Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

真夜中の弥次さん喜多さん

2007-09-24 | 日本映画(ま行)
★★★★ 2005年/日本 監督/宮藤官九郎

「クドカン流換骨奪胎は大成功なのか、大失敗なのか」


しりあがり寿の原作は、まるで哲学書である。覚醒と幻覚の世界を弥次喜多が縦横無尽に飛び回り「リアル」を探す旅に出る。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げして、そのような信念がどのようにして成立するかを探求する、と言うのは哲学者フッサールの唱える現象学なんだけど、弥次喜多の旅ってまさにこれなんじゃないの、と思ったわけ。目の前に起こっていることを疑ってかかる、自分はなぜそのように認識するのか自分に問う。弥次喜多は命をかけて哲学的旅路に出たんだ、と思った。しかも、漫画は実に暗い。

ところが、映画は「おふざけ」が過ぎる。寄り道したり、脱線したり、なかなか本流を下らない。正直、最初の30分でリタイアしそうになった。いくら何でもこれはやり過ぎだろうと。

しかし、後半、これはクドカン流換骨奪胎なのだと割り切って見始めるとだんだん面白くなってくる。「あちら」と「こちら」が交錯し始め、境界線が曖昧になってくるあたりで、デビッド・リンチが頭をよぎる。

クドカンは、とんでもない原作に敢えて挑戦した。そのチャレンジ精神は買いたい。ただ、これがクドカンワールドなんだと割り切れたのは、古田新太、松尾スズキ、荒川良々による怪演に負うところも大きい。彼らの突き抜けた演技がなければ、きっと最後までイライラしたことだろう。しかし、さまよう無数の魂を荒川良々ひとりに演じさせるというクドカンのアイデアには唸った。ここまで来て、ようやくクドカン流の解釈に最初から身を委ねていればもっと楽しめたろうに、と思ったが時すでに遅し。

ラッパーになったり、寺島進にスピード違反で捕まったり、レコーディングシーン入れたりと、やたらと脱線するシーンが多いのは確信犯だと思うが、私はこれについていけなかった。二人がもっと早く旅に出ていたら良かったのに。そして過剰な「おふざけ」をあと10%控えめにしてくれたら良かったのに。クドカンは何故ここまで過剰にしたのか。

しかし、あの深くて暗い原作に、自分なりの解釈を与えられるというのは、並大抵のことではないはず。やっぱりクドカンは天才なのか、それともただのお調子者なのか、未だに頭を抱えている。

みんなのいえ

2006-08-13 | 日本映画(ま行)
★★★ 2001年/日本 監督/三谷幸喜

「部屋を飛び出したら、予想通りつまらなくなった」



あれほどの名作を次々と送り出している三谷幸喜がなぜ?という哀しみの後、「いや、これはわざとこうしたんだ、そうとしか思えない」という思いにかられ、なぜこの作品を撮ったのか無理矢理理由を考えてみる、という不毛なことをしてみる。もちろん、個人的な勝手な想像で三谷幸喜が聞いたら怒るかもしれんが。まあ、見ることも聞くこともなかろう。

「シチュエーションコメディでしか、面白いものが作れない」という枠から一度出てみたかったんじゃないだろうか。そうとしか思えない。今作品は、家を建てたい若夫婦の奔走、ということで、文字通り部屋を飛び出し、様々な場所でのロケーションが多く使われている。映画的に言うと「長回しの撮影」が多く見られるらしいのだが、当たり前のことだが、長回しすれば映画的になるわけではない。私はこの作品で三谷幸喜の良さがことごとく削がれているような気がしてならない。内輪ノリの面白さを、今作では敢えて使わないようにした。「家を建てる」という一大ドラマをめぐる人々の悲喜こもごもをペーソスあふれる作品に仕立て上げたかった。しかし、そこに残ったのはありきたりな、そうあまりにもありきたりで、泣けもしない笑えもしない家族愛だ。

三谷幸喜が描く人物に多く共通しているのは「ゆるい感」である。なんかやる気のない人たち。そして、逆に人よりもやる気満々な人、つまり「勘違い野郎」がそこへ混じって騒動を起こす。今作品ではゆるいのが若夫婦八木亜希子と田中直樹だろうか。いや、田中直樹はいいとしても、八木亜希子の役割が何だったのか、今いちはっきりしない。この居心地の悪さは結局最後まで尾を引く。設計を頼んだ唐沢寿明と大工の棟梁である父の田中邦衛との板挟みになる彼女だが、本来はこの点において、あっちの味方だったり、こっちの味方だったりして、右往左往することできっと面白い小ネタがいっぱい出たはずだが、ついに不発。もう、これは敢えて「小ネタ」は封印したんだな、と思うしかない。

