Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

山のあなた~徳市の恋~

2008-06-27 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/石井克人
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「カヴァーすると言う大いなる意義」


清水宏監督のオリジナル「按摩と女」が傑作であると多数の方から話をいただき、これは見るしかないと、最終日最終上映回ですべり込み観賞。いやはや、鑑賞後、呆然。これは参りました。カメラの動き、間、演出、全てにおいて実に良くできた作品だと感心しました。これは早速オリジナルを観なければなりません。

リメイクではなく、カヴァーである、ということ。これは、オリジナルのすばらしさを現代に伝えたいという石井監督の強い意志に他なりません。また、それほどオリジナルが良いと言うことでしょう。このすばらしさを現代の良い音響、良い映像で観客に届けたい、と言うことでしょう。もしかしたら、この成功を受けて小津や溝口のカヴァーと言うのも生まれるのかもしれません。そう考えると、何だかワクワクします。

ちょっとした心の動き、機微の見せ方が実に巧みなのです。それを、セリフではなく、間と映像で語る。これこそ、映画の醍醐味です。起きている出来事は大した事件ではありませんから、これを退屈だとか、淡々とした話だとか言う人がいるかもしれません。しかし、侮ってはなりません。これは実に緻密な計算がなされているのではないでしょうか。例えば、按摩さんを呼びに来た女中さん(洞口依子)が宿の扉を怒ったようにぴしゃっと閉める。これはおそらく、客人のいい男(堤真一)が東京から来た女にデレデレしているのが気にくわないのでしょう。そういうちょっとした仕草でもいろんなイメージが広がるのです。

そして、子供の使い方が秀逸。帰りたくない、早く帰りたい。おばちゃんと過ごしたい、一緒にいてもつまらない。彼の心の揺れが物語の振り子の役割をしています。そして、彼の登場と退場が各エピソードの繋ぎとなっているのです。静かな物語の中で彼の「ちぇっ!」と言うイライラしたような舌打ちがざわざわと波を立てます。物語の結末から言えば、堤真一の役どころだって、通りすがりの男Aと言う感じですが、偶然出会った女に惹かれる心情の揺れが実に巧みに伝わってきます。

草薙剛の按摩はやや大袈裟な感じもしますが、よくがんばりました。むしろ、感心したのは美千穂を演じたマイコです。「そうなんですの」「~ですわね」など、おっとりとした昔ながらのていねいな日本語が実に堂に入っていました。往年の名女優の雰囲気を見事に体現していたと思います。橋の両側に男と女がそれぞれ立ち、その間をわざと知らぬ顔で按摩が通り過ぎてゆくカットの切なさ。女が男を追いかけ、川を渡す桟橋に按摩がひとり残された時の不安感。「お客様!」と土下座した按摩のやるせなさ。胸をわしづかみにされるのではなく、心のどこかをツンと突かれるような感傷が沸き起こるのです。日本を形容する時に、侘び寂びなどと言いますが、それは一体何を指すのかと思っていましたが、本作を見て初めて侘び寂び的なるものに触れたような、そんな気が今しています。

リアリズムの宿

2008-05-02 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2004年/日本 監督/山下敦弘
「ダメ男三部作、完結編」


しっかり構図をキメて撮ってるなあ、というのが第一印象。横長スクリーンを効果的に使う基本形、とも言えるべき構図ばかりではないでしょうか。このキメキメであまりにシンプルな構図は見ていて気持ちいいです。もし、構図がゆるゆるだったら、物語のすさまじい間延び感と相まって、退屈で退屈でたまらない作品になっていたでしょう。構図が作品全体のテンポやリズム感の役割を果たしています。

これまでの作品同様、本作でも山下流ボケが連発されます。「ばかのハコ船」で大勢を笑わせようとは思ってないと書きましたけど、本作ではさらに「オチ」をつけようと思ってないんじゃないか、とまで思わされます。私は生粋の大阪人なので、ボケには必ずツッこむ、ふったネタは必ず落とす、という流れが染みついているんですが、そういう匂いが全然しないの。もちろん、見ていてプッと笑ってしまうカットは、結果的には「オチてる」という事なんでしょうけど、作り手側が「おとしてやろう」とはたぶん思ってない。その、のびのび感が山下作品の味なんですね。これは、おそらく共同脚本の向井康介のセンスも多分にあるんじゃないでしょうか。

ダメ男三部作の完結編ですが、男たちに負けてないダメ宿っぷりが秀逸です。最後の宿なんて、風呂場のシーンで本当に気分が悪くなりました。カビの生えたタイル、吐瀉物の溜まった排水溝、椅子の上の入れ歯…。「どんてん生活」の部屋もそうでしたが、ありえな~い!的汚い描写がうまいです。ただ、こういうインパクトのあるシチュエーションがありながら、作品全体としてはパワーダウンした感じが否めません。それは、おそらく前作「ばかのハコ船」の完成度がとても高かったからでしょう。また、突然旅に加わる「あっちゃん」という女性がどうも私には受け入れられなくて。旅の途中でかわいい女の子に出会うというシチュエーションは、男性の方がしっぽり来るのかも知れないです。でも、裸で浜辺を走ってくるロングショットはとてもいいですよ。

