LHFトーク"GONDLA"

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『海辺のカフカ』を手探りに語ってみる ~村上春樹を捕まえろ~

2009年07月11日 | 過去の記事
『海辺のカフカ』は僕が一番好きな小説だと思う。確かこの物語の主人公と同じ15歳の時にこの小説と出会い、以来僕の人生においてかなりの面積を占める作品になった。この小説を僕はたぶん4~5回は読んでいる。読むたびに思うことがあって、僕の文庫版『海辺のカフカ』はふせん紙とドッグイヤー(ページの端っこを折る)でボロボロになってしまった。

さて、そんな『海辺のカフカ』についての感想を手探りで文章にしてみたい。もしかしたら文章にすることで新しい何かが見えるかもしれないし、はたまた文章にすること自体が失敗に終わるかもしれない。しかし、“文章にしてみることに挑戦すること”。僕はそれ自体に意味を感じずにはいられない。どこかでこの作品についての感想を言葉として持っておかなければ、すべては嘘になってしまうような、そんな気分にもなる。というわけで、僕はこの作品についての“何か”を書いてみようと思う。

しかし、一つの大きな問題は、僕がこの物語を捉えきれてないことである。すべてに意味を当てはめて、自分なりに理解することは正直できていない。だから今回は、僕がどうしても述べておきたい部分のみを抽出して、そのことについてだけを書いていきたいと思う。

この小説において、僕が一番衝撃を受けた言葉。それが、

「この世のすべてはメタファーである」

という言葉だ。メタファーとは、「隠喩」の意味で、「物事のある側面を、より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ」(Wikipedia)らしい。この大胆でユーモラスな発想の言葉に、僕はすべてを許されているような気になってしまう。僕はこの「この世のすべてはメタファーである」という言葉に二通りの解釈を持っている。それらは相反しあう解釈であると同時に、二つが同時に存在することで意味の広がりを見せる。

二つの解釈のうち、一つ目は、「すべてのものはメタファーとして、“意味”を持つ」ということである。つまりこの世にあるすべてのものがメタファーなのであれば、一見なんの意味も持たないものでさえも、それはメタファーとして“意味”を持っている、ということなのである。それは道端の石ころや、捨てられた空き缶。どうしても好きになれない人物や、辛い現実に存在する困難。果てはこの世に生きる自分という存在さえも。すべてはメタファーとして何らかの“意味”を持ち、他の“何か”のために存在しているということなのである。

そしてもう一つは「すべてのものは所詮メタファーでしかない」という少々ネガティブな捉え方だ。この世のすべてがメタファーである時点で、それは“何か”のイメージを喚起するものでしかない。すべてはそこで完結することはないのだ。自分が何かを成し遂げたとしても、それは“何か”のメタファーであり、その“何か”のために存在していたに過ぎない。そう考えることで、僕はどこかで「あきらめること」を肯定することができるのだ。

つまり僕にとって「この世のすべてはメタファーである」という言葉は、すべてのものに“意味”を持たせると同時に、すべての“意味”を奪い取ってしまう言葉でもあるのだ。この両極端の解釈を同時に有することで、僕は人生においての“救い”をこの言葉に求めることができる。すべてをメタファーだと考えれば、ネガティブなものも享受することができるし、ポジティブな感情に浮かれることもない。すべてはメタファーの中で平等なのだ。

そもそも究極のメタファーである小説という媒体で、この言葉を言ってしまうことが更なる凄みを加えている。そう、この言葉の指す意味の中では、この言葉さえも“何かのメタファー”なのである。そういう意味ではこの言葉は無敵だ。そんな勇ましくも輝くこの言葉に、僕は憧れと同時に共感を得てしまう。

おそらく、この物語を楽しめなかった人の多くは、物語そのものに意味を求めてしまったのではないだろうか。確かに物語とは本来そういうものである。しかし、おそらくこの物語は“意味”の集合体なのだ。物語そのものを理解するには、作中に込められたパズルのようなメッセージを一つ一つ解読しなければならない。僕の場合は、それは一回では不可能だった。何度も読んでいくにつれて、やっと“意味”の欠片のようなものを拾うことができたように感じる。

今回は一つのテーマについてしか述べることができなかった。とりあえず今回はこれで終わるが、気が向いたら少しずつ『海辺のカフカ』という作品について書いていきたいと思う。すべてを書き終えるなんてことはあり得ないと思う。それでも少しずつ思ったことを書いていく。それが何かのメタファーである限り。