Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20130312 詩編111:1~10 「尋ね求める」

2013-03-12 | Weblog
3月12日(火)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「尋ね求める」
■聖書 詩編111:1~10 (2-3)
■聖句 「主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く」。(2-3)
■解説
最初の語句「ハレルヤ」を除いて22行でなっている詩編111は、各行の文頭にヘブライ語のアルファベット(アレフ・ベイト‥‥)が来る単語によって構成されているアルファベット詩編の一つで、次の詩編112も同じ構造になっており、内容的にも関連した詩編となっています。111篇は「主の御業への賛美」、112編は「主とその御業を畏れる人の幸い」を示しています。聖句は詩編111全体の要約と言えます。前半(2節)は、計り知ることのできない主の御業を愛し、尋ね求める人の幸いを記しています。ここでの「尋ね求める」という語から「ミドラッシュ」が生まれました。「ミドラッシュ」は旧約聖書の注解書のことで、特にイエス様時代、パウロ時代のラビが用いた聖書解釈の方法で、聖書の中に隠されている真理に近づこうとするものです。後半(3節)は、主の成し遂げられる業、そのものへの賛歌です。「恵み」と訳されているヘブライ語は「ツェダーカー」で、本来は「義」という言葉です。それはイスラエルに対する救いとあわれみを示す神の「義」のことです。イエスは十字架上で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と叫ばれました。それは、神の救いとあわれみを示す「義」の業が完了したという意味です。十字架によって示された神の義は、永遠に輝く主の恵みです。その恵みの深さを尋ね求める者でありたいのです。
■祈り
主イエスを通して示された神の愛と義という計り知れない恵みを、さらに深く知ることが出来ますように。

今日の御言葉 20130311 詩編110:1~7 「メシア詩編」

2013-03-11 | Weblog
3月11日(月)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「メシア詩編」
■聖書 詩編110:1~7 (1)
■聖句 「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」。(1)
■解説
今日の詩編は、イエス・キリストの十字架・復活・支配との関連が強くみられる代表的なメシア詩編で、キリストの支配の永遠性(王職)と祭司職が予示されている預言的詩編です。聖句として選んだ1節はイエスによって引用されています(マタ22:44,マル12:36,ルカ20:42,43)。来たるべきメシアがダビデの家系から出ることは、旧約聖書から明白です(イザヤ9:6-7,11:1,10,エレ23:5,6,33:14-18,エゼ34:23,24など)。そのため「ダビデの子」とはメシアのことを指す言葉であり、イエス時代のイスラエルでもそれは認められていました。イエスはそのことを十分ご承知の上で、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」(41)と問われます。そう問いかけることで、メシアが「ダビデの子」以上の存在であることに気が付かせようと、詩篇110:1を引用されたのです。イエスはさらに「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(マル12:37)と言ってダビデの子=メシア=主という関係を明らかにされました。今日の詩編は永遠の王であるメシア、永遠の祭司であるメシアを示していますが、イエスによって引用されたことによって、さらに主であるメシアといった構図、すなわちイエスの神性とメシア性を示す言葉となったのです。
■祈り
永遠の支配者、王であるメシアとして、永遠の仲保者、祭司であるメシアとして、そして主として、イエスよ、わたしはあなたを信じ、御名をあがめます。

