Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

今日の御言葉 20140131 コリント一11:2~16 「礼拝における秩序の問題」

2014-01-31 | Weblog
今日からテーマは「礼拝における秩序の問題」です。

1月31日(金)
現在のテーマ「礼拝における秩序の問題」
今日のテーマ「礼拝でのかぶり物について」
■聖書 コリント一11:2~16(14:40)
■聖句 「しかし、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」。(14:40)
■解説
コリント教会の乱れは、礼拝という公同の場にも存在していたようです。そこでパウロは礼拝(集会)における秩序について語り始めます。最初のテーマは女性の「かぶり物」についてです。この問題の根底にも「自由」についてのはき違えがあると思われます。当時のコリントの教会には進歩的(解放された)女性が礼拝において「かぶり物」を使用しなかったようです。時代背景から言えばユダヤ女性も、ギリシャ世界の女性も公的な場所では「かぶり物」を使用していました。パウロはこのような慣習を乱す必要はないとか考えています。無用な混乱が人々の救いを妨げてはならないと考えたのではないでしょうか。そこでパウロは創造の秩序から始め、「かぶり物」の意味について語ります。一読して、今の私たちにはピンとこない箇所です。そこで聖句としては、14章まで続く「礼拝における秩序の問題」の結語とも言える14章40節の御言葉を挙げました。「適切に、秩序正しく行う」の根底に、昨日学んだ「他人の利益(救い)」(11:24)と「神の栄光を現す」(11:31)があることは言うまでもありません。礼拝にはどのような服装でも参加できます。しかし、そこに神への畏敬と他者への配慮といった視点も加える必要があることを、キリスト者としての成長過程で身に着けていくことが肝要なのです。
■祈り
適切に、秩序正しく行うための知恵をわたしに与えて下さい。何よりも他者への愛と、神への愛から行う力を与えて下さい。

今日の御言葉 20140130 コリント一10:23~11:1 「神の栄光のために」

2014-01-30 | Weblog
1月30日(木)
現在のテーマ「偶像に供えられた肉について」
今日のテーマ「神の栄光のために」
■聖書 コリント一10:23~11:1(24,31,11:1)
■聖句 「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。‥‥だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。‥‥わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。(24,31,11:1)
■解説
偶像に供えられた肉の問題について、パウロは家庭の食事、招かれた家での食事についてまで、細やかな指導を与えています。当時、食肉用のものとして売られていた肉は、偶像に捧げられたものか、そうでないかを区別することができなかったからです。偶像に供えられた肉の問題について、私たちは当時の宗教事情や時代背景からかけ離れているのでピンとこない部分も多いのですが、今日の聖句からパウロが言いたかったことは一目瞭然です。異教の中に、後進的に広まっていったキリストを信じる人々が、どのような考え方で日々の生活を送ればよいかということです。旧約聖書にもあり、イエスが語られた言葉でもある「主は、唯一の主である。心を尽くし、 精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29-31)に通じることです。それは御子イエスの姿でした。イエスは父なる神を愛し、御心だけを求めました。イエスは罪人である人類を愛し抜きました。パウロはキリストのこの模範に自らが倣っているように、わたしに倣う者となりなさいと勧めているのです。自己中心、自己満足に陥るのではなく、他者と神の栄光に目が開かれ、それを判断基準に生活することが求められているということです。
■祈り
今日一日もキリスト者としての判断が求められます。その時、自分の利益ではなく、他者のために、そして神の栄光のために、判断を下すことができますように。

