

今日の御言葉(臨時版) 20160227 詩編128:1~6 「主の祝福による繁栄」

2016-02-27 | Weblog
2月27日(土)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「主の祝福による繁栄」
■聖書 詩編128:1~6 (2-4)
■聖句 「あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」。(2-4)
■解説
前編(127)と同じようにバビロンの捕囚から帰還した人々の姿が背景にあると考えられます。全編を通して感じられるのは、エルサレムの再建と繁栄(5)の基盤が家庭の祝福(2-4)にあり、家庭の祝福の基盤は、主を畏れ主の道に歩むことにある(1)と教えています。聖句は「主を畏れ、主の道に歩む人」(1)への家庭の祝福について語られている部分で、はじめに労働の祝福が約束され、妻と子という家庭の繁栄が約束されています。「ぶどうの木」は神の祝福の象徴、「オリーブの若木」は命と力の象徴です。5節に「エルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように」とあるのは、個人的な祝福が共同体全体の祝福と未来から切り離せないことを示しており、家庭への神の祝福が単なるマイホーム主義的なものではないことを教えています。カルヴァンは「信仰者は決して自分の個人的利益のみを求めたり、あるいは己の便益だけに溺れたりすることなく、かえってその主要な願いは、神の教会の栄えるのを目にすることでなければならない」と言っています。
■祈り
主を畏れ、主の道に歩む人として下さい。わたしから家庭に、家庭から教会に、教会からエルサレムに、主の恵みが満ち溢れますように。

今日の御言葉 20160226 エレミヤ5:1~9 「ひとりもいない」

2016-02-26 | Weblog
2月26日(金)
現在のテーマ「背信のユダに対して」
今日のテーマ「ひとりもいない」
■聖書 エレミヤ5:1~9 (1)
■聖句 「エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」。(1)
■解説
5章はエルサレムに住む人々の堕落と荒廃の姿を主が訴え、エレミヤにさばきの言葉を告げておられる部分です。第一の区分である9節までが今日の拝読箇所であり、聖句は出だしの1節を取りました。正しい人がひとりでもいればエルサレムを赦そうと主は言っておられます。この言葉は私たちにソドムとゴモラのことを思い起こさせます。アブラハムは、そこにもし10人の正しい人が見出されるならば、その町を滅ぼさないとの神の約束を得ました(創18:32)。しかし、ここでは「ひとりでも‥‥いれば‥‥赦そう」と主は言われます。主の前に真実な人はひとりもいないほどエルサレムの住民の心は主から離れていたのです。「真実」はヘブライ語のエムーナーで、契約に対して忠実で不変な態度のことです。2節には「主は生きていられる」と言いながら、それが偽りであることが記されています。彼らの生活が口の言葉と一致していなかったということです。生活と言葉の一致はキリスト者である私たちにとっても非常に大切です(詩34:12-,Ⅰペトロ3:10以下,へブライ13:15-)。主は真実を求めておられます(3)。しかし、エルサレムの住民は岩よりも固い態度で、主に立ち帰ることを拒んだのです(3)。
■祈り
主よ、わたしをそのひとりにしてください。主の御前に真実に歩むもの、信仰の言葉と生活が一致してるものとしてください。

今日の御言葉 20160225 エレミヤ4:5~31 「ユダに迫る北からの脅威と審判」

2016-02-25 | Weblog
2月25日(木)
現在のテーマ「背信のユダに対して」
今日のテーマ「ユダに迫る北からの脅威と審判」
■聖書 エレミヤ4:5~31 (27)
■聖句 「主はこう言われる。『大地はすべて荒れ果てる。しかし、わたしは滅ぼし尽くしはしない』」。(27)
■解説
今日の拝読箇所には北から迫る脅威とユダの民への審判の預言が記されています。エレミヤの時代、既に北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされていました。ここでの「北からの災い」(6)はアッシリア後のバビロンを指しており、後にバビロンによってユダ王国は滅び、エルサレムは壊滅します。神の手によるこの審判の原因は民の背信にあることは言うまでもありません。それでも神は、あらかじめ告げることで民を悔い改めへと導こうとしておられます。実際ユダには悔い改めのための時間があったのです。彼らは北王国の荒廃を見ていたのです。それにも関わらず真実の悔い改めに至らないユダの民に対してくだされる神の審判の峻烈な言葉を受け取り、エレミヤの心臓は破裂しそうになります(19)。エルサレム崩壊のビジョンを見て嘆くエレミヤ(21)、神の御心と一致して嘆くエレミヤ(22)、侵略後の都を見て嘆くエレミヤ(23-26)。なお侵略者におもねるシオンを見て気絶しそうになるエレミヤ(29-31)。それほどまでの厳しい審判のビジョンが続く中で、今日の聖句にある「滅ぼし尽しはしない」というたった一言が福音の光となって輝いています。それは契約の恵みの故であり(レビ26:44)、イザヤ書、エレミヤ書、新約のローマ書に通じる「イスラエルの残りの者」という思想に通じるものであり、神の人類に対する忍耐と愛を示すものです。
■祈り
今もなお、神の審判の時は訪れていません。滅ぼし尽そうとされない神の愛と忍耐の時間が続いています。ユダの姿を見て、多くの人が真実の悔い改めに至りますように。