聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)箴言-3

2018年05月09日 | 箴言

שַׁ֫עַר シャハール 門


この記事の目次

・表現形式を理解する
・ギリシャ語 箴言1:20~21
・『城壁の上』は間違い-1
・ヘブライ語 箴言1:20~21
・『城壁の上』は間違い-2
・オモテとウラどちらで訳出するか


~表現形式を理解する~

箴言1:20~21節を読んで、何が言いたいのか理解できるでしょうか?私には理解することができません。ヘブライ語では、擬人化された表現になっているのですが、直訳すると新改訳のようになります。20~33節が一つの段落になっているので、全体もご覧ください。

新改訳 箴言1:20~33
20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。
24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。

26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。
31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

私訳 箴言1:20~21
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 大通りで会った人、城門前の長老は、みことば語り戒めた。



箴言1:20~33節の表現形式は、下の図のようになっています。


20~21節の擬人表現は、22~25節と読み比べれば分かります。主は、街に住む多くの人を使い、ならず者に忠告を与えていたということです。かつてのユダヤ人は、20~21節を読んで、この比喩が何を意味しているのか理解していたはずですが、この擬人化された表現を日本語に直訳しても、日本人には理解することができません。ヘブライ語を読んだユダヤ人が、理解できる文面であれば、日本語の訳文も、日本人が理解できる文面でなければなりません。ここに等価性の原則が適用されるべきです。この箇所は、字義通りオモテの訳文を作っても意味がありません。意味を表したウラの解釈で訳出しなければならないということです。新改訳は、こういう検討をおこなっていません。


~ギリシャ語 箴言1:20~21~

ヘブライ語だけを検討するということでも構わないのですが、70人訳(ギリシャ語)も併せて検討すると、より立体的な解釈ができます。70人訳がヘブライ語を正確に訳出しているとは限りませんが、少なくとも解釈の方向性を知る手掛かりになるでしょう。

箴言1:20
20 σοφία εν εξόδοις υμνείται εν δε πλατείαις παρρησίαν άγει
ソフィア ヘン エクソドイス フムネイタイ ヘン デ プラテーアイス パリイシアン アゲー    

σοφία(4678) 知恵、忠告、分別、思慮
εν(1722) in, on, among
εξόδοις(1841) 旅立ち、玄関を出たところ、家の外
υμνείται(5214) 讃え歌う、高らかに歌う
εν(1722) in, on, among
δε(1161) しかし、また
πλατείαις(4113) 広場、大通り
παρρησίαν(3954) 大胆に(言う)、自由に、自信に満ちて(語る)
άγει(71) 導く、~とする、行く

Apostolic Bible Polyglot 箴言1:20
Wisdom sings praise in the streets; and in the squares in open places she celebrates.


箴言1:21
21 επ΄ άκρων δε τειχέων κηρύσσεται επί δε πύλαις πόλεως θαρρούσα λέγει
エプ アクローン デ テーケオン ケリーセタイ エピ デ ピーライス ポレオス サルーサ レゲイ

επ΄(1909) upon, on, at, by, before
άκρων(206.1) (複数形)枝分かれ、分岐、四肢
δε(1161) しかし、ところで、また
τειχέων(5038) 城壁、壁
κηρύσσεται(2784) 宣教、宣言
επί (1909) upon, on, at, by, before
δε(1161) しかし、また
πύλαις(4439) 扉、門
πόλεως(4172) 街
θαρρούσα(2293) 励ます、元気づける
λέγει(3004) 言う、教える、戒める

Apostolic Bible Polyglot 箴言1:21
And she proclaims upon the tops of the walls; and at the gates of the city courageously says,

ギリシャ語を読んで受けるイメージを、ちょっとばかり膨らませ、オモテとウラ両方の解釈をしてみます。

オモテの解釈
20 その名を『知恵』という女がいた。通りでは、知恵の歌を口ずさみ、広場では高らかに歌っていた。
21 街角では、主をおそれることを教え、城門前では『しっかりしなさい』と励ました。