さて、音楽をくるりが担当。古い作品から順番に見ていくと、むしろ楽曲の完成度が裏目に出たかな。音楽シーン全体を見渡すとくるりって抜けた感じが心地よいバンドですが、山下作品にはオシャレ過ぎる感じもします。長塚圭史という有名人も加入しているし、このあたりから山下作品がメジャー化していくんですね。

輪廻

2008-03-13 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2005年/日本 監督/清水崇
「テーマを扱いきれていない」」


流行のJホラーってどんなものかしらってんで、見てみたのだけど、全体的な作り込みが甘くて少々ガッカリ。まず女子高生が会話するシーンで始まるんだけど、それがもの凄くチープな感じで。「学校の怪談」とか「世にも奇妙な物語」見てるような気になったなあ。こういうB級テイストがJホラーのスタンダードなのかな。

私は映画制作に取り憑かれた映画監督は、「記憶」という作品の中で犯人に復讐を企んでいるのではないか、と思ったんだけどそうじゃない。他にも、以前殺された人はホテルに引き寄せられて、また死んでいく。ただ、それだけ。それは、ないよ。じゃあ、教授の実験って何だったわけ?ただ輪廻するのを確認したいのなら、大量殺戮をする意味はないでしょ。殺した人間、殺された人間が双方輪廻したら、どうなるのか、そこが物語を生むんじゃないの?過去の怨念が現世(=映画の撮影)においてどう昇華または転化されるのかってことが見せ場になるはず。この辺り、物語が浅くて非常に引っかかります。ラストにオチがあることでひねりがあるように見せてるけど、私はダマされないぞ(笑)。

あとね、教授のノートが出てくるのだけど、その辺の映画を参考にしていかにもサイコパスが書いたようなありがちな作りで。彼の研究とはいかなるものだったのか、もう少し深く描けなかったものかな。「肉体とは器にすぎない」なーんて、いかにもなセリフをぶちあげるんだったら、もう少し作り込んで欲しいとつくづく思いました。でね、子どもに人を殺したり、殺されたりする演技をさせるのは止めて欲しい。もう、これは絶対譲れない。映画の現場で、徹底させて欲しいと切に願う。


忘れられぬ人々

2008-01-14 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2000年/日本 監督/篠崎誠
「全部彼らが背負っている」


戦後の復員後、荒れた生活を送る木島(三橋達也)は、孤独な老人。ある日、戦友・金山の遺族を探していた木島の元に、金山の孫娘・百合子が戦友会に顔を出すという報せが届いた。以来、太平洋戦争を共に闘った木島、村田、伊藤の3人の老人と若い百合子との交流が始まった。しかし、百合子の恋人は霊感商法の会社に就職し、その魔の手は3人のところにも及ぶことになり…

決して派手ではないけれど、実にさまざまな現代の病巣を浮き彫りにしている作品です。まず、戦争のトラウマを引きずったまま年老いてしまった老人の問題。彼らはお国のために闘ったという誇りよりも喪失感の方が大きい。しかも時代に取り残されてしまったという寂しさを抱えている。一方、現代日本の空虚さを象徴する霊感商法。悪いこととはわかっていても、抜けることができない若者が彼らと出会ってしまうことが悲劇を招いてしまいます。

●戦争に生き残った老人と現代を生きる空虚な若者
●在日朝鮮人でありながら日本のために戦死した金山の孫娘と
日本人でありながら生き延びた男(老人)たち
●アメリカ人の子どもとアメリカを敵にして戦争を経験した木島

と言った対立関係にある存在が、悲しくも運命的な邂逅を繰り返し、物語の前半は粛々と進みます。そして、3人の老人たちのささやかな幸福にじわじわと忍び寄る闇。彼らの運命はどうなるのか、後半ぐっと物語はドラマチックになり、予想外のラストへ…。

こんな日本にするために戦ったんじゃない、と言う老人に結局、現代の日本の落とし前までつけさせてしまうラストの展開。彼らに全部押しつけてしまっていいのか、と映画は我々に訴えます。戦後60年以上たった今でも、日本はいろんなことにケリをつけていない。そのひずみがどんどん広がるのを私たちはただ黙って見ているしかないのでしょうか。意を決して出発する木島たちの姿が晴れ晴れとしている分、いっそうつらく感じる。背負うべきなのは、私たちなのに。

私たちが好きだったこと

2007-12-04 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 1997年/日本 監督/松岡錠司

「いい人×いい人が裏目に」

ひょんなことから公団マンションに同居することになった男女4人の、友情と恋と夢のゆくえを描く。宮本輝の原作にほれこんだ岸谷五朗が、同じ劇団出身の盟友、寺脇康文とともに企画、主演した作品。


最近の作品はとりわけ顕著なんですが、宮本輝には「悪いヤツ」が一切出てこないんですよ。ほんとに、みんないい人ばっかりでね。まさに「性善説」とは、このことって作品が多い。この「私たちが好きだったこと」という作品も、偶然の行きがかりでひと部屋に暮らすようになった4人が、愛子という女性を医学部に入学させるため、みんなで協力し合って暮らしていくの。

