<働きマンドラマ比較 vol.2>
★★★ 2007年/日本テレビ
「哀愁なくして働きマンにあらず」
本家本元のドラマ化。漫画よりも面白いという声もあるのだけど、私はガッカリ感の方が格段に大きかった。
安野モヨコ氏の描く「働きマン」に最も私が共感したこと。それは、働く女の哀愁だ。これだけがんばって何の意味がある?という自問自答。松方弘子は、ガサツで冴えないオンナではない。コンサバファッションに身を固め、流行のカバンをもって颯爽と社内を闊歩している。胸の開いたVネックのぴったりとしたニット。そこには、オンナとしての自分を十分認識していることが伺える。男なんてどうでもいいとは、思っていない。しかし、一旦スイッチが入ってしまうと、仕事に向かってしゃかりきになってしまう自分がいる。なんか寂しい。なんか虚しい。そんな哀愁が漫画からは滲み出ている。
漫画の松方弘子は、ほとんど睨んでいたり、見据えていたり、あまり笑顔では描かれていない。まさにこのDVDジャケットがしかりで、この決めポーズをしている漫画の表紙の松方はこちらを睨み付けている。しかし、菅野ちゃんには笑顔が見える。産業廃棄物の取材に出かけ誰もいない山中で物思いにふけったり、久しぶりに帰った実家で父親のひと言に打ちのめされたり。「アタシ、何やってるんだ」と言う心の声が漫画にはびゅうびゅうと吹きすさんでいるのだ。
でも、ドラマはそういう哀愁を排除してしまった。大変ノリが軽い。テンポを良くするとか、わかりやすい話にする、というのはドラマ化においてはある程度仕方ないのだろう。でも、私にとってのキモの部分がバッサリなくなっていたので、残念で仕方なかった。そして、菅野さんファンには申し訳ないけど、ハマリ役とは思えなかった。松方弘子が実像となった時点で、ある程度特異なキャラクターとしてぽんと抜け出てこないといけないのだけど、いわゆる「普通にがんばるOL」。私にはそう見えた。もっと「間」を作って欲しかった。余韻に浸ろうとしても、パパイヤ鈴木の働きマン音頭だもんな。あれを思いついた人は本当に原作漫画を読んでいるのだろうか。
★★★ 2007年/日本テレビ
「哀愁なくして働きマンにあらず」
本家本元のドラマ化。漫画よりも面白いという声もあるのだけど、私はガッカリ感の方が格段に大きかった。
安野モヨコ氏の描く「働きマン」に最も私が共感したこと。それは、働く女の哀愁だ。これだけがんばって何の意味がある?という自問自答。松方弘子は、ガサツで冴えないオンナではない。コンサバファッションに身を固め、流行のカバンをもって颯爽と社内を闊歩している。胸の開いたVネックのぴったりとしたニット。そこには、オンナとしての自分を十分認識していることが伺える。男なんてどうでもいいとは、思っていない。しかし、一旦スイッチが入ってしまうと、仕事に向かってしゃかりきになってしまう自分がいる。なんか寂しい。なんか虚しい。そんな哀愁が漫画からは滲み出ている。
漫画の松方弘子は、ほとんど睨んでいたり、見据えていたり、あまり笑顔では描かれていない。まさにこのDVDジャケットがしかりで、この決めポーズをしている漫画の表紙の松方はこちらを睨み付けている。しかし、菅野ちゃんには笑顔が見える。産業廃棄物の取材に出かけ誰もいない山中で物思いにふけったり、久しぶりに帰った実家で父親のひと言に打ちのめされたり。「アタシ、何やってるんだ」と言う心の声が漫画にはびゅうびゅうと吹きすさんでいるのだ。
でも、ドラマはそういう哀愁を排除してしまった。大変ノリが軽い。テンポを良くするとか、わかりやすい話にする、というのはドラマ化においてはある程度仕方ないのだろう。でも、私にとってのキモの部分がバッサリなくなっていたので、残念で仕方なかった。そして、菅野さんファンには申し訳ないけど、ハマリ役とは思えなかった。松方弘子が実像となった時点で、ある程度特異なキャラクターとしてぽんと抜け出てこないといけないのだけど、いわゆる「普通にがんばるOL」。私にはそう見えた。もっと「間」を作って欲しかった。余韻に浸ろうとしても、パパイヤ鈴木の働きマン音頭だもんな。あれを思いついた人は本当に原作漫画を読んでいるのだろうか。
スタッフが原作を読んでいないわけはないはずで、
意図的にそうしたのだとしたら、狙いは一体なんだったのか。
考えられるのはコメディドラマとして、作っていたということなんだと思います。
上司に沢村一樹が出ていたので、NHKのサラリーマンNEO辺りを意識していたんじゃないでしょうか。