仏と何ですか?との問いに、「麻三斤」と答えた、禅問答の一つだ。
真意は理解できないが、色々な答えの中で、これが一番好きだ。重くも無く軽くも無く、分らなくも無く、また分りそうも無いところが、その理由のようだ。
頭で理解しようとするのではなく、自然とそうなるのであろう。同じことを答えながら、ある時は喝と一蹴され、ある時は諾となるところが、不条理ではあるが面白い。
真意は理解できないが、色々な答えの中で、これが一番好きだ。重くも無く軽くも無く、分らなくも無く、また分りそうも無いところが、その理由のようだ。
頭で理解しようとするのではなく、自然とそうなるのであろう。同じことを答えながら、ある時は喝と一蹴され、ある時は諾となるところが、不条理ではあるが面白い。
単純な動機としても、歴代の「禅」の豪傑達が好きです。
<頭で理解しようとするのではなく、自然とそうなるのであろう。>
きっと、そういうことなのでしょうね。
「こうしたい、こうなりたい」という欲求の中に、「その先にあるもの」を見つめてしまう、あるいは「期待」している「私」が居ます。
「その先」を見ている限り、「仏」を理解する事は、出来そうにありません。