お盆も過ぎてレニーの誕生日がやってくると伊勢平野のあちらこちらでは稲刈りが始まります。今日も、猛暑の中コンバインが金色の海を漂っているのを見ました。本日、わがレニーの誕生日ということで、仕事も休んで家事の合間に音盤聴いておりました。恒例のバーンスタイン特集、今日も行けそうです。
チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1986年
これは「異形の曲の異形の演奏」とでも言えそうな一枚ですね。晩年のバーンスタインの「粘っこく」「暑苦しく」「感情移入過多」なタイプの典型と思われる方も多いのではないでしょうか。
「悲愴」は、事実も妄想も含めてかなり自伝的要素の強い曲であると思います。「独白的」とでも言いましょうか?で、たいていの指揮者は、その曲を三人称的視点で振るのですね。「彼はねぇ、こうだったんですよ」みたいに。でも、バーンスタインのは、特にこの三度目の録音はそうじゃない。「一人称」で語っている演奏なのですよ。「私は、実は、かくかく云々で・・・」とでも言うように。もう、楽曲と同化しているんですね。
特に終楽章。
異形のシンフォニイの、最も異形たる楽章を17分超の激遅テンポで引きずってやっています。恣意的とか独りよがりとかオーバー過ぎるとか、いろいろ言われております。
チャイコフスキーが書いた音符の全てを慈しみ愛撫するかのように譜面をトレースしていきます。前へ進むのが嫌であるかのように・・・。
冒頭の「よじれ」テーマは、窒息寸前まで首を締め付けられているような苦しさであり、第2テーマからの長絨毯を引きずって歩くような営みは、共感に満ちているようでありますが、もう人がどう思おうが関係ない、音符一つひとつの明滅、和声の変化、その全てを「もうこれが最期」と胸に刻印しながら前へ進んでいるみたいな演奏。こういうのを「忘我」というのでしょうか。
バーンスタインはショウマンシップも多分に有り、「エエカッコしい」でもあったと思いますが、同時に、楽曲を前にしては驚くほど正直に、また赤裸々に自分の内面を暴露もする人であったと思います。そして、ここでは後者の一面がかなり強く出ているかと思います。
極めて遅いテンポで「楽譜をなぞるように演奏する」ちょっとアブナイ誘惑は、楽器をする者であれば誰にでもあるでしょう。あの陶酔感、映画やビデオの「ちょっとアレな場面」をクリアなスローで見ているかのような(以下、略)。そうせずにはおれなかったのでしょう。「こんなのでええのかい?」って思う団員もいたことでしょう。でも、彼には、ここは一人称で語る以外に考えられなかった。「他人事」ではない音楽だから。宇野さんが若きワルターの「ジークフリート牧歌」を評して「べったり、音楽と心中してしまうような有様」と言っていましたが、これもそんな感じ。官能的なほどの楽曲との融合、求め続けるエクスタシィ・・・。
・・・・なんて妄想が頭を巡った演奏でした。
「ちょっと『悲愴』を聴こうかな」なんて気軽に取り出せる盤ではありませぬ。死体も、吹き飛ばされた体の一部も、全てが映し出された戦争ドキュメントみたいな演奏であります。他の楽章は、それほどに「異形の演奏」ではありません。「普通」でもありませんが・・・。でも、なんと「おっきい」音楽なんてしょうね。60年代のようなピチピチ感は無く、かと言って、セル、ライナーみたいな「きっちり感」は元々無く、どこか肥大感もありますけど・・・・。
他にもいくつかバーンスタインを聴きました。時間があれば感想文を書きたいです。無理かな????
チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」
管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニック
指揮:レナード・バーンスタイン
録音:1986年
これは「異形の曲の異形の演奏」とでも言えそうな一枚ですね。晩年のバーンスタインの「粘っこく」「暑苦しく」「感情移入過多」なタイプの典型と思われる方も多いのではないでしょうか。
「悲愴」は、事実も妄想も含めてかなり自伝的要素の強い曲であると思います。「独白的」とでも言いましょうか?で、たいていの指揮者は、その曲を三人称的視点で振るのですね。「彼はねぇ、こうだったんですよ」みたいに。でも、バーンスタインのは、特にこの三度目の録音はそうじゃない。「一人称」で語っている演奏なのですよ。「私は、実は、かくかく云々で・・・」とでも言うように。もう、楽曲と同化しているんですね。
特に終楽章。
異形のシンフォニイの、最も異形たる楽章を17分超の激遅テンポで引きずってやっています。恣意的とか独りよがりとかオーバー過ぎるとか、いろいろ言われております。
チャイコフスキーが書いた音符の全てを慈しみ愛撫するかのように譜面をトレースしていきます。前へ進むのが嫌であるかのように・・・。
冒頭の「よじれ」テーマは、窒息寸前まで首を締め付けられているような苦しさであり、第2テーマからの長絨毯を引きずって歩くような営みは、共感に満ちているようでありますが、もう人がどう思おうが関係ない、音符一つひとつの明滅、和声の変化、その全てを「もうこれが最期」と胸に刻印しながら前へ進んでいるみたいな演奏。こういうのを「忘我」というのでしょうか。
バーンスタインはショウマンシップも多分に有り、「エエカッコしい」でもあったと思いますが、同時に、楽曲を前にしては驚くほど正直に、また赤裸々に自分の内面を暴露もする人であったと思います。そして、ここでは後者の一面がかなり強く出ているかと思います。
極めて遅いテンポで「楽譜をなぞるように演奏する」ちょっとアブナイ誘惑は、楽器をする者であれば誰にでもあるでしょう。あの陶酔感、映画やビデオの「ちょっとアレな場面」をクリアなスローで見ているかのような(以下、略)。そうせずにはおれなかったのでしょう。「こんなのでええのかい?」って思う団員もいたことでしょう。でも、彼には、ここは一人称で語る以外に考えられなかった。「他人事」ではない音楽だから。宇野さんが若きワルターの「ジークフリート牧歌」を評して「べったり、音楽と心中してしまうような有様」と言っていましたが、これもそんな感じ。官能的なほどの楽曲との融合、求め続けるエクスタシィ・・・。
・・・・なんて妄想が頭を巡った演奏でした。
「ちょっと『悲愴』を聴こうかな」なんて気軽に取り出せる盤ではありませぬ。死体も、吹き飛ばされた体の一部も、全てが映し出された戦争ドキュメントみたいな演奏であります。他の楽章は、それほどに「異形の演奏」ではありません。「普通」でもありませんが・・・。でも、なんと「おっきい」音楽なんてしょうね。60年代のようなピチピチ感は無く、かと言って、セル、ライナーみたいな「きっちり感」は元々無く、どこか肥大感もありますけど・・・・。
他にもいくつかバーンスタインを聴きました。時間があれば感想文を書きたいです。無理かな????
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