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哲学、宗教、芸術...

西谷啓治:『宗教とは何か』...02

2012-08-13 16:44:12 | 宗教哲学

西谷啓治:『宗教とは何か』...02

 

『緒言』から...01

 

本書を繙くと、まず『緒言』に出逢う。

『緒言』では、(1)本書の成立事情が簡単に説明され、そして(2)本書全体の問題意識の解説、(3)本書を読むにあたってのあらかじめの注意書きなどが書かれている。

 

(1)の「成立事情」に関しては、本書を構成している6つの章が、6編の「エッセイ」からなっているということ。そして、その「エッセイ」が昭和29年から30年にかけて刊行された「創文社」の『現代宗教講座』の依頼で書かれたということ。更に、もともとは「宗教とは何か」という題で書くことを依頼され、そのように書かれたものの、「充分に意を盡くし」得ず、標題を変えて書き足し、それでも収まらないために書き継いでいった...という事情があること。そして最後の2つの章は、一冊の書物として纏めるにあたって、書き足したということが説明されている。

 

この解説で注意することは、本書が最初から「論文」として書かれたのではないということである。本書は『現代宗教講座』のための、それもその第1巻のための「エッセイ」として書き始められているのである

 

『現代宗教講座』という一般読書人を対象としたシリーズの第1巻に、「宗教とは何か」というテーマを貰ったということは、入門書的なもの、しかも一般的で基本的な内容のものが求められているわけであるから、本書も最初はそのような意図のもとに書き出されているのである。それが「エッセイ」という位置づけの意味でもある。しかし、そうはならなかった...

 そして本書は、最初の一篇では「充分に意を盡くし」得なかったために書き足されていくのであるが、それら4篇もすべて「エッセイ」として書かれている。つまり、著者は自分の意を尽くすことができなかったからこそ、書き足していくのであるが、その意を尽くすことができない理由は、「論文」というスタイルを取って取り組めば解決できるようなものではなかった、ということである。実際、本書にはいわゆる「注」がほとんど存在しない。

 だから著者は、「本書の諸篇は、初めから計畫的に書かれた場合のやうな組織的な聯関を持っていない」と断っているが、それは著者にとっては、思想的な組織的連関が、そしてそれ以上に「体系的な叙述」が、そもそも本質的な問題ではなかった、ということなのである。これはつまり本書が、論文には不可欠な論理的な体系性をそれほど堅固には持っていないということであり、それは言ってみれば本書が、計画的で論理的な解明を行っているわけではない、ということに他ならない。

 

これは一体どういうことであるのか...

 

本書は「宗教哲学」を専門とする哲学者:西谷啓治の「主著」として名高いものであるが、この主著は「論文」つまり学術的なスタイルでは書かれなかった...

 おそらくは最初の依頼者の希望でもあった一般的な「啓蒙的-学術的解説」でもなく、著者のような立場の人間が「意を尽くす」ために通例取り組むような「専門的-学術的論文」でもなく、エッセイとして書かれる...

 要するに、本書が「エッセイ」と言われているのは、特に「エッセイ」というスタイルがあるというわけではなく、「解説」でも「論文」でもない、独自のスタイル...そうしたスタイルの前例がないために、どこにも分類できず、ただ「エッセイ」としか言いようのないスタイルで書かれざるを得なかった、という事情を指しているのである

 そして、「宗教とは何か」というテーマそのものが、そうした独自のスタイルを要求するものであった...ここが一番大事なポイントである。

 

それでは一体、何がそうした独自のスタイルを要求するものであるのか?

 

著者は、このように書いている。

 「宗教とは何かといふ問いは、(中略)自分が自ら問ひつつ自ら解答を求めるといふ意味のものでもあり得る...」と。

 「宗教とは何か」と、自分が自ら問いつつ、自ら解答を求める...

 自分にとって、宗教とは何か? 宗教は必要なものか? 

 こうした問いを自ら問いつつ自ら解答を求める...自問自答を繰り返す...これはすなわち、宗教の問題が、その人の生き方そのものに深く食い込んできている時に起こることに他ならない。

 自分にとってそれほど重要でない問題を「自問自答」する人はいない。私たちが「自問自答」するときというのは、その問題が気になって仕方がなく、頭から離れなかったり、あるいは抜き差しならない形で迫ってきていたり、自分から進んで自問自答しているというよりも、むしろ自問自答させられている...そうせざるをないような状態に置かれている...そんな場合がほとんどである。

 だから、宗教の問題が自分の人生、自分の生き方の根本にかかわり、何らかの形でそれに対して自分なりの解決の糸口を探し、自分なりの態度を決定しなくてはならないとき、私たちは自ら問いつつ、自ら答えていこうとする。この時、人に答えを求めることはできない。それは自分自身の、しかも自分の心の奥底の問題であるから...

 そう、そしてこの「自ら問いつつ、自ら答えようとする」場合、つまり「自問自答」する場合というのは、基本的に問いに対する答えが「存在しない」あるいは「見つからない」場合がほとんどなのである

 例えば、この「宗教とは何か」という問題意識においては、

 (1)まず第一に「宗教」というものは余りに多様で、一義的に定義できない...「教義(教え)」を核としているのか、「典礼(儀礼:セレモニー)」を核としているのか、「行(修行)」を核としているのか...。崇拝の対象を持つのか持たないのか...。だから、どの「宗教」を基準にして、「宗教とは何か」と問うべきなのか、混乱してしまわざるを得ない。

 (2)そして第二に、内面的な「信」「信仰」ということを基礎に置くものである場合、人間の心の中は「事物」のように分析解明することはできない...自分自身の日常的な心の中ですら、クリアーにはわからないものであるのに、ましてや宗教的な場面における人間の心の中など、どのようにして知ることができるのか...