今日の御言葉 20130309 詩編109:1~31 「死に定める裁きからの救い」

2013-03-09 | Weblog
3月9日(土)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「死に定める裁きからの救い」
■聖書 詩編109:1~31 (31)
■聖句 「主は乏しい人の右に立ち/死に定める裁きから救ってくださいます」。(31)
■解説
詩編109の背景にはユダヤ的法廷があるとされています。詩人は既に裁判、それも判決という段階に連れ込まれています。1-5節では「神に逆らう者の口が」、「欺いて語る口が」、「偽りを言う舌が」と偽証を訴え、「愛しても敵意を返します」と自分と相手との違いを力説しています。6-20節では、彼こそが裁かれ滅びるべき存在であると訴え、敵対者への報復を祈っています。それは呪いと言えるほど辛辣なものですが、それほどの苦しみを受けたとも言えます。21-31節は、主に救いを求める詩人の祈りの言葉です。詩人はどうにもならない状況に追い込まれています。心も体も限界に近づいています(22-25)。法廷で有効な救いの手立てもありません。「愛した」(4,5)という行為も助けにはならず、敵対者に取り囲まれています。その中で、「主よ、わたしの神よ/御名のために、わたしに計らい/恵み深く、慈しみによって/わたしを助けてください」(21)と主により頼むのです。もはや自分の善行を訴えるのでもなく、敵を呪うのでもなく、「主よ、あなたの慈しみによってお救い下さい」(26)と祈るのです。聖句は最終句です。「右に立ち」は弁護者の立ち位置です。私たちは誰が弁護者で、誰が定められた死から救ってくださるのかを知ることができます。それは「主」です。イザヤ50:9には「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」とあり、ローマ書8:34には「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とある通りです。
■祈り
死に定められているわたしを救うのは、自分の行いや義ではなく、敵に対する呪いの言葉でもありません。主よ、それはあなたの慈しみによるのです。

今日の御言葉 20130308 詩編108:1~14 「神と共に我らは」

2013-03-08 | Weblog
3月8日(金)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「神と共に我らは」
■聖書 詩編108:1~14 (14)
■聖句 「神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます」。(14)
■解説
詩編108は二つの部分に分かれます。1-6節は詩編57:7-11から取られたもので「賛美と感謝の歌」、7-14節は60:5-12から取られた「助けを求める祈りの歌」です。捕囚からの帰還を感謝すると共に、周囲の敵意の中で助けを求めていると考えられています。聖句はその最終句です。注目したいのは、「主よ、戦ってください」と神任せにせず、共に我らも戦いますと意思表示し祈っている点です。ヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡った時を思い起こします。「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、渡れ」(ヨシュア3:6)と命じられた祭司が、信仰をもって足を水につけると川はせき止められ、民は乾いた地を渡ったとあります(同3:15-17)。「わたしは、あなたと共にいる」(同3:7)が主の約束でしたが、彼らはその約束を信じて行動したのです。信仰の一歩を踏み出したのです。そのとき奇跡が起きました。「信じます」とだけ言うのではなく、信じて行動したときに、主が共におられることを体験したのです。今日の聖句は偉大な信仰の歌です。自分一人で行くのではありません。神と共に信仰をもって前に進むのです。キリストの弟子たちもそうでした。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16-20)とある通りです。
■祈り
わたしも信仰の歌を歌いつつ、主と共に進みます。わたしの前に立ちふさがる敵を踏みにじって下さい。

今日の御言葉 20130307 詩編107:33~43 「主の慈しみに目を注ぐ(107編後半)」

2013-03-07 | Weblog
3月7日(木)
現在のテーマ「詩編第五巻」
今日のテーマ「主の慈しみに目を注ぐ(107編後半)」
■聖書 詩編107:33~43 (43)
■聖句 「知恵ある人は皆、これらのことを心に納め/主の慈しみに目を注ぐがよい」。(43)
■解説
詩編107の後半は「神の摂理」について記されています。「神の摂理」とは、創造主である神の宇宙と歴史に対する永遠の計画と配慮のことで、神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導くという神学用語です。私見としては「神のなさりよう」と理解すれば分かりやすいと思います。33-38節には、「住む者の悪事」(34)とそれによって「飢えていた人々」(36)への神の摂理(なさりよう)が、39-41節には「貴族(支配する人々)」(40)と「乏しい人」(41)への神の摂理が記されています。双方とも前者には不毛や災いが降りかかり、後者には豊作と繁栄がもたらされています。そして42節では「正しい人がこれを見て喜び祝い、不正を行う者は口を閉ざす」とあります。神の「なさりよう」は誰が見ていも正しく、反論の余地もなく、当然のものとして受け取られるということです。そして今日の聖句となります。神の摂理(なさりよう)は、人の目には理解しがたい場合があります。今という時点では受け入れ難い場合もあります。しかし、永遠の計画の中での神の配慮を信じ、その背後にある「主の慈しみ」という働きに目を注げと作者は告げています。
■祈り
正しい人への神のなさりようを信じて、主の目に正しく歩むことができますように。不正を行う者への神のなさりようを心にとめて、自らを律することができますように。どんな時にも背後にある主の慈しみに目を注ぐことができますように。