堂々 2004-12-02 07:55:39 | 書 堂々としていたいと思う。それは、見た目の姿ではなく、背後にある公明さや強さのことなのだろう。それが、表現できたとは思わないが、毎日少しづつでも成長して行く事が、それに繋がるのだと思う。 「人書倶老」それが理想だ。「老」は衰えてゆくことではなく、成熟と考えることにした。 « (落花)流水 | トップ | 天下堂々 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 堂々 (JIRO16) 2004-12-03 11:19:22 私は昨日、この「堂々」という書と出会ってから、どれ程頭の中で、「ドウドウ」という言葉を繰り返したでしょうか。lazyさんの、「背後にある「公明」や「強さ」」は、私の、どう生きていきたいかという指標でもあり願望でもあり、また先日の、残りの時間と繋がるものだったのです。しかし私の中で、この「堂々」という言葉が、何か腑に落ちないものを持って、すんなりとは投げ返せない気持ちになってしまったのでした。私にとって、「堂々」という代物は、とても一筋縄ではいかない代物なのでしょう。私は恐らく、この「堂々」という「種」は持っている。或いは、時に握り締めている。けれども、私はそれを土に埋めて水をやるべきなのか、または水など必要のない種なのか、それさえも解らずに掌に乗せて眺めている。確かに時として、その種を強く握り締めなければ乗り越えられなかった幾つかの瞬間があった。けれども、その後はこの種の扱いで、後悔した事もあった。そのような繰り返しで、私はこの種の扱いを、どうしたら良い物かと、未だに考えている。思い起こせば、誰かと会って、この人は「堂々」としているな、と思った事がない。思ったとしても、あまり良い印象が持てない。私の「堂々」は、この辺でうろついているものなのでしょう。「堂々」とは、私の心の中では必要なものと同時に、それを押さえつけなければいけないものでもある。そして、腑に落ちない事のもう一つに、この言葉には「陰り」が無い。あまりにも公正明大で、輝いているばかりで、何か多面的な「負」の部分が無い。それで、この「堂々」という言葉は、やはりその前後に「片割れ」が存在するのではないかと思えてきました。その「片割れ」は、未だ何かは解りませんが、恐らく「翳り」のようなものではないか。こんな解釈は、へそ曲がりの戯言です。それでも、私は昨日、この「堂々」という書に出会って、楽しい散歩が出来ました。 返信する 続き (JIRO16) 2004-12-03 11:49:02 考えてみれば、陰りのある「堂々」なんて、聞いた事がありません。 返信する 翳りある堂々 (lazy_yoshi) 2004-12-03 14:46:34 一億円の小切手を受け取っていても、「状況から見て、そうなんでしょう」という事。そんなことよりも、書が起因となり、繰り返し考えて頂いた事、お礼を申し上げるべきなのか、お詫びを申し上げるべきなのか、考えてしまいました。勿論、私にとっては貴重なコメントであることは間違いありません。 返信する 謙虚 (JIRO16) 2004-12-03 16:26:09 橋本さんの堂々は、確かに「陰りのある堂々」かもしれませんね。陰りという印象が、不健全な「負」であるならば、もう少し健康的に言って、「謙虚なる堂々」というのが、正確なニュアンスかもしれません。可笑しな話ですいません。段々と「堂々」に、照れ始めている自分が可笑しい。 返信する 規約違反等の連絡
lazyさんの、「背後にある「公明」や「強さ」」は、私の、どう生きていきたいかという指標でもあり願望でもあり、また先日の、残りの時間と繋がるものだったのです。
しかし私の中で、この「堂々」という言葉が、何か腑に落ちないものを持って、すんなりとは投げ返せない気持ちになってしまったのでした。
私にとって、「堂々」という代物は、とても一筋縄ではいかない代物なのでしょう。私は恐らく、この「堂々」という「種」は持っている。或いは、時に握り締めている。けれども、私はそれを土に埋めて水をやるべきなのか、または水など必要のない種なのか、それさえも解らずに掌に乗せて眺めている。
確かに時として、その種を強く握り締めなければ乗り越えられなかった幾つかの瞬間があった。
けれども、その後はこの種の扱いで、後悔した事もあった。そのような繰り返しで、私はこの種の扱いを、どうしたら良い物かと、未だに考えている。
思い起こせば、誰かと会って、この人は「堂々」としているな、と思った事がない。思ったとしても、あまり良い印象が持てない。私の「堂々」は、この辺でうろついているものなのでしょう。
「堂々」とは、私の心の中では必要なものと同時に、それを押さえつけなければいけないものでもある。
そして、腑に落ちない事のもう一つに、この言葉には「陰り」が無い。
あまりにも公正明大で、輝いているばかりで、何か多面的な「負」の部分が無い。
それで、この「堂々」という言葉は、やはりその前後に「片割れ」が存在するのではないかと思えてきました。
その「片割れ」は、未だ何かは解りませんが、恐らく「翳り」のようなものではないか。
こんな解釈は、へそ曲がりの戯言です。
それでも、私は昨日、この「堂々」という書に出会って、楽しい散歩が出来ました。
そんなことよりも、書が起因となり、繰り返し考えて頂いた事、お礼を申し上げるべきなのか、お詫びを申し上げるべきなのか、考えてしまいました。
勿論、私にとっては貴重なコメントであることは間違いありません。
陰りという印象が、不健全な「負」であるならば、もう少し健康的に言って、「謙虚なる堂々」というのが、正確なニュアンスかもしれません。
可笑しな話ですいません。
段々と「堂々」に、照れ始めている自分が可笑しい。