あらすじだけ読むと、まるで偽善者の集まりみたいに見える話が、宮本輝の手にかかると、非常に純粋で、「人間って、誰かの役に立つために生きているんだよね」なんて気持ちにさせられちゃう。これぞ宮本マジック。

さて、「きらきらひかる」で松岡監督は、登場人物をみんないいヤツに見せてしまう、と書いたけど、この作品は、原作において既に登場人物がものすごくいい人なんですよね。つまり「いい人×いい人」。で、そのかけ算のせいなのか、心にひっかかりがなくて、さらーっと流れていくような出来映えになっている。それが、静謐な雰囲気を出していると言えばそうなんだけど、物足りなくもある。

それと日頃から共に演劇活動をやっている岸谷五朗と寺島康文が主役の男ふたりなので、内輪でやってる感じが否めない。この物語は男女4人が主人公で、ほぼそれ以外の役者は出てこない。ほとんど登場人物がこれだけってなると、どうしても人間関係において少し摩擦があったり、思いの行き違いが出てくるところこそが面白みになるはず。それがどうも内輪ノリっぽい雰囲気が邪魔をしている。

男女4人の物語で言うと、大谷健太郎監督の「アベック モン マリ」や「とらばいゆ」という作品があるけど、おんなじミニマム感でもこちらの方が、心のすれ違いで起きるスリルが堪能できる。それは、やっぱり配役に追うところも大きいのだ。それから、岸谷五朗なんですがね。切なさが伝わって来ない。彼は愛子を愛しているからこそ、他の男に手放すんですよ。だったら、もっと苦悩があるはずなんだけどなあ。

そんな中、愛子という女性を演じている夏川結衣の存在感が際だっている。夏川結衣は、表面的には「いい人」に見えるけど、その向こうに何か別のものを抱えている、そんな役どころがうまいですね。見た目は清純な感じだけど、心の奥深くに何かを秘めている芯の強さを感じる。そんな彼女の雰囲気が愛子という役にぴったりハマっていた。


LOFT

2007-11-28 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2006年/日本 監督/黒沢清

「ミイラが恋のキューピット」


これは黒沢清監督が初の「ラブストーリー」にチャレンジした作品なんでしょう。まともにラブストーリーなんて描けないので、ちょっとミイラの力をお借りしました、と言う。で、何しろミイラがキューピットなわけだから、ホラー風味のラブストーリーになるのは当然。そして、取り巻く人物も黒沢清だから、一筋縄じゃいかない奴らばっかし、ということで。

例のごとく、そうであると仮定して、ずんずん感想は進む(笑)。

恋愛を持ち込んだことで、いつものざわざわするような恐ろしさはかなり軽減されている今作。物語よりも、主要な俳優陣の個性が黒沢節によって引き出されたことが強く印象に残る。まず、主演の中谷美紀。彼女が元々持っているエキセントリックな美しさというのは黒沢作品には非常によく似合う。また、ミイラを守る教授、吉岡役の豊川悦司。監督のファンサービスなのでしょうか?常に「白いシャツ、第2ボタン外し」という、彼が最も似合う衣装で出ずっぱり。中谷美紀同様、何を考えているか分からないミステリアスな雰囲気は、なぜ今まで黒沢作品に出ていなかったの?と思われるほどしっくり来ていました。

しかし、最も際だっていたのは、安達祐実。とても美しかったです。彼女は、影のある役をもっとどんどんするべきなのでは?「大奥」の和宮も非常にいい演技だったし、これから化けていきそうな気がします。あっ、映画の中ではホントに化けてましたが(笑)。「叫」の葉月里緒奈といい、黒沢作品で幽霊をやれば女優としてひと皮むける、なんて話が出たりして。「叫」の幽霊は赤いワンピース、今作の幽霊は黒いワンピース。ゆえに「LOFT」と「叫」は、対を成すものがあるのかも知れません。

話が横道にそれましたが、ミイラに愛という呪いをかけられた礼子の恋愛話と編集者木島に殺された亜矢の話をどうリンクさせればいいのか。
で、勝手に推測。結局、亜矢にとどめを指したのは、木島ではなく、吉岡だった。ミイラに導かれて吉岡を愛するようになった礼子だったが、一方その吉岡はミイラの導きによって人を殺し報いを受けた。つまり、もともと手に入らない恋人を愛する運命を背負うような呪いを礼子はミイラにかけられてしまった。
とまあ、こんなところでしょうか。よく考えれば「吉岡」という名前なんですから、黒沢作品をよく見る人にとっては、彼が破滅するのは自明の理なんですね。

なんて、解釈話をレビューしても、黒沢清の面白さって全然伝えられない。やはり、彼の作品の面白さは、独特の映像の作り方にあるんだもの。鏡を見つめる礼子、一瞬にして幽霊が消えて手形だけが残る窓、まるで壁に同化するようにぼんやり浮かび上がる幽霊などなど。これらの不穏さと恋愛話が、今作ではどうも融合せずに消化不良となってしまった。しかし、毎回実験作の黒沢作品なのだから、それをとやかく言うことはしまい。黒沢作品にはめったにないキスシーンを仰せつかったのは、我が愛しの豊川悦司であった。その選択は、誠に正しい、ということでしめくくっておきましょう。

