第1位:妻の願い!前代未聞の巨大橋
『瀬戸大橋』全長9.4キロ。道路と鉄道を、共に通す橋としては世界最長の橋。最大の難関は、海底50メートルに、橋の土台を設置すること。しかし、瀬戸内海は、流れが早い上に、海底は、でこぼこ。そこに、土台を水平に設置するのは至難の技だった。工事を任されたのは、本四公団坂出(さかいで)支所長、杉田秀夫(すぎたひでお)。杉田は考えた。土台を安定させるため、ダイナマイトで海底のでこぼこをならす。だが、工事は、漁師の反感をよび、説明会で胸ぐらをつかまれることもあった。しかし、杉田は決してあきらめなかった!説明会は、実に500回にも及んだ。心身ともクタクタ。だが、杉田は決して、仕事の不満を家では言わなかった。夫の辛さを、妻・和美(かずみ)は、杉田の大好物、サバの味噌煮でねぎらった。昭和48年。瀬戸大橋の工事に、大きな壁が立ちはだかる。オイルショックで、工事の無期限延期が決定。杉田は目標を失った。工事再開に備え、杉田は、ダイナマイトの量を少なくし、時間差で爆破する方法を考えた。結果は大成功。岩盤を削り、その上、漁場にも影響なし。工事再開に万全の準備が整った。その矢先、妻・和美が突然、台所で倒れ、病院に運び込まれた。妻は、胃ガンだった。この時から、杉田の壮絶な戦いが始まる。昭和53年10月。瀬戸大橋、工事再開。昼は、現場の最前線で指揮をとり、仕事が終わるとその足で、病院へ。妻の背中をさすり続けた。12月。妻は、呼吸するのも辛い状態。病は、確実に進行していた。杉田は、妻を元気づけようと、クリスマスプレゼントを聞いた。その時、妻は意外な言葉を口にする。「あなたの作った、橋が見たい。」それは、妻が初めて、杉田の仕事に対して言った言葉だった。12月24日、クリスマスイブの朝、妻は杉田に見守られながら息を引き取る。享年34歳。しかし、杉田に休むいとまはない。この工事で、最大の山場となる橋の土台、ケーソンの設置が始まった。全ては計画通り。誰もが成功を確信していた。だが、なんと、傾いている。土台と岩盤の間に、砂が入り込み、50センチも浮き上がっていた。杉田は、自ら海に潜り現場の状況を確認。やれる。やるしかない。30人ものダイバーが一斉に砂を吸い出す。だが、その量はあまりにも膨大だった。一ヶ月後。土台は水平になった。杉田は、瀬戸大橋最大の難関を見事、突破した。そして、昭和63年4月。瀬戸大橋は10年の歳月をかけ、完成。四国と本州はつながった。この仕事を期に引退した杉田。彼にはもう一つ、嬉しいことがあった。成長した娘が、サバの味噌煮を作ってくれるようになった。そこには、妻の味があった。ひたむきな夫と、夫を支える妻の思いが、このビッグプロジェクトを完成させた。
第2位:仲間との固い絆!日本一の巨大ダム
『黒部ダム』高さ186m。日本一を誇る巨大ダム。このダムの建設には2つの大きな問題があった。ひとつは…資材の運搬。建設地、黒部峡谷は断崖絶壁が連なる、北アルプスの奥地に、総量500万トンもの資材を運び込まねばならない。2つ目はタイムリミット。あと7年で完成しなければならない。そこで、立ち上がったのが、大町トンネルの建設。全長5.4キロ、資材運搬専用のトンネルをぶちぬこうというのだ。指揮官に抜擢されたのは、熊谷組 笹島信義。自ら、現場の最前線に立つ笹島を、仲間達は信頼し、固い絆で結ばれていた。昭和31年7月工事が始まった。1000人もの作業員を投入、1日3交代、24時間フル稼働。驚異的なスピードで掘り進んだ。全ては、順調だった。だが、笹島はある異変に気づく。昭和32年5月、突然、大量の土砂が崩れ、地下水が毎秒660リットルという凄まじい勢いで噴出。現場から笑顔が消えた。