Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20150430 イザヤ61:1~11 「正義の樫の木」

2015-04-30 | Weblog
4月30日(木)
現在のテーマ「新たにされた民の賛美と礼拝」
今日のテーマ「正義の樫の木」
■聖書 イザヤ61:1~11 (3b)
■聖句 「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」。(3b)
■解説
61章は「シオンの回復と繁栄」についての預言です。当然背景にはバビロン捕囚からの解放と神殿の再建があります。しかし、それだけではなく終末的な救いとシオンの回復も視野に入っています。今日の聖句はそのために働く人々の姿を表わしています。「樫の木」はいつも青々としていているところから生気と強さを象徴しています。「正義(ツェデク)」は「まっすぐな行い」、「誠実な行い」といった意味です。捕囚という苦難の中で、主は自らの栄光を現すためにそのような人を植え、「正義の樫の木」を通して神殿を再建されるのです(4)。エズラやネヘミヤ、ゼルバベルや預言者ハガイ、ゼカリヤなどが第2神殿における「正義の樫の木」です。5節には「他国の人々」もその業に参与することが記されています。第2神殿はローマのテイトゥス将軍によって破壊されました。今、メシアを迎えるための新しい神殿(エクレシヤ)の完成が待ち望まれています。そのために働く「正義の樫の木」を、主は既に植えておられます。最後に、シオン回復の業は「良い知らせ」がもたらされるところから始まります。61章が良い知らせをもたらすメシア預言からスタートしているのはそのためであり(1)、ルカはイエスの誕生によってそれが実現したと理解しました(ルカ4:18-19)。キリストこそが新しい神殿の土台、隅の親石(ルカ20:17)です。
■祈り
主よ、わたしも「正義の樫の木」としてください。いつも生き生きとした信仰を持ち、主の業に参与する者としてください。

今日の御言葉 20150429 イザヤ60:1~22 「シオンの栄光」

2015-04-29 | Weblog
4月29日(水)
現在のテーマ「新たにされた民の賛美と礼拝」
今日のテーマ「シオンの栄光」
■聖書 イザヤ60:1~22 (16b)
■聖句 「こうして、あなたがたは知るようになる/主なるわたし(アニー・ヤハウェ)はあなたを救い、あなたを贖う者/ヤコブの力ある者であることを」。(16b)
■解説
「起きよ、光を放て」(1)で始まる60章は、シオンの栄光の回復についての預言です。それは「主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現われる」(2)というメシアの来臨によって実現する「平和」(17)と「永遠の祝福」(20)についての預言です。シオンに栄光が与えられるのは「主の御名のため」(9)です。その目的は今日の聖句にあるように「主なるわたしを知るようになる」ためです。それは、単に知的に理解しているということではなく、体験的に、全人格的に知るという意味です。イスラエルの民にとって最も難解なテーマは「主(ハヤウェ)」=「贖う者(メシア)」ということです。イエス時代のユダヤ人はそれを受け入れることができませんでした。パウロが「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)と言っている通りです。またゼカリヤは「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(12:10)と預言しています。聖霊の働きの中で「イエスは主である」と告白する人が満たされ、聖霊が注がれる中でメシアを否んだイスラエルが「自らが刺し貫いた者」と出会う時、この60章の輝かしい預言は実現するのです。
■祈り
「主なるわたし(アニー・ヤハウェ)は、時が来れば速やかに行う」(22)。アーメン、主よ、信じます。その時が近いことを信じます。

今日の御言葉 20150428 イザヤ59:1~21 「主の恵みの業」

2015-04-28 | Weblog
4月28日(火)
現在のテーマ「新たにされた民の賛美と礼拝」
今日のテーマ「主の恵みの業」
■聖書 イザヤ59:1~21 (16)
■聖句 「主を支えるのは主の恵みの御業」。(16)
■解説
59章には神とイスラエルとの間を隔てている罪と「主の恵みの業」が記されています。1節「主の手が短くて救えないのではない。‥‥」は、救いの妨げとなっているのはイスラエルの民の側にある罪であって、その原因は神の側にはないとの宣言です。3-8節では残虐、偽り、不正、無秩序、暴力、悪行、破壊などの罪が具体的に指摘され、9-15節ではその結果「正義は‥‥遠く離れ、恵みの業(ツェダーカー)は‥‥追いつかない」(9)と、神から遠く離れてしまったイスラエル(人間)の悲惨な状況が記されています。16節「執り成す人がいない」は神と人との間にあって民の罪を執り成す資格を持つ者がいないという意味です。そして今日の聖句です。主が支えられなければならないというのは誇張で、それほどまでに民の罪が重いこと、更にはそのような民への変わることのない主の愛を示しています。「恵みの業(ツェダーカー)」はイザヤ書に繰り返し出てくる言葉で、契約に基づく「義」のことです。それは契約(約束)を最後まで貫く真実な姿を含んでいます。たとえイスラエルが不実であっても、主は真実を尽されるのです。神の真実が「贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る」(20)との預言となり、主自らが「執り成す者」となられるのです。21節には、その結果としてもたらされる救いについて記されています。
■祈り
神の義(ツェダーカー)は、独り子をお与えになるほどに真実なものでした。今、私たちには十字架の上で執り成してくださる救い主がおられます。

今日の御言葉(日曜版) 20150426 詩編43:1~5 「神の祭壇にわたしは近づき」

2015-04-26 | Weblog
4月26日(日)
現在のテーマ「詩編第二巻」
今日のテーマ「神の祭壇にわたしは近づき」
■聖書 詩編43:1~5 (4)
■聖句 「神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ」。(4)
■解説
詩編43は詩編42と一つの詩であったのではないかと考えられています。それは42:6、42:12、43:5の繰り返しと内容の関連性、詩編43には表題がないことなどが理由となっています。いずれにしても困難の中での神への渇きがテーマとなっています。聖句には4節を選びました。この御言葉は礼拝の本質を教えています。「神の祭壇」は、私たちが神に近づく恵みの手段として与えられたものです。そこで神ご自身を最大の喜びとしていることが言い表され、感謝の賛美が捧げられます。そして「神よ、わたしの神よ」と信仰が告白されます。
■祈り
「神の小羊」としてキリストが十字架の祭壇に捧げられました。私たちは、礼拝ごとに、恐れることなく祭壇に近づき、神を喜び、神に感謝を捧げ、信仰を告白いたします。

今日の御言葉(臨時版) 20150425 詩編42:1~12 「御顔こそ、わたしの救い」

2015-04-25 | Weblog
4月25日(土)
現在のテーマ「詩編第二巻」
今日のテーマ「御顔こそ、わたしの救い」
■聖書 詩編42:1~12 (2)
■聖句 「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」。(2)
■解説
詩編42はパレストリーナ、バッハ、メンデルスゾーンも取り上げたほどの美しい詩編です。特に導入部となっている2節は生ける神との出会いを求める詩人の姿が、谷川の水を求める鹿の姿によって描かれています。注目したいのは、この渇きが、個人的な神との交わりに対するものではなく、エルサレムの神殿での礼拝に参加できないことへの渇きであるということです。詩人はエルサレムから遠いところにいます(7)。周囲の人や敵は「お前の神はどこにいる」と嘲ります(4,11)。心は折れそうです(6,7)。しかし、その中で詩人は神を待ち望み、「御顔こそ、わたしの救い」と信仰を告白するのです。真実の救い、平安は神のうちにあること、全ての問題の解決は神の御顔を拝することにあると知っているのです。
■祈り
主よ、あなたの御顔を求めさせてください。