六月の蛇

2007-11-27 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★ 2002年/日本 監督/塚本晋也

「私の中の女性性が否定する」


梅雨の東京。セックスレス夫婦の妻・りん子のもとに、彼女自身の自慰行為を盗み撮りした写真と携帯電話がとどく。電話カウンセラーとして働く彼女の言葉で自殺を思いとどまった男・道郎からの狂った脅迫。その日から、りん子の恥辱と恐怖に満ちた日々がはじまる…。


キム・ギドクなんかもそうだけど、「女性を性的にいたぶる」描写が出てくる映画には、本当にその描写が必要なのか、と強く感じずにはいられないのです。ひとりの女性として。もちろん、「性」というものが映画における重要なテーマであることは、私自身も重々承知している。むしろ「性」をテーマにした映画こそ、私が最も愛する映画なくらい。

本作で塚本監督が描こうとしたものも、わかっているつもり。破壊と再生。徹底的に破壊することでようやく得られる再生。しかし、頭でわかっていてもなお、私は目をそむけたくなってしまった。それは、主人公がトイレで性具をつけさせられ、街中を歩かされるシーン。そこで私は、すっかり疲労困憊してしまって、もう先はどんなだったか、覚えていないくらい。

この私が感じている「痛めつけられた感覚」というものこそ、塚本監督が観客に与えたかったのだと言われれば、もう何も言えなくなる。むしろ、じゃあもう塚本作品は見ない!ってふてくされるしかないというか…。でも、それはこの映画の正しい見方ではないんだよね。女をいたぶるな!って金切り声を上げるフェミニストでもないんですけどね、私。

しかも、なぜこの作品が許せなくて、レイプシーンのある「時計じかけのオレンジ」を傑作と認めることができるのか、自分でもうまく説明ができないのよ。やっぱり元に戻るんだけど「そのシーンは必要だった」と腑に落ちるかどうかってことなのかな。もちろん、「シーンの必要性」なんて大風呂敷広げちゃうと、とんでもなく難しい映画論に迷い込んでしまう。だから、もっと感覚的なものかも知れない。

とにかく痛めつけられた気持ちが大きすぎて、映画の言いたいことなんか、どうでも良くなってしまう。それはそれで、何だか悲しい事のような気がする。私にとっても、製作者にとっても。この作品そのものが放つパワーは確かに感じる。しかし、それ以前に私の肌が拒否する。それは、理屈以前の問題で、全ての作品を好き嫌いで私は論ずる気は毛頭ないけど、ごくたまにそういう作品も登場する。りん子のいたぶられようはそんな私の神経を破壊してしまう。

ヨコハマメリー

2007-10-22 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆  2005年/日本 監督/中村高寛

「戦後を生き抜いたある娼婦の物語」


年老いてもなお、横浜の街に立ち続けた孤高の娼婦、ヨコハマメリーの生涯を彼女を取り巻く人物たちのインタビューで構成したドキュメンタリー映画。メリーさん本人が語るシーンは一切ない。しかし、他の人がヨコハマメリーを語りその人物像を顕わにしていくことで戦後の日本がリアルに我々に迫る。

私は始まって10分もしないうちに泣けてきた。何かが起きたわけでもないのに、ただそこにメリーさんが立っていたというビルの一角のショットでもう泣けてきた。歌舞伎役者のように白塗りのメイクをし、貴族のような白いレースのドレスに身を包んだメリーさんは、一体どんな思いでここに立ち続けたのだろうか。

メリーさんが他の娼婦たちと明らかに違うのはその気位の高さだった。メリーさんと呼ばれる前の呼び名は「皇后陛下」。やくざや元締めとは一切関わりをもたない「立ちんぼ」だった娼婦のあだ名が「皇后陛下」っだって言うんだから、いかにメリーさんが常人とは異なる雰囲気を醸し出していたかよくわかる。

また、横浜界隈で開かれていた芝居やコンサートにはきちんとチケットを買って見に来たり、店の前に立つことを許してくれたオーナーにお歳暮を贈ったりと、メリーさんはもしかして本当に身分の高い人だったのではないか、という様々な想像がうずまく。しかしメリーさんの昔を知らない若者たちは、その奇妙な容貌から、白いお化けなど化け物扱いするような目で見る者もいた。メリーさんの存在は都市伝説のようになっていったのだ。

そんなメリーさんが突然横浜の街から消えたのが1995年。メリーさんは一体どこへ行ってしまったのだろうか。彼女を知る証言者が現れてくるにつれ、期待と不安が高まっていく。果たしてメリーさんは、どうなったのか。

私はこの映画を多くの人に見て欲しいと思うので、ネタバレになるようなことを書くのはやめようと思う。伝説の娼婦はどうなったのか、ぜひ自分で確かめて欲しい。

私が感じたこと。それは、メリーさんは「ヨコハマメリー」を演じ続けたのだ、ということ。戦後の混乱期に生き抜くために選んだ職業、それがヨコハマメリーであった。彼女はその仕事に誇りを持っていた。自分のやり方で私は私の人生を生き抜いてきた、ただそれだけなのだ。メリーさんを影で支え続けた永登元次郎さんが歌う「マイ・ウェイ」の歌詞がメリーさんの人生とオーバーラップする。

