象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

ベーブ・ルースの真実”その8”〜ルースの終焉と悲しい引き際

2018年02月25日 11時19分31秒 | ベーブルース

 いよいよ、ベーブルース物語も終りに近づきます。
 2年連続の世界一を果たしたルースは、長年の愛人クレアと結婚し、第二の人生を歩む。彼女はルースの要求する全てを備えていた。外見、肉体、理性と高い教養と。
 ルース34歳、クレア29歳。油が乗り切った彼の栄光も、このまま永遠に続くと思われた。


ルースの陰りと”怪童”フォックスの台頭

 この年の1929年肺炎を起こし、それでも46本を放ち、なんとかゲーリッグの37本を抑えた。父親代りの監督ハギンズが死去し、ルースの同僚のショーキーが監督になる。
 翌年、ルースは8万ドルの2年契約を結ぶ。この額は大統領のフーバーの7万ドルを超えた。今なら50億から60億というところか。
 この年もルースは49本、153打点とまずまずだったが、2年連続してペナントを失う。新たにマッカーシーが監督に就く。彼はチーム内に規則を作り、”ひげを剃る事”を強要した。
 1931年、ルース36歳。彼のバットは熟成した。3割7分3厘、46本、163打点”打撃の神様”の領域に達したかに思えた。
 1932年のチームは完璧だった。4年ぶりのリーグ制覇を成し遂げるも、ルースは7年ぶりにHR王を失った。

 HR王は58本ジミー・フォックス(PHI)。41本のルースは3割4分、137打点と悪くはなかったが。衰えは確実に見えていた。
 因みに、この若干24歳の若き”怪力王”フォックスは、翌1933年には三冠王に輝き、右打者ではMLB史上最強と言われ、”ルース以上の逸材”と騒がれた。付いたあだ名は”ビースト”だが、この時の年棒は僅かに1万8千ドル。当然フォックスは切れた。
 野球史家のブレッド・リーブは、ルースの現役時代はなかったスポーツマンズパーク(旧ブッシュスタジアム)で、フェンス最上部の金網を直撃する打球を5本放ってたと。故に、フォックスは実質63本を打ったと主張。また、ノーゲームとなった試合で2本塁打を放ってる。
 30代半ば以降、アルコールに溺れなければ、ルースの通算本塁打記録714本を抜いていたとも言われる伝説の怪力男だったのだ。事実、2007年8月4日にA•ロドリゲスに抜かれるまで、通算500本塁打の史上最年少記録を持っていた。名前くらいは覚えときましょうね。

 ここ10年間で、4度のリーグ制覇を成した全盛期カブスとのWSでは、ゲーリックの大活躍で4年ぶりの世界一に輝いたが。”ルースの予告ホームラン”が、大きな話題をさらった。
 38歳の1933年の契約は大揉めになった。30%減の5万2千ドルでルースは折れた。力は勿論大きく衰えていた。本塁打も40本に届かず(34)、チームも2位に甘んじた。


引退を決意した最後のルース

 2年連続でフォックスにタイトルを攫われたルースは、この年で引退するつもりだった。
 しかし、ヤンキースの監督になるという夢を捨てきれず、もう一年残る。しかしこの決断こそが後々に、大きな後悔を生む。事実、この年にはタイガースとボストンが、ルースを監督招聘に動いてたのだ。

 ヤンキースのラバートとバローの二人のオーナーは、ルースを何とかして”お払い箱”にしたかった。既に、球場内外でチームの足を引っ張る存在で、ゲーリックのカミさんに手を出し、彼との仲も深刻だった。
 マイナーの監督要請をも拒絶した。”カップも誰もが監督になってるのに、何故俺だけが”と。
 1934年、39歳のルースは、30%ダウンの2万5千ドルで契約。それでもゲーリックの2万3千ドルを抑え、球界最高額だった。
 しかし、ヤンキースでの最終年は僅か22本に終り、チームも大差を付けられ、ペナントを逃す。ゲーリックは49本を放ち、二度目のタイトルを手にした。

