この記事は、イザヤ書8章2~3節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。
2節 新改訳
そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
この訳文は、板に文字を書き終えれば・・・証言させる。言い換えると、板に文字を書き終えるまでは・・・証言させないとも取れます。何のためにこの条件付けがあったのでしょうか?イザヤが板に『マヘル・・・』と書き終えたあと、ウリヤとゼカリヤが登場し、何かの証言をしたのだと、読者は受け取ります。また、二人の証言の内容が何だったのか、どこにも書かれていません。新改訳の訳文は、イザヤが板に書く作業と、証言者との関係が無関係になっています。
この2節が何を言いたいのか、私には全く分かりません。新改訳は組織を作り翻訳にあたりました。委員の中から『こうした訳文では、読者は意味が分からない』と、指摘する人は誰もいなかったのでしょうか?新改訳の組織がどのようなものであったのか、私には分かりませんが、この訳文を作った方以外で、訳文のできを吟味する人がいたのではないでしょうか?組織で訳されているにもかかわらず、チェック体制が機能していません。出版社の担当者は、このような意味の分からない訳文に目を通し、何も指摘できなかったのでしょうか?
2節では、わざわざ証人?を呼び寄せていますが、記録方法と証人とに密接な関係があると思うのです。もし、イザヤがペンとインクで書いたとしたら、時間にして1分で終わったことでしょう。証人は何のために必要なのでしょうか?しかし、もし石の板に彫り込んだとしたらどうでしょう?手書きのメモに文字を書き、大きな石の板に文字を下書きし、ゲンノウとノミを使い、トンカントンカンと、大きな字を彫り込み終わるまで、半日以上かかったと思います。石に文字を彫り込む作業中、ちょっとした力加減で、予期しない箇所が欠け、字形が崩れることもあります。そうなると、新しい板に取り換え、やり直しです。完成したあと、イザヤは、手書きのメモと石を差し出し『メモ通りに文字を彫り込んであるよな。見やすいようにはっきりと彫れたよな』と証人に仕上がりを確認してもらったのではないでしょうか?このように、記録方法と証人?とは、密接な関係があるように思います。同時に、預言の証人という意味もあったでしょう。
ところで、新改訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、主であるという解釈ですが、口語訳、新共同訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、イザヤであるという解釈です。証人を呼んだのは主か?イザヤか?といった違いが生じています。これは、主が語られた言葉が1節だけだとする解釈と、1,2節だとする解釈の違いから来ています。
現代の文章表記では、話した内容は日本語では『 』、英語では“ ”といった引用符で表記されますが、古典ではこうした引用符がありません。かつてのヘブライ語も同じです。それで、どこからどこまでが主が語った内容なのか、解釈によって、範囲が違ってきます。次の青い字が主が語ったと解釈している部分です。
主が語ったことばは1節だけだ(イザヤが証人を呼んだ)とする訳文
1) Then the Lord said to me, “Make a large signboard and clearly write this name on it: Maher-shalal-hash-baz.” 2) I asked Uriah the priest and Zechariah son of Jeberekiah, both known as honest men, to witness my doing this. New Living Translation
New Living Translation
Complete Jewish Bible
Orthodox Jewish Bible
主が語ったことばが1,2節だ(主が証人を呼んだ)とする訳文
1) Moreover the Lord said to me, “Take a large scroll, and write on it with a man’s pen concerning Maher-Shalal-Hash-Baz. 2) And I will take for Myself faithful witnesses to record, Uriah the priest and Zechariah the son of Jeberechiah.” New King James Version
Common English Bible
New King James Version
New American Standard Bible
ユダヤ人のDavid Rubinさんという方が、ヘブライ語の聖書を、個人で英語に全訳したTanach The Hebrew Bibleという貴重なサイトがあり、2節の『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、『イザヤ』であり『(石の)板に文字を彫り込んだ』と解釈しています。良い解釈だと思います。
8:1 And the Lord said to me, “Take for yourself a large tablet and inscribe on it with a common engraving tool concerning Maher-shalal-hash-baz.”