男は戦争に行って死に、残された女は体を売って生き抜いた。メリーさんという女性に迫れば迫るほど、私の中の「女性性」も剥き出しにされて、痛かった。なんとつらい、しかしなんと気高い人生だったろうか。女とは、生きるとは、そして誇りとは何かを考えさせる珠玉のドキュメンタリー。ぜひ見てください。

雪に願うこと

2006-11-29 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2006年/日本 監督/根岸吉太郎
「どの時代も兄弟の物語は深い」


舞台は帯広のばんえい競馬場。起業した会社が倒産に追い込まれ逃げ出してきた弟は調教師の兄を厩舎に訪ねる。大学以来一度も帰郷したことのない弟の身勝手さに腹を立てつつ、兄は行き場を失った弟に厩務員見習いの仕事を与える。やがて弟はお払い箱寸前の輓馬ウンリュウに自分自身を重ねるようになるのだった…。

やっぱ兄と弟の物語って、いいなあ。古今東西、兄弟が主人公の映画っていっぱいあってさ、どれもこれも大概「頑張ってる兄」と「自由気ままな弟」って構図が多い。でもかといって、どの作品も似たり寄ったりになるかというとそんなことない。個々のシチュエーションや職業を変えるといろんな物語を紡ぎ出せる。「兄」と「弟」は永遠のモチーフなんだろうね。

その点「姉」と「妹」で深みのある作品にするのは難しい。それだけ、男の方がいろんなものをしょいこんでるって、ことなんだろう。兄は弟を、弟は兄を気遣うからこそ、すれ違う。このあたりのやるせなさがとても映画的なんだろう。

弟役を伊勢谷友介。今までどちらかというとクールな役が多かったので、内面的な部分を出す演技ができるのかどうか、と思ったが、周りの役者にも支えられて好演している。この弟は見栄っ張りで不器用な奴なので、そのあたりも演技力のおぼつかなさがかえってプラスになったか。いずれにしても、今までにない伊勢谷友介。ひと皮向けたかな。

兄の佐藤浩市や、まかない婦(全くまかないさんには見えんが)の小泉今日子もいいが、厩舎に勤める若い衆がとても自然な感じで良かった。特に弟の同窓生テツヲを演じる山本浩司 がいい。彼の存在のおかげで、弟はだんだん心が開かれてゆく。「そんなもん覚えてねえ」と言っていた小学校の校歌をテツヲと一緒に風呂場で口ずさむシーンはちょっとじ~んとしてしまった。

リンダ・リンダ・リンダ

2006-11-05 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/山下敦弘

「文化祭のユルい雰囲気が、ものすごリアル」


ペ・ドゥナのとっぽい雰囲気が見事にこのゆるい感じと融合。独特の雰囲気を作りだしている。適当に探したボーカルを入れて女子高生がバンド練習する、文化祭発表までの3日間を描いているんだけれども、何とかしなきゃ!っていう緊迫感もないし、発表できたときのカタルシスもすごい大きいわけじゃない。そこんところが、逆に今どきの女子高生っぽくって、すんごいリアルなのだ。

もちろん、がんばって練習してるんだよ。夜の学校に集まって、寝不足になって、スタジオも借りて日夜練習してる。だけども、「必死さ」はないんだ。あくまでも、みんなマイペース。その肩の力が抜けまくった演出が、見事に自分の学生時代を思い出させてくれる。ペ・ドゥナが練習室に来ても、他のメンバーがメールしてたりして、なかなか練習が始まらない。だから、教室を出てぶらぶらして帰ってきたら「ソンちゃん、遅いよ~」とかみんなに言われて。やる気あるんだか、ないんだか、よくわかんないこの感じがすごい笑える。で、こういうイベントごとのある時に決まって告白する奴いるんだよな~。

文化祭のセットもスカスカな感じ。クレープ焼いてる教室を廊下から撮ってるシーン。教室内の机や椅子が端に置かれて、がら~んとしている。教室の中も手伝うわけでもなくぶらぶらしている生徒がいる。ほんとにどこかの高校の文化祭にカメラを持ち込んだみたい。

さて、ぶっきらぼうな女子高生、香椎由宇もいいんだけど、何と言っても韓国からの留学生ソンちゃんを演じるペ・ドゥナがいい。美人じゃない分、味わいで、なんて言ったら失礼なんだけど、ほんとに味のある表情を見せてくれる。ハングル語でものすごい頑張って告白してくれる男子生徒に「はあ…」みたいな受け答え。バンドのことでいっぱいいっぱいな感じが出てて面白かった。また、言葉が通じないから、ソンちゃんと他の3人のメンバーは、かなりぎこちない。ぺちゃくちゃしゃべらないし、お互いのことをあまり突っ込んだりしない。ちょっと冷めた関係だ。でも、このあっさり感がまたとってもリアルなんだな~。

夢のシーンの「ギター用の大きな手」と「ピエールさんとラモーンさん」には笑った。しょうもなすぎて笑った。そうそう実行委員会が撮ってるビデオもね、「ああ、あんな感じだったな~」と、ノスタルジー。


