峡中禅窟

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哲学、宗教、芸術...

西谷啓治:『宗教とは何か』...03

2012-08-24 13:34:37 | 宗教哲学

西谷啓治:『宗教とは何か』...03

 

『緒言』から...02

 

前回は、西谷が「宗教とは何か」という問いを「自分が自ら問ひつつ自ら解答を求める」という構造を持つ問い、「自問自答」の循環の中に読者自身で踏み込んでいくべき問いとして提示しようとしているということを指摘した。

 

そして、こうした「自問自答」の循環は、科学的-客観的な問題ではなく、あくまでも自分自身の問題...「生き方」あるいは「信念」や「信仰」の根幹にかかわるような問題に特徴的なものであること、そして、それ故にこそしばしば解答がない、ということにも注意を促した。

 

さて、同じこの『緒言』の中で西谷は、更に、この「自問自答」の循環を、別の側面から切り出してきている。それは「宗教」を「時間」あるいは「歴史」の位相から切り出してくる観点である。

 

前回にも書いたように、「宗教学」といえば、一般的には「従来の諸宗教に現れたさまざまな事象」に基づく、一般的な特質の究明であり、あくまでも「過去から伝えられた既成の事実」に立脚した分析、解明である。だから特に意識して、現代の宗教を扱うというスタンスを取らないかぎり、基本的には「過去にあった宗教」に目を向けたものになる。

 

しかし、いうまでもなく、それでは宗教の一番大切な根本が抜け落ちたものになってしまう。宗教はその時その時の、同時代の人間の精神的な要求に応えていくものであり、生きたものとしては常に「現在」のものでなければならないからである

 

もはや祈りにも答えることなく、それゆえ祈られることもなく、書物の中にかろうじてその名と事績の痕跡を残すだけの宗教...「宗教とは何か」という問いを立てるとき、そのような宗教を出発点として思索を始める者などいないのである。

 

それは、確かに「宗教であったもの」ではあるが、もはや生けるものとしての「宗教」ではない。その時、その時点において時代の精神をしっかりと受け止めて、生きたものであった宗教も、時がかわり、時代の精神が変われば精神的な力を失う...時代と精神を共有しない者が見れば、それは「迷信」「盲信」にしか見えないであろう。そうしたものを笑い飛ばすことは簡単なことなのであるが、確かにそれは、生きて、その時代の人間の精神的な苦悩に答え、魂の救済をしていたものなのである。

 

それならば、ここで私たちは自問自答しなくてはならない...今の時代に、現代のわれわれの心の苦しみ、悩みに答えるようなものを、私たちはもっているであろうか? 時代の変化と共にその使命を終え、かつては持っていた「宗教性」を喪失した亡骸を採りあげ、その亡骸がもはや「生きていない」という理由で「迷信」「盲信」扱いすることは、本当に正しい態度であると言えるであろうか? 

 

「私たちは、科学技術に代表されるような、人間の英知によって、迷信、盲信を克服した...」---然り、確かにそうかもしれない。しかし、生の苦しみの問題、老いの問題、病の問題、死の問題...世界を覆い尽くしているように見えるさまざまな深刻な問題...戦争、飢餓、貧困、差別や偏見、民族間、宗教間の憎しみ...こうした、技術や学問、「人間の英知」と呼ばれるものによっては、どうすることもできないような、さまざまな問題に直面したとき露わになる、私たちの精神的な脆さはどうであろう...

 

一つの例を引こう。平安時代のまさに絶頂期に君臨した藤原道長は、いよいよ臨終を迎えるときに(万寿4年:1027年)、自分の病床を法成寺の阿弥陀堂に運ばせ、九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手まで引っ張らせて結び、北枕、西向きに横たわる。そして天台座主を招いて念仏読経させ、主だった人々に囲まれながら、自らも念仏三昧に入ったという。その死に様は安らかで、息を引き取った後もまだ念仏を唱えているかのようであったという。

 

道長に限らず、当時は阿弥陀信仰が盛んであり、阿弥陀如来の来迎図を描いた屏風を寝床のすぐそばまで持ってこさせ、阿弥陀如来の手のところから五色の糸を引っ張らせる。そしてその糸のもう一方の端を自分の身体に結びつけさせ、念仏三昧に入る、といった事がなされていたという。阿弥陀信仰に基づくこうした臨終の儀式が、まさしく一種の「往生術」(良い往生を迎えるための技法)として、死に立ち向かう人間の精神的な支えとして生きており、その結果念仏三昧に入りながらの安らかな往生を導くことに成功していたとするならば、どうであろう。こうした臨終の作法は、愚かな迷信、鰯の頭も信心から的な盲信と言えるであろうか...

 

現代人であれば、そもそも「臨終を迎える」という決断を受け入れる段階で、自分の行く末に絶望してしまうのではないか...ましてや、阿弥陀如来の屏風を枕元に持ってこられて、五色の糸を身体に結びつけられようものなら、顔面蒼白、狼狽してどうにもならなくなるのではないか...そうした現代人と、五色の糸をしっかりと身体に結わえ、阿弥陀如来を頼りとして、その導きを一心に握りしめて念仏を唱え、静かに臨終を迎える中世の人々と、一体どちらが優れているというのか...