8:2 And I took trusted witnesses to testify for me, namely Uriah, the priest, and Zechariah son of Jebe-rechiah,
http://www.rubinspace.org/html/isaiah_8.html
ここでは2節冒頭部の解釈が鍵となります。ヘブライ語聖書で、1,2,3,5節の主語と動詞を見比べれば、自ずと答えが出るように思います。
ヘブライ語、ギリシャ語とも、『主が言った』と言う箇所は、『主 Yah·weh κύριος』という主語が明示されている(1,3,5節)ことに注目しなければなりません。ヘブライ語を見ると2節は『~を立ち会わせなさい』と、主がイザヤに命じているという表現になっています。一方、ギリシャ語では『~をこの作業の立会人とした』と、イザヤが立会人を呼び寄せたという表現です。ヘブライ語とギリシャ語では、使われてる動詞(話法)は違いますが『イザヤが立会人を呼び寄せた』、そのように解釈するべきでしょう。
ヘブライ語
8:1 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:2 wə-’ā-‘î-ḏāh ベアイダー そして、~を立ち会わせなさい
8:3 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:5 Yah-weh dab-bêr アドナーイ ダッベーレ 主は言われた
コイネー・ギリシャ語(70人訳)
8:1 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:2 μάρτυράς μοι ποίησον マルトゥラス モイ ポイエーソン ~をこの作業の立会人とした
8:3 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:5 κύριος λαλήσαί クーリオス ラレーサイ 主は言われた
立会人を呼んだのはイザヤであると理解します。新改訳で『証人に~証言させる』と訳されたヘブライ語は『ed』という語で『witness、testimony、reminder』などと訳されています。証人という意味以外に『見物者、立会人、証言、勧告』などの意味があります。文脈から判断すると、イザヤが呼び寄せたのは『証人』ではなく、石の板に文字を彫り込む作業の『立会人』であったと解釈する方が素直だと思います。また『証言させる』は、新改訳の翻訳者が勝手に付け足したことばです。ウリヤとゼカリヤが『証言をした』ことを裏付ける記述は、イザヤ書のどこにもありません。
こうして、次のような訳文になりました。
2節の私訳
私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。
~3節の解釈と私訳~
3節 新改訳
そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
イザヤは女預言者に『近づいた』と書かれていますが、このことが女の妊娠とどういう関係があるのでしょうか?預言者だけに、奇跡的な力で妊娠させたということにも受け取れます。ところで、預言者イザヤは妻帯者ですから、新改訳の訳文は『イザヤは、妻以外の女性と体の関係を持ち子どもを生ませた』という意味になります。新改訳はイザヤ不倫説を支持する訳文になっています。
英語の聖書を見ると『妻とからだの関係を持った』という表現になっているものがあります。イザヤとその妻が通常の夫婦生活の中で、妊娠したという意味です。これが正しい訳です。
新改訳は『qarab カラブ=近づく』『nebiah ネビーアー=女預言者』と直訳していますが、直訳をすると誤訳になります。ヘブライ語『qarab カラブ』は『近づく、近寄る』という意味で使われることが多いのですが、この文脈では『性的な関係を持った』ことを意味する婉曲表現になっています。
ヘブライ語『nebiah ネビーアー』は、『女預言者』という意味のほか『主の霊を受けた女』という意味もあり、この文脈では『主の霊を受けた女』という意味です。『naba ナーバー』は、神の霊を受け預言するという動詞です。この動詞が男性名詞となったものが『nabi ナビー』で、女性名詞となったのが『nebiah ネビーアー』になります。イザヤ書における、nebiah ネビーアーは、解釈困難な箇所だと言われてきましたが、ヘブライ語辞書に『主の霊を受けた女』という定義がちゃんと書かれています。若しくは、ヘブライ語の名詞は動詞から派生して作られるのですから、動詞ナーバーが『主の霊を受ける』という意味だと分かれば『ネビーアー 主の霊を受けた女』という解釈にたどり着くこともできます。難しい解釈ではありません。
『新改訳聖書の特長』というサイトを見ると、『ヘブル語およびギリシャ語本文の修正を避け、原典に忠実に翻訳していること。パラフレーズ訳ではなく、リテラルな翻訳であるが、各書の文学類型にふさわしい日本語の文体を用いていること』とあります。ヨコ文字を使っているので分かりにくいですが、平たく言えば『直訳で翻訳します』ということを言っているのです。
新改訳は『私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ』と、イザヤ不倫説に立った訳出をしました。この訳文は『新改訳聖書の特長』にのっとり、きちんと『直訳』で訳されたものです。果たして直訳をすれば、正しい翻訳ができるのでしょうか?事実は正反対です。直訳をするから誤訳になるのです。
もし、イザヤ不倫説が正しいのであれば、不貞行為に対する処罰が、8章以降のどこかに書かれているはずです。しかし、どこにもありません。ダビデはバテシェバとの不貞行為で神の処罰を受けました。にもかかわらず、イザヤの不貞行為はお咎めなしということになります。イザヤは、王様や国民の面前では聖職者を装い、カゲでは女遊びをするウハウハ坊主だったということになります。
信徒には正しい生活を送るよう指導しておきながら、自分は性犯罪で逮捕されるウハウハ聖職者が現代にもいますが、イザヤ8:3はこのウハウハ行為にお墨付きを与える内容になっています。新改訳の翻訳委員会は、プロテスタント教会を、リベラル神学へ誘惑しようという意図でもあるのでしょうか?
英訳聖書を見ると『イザヤは妻との間に子をもうけた』と解釈されているものがいくつもあります。
Complete Jewish Bible (CJB)
Then I had sexual relations with my wife; she became pregnant and gave birth to a son
Contemporary English Version (CEV)
Sometime later, my wife and I had a son,
Good News Translation (GNT)
Some time later my wife became pregnant. When our son was born,
Living Bible (TLB)
Then I had sexual intercourse with my wife and she conceived and bore me a son.
New Living Translation (NLT)
Then I slept with my wife, and she became pregnant and gave birth to a son.