レイクサイド マーダーケース

2006-09-19 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2005年/日本 監督/青山真治
「舞台劇の趣きを楽しむ」


原作「レイクサイド」は読んだのだけど、正直他の東野作品に比べて、サスペンスとしてのトリックも、人間描写も今ひとつだと言わざるを得ない。このオチって、結構ミステリファンには「ありがち」な設定じゃない?ところが、である。映画で見てみると、何とも言えない居心地の悪さが妙な余韻を引きずる作品である。

この作品は、キャスティングがうまい。はまるべきピースにぴったりのものが収まっている。確かに「この人がこんな役やるの?」というアンマッチな組み合わせは、成功した時に予想以上の喜びを生む。しかし、ぴったりの役をぴったりの役者が演じる場合そこに驚きはない。それでも、面白い。

まず、何考えてるかわからない家庭教師の豊川悦司。もともと色白で細面の顔が夜の湖畔で浮かび上がるとさらに不気味。(言っておきますけど、私トヨエツ大好きですから)なんか、コイツくさい!というミスリーディングをしっかりやってのけてくれます。

それから、柄本明。飄々と死体処理をするあたりが、いかにも柄本明。言ってることめちゃくちゃだけど、何だか坊主の悟りを聞いてるみたいでつい言うこと聞いちゃう。

そして、薬師丸ひろ子。この人案外、性悪女が似合う。ちょっとツンとした顔立ちで、人当たりはいいが腹の底では何考えてるかわかんない女が妙にハマる。

で、真打ち役所広司。俺のいないところで何があったんだよーっと叫び、もがき、悩み、頭をかきむしる。その暑苦しいことこの上ない。この人が焦れば焦るほど、見ているこっちもじっとり汗かいたみたいに湿っぽくなる。役所広司が狼狽し、あわてふためき、もがく。それを見るためにこの映画が存在している。そう言ってしまってもいいくらい。だんだん、その慌てている様子がコメディじゃないか、という気すらしてくる。

お受験のためにわざわざ合宿まで同行してくる両親たち。だが、最終的に誰もが「自分の子供のことがわからない」と言う。そこにあるのは、つかみどころのない親と子の距離感。こういうモチーフは、他の東野作品にもよく出てくる。親と子の間に流れる大きな川。ただね、映画ではこの話がすごく唐突に感じるんだな。いきなり、しんみりしちゃって、ちょっと残念。この気持ち悪い不気味さでラストまで突っ走れなかったかな、と思う。

ミステリーだと思って見るとたぶん物足りない。むしろ、役者の魅力を引き出した舞台劇みたいな感覚で見れば、堪能できる。原作を読んでいた私は、はなから後者の気持ちで入ったのが幸いした。

理由

2006-08-31 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2004年/日本 監督/大林宣彦

「宮部作品の映画化は難しいなあ」



出演者総数107名!これだけの登場人物がいれば、おのずと「観客が物語をきちんと整理できること」が主眼になるのも致し方ないだろう。あの人は誰だっけ?どういう関係だっけ?それはいつだったけ?といちいち思考が停止することのないよう、極力配慮がなされている。

「証言者スタイル」は原作にならっており、インタビュアーに向かってそれぞれが語りかける、という手法。このスタイルは大きな長所と短所を同時に併せ持っている。長所は「物語が整理されて追いやすいこと」。実は、私この原作読んだことあるのだ。なのに、あまり内容を覚えていない。それは、おそらくミステリである以上、犯人はこいつだ!というカタルシスを得たいのに、やたらと登場人物が多くて、最後に息切れしてしまったのが原因だと思う。

宮部みゆきの小説は、殺人事件はあくまでも切り口であって、書きたいものはその裏に隠された社会問題。しかも、一つではなくて幾層にも重ねられた社会問題ゆえに、じっくり腰を据えて読む必要がある。その点映画化されてみると、人物同士の関係性が素直に理解できた。基本的なことだけど、これだけ登場人物が多ければそれが最も優先順位が高くなるのは至極当然だと思う。「なぜこいつとこいつが繋がっているのか」それこそがこの本の最大のテーマでもあるわけだしね。

さて短所は、情緒的な感情の揺れや登場人物への思い入れが少なくなること。切ない、とか、つらいという感情の起伏は正直観ている間、私は感じることができなかった。もし、感情に訴える部分があったとすれば、いわゆる「大林ワールド」が繰り出す映像だったのかも知れない。しかし、私はこの大林ワールドが苦手なのだ。しかも、1995年の東京という設定の割にはインテリアや街並みが「昭和ノスタルジィ」過ぎやしないか。しかも、インタビュアーがいる、という前提に立った、証言者がお茶やコーヒーを出すシーン。あれがすごく気になった。それは時に1つだったり、2つだったり、4つだったりするんだもん。最後には、聞き手は私でしたなんて作家が出てくるし。あれはいらんかったよね。(監督も)