それから、私が大いに不満なのは、「デザイナーと大工棟梁のいがみ合い」という構図があまりにも陳腐な点だ。今作品は三谷幸喜自身が家を建てた時の体験に基づいているらしいが、本当だろうかと疑いたくなる。「新しきもの」と「旧きもの」が対立し、双方「いいものを作りたい職人気質」をもって和解と、す。んな、アホな。デザイナーも棟梁も一般的に「誤解されているキャラクター」をそのまま踏襲しているのも納得できない。世の中そんなにワガママ通している設計士ばかりではないし、棟梁はいつだって頑固なわけじゃない。この映画を見て「家を建てるってこういうことなんだ」とは、絶対思って欲しくない。夫が住宅の建築士なので、よけいにそう思う。この映画を見終わった夫はがっくり肩を落としていたもの。

というわけで、この作品は三谷幸喜作品だと思わずに見れば、そこそこに楽しめるのかも知れない。ただ、デザイナーと義父である棟梁があまりに仲良くなるのを夫である田中直樹が嫉妬する、というシーンがある。こういうエピソードは実に三谷幸喜的なのだが、これまた実に消化不良な処理のされ方のまま、放ったらかしなのだ。ううん、解せん。とにかくこの映画は解せぬ事づくめなのだ。

メゾン・ド・ヒミコ

2006-06-01 | 日本映画(ま行)
★★★★★ 2005年/日本 監督/犬童一心

「オダギリ・ジョーの腰のラインに目が釘付け」


映画を観ていて「はっとする瞬間」って、意外と少ないものだ。私はこの映画を観て、2回時が止まった。一度目は、ヒミコの登場シーン。美しいガウンを羽織りターバンを巻いた田中泯が部屋に入ってくる。その圧倒的な存在感。ありきたりな言い回しだけど、それしか思い浮かばない。人が立っているのだけど、人じゃない。神というと言い過ぎなんだけど、とにかく人間離れしたオーラが漂っている。このヒミコの登場シーンで、この映画は当たりだ!と決まった。

二度目はオダギリ・ジョーの半裸の姿。その腰のくびれはただならぬ美しさ。それまでのフリルのブラウスをパンツにイン!したファッションもハンパなく素敵だったが、とうとう上半身を脱いで彼の腰のくびれを手前に部屋を映すカットになった瞬間、とりあえず私の思考は停止してしまった。それにしてもオダギリ・ジョーは、どんな役でもさらりとこなす。役になりきるというよりも、その役の方が彼にフィットしていくようにすら見える。これは天性のものなんだろう。最近のオダギリ・ジョーを見ていると、浅野忠信が出てきた時に、スゴイのが出てきたなあ、と思ったのを思い出す。

さて。おそらくこの物語の主人公のもう一人は柴崎コウであり、彼女のもがきながら生きる姿、そして好きになってはいけない相手を好きになってしまう展開がこの映画の主軸なんだろうけど、ごめんね。柴崎コウに私はちーっとも入り込めなかった。どう見てもブスには見えなかったし、何しろ沙織という女の屈折さを表現する柴崎コウの演技が私には物足りなかった。犬童一心&渡辺あやコンビと言うことでどうしても「ジョゼと虎と魚たち」と比べてしまうんだが、これは完璧に池脇千鶴に軍配!って感じで。ラストの展開も、「えらいうまくまとまってしまったじゃないの」と拍子抜け。

でもやっぱりいい映画ですよ。メゾン・ド・ヒミコのゲイの人たちは、とても生き生きしてるし、美術もとても凝ってて素敵。音楽は御大「細野晴臣」。それにね、脇役なんだけど、西島秀俊がね、彼がめちゃめちゃいい!田中泯にしろ、オダギリ・ジョーにしろ、西島秀俊にしろ、「雰囲気のある男」ってのはどうしてもこうも性的魅力にあふれてるかねぇ。西島秀俊にオダギリ・ジョーが誘いをかけるシーンも、わたしゃ女だがゾクゾクしちゃった。原作ありきの映画があふれる中、オリジナルの脚本でしっかりと良い映画を撮ってる犬童一心監督。次回も期待してます。