Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20150131 イザヤ34:1~17 「世界への審判」

2015-01-31 | Weblog
1月31日(土)
現在のテーマ「世界の審判と終わりの日の救い」
今日のテーマ「世界への審判」
■聖書 イザヤ34:1~17 (16)
■聖句 「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ/主の霊が集めたものだからである」。(16)
■解説
34章と35章は表裏一体のものでイザヤ書第三区分の結びとなっています。34章は神の厳しい審判がテーマであり、35章は神の恵みによる救いがテーマです。1節「もろもろの国よ、近づいて聞け」で始まるように、これは全世界への警告となっています。5節「剣はエドムの上に下る」は神のさばきの具体例としてエドムの名を上げています。審判は壮絶なものでソドムとゴモラ以上の厳しいものであることが9節を通して分かります。ここに私たちは義なる神のなされようと、神から離れ悔い改めることもしない人間の罪の深さを思わなければなりません。聖句として選んだ16節は、預言の完全性と「さばき」と「救い」が一対であることを示す御言葉です。「主の口」は原文では「わたしの口」となっており、それはイザヤが神の口としての働きをなしたことを示しています。イザヤは「主の霊が集めたもの」を預かり、それをそのまま告げた、まさに「主の口」であったのです。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた」とある2テモテ3:16の御言葉を思い起こします。また今日の聖句から、66巻の聖書の最後に「聖書に何かを付け加える必要も取り去る必要もない」(黙22:18,19参)と記されていることを思い起こし、厳粛な気持ちとなります。
■祈り
主と主の御言葉の前に謙虚な者となし、主が定められた日に備えさせてください。

今日の御言葉 20150130 イザヤ33:1~24 「シオンを仰ぎ見よ」

2015-01-30 | Weblog
1月30日(金)
現在のテーマ「世界の審判と終わりの日の救い」
今日のテーマ「シオンを仰ぎ見よ」
■聖書 イザヤ33:1~24 (20,21a)
■聖句 「シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい/移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく/一本の綱も断たれることはない。まことに、そこにこそ/主の威光は我らのために現れる」。(20,21a)
■解説
33章の中心テーマは神の審判の後にもたらされる回復の預言です。確かに神は厳しくさばかれる聖なる審判者ですが、苦難と戦火の中で「主を待ち望み」(2)、「正しく歩む者」(15)への救いと解放の時を約束してくださる愛なる主権者「王」でもあります。イザヤは、敵対者(アッシリア)の脅威におびえる時代に、「麗しく装った王」(17)と「シオン」(20)を仰ぎ見るようにと勧めます。それこそが希望のメッセージです。聖句は20節と21節前半を取りました。ここで命じられているのは現実のエルサレムではなく、神が約束された永遠の都、平和のセンターとなるべきエルサレム(2章)のことです。神の約束を信じ、信仰の目を高く上げて、真のエルサレムの姿を見るようにとイザヤは勧めています。「移されることのない天幕。‥‥‥」は中東での遊牧生活がベースとなっています。彼らは天幕を張るときに杭を打ちこみ、移動する時には杭を抜きます。そのような不安定な状態ではなく、永遠に動かされることのない平和の都となることが示されています。しかも、そこに主の威光(現存)が現われ、神の現存が回復するのです。24節では病も罪(その結果の死)もないことが描かれて終わります。まるでヨハネの黙示録21章以下を見ているようなイザヤ預言です。どのような現実の中でも信仰と希望を失うことなく、預言者的なまなざしで、イザヤは「麗しく飾った王を見、遠く広い国を見る」(17/口語)ことができました。それこそ私たちが見ているべきものなのです。
■祈り
主よ、わたしの目を開いてください。いつでも信仰のまなざしを高く上げ、見るべきものを見ながら歩むことができますように。