と、文句いいつつ、やはりこれは原作の持つ主題があまりにも広くて深いことが大きなポイントなんだろうな。「模倣犯」にしてもあの分厚い上下巻を映画にするのは非常に厳しかったもんね。この物語が提示するテーマは実に複雑に絡み合っている。都市問題、核家族、不況、地域社会の崩壊etc…。その背景を浮かび上がらせることが最大の使命だとしたら、この映画は成功だと言えるのかも知れない。

最後にすごく評価できるところが1つある。それは出演者が全員ノーメイクってこと。特に女優陣。彼らが素顔で語る様は、まさに証言としてのリアリティを存分に引き出していた。

ラヂオの時間

2006-08-12 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 1997年/日本 監督/三谷幸喜

「ツボというツボは全部押すテクニシャンのマッサージ師映画」


名脚本家が満を持しての監督作品、しかも唐沢寿明、鈴木京香などの豪華俳優出演と聞いた時、正直私は「大丈夫か」と思ったものだ。しかし、その心配は杞憂に終わった。豪華出演陣がノリノリで大いに笑わせてもらった。まあ、そういう不安から入ったのが、良かったのかも知れない。

やはり、三谷幸喜はシチュエーション・コメディでこそ、その才能を存分に発揮する。私が最も好きなドラマは「王様のレストラン」。閉じられた空間で繰り広げられる内輪の小ネタ集。「小ネタ」と言う言葉は、何だか非常に軽いもののように感じられるが、小ネタで笑わせるというのは実は非常に難しいんだと思う。次から次へと小ネタを出すために、たくさんの伏線を張る。もちろん、それらの伏線は整然としており、かつ一つの結論へと収束されねばならない。

登場人物が多く、場面もほとんど変わらないため「12人の優しい日本人」と比べてしまう。やはり、監督が三谷幸喜なので、ドタバタした感じは否めない。ただ、このドタバタはギリギリボーダーラインをうまくキープできていると思う。例えばラジオ収録シーンの井上順のセリフ回しなんか、オーバーアクトでないと出せない笑いだし。そもそも、パチンコ屋で働く主婦の物語が、一人の主演女優のワガママによって、なぜかアメリカの弁護士の話になってしまうという展開そのものがハチャメチャだもんね。

「内輪ネタ」で笑えるというのは、観客がいかにその「内輪の世界」に入り込めるかというのが大きなポイント。見た目はゆるゆるでも、内輪の世界観はしっかり一人ひとりの役者が共有していないとできないことだと思う。そういう点でもこの作品は各俳優陣がラジオ局のスタッフを自然にこなしていた。こんな人いそう、というゆるい感をみんなが演じられていた。それは、何か演出の妙ということではなく、「三谷幸喜の世界」をそれぞれの役者がわかっているから、なんだと思う。

数ある出演陣の中で私が好きなのは、布施明。あの軽薄な感じがまずおかしい。そして忘年会の景品で当たった、という電子ピアノ(なにゆえ電子ピアノ?)を担いで収録現場に現れる→次のシーンで何気に机の上でそれを弾いている。ここで私は声を出して笑ってしまったよ。でもね、人によってはそれのどこが可笑しいの?と思うかも知れない。これこそが「小ネタ笑い」の深みである。小ネタ笑いのツボはビミョーなポイントのため、人それぞれビミョーに違う。それをまるでゴッドハンドを持つマッサージ師のように「ここか?ここがポイントか?」とツボ押しが続く。あまりに次々とツボ押しの矢が放たれるため、「そこが効く~」と叫ぶ客の笑い声がそこかしこで起きるのだ。

エンドロールが流れ、最後のシメとも呼ぶべきツボ押しが。「千本ノッコの歌」だ。しかも朗々と歌い上げるのは、布施明。やられた。未だに何度聞いても吹き出してしまう。

ゆれる

2006-08-01 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★★ 2006年/日本 監督/西川美和
<梅田シネ・リーブルにて>


「息を呑んでスクリーンを見つめる」


女のドロドロした粘着質な物語「ヴァイブレータ」を描いたのは、男性の廣木隆一監督だった。そして32歳の若手女性監督西川美和は、男の見栄や嫉妬をさらけ出し、兄弟の再生の物語を作った。女性の監督だから繊細な物語が撮れるとか、男性だからダイナミックにできるとか、そういった男性、女性という分類は、もはや全く関係ない。ようやくそういう段階に来たのだ、と非常に感慨深く思う。

それにしても、西川監督の人間描写には全く恐れ入る。人間の心の裏側、その裏側まで徹底して侵入し、そして暴き出す。その「やり口」は、文字通り他の監督にはできない「西川流」とでも言ったところだろうか。前作「蛇イチゴ」でもそのやり口は存分に発揮されていたが、「ゆれる」ではさらに磨きがかかっている。

「蛇イチゴ」で、家族の仮面をはぎ取る役割を担っていたのは、兄の宮迫博之だった。「ゆれる」では兄弟に愛される女智恵子と、木村裕一演じる検事が、兄弟間の確執をあぶり出す役割を担っている。そのじわりじわりとあぶり出される確執を観客は固唾を呑んで見守っている。その緊張感たるやすさまじい。こんなに穴が開くほどスクリーンを見続けたのは久しぶりだ。抑えた演出と鋭い人間描写、そして弟が橋の上で見たものは一体何だったのか、二転三転するストーリー展開。これが2作目とは本当に信じがたい。

