今、世界中のカトリック教会ではイースター(復活祭)の時期を迎えています。
イエズスが十字架に架けられた後、三日後に復活したことを祝う大切な時期です。
そこで、この時期にあわせて、神さまについて少し語ってみたいと思います。
「神」と聞くと、ボクたちはどんな存在を思い浮かべるでしょう?
天のはるか彼方から、人間の世界を見下ろしている存在?
すべてを超越していて、近づき難い存在?
イエズスは神に「アッバ」と呼びかけていました。
これは、「パパ」という意味である当時の幼児語。
ボクたちは、神さまの前では畏まって良い子を演じますが、それは大きな間違いです。
神さまは「パパ」であって、彼には自分の肉親のような愛情と親しみとで接するべきなのです。
ありのままの自分をさらけ出すべきなのです。
また、「神は愛である。」と使徒ヨハネは書きました。
そもそも「愛」とはなんでしょう?
イエズスの生き様がそれをはっきりと示しています。
そして、彼の示した生き様から、ボクは「愛」を次のように定義します。
愛とは、「自分自身を 無条件に(=見返りを求めずに) 相手に 与え尽くすこと。」
それは、「好き」とか「嫌い」とか、恋愛のような甘ったるい気まぐれの「感情」のことではありません。
どんな状況でも変わらない「意志」です。
神さまは全知全能の存在です。
だったら、なぜこんなに世界にはむごたらしいことがはびこっているのか?
全知全能の存在なら、この状況をどうにかしてくれて当たり前ではないのか?
おそらく、世界のあり様を見て不条理を感じ、神の存在を疑う人はたくさんいると思います。
でも、神は愛そのものだからこそ無力なのです。
彼はもちろん全知全能です。
この世界を一瞬にして良くすることなど簡単なことでしょう。
でも、そうはしない。
なぜでしょう?
それは、神さまが人間を極限まで愛しているからです。
人間は神さまの「オモチャ」じゃないのです。
神さまの思い通りにしか生きられない「奴隷」じゃないのです。
人間には、「自由意志」が与えられているのです。
神さまを信じるのも信じないのも、人間の自由。
善いことをするのも、傲慢な生き方をするのも、人間の自由。
神さまは、この「自由意志」に干渉することをしません。
人間を愛しているからこそ、極限までに人間を信じているのです。
人間を愛しているからこそ、極限までに人間の選択を尊重するのです。
かと言って、何もしないで傍観しているのではありません。
人間たちをどうにか助けずにはいられません。
そのために彼はどうしたのか?
「神はそのひとり子を与えるほど、世を愛された。」とヨハネは書き残しています。
三位一体のうちの「子」であり、人となった神であるイエズスを世界のために与えたのです。
言い換えれば、神さまは自分自身を世界に与えたのです。
そう、全知全能の存在が人の体をまとい、天の玉座から人間の視線にまで降りてきたのです。
悲しみも苦しみも味わう必要のない超越した存在なのに、人間と同じ生活を送り、すべてを分ちあったのです。
自分自身をあますことなく与え尽くすことで身代わりとなり、人間の真の価値を示してくれたのです。
彼は人間を造る時、やがて人間たちが自分に背くことは見越していたことでしょう。
それでも人間を造らずにはいられなかった。
自分の命を与え尽くさずにはいられなかった。
それほど、人間は彼にとって尊く、大切な存在なのです。
それが、人間ひとりひとりが持っている本当の価値なのです。
神さまは愛だからこそ、ひとりひとりの自由意志を極限まで尊重し、神さまは愛だからこそ、自分自身を与え尽くす以外に方法はなかったのです。
「愛」は全能者を天から地に降ろすことができるほどに強いのです。
「愛」は全能者を不完全な存在である人間の「囚人」としてしまうほど弱いのです。
「愛」はこの世で最も強く、また、最も弱いものなのです。
それを何よりも表しているのが「十字架」であり、今、カトリック教会が祝っているイエズスの死と復活なのです。
t a d d y
マイスナー枢機卿が、
『「愛」を他の言葉に置き換えるなら『苦しむ』という言葉だろう」とおっしゃっていました。
「あなたを愛しています。」
とは、
「私はあなたのために喜んで苦しみます」
となるのね。
タディ君ならどんな言葉に置き換える?