今日の御言葉 20150129 イザヤ32:1~20 「正義が造り出す平和」

2015-01-29 | Weblog
1月29日(木)
現在のテーマ「世界の審判と終わりの日の救い」
今日のテーマ「正義が造り出す平和」
■聖書 イザヤ32:1~20 (16-17)
■聖句 「そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である」。(16-17)
■解説
32章を除く28章から33章の文頭は、全てヘブライ語の「ホーイ(災いだ)」で始められています(「ホーイ」は感嘆詞であるため29章では「ああ」と訳しています)。その中で32章だけが異なり、最後は「アッシュレー」、「幸いなことか」で終わっています。32章は、28章から33章までのさばきという暗黒の色彩の中にメシアにもたらされる一筋の光と、その後にもたらされる圧倒的な祝福と平和を告げています。1節に、正義によって統治する一人の王が登場します。歴史的にはヒゼキヤ(BC715-687)を指すと考えられますが、預言的には平和の王として来られるメシアを指しています。1-8節は、そのメシアによる統治の姿が、9-14節はメシア到来の時を知らずにのんきに、あるいは悔い改めることもせずに暮らしている人々への警告が記されています。そして15-20節では、「正義が造り出す平和」が美しい言葉でみごとに描かれています。15節では、さばきによって荒廃した土地が、聖霊(ルーアハ)によって新創造される姿が、今日の聖句である16節では擬人化された「正義」がメシアを示し、以降メシアの統治によってもたらされる平和が、20節では新しい地で安らかに住まう人の姿が描かれ、「なんと幸いなことか」で結ばれています。
■祈り
平和はメシアが生み出し、メシアと共に造られることを知りました。公平よ、私たちの世界にお宿り下さい。正義よ、速やかに私たちと共にお住い下さい。

今日の御言葉 20150128 イザヤ31:1~9 「主に立ち帰れ」

2015-01-28 | Weblog
1月28日(水)
現在のテーマ「世界の審判と終わりの日の救い」
今日のテーマ「主に立ち帰れ」
■聖書 イザヤ31:1~9 (6)
■聖句 「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ」。(9)
■解説
31章も構造的には30章と似ています。エジプトとの同盟へのさばき(1-5)、神への回心の勧め(6-7)、世の権力を象徴するアッシリアへのさばき(8-9)です。聖書を学ぶ中で度々思うのは、神が歴史の支配者であるということです。それであるなら人間がどのように行動しても意味がないとか、人間の自由意志はどうなるのかといった疑問が生じます。もちろん神が歴史の支配者であることを認めます。しかし、その支配の中に「放置」という側面があることに気が付きます。そして、この放置の期間こそが、自由意志を持つ人間が責任を負う時間と言えます。神はイスラエルにさばきを告げられます。今日の聖句のように「主に立ち帰れ」と勧告されます。諸悪の根源に対する最後的な裁きについて示されます。そして一定の期間、待たれます。その後、神の御言葉は実現します(2)。それが救いとなる人と、さばきとなる人があります。それぞれに神に立ち帰る時間が与えられていたことを心に留めるべきなのです。歴史を支配される神の願いは、全ての人が自らの自由意志によって神に立ち帰ることにあります。今日の聖句はそれをあらわしています。
■祈り
与えられた時間の中で、自らの人生と存在の意味を考え、迷い出たわたしが帰るべきお方を見出すことができますように。

今日の御言葉 20150127 イザヤ30:27~33 「イザヤ30章④~主の山に来て~」

2015-01-27 | Weblog
1月27日(火)
現在のテーマ「世界の審判と終わりの日の救い」
今日のテーマ「イザヤ30章④~主の山に来て~」
■聖書 イザヤ30:27~33 (29)
■聖句 「あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い/笛に合わせて進む者のように心楽しみ/主の山に来て/イスラエルの岩なる神にまみえる」。(29)
■解説
イザヤ書30章の最後の部分はアッシリアに代表される世の権力、敵対勢力への神の審判です。そこには、怒りに燃え、焼き尽くす火のような神の姿(27)、大洪水のように臨む聖霊の姿(28)、威厳ある声を響かせ(30)、御腕を振り下ろされる(30,31)主の姿、焼き尽くす硫黄の流れのような聖霊の姿(33)が描写されています。それは義なる神のなせる業です。そのような中でただ一節、救いに関する御言葉が記されているのが今日の聖句(29節)で、背景には過越の祭があります。あの時、主の言われることを信じた人々は神のさばきを過ぎ越し、エジプトは主の御手によって打たれました。過越しは神のさばきと救いの象徴です。それは同時に起こり、過越しの小羊による贖いを信じる人々は神のさばきのさなかで救われることが示されています。救われるのは信仰によります。エジプト人とイスラエル人の区別ではなく、アッシリアと南ユダ王国の区別でもなく、神への信仰によります。信仰による救いを実現するために神が成し遂げられたのが小羊を屠るという行為、すなわちキリストの十字架死です。それは愛なる神のなせる業です。聖書の神を信じるとは神の義と愛を信じるということです。そのような人々は裁きの日に賛美しながら、主の山(エルサレム)に来て、岩のような神、すなわち揺り動かされることのない平和を与えてくださる神にまみえるのです。
■祈り
神の義と愛を信じます。岩なる神にまみえる日を信じ、畏れと感謝をもって信仰生涯を歩みます。