川越雑記帳2(川越見て歩き)

「みて学ぶ埼玉の歴史」…女工哀史と廃娼運動


「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年
 近代・現代/日清・日露戦争の時代
  ・女工哀史と廃娼運動

 日清・日露戦争を経て日本の資本主義は「進展」する一方、都市貧民問題、工女を中心とした労働問題、公害問題、小作争議の発生、子女の身売りなど深刻な社会問題を起こした。1899(明治32)年に横山源之助は都市下層民の生活を『日本之下層社会』で著し、1903年に農商務省は、紡績・製糸・鉄工業などで働く労働者の実態を『職工事情』で著した。農村は若年で安価な労働力の供給地となり、女子の中には半奴隷的は工女、芸娼妓酌婦(げいしょうぎしゃくふ)、海外「醜業婦(しゅうぎょうふ)」(「からゆきさん」)などで酷使される者もでた。彼女たちは、出身階層、就業事情、教育程度、前借金(まえしゃっきん)による年季奉公(ねんきぼうこう)制などの点で共通していた。1911年10月から3カ月間、『埼玉新報』は「職工優遇模範工場投票募集」を行い、1位は深谷町(深谷市)の富国館製糸場、2位は同町の開国館製糸場、3位は大宮町(さいたま市)の大宮館製糸場となった。明治天皇の三回忌にあたる14(大正3)年7月30日の『埼玉日日新聞』は、一面全面を「明治天皇祭」として明治天皇の胸像を掲載した。最下段のコラムには、「昨深谷に至り、製糸工場の外郭を見る、総ての窓には鉄柵あり鉄網を張る、殆ど牢獄と同一也、内には猛獣を飼へるに非ず、狂人を繋げるに非ず、可憐なる少女を容るる也……」とあった。深谷と本庄の遊廓は、1876年に熊谷県から埼玉県に移管されていた。

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