LHFトーク"GONDLA"

LHFの二人のだらだらトーク。

ドラクエ9に思うこと

2009年07月15日 | 過去の記事
ドラクエ9が発売されて、世間を賑わせている。さっきアマゾンを覗いたらすでにレビューが700件もあって、ビックリした。そんななかで特に多いのは「星ひとつ」の評価。つまり「つまらなかった」っていうことだろう。この「レビュー」という機能。たぶんアマゾンとしては、その商品を持ってる人にそれに関しての感想を書いてもらうことで、買い物の手助けをしているんだろう。確かに自分もそのレビューなんかを観て、買うかどうか決めたりすることもあるし便利な機能だと思う。でもちょっとしか見てないんだけど、「ここが悪かったから星一つ減点」だとか「『総評』としては…」とかなんかそういうレビューが目立つ。なんかこれに関して疑問を感じずにはいられなかった。

7月11日に発売して、まだ3日しか経ってない。それなのにネットの中にはクリアした人がうじゃうじゃいる。そして「つまらなかった」と書いている。そこに矛盾を感じる。つまらなかったらやんなきゃいいんじゃねえの? レビューの一つに「クリア時間は35時間くらいで…」みたいなこと書いてあったけど、35時間ってそんなに少ない時間じゃない。それを「つまらない」って思いながらただただ35時間ゲームをやり続ける。それって、無駄じゃないのか。

そんな中で、この“無駄な行為”に意味を付加させたのが、アマゾンのレビューなんじゃないかと思うのだ。結局、彼らはどこかで「評価をする」ためにゲームをクリアしているんじゃないだろうか。そうでなければ最後までやりきる価値なんてどこにもないはず。ゲームにおいてそれを行うことは本末転倒なんじゃないかと思ってしまう。

自分も映画とかを観てくだらない感想をこうやって書いてるから、あんまり人のことは言えないとは思う。でも、やっぱりあの批判文を見ていると、どこかで「それは違うんじゃないか?」って思ってしまう。彼らは自分の文章が誰かに到達することを意識しているのだろうか。“ゲームの感想”は間違いなく“表現”だ。自分の意見を誰かに向けて放つ。それはネットという匿名性を持ったものの中とはいえ、誰かの購買意欲を動かす可能性がある。それは立派な“表現”だ。それなのにあの文章は、ただ自分の不満をぶちまけているだけに感じてしまう。あれを読んで最初に思ったのは、路上に書かれた落書きのようだということ。そのような気分の悪さを、あの文章の群れを読んで感じてしまった。

以前自分は『批評はエンターテイメントであるべき』ということを感じていて。今回思っていることはそれに近いのだと思う。“誰かの悪口”とかも面白く喋ればなんか許されるような気がして。水道橋博士がライムスター宇多丸を評して、「『つまんない』ものを『つまんない』っていうのって一番『つまんない』んだよ。彼は『つまんない』がどう『つまんない』かを『面白く』説明できる」って言ってた。つまりはそういうことのような気がする。

アマゾンのレビューにこんなことを求めるのはおかしいのかもしれない。でも結局あそこに文章を載せるということは、それが「誰かに読まれる」可能性があるということだ。つまりはそれも一種の“表現”になってしまうということ。それならやっぱりもう少しマシな文章を載せるべきだと思ってしまう。

ネットの何が恐いって、誰でも自分の意見を“表現”できて、そしてその多くが“表現”の恐さを分かっていないことだと思う。“表現”は誰かを変えることができる。それは凄い素晴らしいこと。でもだから、表現が恐いものだって忘れちゃいけない。これを書いて、おれも気をつけなきゃなって思った。