象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

親類ほど面倒くさいものはない〜親戚という名の粗大ゴミのあり方を考える

2020年10月16日 10時33分38秒 | 独り言&愚痴

 私は不思議と親族と縁がない。母方の親戚とは幼稚園の時、兄と遊んでたらいきなり怒られた。ごく偶に行っても挨拶すらしてもらえないし、全く悪い思い出しか浮かばない。
 父方の親戚は、それに比べたら多少はマシな方だが、基本的には同じで、いい思い出なんて1つもない。
 特に、母子家庭になってからは両方の親戚付き合いとも最悪となった。そして、それ以上に最悪なのが、弱い者を見下す様な薄っぺらな生き方を親戚連中が選択する事だ。
 ”親戚なんてクソ喰らえ”でも書いたが、私の親戚は力と金と頭はないくせに、口ばかりは一丁前によく挟む。ホント辟易する。


ド田舎の親戚

 何もないド田舎の親戚とは、何処もそんなもんだろうが、話題と言えば近所のそれも、弱い立場の人の悪口だけである。
 ”誰それがああ言ったから、あいつがこう言った。やっぱアイツは気に食わんの”と、そういった類である。
 彼らが口から発する単語は、全て条件反射から出る言葉が全てである。誹謗中傷なんてレベルじゃない。毎回毎回同じ単語なのだ。
 私の田舎では一度悪者にされると、一生悪者にされる。ここに居続ける間は、脊椎反射系の糞オヤジの悪口を一生聞かされる羽目になる。
 勿論、私もその悪害に晒されてきた一人だが、何度も同じ展開が続くと流石にストレスが溜まる。だから、隣組の世話なんてしたくはない。

 彼らには”思考”という文字はない。ワニと同じで、喋る脳はあるが考える脳はない(と言ったらワニに失礼か?)。全て条件反射で生きてる。呼吸をし、飯を食い、排泄し、そして眠る。唯一の楽しみが冠婚葬祭で、そこにいない人を悪く言う事だ。だから心身共にいつも健康だ。
 私もブログでは口汚く罵る事がしばしあるが、その大半は”権力に対する批判”である。
 しかし田舎では、どうしても弱い立場の人間に悪口が集中する。ド田舎ではそれが極端になる。つまり、悪口と鉄の塊は重力には逆らえないのだ。


親戚という名の粗大ゴミ

 私はそんな田舎がすべて嫌いではない。いい所も沢山ある。水と空気はキレイだし、周りはバカが多いから、悪賢い奴に騙される危険性も殆どない。勿論、それ以上に嫌な事もあるが、それは何処も同じだろう。
 親戚もそうだが、自分にとって都合のいい親戚なんて、この世には存在しない筈だ。事実、親戚を悪く言う話は聞いても、よく言う話は聞いた事がない。
 つまり親戚とは、処分しようにも処分できない粗大ゴミなのだろうか。10円/kgで”燃えるゴミ”として処分してくれればいいが、重油をかければよく燃える筈だが、人道上そういう訳にもいかない(当り前か)。

 我が柳川市では、燃えるゴミの専用ポリ袋が20円から40円に値上がりし、逆にプラゴミ専用の袋が半額になる。つまり、燃えるゴミを極力減らせば、安くつくという訳だ。
 しかし、古くなったビニールやプラや衣類や紙類は燃やすしかなく、再利用できない。
 同じ様に、一度腐った親類は再利用できない。冷酷で非人道的な言い方だが、焼却処分するしかないのだろうか。
 事実、私の親戚でメールが打てる人種はごくごく限られる。メールが打てない人種ほど愚痴愚痴とネチネチと電話を掛けてくる。
 脳は一旦腐ると、脳梗塞と同じように元には戻らない。親戚付き合いも一度腐ると元に戻る筈もない。親戚は最初から存在しないものだと定義して、脳内で処分するしかない。

 親戚のない世界。
 ゾラが追い求めたユートピアではないが、それこそが、私が追い求める理想郷なのかも知れない。



4 コメント

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#114さん (象が転んだ)
2020-10-17 07:06:19
当を得てますね、座布団語枚です。

ホント親戚付き合いとは起爆装置でもあり、何時勃発するかわからない時限爆弾でもありますね。
それに包みものが半端ないから、お座敷には粗大ゴミの山。昔はお歳暮ビジネスは左団扇だったんでしょうか。
全く環境を汚す悪しき監修でしたね。

コメント笑わせていただきました。
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親類という名の時限爆弾 (#114)
2020-10-16 23:01:34
とも言えるね
トラブルという名の起爆装置かな
うまく行くほうがおかしいんだ
冠婚葬祭の大半は親戚付き合いだから

親戚付き合いというルールを
法律でなくせば、つまり任意とすれば
包みものも粗大ゴミもなくせて一石二鳥
親戚付き合いとは環境を汚す
悪しき慣習だったのかもしれない
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りくすけサンヘ (象が転んだ)
2020-10-16 17:49:15
コメントどうもです。
丁度私よりも上の世代ですかね。親戚付き合いが非常に重要視されたのは。
学歴も職業もそれに人生も、大半は親戚の力で決まってた時代です。だから親戚付き合いは命の次に大切でした。

今となってはその形だけが残るだけで、逆にやり難いです。力も金もないのに威張り腐って口だけは挟む。そんな親戚ばかりで、血縁というのが如何に当てにならないかを実証するような人生でした。

でも”たかが親戚されど親戚”という所でしょうか。
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Unknown (りくすけ)
2020-10-16 13:26:39
お邪魔します。

今回記事「面倒くさい」とリンクの「クソ喰らえ」拝読しました。僕は親戚、親兄妹、子供も含め“血の繋がり”とやらに価値が見出だせません。それらの繋がりは自分で選んだものではないから。何の因果か偶然か、好むと好まざるとに関わらず出来てしまった縁。そこに自分の意思はゼロです。
親戚、親兄妹との思い出(善きにつけ悪しきにつけ)はあり、世話にもなった事はなきにしも非ず。その礼はしなければならず、子供は自分の意思で創った責任は果たさねばならない。---と覚悟はしていますが、死ぬまで縛られるのは御免です。まったく血縁とは厄介なものです。

そんなしがらみのない、自分が選んだパートナーや数少ない友人は大切にしたいと考えています。
長文失礼しました。ではまた。
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