 

「宗教学」が、宗教の生きた現場を離れてしまえば、もはや「非-宗教的」なものになりはてた「宗教の遺物」を取り扱うだけの「非-宗教的な宗教学」に陥ってしまうことになる。そうなってしまったのでは、いまの例に見られるように、実際に生きて働いている宗教の現場に立ってみなければどうにもならないような問題に対しては、手も足も出ないことになる。それでは、どうするか?

 

西谷は「現代の人間として自己に納得のいくやうなもの」つまり、過去ではなく、現代に生きているわれわれ自身の納得がいくもの、現代のわれわれの問題意識、現代のわれわれの精神的な危機、苦悩といったものを「宗教とは何か」という問いの中に投げかける。そうすることによって「あったもの」よりもむしろ「あるべきもの」の探求へと志向を転換させるのだ、と述べている。そうすることで「現在から過去へ眼を向ける態度」と「現在から将来へ目を向ける態度」とが「一つに結びついてくる」のだ、と。

 

これは要するに、たとえ過去の宗教を探求の対象にする場合であっても、まず第一に「宗教がもともと何であるのか」あるいは更に踏み込んで「どのようなものであるべきか」ということを睨みながら考える...その宗教が現実に生きて働いていた局面においては、それは一体いかなるものであったのか...と。

 

結局、生きて働いている姿においてこそ、宗教はその「あるべき姿」を示しているのである。だから、ある宗教の「あったもの」としての姿を手掛かりにして、その「あったもの」の中に「あるべきもの」「あるべき姿」を見ていく...。

 

宗教の危機が声高に叫ばれている現代のわれわれにとっては、もはや「生きた宗教」は自分たちにとっては、皆無に近くなっている。だからこそ、かつて「生きていた宗教」の中に、いま「生きている宗教」を、今こそ「生き返らせるべき宗教」を探し求める...。「かつてあった宗教」の中に、自分たちが求める「あるべき宗教」、現代においてこそ、力を発揮することのできる宗教を探し求めていく...。「あったもの」の理解を通じて「あるべきもの」を考え、「あるべきもの」を考え抜くことによって「あったもの」を照らし出す...

 

この作業を西谷は、「人間のうちから宗教といふものが起ってくる「もと」を、現在における自己の身上に、主体的に探求する」ことだと説明する。つまり、そもそも「宗教」というものが発生してくるその根本、根っこのところを、自分の問題として、自分の身の上、自分の生き様、自分の信念、自分の人生のこととして考え抜く...。つまり、自分の心の中に、宗教が生まれてくる、そのもとを見いだし、自分の問題として一緒に考えていく。

 

「宗教とは何か」という問いかけは、西谷にあっては、「人間のうちから宗教といふものが起こってくる」その「もと」とは何か、という問いかけであり、さらには、既に特定の宗教、特定の信仰を持っているわけではない者にとっては、「宗教とは何か」という問いを、切実に問いかけるその「もと」、特定の宗教を持たず、信仰にも縁のない人間が、それでも宗教に惹かれ、わからないながらも「宗教とは何か」と問いかける、あるいは問いかけずにはいられないその「もと」、そこに向かっての問いなのである

だから、西谷は「人間のうちから宗教といふものが起ってくる」...という言い方をしているのであるが、実際にはそうではない。そうではなく、「自分の内に宗教が起こってくる」...いまだ信仰、信念、信条といった明確な形は取らないにしても、自分の中に「宗教」の問題を看過できないものがある...

この「関わりの切実さ」あるいは「問いの切実さ」を、神なき時代における信仰の基礎に据えようとした神学者がいる。ナチスに追われてアメリカに亡命したドイツの神学者-哲学者パウル・ティリッヒである。「神の存在」、「神の啓示」を出発点に据えることができない現代において、たとえニーチェのように徹底的に「神の死」という前提から出発する形での関わりであっても、あるいは「神の拒絶」という形での否定的な関わりであっても、絶えず神に対して の深い関心が存在するならば、それが信仰の可能性の礎なのだ、と。ティリッヒは、この関わりを「究極的関心(ultimate concern)」と名付ける。

「究極的関心」は、結局、信仰、神、救済といった問題がその人の人格の中心まで食い込んでいる人、こうした問題を抜きには自分の生き方、自分の人生、自分の存在の意味を考えることができない人に立ち現れてくるものである。そしてティリッヒは、人間は常に限界の中に置かれている...そして、生死、老い、病、戦争、飢餓、貧困...絶えず自分の存在のはかなさ、脆弱さに曝されているのだ、だから、こうした問題---自分を超えるもの、永遠性に繋がるもの問題に直面せざるを得ない存在なのだ...そう考える

敢えて言うならば、西谷が提示する「宗教とは何か」という問いは、この「究極的関心」に相当する。あるいは漠然とした不安に導かれ、あるいは人生の上での苦悩に引きずられ、あるいは過酷な運命に翻弄されて否応なく人生の無常を思い知らされ...きっかけは千差万別であっても、何らかの機縁によって切実なものとして「宗教とは何か」という問いの前に立たされ、あるいは立つことができる...そしてこの「宗教とは何か」という問いを、単なる知識の上での問いを超えて、切実に自分自身の人生をかけた問いとして引き受けることができる...

 この『宗教とは何か』という著作の中で西谷が読者を導こうとしているのは、こうした問いの場面に立ち続けることなのである。「自分が自ら問ひつつ自ら解答を求める」という構造を持つ問い、「自問自答」の循環の中に立つということは、そういうことなのである。

 

 


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