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■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

藤原正彦、小学校英語を語る

2007年07月16日 | 記事
 Youtubeに藤原雅彦氏(お茶の水女子大学理学部数学科教授)の小学校英語についての考えを述べたシーンがアップされています。以前、フジテレビで日曜朝に放送されている「報道2001」に出演されたときのシーンです。『国民の品格』の著者である藤原雅彦氏は本来は数学者であるといいます。著書を並べてみますと、やはり数学者列伝的なるタイトルが並びます(『国民の品格』出版前の著書)。

  • 若き数学者のアメリカ』〔1977年、新潮社〕
  • 数学者の言葉では』〔1984年、新潮社〕
  • 父の旅 私の旅』〔1987年、新潮社〕
  • 遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス』〔1991年、新潮社〕
  • 数学者の休憩時間』〔1993年、新潮社〕
  • 父の威厳 数学者の意地』〔1994年、講談社〕
  • 心は孤独な数学者』〔1997年、新潮社〕
  • 古風堂々数学者』〔2000年、講談社〕
  • 天才の栄光と挫折―数学者列伝』〔2002年、新潮社(新潮選書〕
  • 祖国とは国語』〔2003年、ISBN 4062117126(講談社) ISBN 4101248087(新潮文庫〕
  • 国民の品格』〔2005年、新潮社(新潮新書)〕


    わたしが見学したある小学校の英語授業の様子
     『国民の品格』は大ベストセラーになりましたね。藤原氏は「武士道」や「祖国愛」、「情緒」の大切さを常に訴えておられます。
     藤原氏の小学校英語反対論は「英語より国語」という主張に集約されます。英語をやる時間があったら国語をやれ、というわけです。とてもわかりやすい議論ですし、一応の説得力ある議論です。日本人であるならば国語(日本語)をやれというのは当然といえば当然です。それは第二言語を小さなころからやれば効果があるのだとする議論とは別の議論として成り立つでしょう。藤原氏の議論だと、仮に“The earlier, the better”の仮説が支持されるとしても、英語を小学校教育に入れるかどうかの判断は別に行われるでしょう。
     以前、小学校英語についての討論(BSディベート「どうする小学校の英語」、2006年8月27日)を見たときに、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が持ち出しておられたたとえ話を思い出します。鳥越氏は小学校英語の大切さについて、野球を例に出して「中学校ではじめて野球ボールを握るような子がプロ野球の選手になることはない」というようなことを述べ、小さいころからの積み重ねが大切であることを主張なさいました。しかし、この主張には少なくとも次の3つのレベルにおいて疑問を抱きます。
     
    1.小学校英語と野球とがどのようになぜ結びつくのかが不明。
    2.野球の開始年齢と野球に関する総合的な力(以下、「野球力」と言おう)がどの程度はっきりしているのかが不明。
    3.全員が野球選手に「ならなければならない」ことはない。
     
     これは誰もが抱く疑問ではないでしょうか。仮に、小さい頃から野球をすることと野球力に秀でることとが結びつくとしても、その論理がなぜ英語に当てはまるのかは不明です。英語と野球の関係、言語とスポーツの関係がどのようになっているのかわたしは知りません。鳥越氏がこの関係についてはっきりした根拠を持って述べているとも思えません。
     次に、そもそも野球にそのようなこと(開始年齢と将来的な野球力の高さが相関すること)が言えるのかどうかわたしは知りません。毎日とは言わずとも毎週毎週「野球」の練習をしなければプロ野球選手にはなれないのか。もちろん「小さな頃からの夢でした」というのはよく聞く話ですが、小学校で少しやり、中学校では陸上部、高校では外野手で、大学からピッチャーとなった巨人の選手などの例もありますからね。
     さらに言えば、全員が全員プロ野球選手にならなければならないということもないはずです。野球をやりたい人だけが野球をやってがんばればよいし、その中でも野球に対して特別に情熱のある人が「特訓」と呼ばれるその他の選手とは格段に厳しい練習を行えばよいし、その中の何人かがその努力を結果に結びつけてプロ野球選手になればよいのではないかと思います。彼らは学校の授業を通じてプロ野球選手になるのではありません。あくまでも個人の選択の結果としてそのようになるのだとわたしは思います。毎週毎週、全生徒(法律的には「児童」)に、「野球」を「強制」するといった話は聞きませんし、そのようなことを思いつく人もいないでしょう。休憩時間、あるいは学校外活動として野球のボールを握るのと、学校の授業として英語を行うというのはそのレベルの違いをわかっていないたとえだといわざるを得ません。この点、その意味では学校を離れたところで小学校から英語をやるぶんには文句を言えないということになります。しかしそれは個人の自由として認められるべきで、親の権利というべき問題かもしれません。
     小学校教育は義務教育です。義務というからにはそこには何かしらの強制的な力が働く。言語の場合、それを強制するならば徹底的な強制をしなければ効果は薄い。「できるようにならなければ、殺される」というような環境に置かれれば、あるいは「できるようにならなければ、生きてゆけない」という環境に置かれれば、強制としての言語学習はその効果を生むことでしょう。しかし、この日本ではそのような環境を用意することはあり得ませんから、強制としての言語学習〔教育〕には限界があるということです。「馬を水のみ場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というたとえはよく知られています。どんなに我々が言語を教えようとしても、学ぶものにその意思がなければそれは飲まれることのない水なのです。そもそも言語が教えられるのかどうかも疑問です。知識の塊として言語が成り立っているならばその知識を徹底的に叩き込めばよいわけですが、言語の本質がルールの発見とその応用にあるとするならば、学習者に言語の根っこを発見する意思とそれを応用する冒険心がなければできるようになることはないことは言うまでもありません。小学校で野球をさせることもよいでしょう。しかしそれは硬式ボールによる練習ではなく、軟式か、あるいは走りを中心とした全身運動としての野球であるべきではないでしょうか。
    と、わたしは思います。


    藤原氏のYoutube動画を貼り付けておきましょう(初めてgooブログで動画を貼り付けます。試験的意味合いもこめてブログパーツ機能を使っています)。




     最後にもう一度。
     You can lead a horse to water, but you can’t make it drink.

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