工事は完全に立ち往生だった。工事を中断するしかないのか?しかし、笹島には、日本一のトンネル掘りとしての意地があった。笹島は、残った仲間に、苦渋の決断を告げる。「手掘りで掘ろう」。この仲間がいれば、絶対に掘り抜ける。だが、地下水は、いっこうに止まらない。この危険な現場で、仲間の不満は溜まっていった。そんな中、落盤事故が発生、ケガ人がでてしまう。チームの結束は、もはや後戻りできない程、壊れてしまった。笹島の心は、不安と信頼の狭間で張り裂けそうだった。そして、盆休みが過ぎた、8月19日。工事再開のこの日、始業10分前になっても、誰も姿を現さない。「もうダメだ…。誰も戻ってこない…。」と、諦めたその時。そこには、仲間がいた。日本一のトンネル掘り。そのプライドは、笹島だけのものではなかった。この工事は、自分たちにしか出来ない。絆は、再び結ばれた。チーム一丸となった笹島班が、7ヵ月もの苦闘の末、ついに突破。昭和33年2月。大町トンネル、開通。その瞬間、笹島たちの雄叫びがトンネルにこだました。完成した大町トンネルから、大量の建築資材が、秘境・黒部に運び込まれた。そして、昭和38年、ついに黒部ダムが完成。高度経済成長を支える電力はこうして確保された。1人の男と仲間の、決してほどけない強い絆が、日本一の巨大ダムを作り上げたのだ。
第3位:アメリカに負けるな!日本の未来を背負ったビル
『霞が関ビル』地上36階、高さ147メートル。日本初の超高層ビル。このビルの建設が決まった当時、東京には9階建て以上の建物はなかった。関東大震災の影響で、ビルの高さは制限されていたからだ。その問題を、一つの論文が解決する。地震に強い高層ビル。ヒントは、あの関東大震災でも倒れなかった、上野寛永寺(かんえいじ)五重塔の柔構造(じゅうこうぞう)にあった。柔構造とは、地面の揺れに対し、踏ん張るのではなく、柔らかくしなり、揺れを分散させる構造。昭和40年、日本初の超高層ビル、霞が関ビルの建設が始まった。現場を任されたのは、鹿島建設の技術者、二階盛(にかいせい)。彼には、忘れられない思い出がある。ニューヨーク、マンハッタンに、高層ビルの視察に訪れた時。同行したアメリカ人が、こう言った。「ニッポンで一番高いビルは、何階建てだったかな?」。二階は,悔しさに唇を噛んだ。日本にも、アメリカに負けない摩天楼を作る。二階は、研究に没頭した。高さ11メートルの鉄骨を、地上147メートルまで積み上げる。その数、なんと200本。しかも、地震に耐える柔構造は、1ミリの狂いも許されない。そこで二階は、あらかじめ鉄骨を工場で組み、現場では積み上げるだけのプレハブ方式を考え、正確かつ、素早い工事を可能にした。また、二階は「東京を摩天楼にする」為に、自分の技術を、次の世代に継承しようと、このプロジェクトに、若い技術者を積極的に集め、現場で指導した。鉄骨の組み上げが始まる。二階が考えたプレハブ方式が功を奏し、工事開始からわずか9ヵ月で、鉄骨は高さ100メートルまで組み上がった。しかし、前例のない工事に、不安を感じていた。そんな中、昭和42年3月2日。マグニチュード4.7の地震が発生。ビルは大丈夫なのか?そこには、建設途中の霞が関ビルが、堂々と立っていた。二階は、成功を確信する。一ヵ月後、最後の鉄骨を組み上げる、上棟式(じょうとうしき)が行われた。翌年、霞が関ビルは完成した。二階の信念が、日本初の超高層ビルを誕生させたのだ。二階は、平成17年、93歳でこの世を去る。生前、霞が関ビル35階のラウンジで、コーヒーを飲むのが好きだった。二階が育てた、若い技術者たち。窓からは、彼らが建てていく超高層ビルの姿が見渡せた。東京は、摩天楼になった。