 NYの最終戦は僅かに2千人。この数字こそがルースに対するNYファンの精一杯のお膳立であった。今と全く違い、かなりシビアだったんですね。偉くキザな引退会見のイチローは何を思うぞです。当時だったら、多分半殺しですな。いやそれ以上にメジャーにすらなれんかったろうね。
 オフは日本遠征に参加した。17試合で13本を放ち、ルースの存在を日本列島に強烈にアピールする。この年、セネターズもアスレチックスもルースを監督に招聘するが、金銭面が折り合わず、監督の座をみすみす逃してしまう。まだまだ子供のままなんですな、ホント勿体無いです。


NYを離れ、再びボストンへ

 40歳になったルースは、ヤンキースの僅か1ドルのオファーを断り、ボストンブレーブスへ。選手&助監督&副社長という高待遇に、マンマと騙された。実際は、選手兼コーチという待遇だったのだ。ここにて、ルースの15年間のNY物語は幕を閉じます。
 1935年のボストンでの開幕は2万5千を集め、ルースも全開だった。しかしそれ以降は、チームと共に撃沈する。”偉大なる実験”は失敗に終わった。約束された2万5千ドルの年棒は支払われる筈もなく、逆に5万ドルを要求された。
 当然、ルースは引退を決意する。”長くやりすぎた”と一言いい残して。

 生涯714本目となる最後のアーチは、フォーブズの場外に消え、600ftのバカ当りだった。チームもナリーグ史上最低の勝率で、オーナーのフックスはチームの惨状を全てルースのせいにし、無条件でクビにした。
 僅かに数人だけがルースを見送った。彼は生涯孤独だった。”まだ監督の望みはある。しかし、今はお先真っ暗だ”と嘆いた。  

 ルースの長く孤独な野球人生が終った。そして、彼の全てが幕を閉じた。フーバー前大統領と同じで、有名だが役には立たず、公衆の前では騒がれるも、”去勢された”牛には変わりなかった。
 以前、GMだったバローが言った。”自分を管理できないアホにチームを監督できるのか”この言葉こそが、球界の定説になった。
 監督を務めるに特殊な才能はいらない。どんなバカでも務まるのだ。しかし、ルースはその”バカ”にすらなれなかった。 


引退後のルース

 野球の後はゴルフ三昧だった。その後一度だけ、ドジャースのコーチに就任するも、”奴はサインを出す能力すらない”と助監督から罵られ、ルースの監督としての望みは、完璧に絶たれたのだ。
 1939年、ルースの宿敵であったオーナーのラパートが死んだ。死にかけてたゲーリックとは、セレモニーで仲直りしたが、この2年後に他界する。
 もう一人の宿敵で、オーナーのバローがチームを去ると、ルースはマイナーの監督でもいいからやらせてくれと懇願した。が、拒否された。

 1946年、首に悪性の腫瘍が発見され、翌年4月の”ベーブルース・デー”に出席した彼は言った。”世界で本当のゲームと言えるのは野球だけだ”と。
 ルースの身体は急激に衰弱し、2年後の6月、ヤンキース開場の25周年イベント(写真)に参加する。これが最後の姿となった。”ジョー、俺はもうすぐ死ぬ”との言葉を残し、1948年の8月16日、53歳の生涯を閉じた。

 一昨年の2月に書いた記事ですが、今振り返って編集し直してみると、何かジーンとくるものがあります。書いてる時は面白半分でブログにしたつもりでしたが、ルポライターの沢木耕太郎氏の、”一生を掛けた報告書”という気持ちが少し理解できます。
 一人ぽっちで生まれ、一人ぽっちで死ぬ。潔い生き方だし、潔い死に方です。
 美しすぎて寂しくなるとは、この事ですかね。



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ルースとアメリカ (#114)
2019-12-13 17:58:00
結局
ヒーローって生涯孤独なんだな
読んでて悲しくなったよ
返信する
#114さん2 (象が転んだ)
2019-12-13 21:45:14
私も書いてて悲しくなりました(^^)
永遠に続くと思われた矢先に、ガクンと陥落の影が一気に襲う。そして、生ゴミの様に捨てられる。
そんな世界だから我々は魅了されるんですかね。
返信する

コメントを投稿