
神社前の道を、荒川の堤防と反対側に行くと、すぐ八幡通りに戻る。
そこを左折して600mほど行くと、川越線のガードがある。

ガードを潜り100mほど先を左折すると、ブロック塀に囲われた墓地があり、中にお堂が見えた。

お堂の直ぐ後ろが川越線の線路で、この時丁度電車が通過した。
「つい最近まで名もないお堂と墓地だったが、昭和50年の夏、当時浦和第一女子高校の生徒だった金子智恵さんが、ここで平安末期―鎌倉初期の薬師仏を発見したことで急に有名になった。その後の専門家の研究によると、灌頂院の搭頭だった神宝寺の本尊仏だったといわれる。高さ1.3㍍余という大きな座像で、切れ上がった眼尻、太い鼻柱、張りのある口唇、がっしりした体など、12世紀末から13世紀はじめにかけての特徴をよく現している仏だ。県の文化財に指定されている。」

「境内には嘉永6年(1853)4月に建てられた宝篋印塔がある。庵主の法岳真観従徳や世話人の山崎長兵衛、粕屋辰五郎らが建てたものだ。享保13年(1728)12月に古谷本郷の人々、22人が建てた庚申塔もある。」
お堂から入って来たほうを見ると、宝篋印塔が建っていた。
その右側には宝篋印塔、左側の覆屋には六地蔵があった。

「なお線路を挟んだ向かい側に共同墓地があるが、これは神宝寺の林塚といわれている。もともとは同じ境内にあったが、昭和15年に川越線が開通したので両側に寸断されてしまった。
列車にまつわる「川越お化け」の伝説がある。最終列車が通ると、きれいな娘が後からそれを追いかけるというのである。気持悪るがって運転手になるものがいなくなった。そこで国鉄が灌頂院で大法要を営んだところ、その後は出なくなったという。」
川越線のガードを潜る前に左を見ると線路際に塚があり、墓石が見えた。
塚の上にはお堂が建っていた。