 (3)更に、第三には、「信」あるいは「信仰」の宗教を考える場合であるならば、自分の中に「信/信仰」が生起して、初めてその宗教が自分の中に成立するのであるから、「宗教とは何か」ということが自問自答できるためには、既にその人自身の中に宗教の核である「信/信仰」が確立していなくてはならない。しかし、「信/信仰」するためには、一体何を信じ、信仰するというのか...これが既にわかっているのであれば、そもそも「宗教とは何か」と自問自答する必要はない。

 

そう、つまり、第三のポイントで見えてきていることは、「宗教とは何か」という問いが、ある位相においては明らかな「循環になっているということなのである。「何を信ずるべきか、ちゃんと知っているから、信じることができる」---「ちゃんと信じることができているから、信ずるべきものがしっかりと心の中に存在し、だからこそそれが何か、知ることができる」---「自分の信じているものは、素晴らしいものだ、と確信を持って知っている、だから揺るぎのない信仰がある」---「確信を持った知に裏打ちされた信仰がちゃんとある、だからその信仰の内容を、はっきりと確かに知ることができる」...

 こうした、「信/信仰」と「知」の相互関係の循環の中に飛び込むことができる、ということが、ある宗教を「信じる」ということであるならば、一体どこから飛び込めば良いのか...「わからなければ、信じることができない---信じなければ、わかることができない」

どうであろう、先ほど、「ある位相においては循環になっている」と書いたのであるが、この「位相」とは、「私自身の問題」という位相なのである。つまり、著者は「宗教とは何か」という問いを、のっぴきならないギリギリのところであなたにとって/私にとって、宗教とは何か」という次元に引き摺り込んでいくのである。

 

いま上で上げた3つのポイントの第一は、客観的、第三者的に見た上での問題。第二は、二人称的に人間の「内面」のこととしてみた問題。そして第三は、自分自身の問題...一人称の、私、きわめて個人的な信念、信仰、生き方の姿勢にかかわる問題。

本書の成立事情の背景にある、執筆のきっかけ...『現代宗教講座』というシリーズの第一巻の文章...この執筆依頼は、おそらく第一の問題の次元での解説なのである。つまり、宗教というものは、あまりにも多様で全体を見通すような視座が必要だ、だから、様々な宗教現象を貫く根本的な構造を明らかにして欲しい...事実、西谷自身もこの「緒言」の中で、「従来の諸宗教に現れたさまざまな事象に基づいて」宗教の「一般的特質を解明した論述」が期待されていたのであろう、と書いている。

教科書的な書物であれば、おそらくこのレヴェルでの議論に終始するはずである。そして、自分自身がある一定の信仰なり信念を持っている執筆者であるならば、第二の、人間の内面性の問題にまで踏み込んで行くであろう。そして、ここまでは、学術的なスタイルの論究が或る程度有効な領域である。しかし、西谷はそうした次元を飛び越えて、いきなり第三の次元に読者を誘導する...これが、本書の成立過程の背景にある基本問題である

 

「自ら問いつつ自ら答えていく...」こうした次元での精神的な格闘を徹底的に経験した西谷自身にとっては---西谷啓治の生涯の思想的テーマが、「ニヒリズム」つまり「虚無」の問題だったことを想起して欲しい---、第一、第二の次元の問題など、いかほどのものでもなかったのである。だから、依頼者の希望は承知しながらも、敢えて自分の問題に踏み込んでいく。

 

そして、この西谷の姿勢は、こと宗教の問題に関しては、学問的-客観的なスタンスよりも、遙かに対象に沿った、的確なものだったのである。なぜならば、いまも書いたように、例えば「信仰」の宗教を問題にするのであれば、信仰が生起している場所、その場面以外には生きた宗教はないのだから...教義や典礼は、信仰のドラマが生起しているその現場の抜け殻、脱皮した皮のようなものであるから。禅と浄土、そしてキリスト教を思想的な遍歴の中で経由してきている西谷にとっては、宗教とは、人間が何かに触れ、気が付き、衝撃を受け、恐れ戦きながら近づき、自分自身を変容させていくドラマ、その過程の進行を命としているはずである

 だから西谷は「宗教とは何か」と聞かれたならば、自分自身の経験に忠実に、まず初めに、読者を答えのない自問自答の循環の中に引き入れること、そして読者自身に自問自答させること、そして最終的には「答えのない自問自答の循環」から「知りつつ信じる循環」の中に自分で歩み入らせることなのである

それゆえ、本書を読むときには、「客観的な情報を得る」ことを目的としているのでは、肩すかしに終わるであろうし、「著者の考えを知る」、というつもりで読んでも、目指す方向がずれたままになってしまう...著者の狙いは、あくまでも読者が本書を読みながら、自分自身の問題として、自分の身の上に置きながら自分でも考え、「自分自身の自問自答の循環」の中に、自分の足で入っていくことなのである

 

 

 

 

 

 


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