東京で好きな道を歩みカメラマンとして華やかな世界で働く弟、そして実家を継いで親の面倒を見ている兄。このふたりの構図は兄弟という縛りを越えて、様々な人間関係に当てはめることができると思う。人間は誰だって100%善人ではないし、時には嘘をついたり、見栄を張ったりして生きている。その上できっと相手はこう思っているだろう、とか、この人はこんな人だというイメージ、思いこみがある。が、しかし、それが全く違っていた時の恐怖。人間関係でこれ以上の恐怖ってないんじゃないかな。

橋の上で智恵子が嫌悪の表情を浮かべて「触らないで!」と叫ぶシーンも心がざわざわした。拘置所でにいちゃんが弟に唾を吐きかけるシーンも。でも、この映画のすばらしいところは、その徹底的な破壊の向こうに兄弟の再生を描こうとしていること。人間なんて、所詮こんなもの、と悪態を付くことは結構簡単だと思う。そこから、いかに希望を見せることができるか、それこそが映画が為すべきことなのだ。

主演オダギリ・ジョーの魅力も全開。男のずるさ、成功した人間の傲慢さが暴かれていく様子を渾身の演技で見せてくれる。少しずつ兄に不信感を抱き、揺れに揺れる弟の心。我々観客も、彼と同じように揺れに揺れていた。「にーちゃーん!」と叫びながら兄を追いかけるラストでは、涙が止まらなかった。

そして、兄を演じる香川照之にも心からの拍手を。洗濯物をたたむ後ろ姿、拘置所で弟に悪態をつくシーン、そしてラストの微笑み。今でも次から次へと印象的なシーンが蘇る。とにかく表情がすばらしい。多くを語らずとも、無言の表情が全てを物語っていた。また、検事役の木村祐一の存在感もすばらしかった。あのいやらしい突っ込み方が、実に堂に入ってましたねえ。

さて、現在多くの方が絶賛されており、評判が評判を呼んでいるのか、夏休みとは言え、超満席。平日の15:30開始で映画の日でもレディースデーでもないのに、立ち見も出てた。年齢層も実に幅広く、この映画が多くの人に支持されているのを認識。非常に嬉しく感じた。

ワンダフルライフ

2006-03-30 | 日本映画(や・ら・わ行)
ワンダフルライフ ★★★★ 1998年/日本/118分
監督/是枝裕和 主演/ARATA、内藤剛志

「リアルとファンタジーの気持ちよい融合」

霧に包まれた古い建物に人々が吸い込まれていく。全部で22人。彼らは面接室に案内され、そこで待ち受けていた職員にこう言われる。「あなたは昨日、お亡くなりになりました。ここにいる間にあなたの人生を振り返って大切な思い出をひとつだけ選んで下さい。」彼らはこの施設で天国へ行くまでの7日間を過ごすことになっているのだ。選ばれた思い出は職員たちの手で撮影され、最終日には上映会が開かれる。死者はいちばん大切な思い出を胸に、死の世界へ旅立つのだ…

「誰も知らない」で一躍有名になった是枝裕和監督の1998年の作品。私は「誰も知らない」よりこちらの方が好き。是枝監督の作品を初めて見たのがこれで、ドキュメンタリー出身の監督というのを知らなかったため、その独特のタッチに最初は少々とまどったのだが、設定が面白く、また役者たちの演じているのか、素なのか、何ともわからない演技に妙に引き込まれる。

古い建物は例えて言うなら、生と死の境目。そこに勤務している人々は、大切な思い出をひとつだけ選ぶことができず、スタッフとしてその建物に残っている。死んだ人は面接室で自分のこれまでの人生の中でいちばん大切な思い出を必死にたぐりよせようとする。なかなか答が選べない人、そんないい思い出は一つもないという人、最初に出した答を後から変えてしまう人、と様々だ。さて、果たして自分が今死んだら、いったいどんな思い出を選ぶのだろうと思わず考えてしまう。

そう考えずにいられないのは、この登場人物の中に俳優ではない「素人さん」が多数出演しているからなのだ。「素人さん」はカメラに向かって、自分の人生を語る。このあたりがドキュメンタリー出身の是枝監督らしく、非常にうまく撮られている。兄のために「赤い靴」の踊りを披露した時のことを選んだおばあさん。パイロットを目指してセスナで飛行訓練した時のことを選んだ会社員。どれもが脚本ではなく、本当に彼らが選び出した答なのだ。彼らの話を聞くこと、それは彼らが「生きてきた喜び」を聞くこと。みんな死者である、という設定なのに「生きることのすばらしさ」がじわっと伝わってくるのだ。

淡々としたストーリー展開でこのままで終わるのかな、と思っていたら、最後にちょっとしたどんでん返しも用意されている。しかし、もちろん是枝作品らしく映画全体を覆う雰囲気は、いたって穏やかで、静かに幕を閉じる。そしてその静けさの中で、やはり「果たして私なら…」という思いに浸らずにはいられない。この作品は生きることのすばらしさを伝える、素敵なファンタジー映画です。


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