さわだ和代

写真付きで活動報告・日々のできごとやおもいを綴ります。

二度と過ちを起こさないように。戦争の記憶

2022-08-19 16:11:00 | 日々の活動
終戦日の前日、アメリカのフィナーレ爆撃。1945/8/14
この日、京橋駅にいたという患者の靖愛さんから話を聞かせてもらった。

当時、靖愛さんは8歳、股関節が悪く足が不自由だった。
昭和2年生まれ18歳の姉は京橋駅で列車の扉の掛け金開閉の仕事をしていた。
その姉について京橋駅にいた丁度昼時、大阪環状線と京阪電車の線路と交差していた駅舎や商店街にいきなり爆弾が投下され、駅が上から崩れ落ちてきた。
その下敷きになってうめく人。逃げ惑う人。
靖愛さんはそれを呆然と眺めていたら、一人のおばさんが「あんた、こんなとこ居ったら死ぬで、はしり!」と手をひいて走って逃げてくれた。途中あつくて、息ができない熱風。

おばさんが布をマスクのように巻いてくれ、必死で逃げた。途中、片腕を失った人、亡くなった人が道に転がり、それらを、避けながら桜の宮まで逃げ、川の土手に出た。

そこは地獄絵のように川に死体と一緒に火を逃れて水を求める人で埋まっていたそうだ。

一緒に逃げてくれた見知らぬおばさんが、「ここまで来たら大丈夫、川の水を飲み」と言われてその川の水を飲んだ。ふとおばさんの足を見ると足の甲から半分先がなかった。靖愛さんは「おばちゃん、足がないよ」と言うと、おばさんは自分の足を見て、腰を抜かして驚きの悲鳴を挙げたそうだ。そんな足で見知らぬ子どもの手をひいて逃げてくれた奇跡。あの時のおばさんに感謝しながらも
後で考えたら、
「あれは死んだお母ちゃんがたすけてくれたんやなー」と思ったそうだ。

こんな体験はあまり話したくなかったんやけど、体験として伝えてもらえるんやったら、使ってほしい。
靖愛さんは、日本は戦前、戦中はアジアの国々で酷いことをしてきたし、アメリカのパールハーバー襲撃などえげつないことしてきた加害者としての責任もあるから、被害者のような体験を語るのは気が進まなかったとのこと。
加害者としての戦争責任もあることをきちんと認識して
二度と戦争は起こしてはならない、そのために何があったのか、伝えていくことも大事だと語ってくれました。