今日の御言葉 20140127 コリント一10:14~22 「偶像に献げることの意味」

2014-01-27 | Weblog
1月27日(月)
現在のテーマ「偶像に供えられた肉について」
今日のテーマ「偶像に献げることの意味」
■聖書 コリント一10:14~22 (20)
■聖句 「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」。(20)
■解説
警告と励ましの(1-13)の後に、パウロは異教祭儀に列席しての食事を禁止しています。それは、聖餐の恵みを受けることと両立しない罪だからです。聖餐で私たちは、キリストの血と体の恵み(十字架の恵み)を受け、キリストに連なる一つの体とされます(16-17)。イスラエルでも、供え物を食べる者は、主の祭壇にあずかる者(神との交わりにあずかり、礼拝に参加する者)と考えられていました(18)。このように聖餐や献げ物の食事はキリストや神との交わり結びつきを意味する行為でした。異教ではどうでしょうか。もちろん、偶像神は存在しない(19)から、偶像神と交わる危険性はない。しかし、人を迷わせて偶像崇拝させる悪霊の力は存在するというのがパウロの結論です。当然、両者(真実の神と悪霊、聖餐と偶像に献げられた物にあずかること)は両立しません(21)。パウロは人を惑わす霊の働きに注意するようにと勧告しているのです。注意を怠ることで、いつの間にか、人を惑わす悪霊の仲間になっていないか、「そうなってほしくありません」と喚起を促しているのです。
■祈り
聖餐にあずかる恵みを深く思わせてください。悪霊の働きに注意深くあらせてください。主の御手の守りを求めさせてください。

今日の御言葉 20140125 コリント一10:12~13 「真実の神」

2014-01-25 | Weblog
1月25日(土)
現在のテーマ「偶像に供えられた肉について」
今日のテーマ「真実の神」
■聖書 コリント一10:12~13 (13)
■聖句 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます」。(13)
■解説
12節「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。「だから」と、パウロはイスラエルの歴史から学ぶ「教訓」を、コリントの教会に適用します。「立っている」と自らの立場を誇り、過信している人々に、パウロは、自らの実例を通して(9:27)、真に自己の弱さを知り、徹底的に神の恵みに信頼する真の確信に立って歩むようにと促します(ロマ8:33参)。そして今日の聖句となります。パウロは、厳しい勧告と共に、深い慰めの言葉をもって語りかけています。この御言葉は全てのキリスト者が実感しているものだと思います。人生という旅路に起こる数々の試練。それを耐えることができるのは、他の何ものでもない「真実の神」にのみ信頼を置いているからです。必ず「逃れの道」を備えてくださっている神だからです。しかも、その神はその試練の道を、逃れの道まで共に歩んでくださる神であるということです。そのような神はキリスト以外にありません。だからパウロは偶像に頼るのではなく、真実の神、共に歩まれる神、それを受肉という姿で示された神に信頼するようにと勧めるのです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9/新改訳)。
■祈り
主よ、御言葉の通りです。だから、いつでも真の神にのみ信頼し、共に歩まれる神をわたしの人生の中で見出し、感謝の祈りを捧げることができますように。

今日の御言葉 20140124 コリント一10:5~11 「偶像礼拝に対する警告と教訓」

2014-01-24 | Weblog
1月24日(金)
現在のテーマ「偶像に供えられた肉について」
今日のテーマ「偶像礼拝に対する警告と教訓」
■聖書 コリント一10:5~11 (11)
■聖句 「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」。(11)
■解説
10章1節から4節までで、パウロは出エジプトの出来事を通して、イスラエルがどれだけすばらしい恵みにあずかったかを示しました。そして今日の拝読箇所に入ります。5節「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」と、出エジプト後、偶像礼拝(7)、不品行(8)、神を試す(9)、不平を言う(10)など、罪を重ねた結果を記しています。7節から10節までをサンドイッチするように、パウロは、6節「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」、11節(今日の聖句)「これらのことは前例として彼らに起こったのです」と記しています。パウロは旧約聖書で起こったイスラエルに対する出来事を、その時代的地理的限界に押し込めるのではなく、すべての時代と場所に対する公同的な教訓として捉えています。それはまさに、新約の恵みにあずかったコリントの教会の人々にとっての警告と教訓でした。彼らの中の一部は、受けた救いを過信し、偶像にはなんの力もないと供えられた肉を食し、神の栄光のために節制することも、恵みに応答することもせず、だらしのない生活をしていたのです。「時の終わり」という表現は、キリストの初降臨から再臨までを示す期間のことです。パウロは恵みを無にする者に下るさばきの厳粛さを示すことで、コリントの教会が目を覚ますようにと願っているのです。
■祈り
聖書に記されている出来事は、今の時代を生きるキリスト者への警告と教訓に満ちています。聖書に目を向けることができますように。御言葉に照らされながら今日一日を歩むことができますように。