Amplified Bible (AMP)
So I approached [my wife] the prophetess, and she conceived and gave birth to a son.
Amplified Bible, Classic Edition (AMPC)
And I approached [my wife] the prophetess, and when she had conceived and borne a son,
New International Reader's Version (NIRV)
Then I went and slept with my wife, who was a prophet. She became pregnant and had a baby boy.
以上の英訳があることは、新改訳の翻訳委員会は知っていたはずです。にもかかわらず、新改訳は敢えてイザヤ不倫説を選択します。並々ならぬ執着です。
新改訳の翻訳理念をご覧ください。
『聖書翻訳の理念』
・特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳である。
・ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。
『新改訳聖書の特長』
・聖書を『誤りなき神のみことば』と告白する福音主義の立場に立つ委員会訳であること。
・特定の神学的立場に傾かないで,言語的に妥当であるかを尊重すること。
この理念からすると『イザヤ不倫説』は、一部の神学的立場ではなく、広く福音主義に見られる神学的解釈で、聖書原典に忠実な訳文である、ということになりますよね。本当にそうですか?新改訳が掲げる翻訳理念は『看板に偽りあり』です。『特定の神学的立場を反映する訳出を避ける・・・特定の神学的立場に傾かない・・・』と唱えていますが、委員会は『イザヤ不倫説』が、福音主義各教派の共通認識であるという、確認作業をおこなったのでしょうか?おこなっていないはずです。これができないのであれば、見掛け倒しの翻訳理念など作らないことです。
信じられなことですが、イザヤ不倫説を正当化するインチキ神学者が、実際に日本や海外にいるのです。何故こんなことが起こるのでしょうか?その原因は『直訳主義、一語一訳主義』による誤訳です。日本人の多くは、中学高校で英語を必修科目として学びます。学校では『語彙を増やしなさい。語彙を増やせば英語が理解できるようになります』と教えますが、こうした詰め込み学習は外国語習得にとって弊害で、学校の単語詰め込み教育と文法主義が、直訳を生み出す元凶になっています。詳しくは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただいたので、興味のある方はお読みください。
不思議なことですが、『妻(wife)』を表わす単語がヘブライ語にはありません。日本語話者には想像しにくいかもしれませんが、ヘブライ語の『ishshah イッシャー』は、『女、妻』両方の意味があり、イッシャーは『女と妻』を区別しません。単語で区別しない代わりに、表現形式で『女か妻』かを区別できる仕組みになっています。ヘブライ語の文で次の内容が表現されていれば、夫婦の間に子どもが生まれたという意味になります。
・男性(夫)
・めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)
・女性(妻)
・妊娠し、出産する
イザヤ書8:3も同じ表現形式になっていることがお分かりになると思います。ユダヤ教の考え方からすると、その男女間で妊娠し出産をしたというのは、夫婦に神の祝福が与えられた(創世記1:27、28)という意味です。ですから『イザヤは妻と体の関係を持ち、妻が身ごもって男の子を生んだ』という解釈になります。もし、イザヤが不倫をしていたとしたら『妊娠し、出産した』という表現は使われません。ヘブライ語の原文解釈をする場合、単語一つひとつの解釈にこだわるのではなく、表現形式、文体に着目しなければなりません。当たり前のことですが、ヘブライ語は、日本語とは全く違う言語構造で成り立っています。直訳はできません。
ある翻訳では『ネビーアー=預言者の妻』という解釈をしていますが、これは苦し紛れの超意訳で、残念ながら、ネビーアーに預言者の妻という意味はありません。更に詳しいことは『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただきました。興味がある方はお読みください。
文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、いずれも『イザヤ不倫説』を支持する解釈をしています。『イザヤは妻との間に子をもうけた』と正しく訳出するものは、日本語訳聖書では、リビングバイブルしかありません。日本ではリビングバイブルに対する偏見があるようですが、リビングバイブル訳文の品質は高いということが分かると思います。
次に3節後半に入ります。『その名を・・・と呼べ』というのは、どういう意味でしょう。生まれたばかりの赤ん坊の名前を声に出して呼ぶと、何かが起こったのでしょうか?New King James Versionの訳文は、次の通りです。3節後半です。
3 ・・・Then the Lord said to me, "Call his name Maher-Shalal-Hash-Baz;
callの意味は、この文脈では、息子に~と名付けたという意味です。説明するほどの内容ではないと思いますが、念のため、Merriam-Webster から call の定義を紹介します。
私訳
2 a : 名前を呼んで、他人ではなく、本人を特定すること。名付けること。例)ネコをキティーと名付けた。
2 a : to speak of or address by a specified name : give a name to (call her Kitty)
http://www.merriam-webster.com/dictionary/call
英語の聖書では、子どもの名前を・・・名付けさせたと表現されています。これは3番目となる預言の保全対策です。新改訳では『その名を・・・と呼べ』とありますが、これでは、名前を声に出して呼べという意味だと読者は受け取ります。英訳聖書では『名付ける』という意味です。
こうして、次のような訳文になりました。
3節の私訳
その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。