20、21節は、22~25節と対応しているので、22~25節の内容と照らし合わせると、擬人化された表現の意味が見えてきます。オモテ、ウラそれぞれの意味を表にまとめました。


ならず者が家を出たあと、広場を抜け、十字路を曲がり、城門を出る。ならず者が街なかを歩く様子が、順を追って表されています。恐らく、城門を出たあとは、仲間とつるみ、悪事を働いていたのでしょう。通り、広場、十字路、城門は、都市を構成する大人を象徴的に表現しています。近所の人から長老に至るまで街じゅうのみんなが、忠告をしていたということです。

次に、ちょっとばかりイメージを膨らませ、ウラの解釈をします。

ウラの解釈
20 このならず者に、街じゅうの人が声を掛けていた。一歩家を出れば「あまり親を心配させるんじゃないよ」と近所の人が声を掛け、広場に行けば「おい、真面目に働けよ」と気にかけてくれた。
21 街角で会った人は「主をおそれなさい」と戒めて、いつも城門前に陣取る長老は「祝福される生き方をしなさい」と励ました。

20節は、解釈に難しいところはありません。私訳は次のようになります。

私訳 箴言1:20 70人訳
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。


~『城壁の上』は間違い-1~

次に、21節の解釈をします。ABPの英訳を見ると、21節、エプ アクローン デ テーケオンの解釈に混乱が見られます。ABPは、upon the tops of the walls『城壁の上で』と訳出しましたが、これは間違いです。ギリシャ語で『城壁の上』という場合、次の表現になります。

επί του τείχους
エピ トウ テークース 城壁の上
2列王3:27、6:26、6:30、18:26、18:27ほか

プロの翻訳者であれば、ことばの意味を調べるのに、辞書に頼るだけではダメです。辞書を見ても50%しか分かりません。人間が作る物には不完全さがあるからです。コイネー・ギリシャ語の英訳サイトを見ると、アクロン(単数)は『端、端部、先端、トゲ』と定義されていますが、複数形での定義が抜けています。聖書の中でアクローン(複数)ということばが使われている個所を抜き出し、それぞれの文脈からことばの意味を導き出してみます。日本語は私訳です。

άκρωνアクローン複数形(206.1)が使われた箇所
創世記47:21 四方八方(各地から)
出エジ38:16 四方の(たれ幕は)
1歴代14:15 枝の(茂み)
箴 言8:2 あらゆる(分野を極めた)
箴 言30:4 (全地の)四方
イザヤ2:2 (山の)峰
イザヤ41:9 (地の)四方八方から
イザヤ42:11 (山の)峰
イザヤ43:6 (地の)四方八方から
エレミ25:16 (ユダの地の)四方八方に
マタイ24:31 (天の)四方から

因みに、現代ギリシャ語には、以下の意味もあります。重要な情報です。
・άκρο(単数) limb 腕、足
・άκρων Limb,limbs,feet 手足、四肢
・άκρων limbs 手足、四肢

日本語では、名詞を単数、複数で区別するということをしないので、理解しにくいかもしれませんが、名詞が複数形になると、意味が大きく変化する場合があります。例えば、学校では、英語の名詞には可算名詞と不可算名詞があると教え、不可算名詞には複数形はないと教えています。ところで、『waterは不可算名詞』になりますが、実際には『waters』と複数形になることがあり、これは『海域、水域、きれいな湧き水』という意味に変化をします。複数形になると、『水』とは、かなり異なる意味に変化します。名詞の複数形は『二つ以上の~』とは限りません。意味が大きく変化する場合があるのです。学校で教えるように、文法主義で原文解釈をしてしまうと、必ず落とし穴に落ちます。人間が作る文法書には、かなりの不完全さがあるからです。

前述したように、アクロ-ン(複数)は『四方、枝、枝分かれしたもの、四肢、手足』という意味で、単数の『端、端部、先端、トゲ』とは、かなり異なる意味に変化しています。ここで導き出された意味を、箴言1:21に当てはめてみます。エプ アクローン デ テーケオンは、『壁が枝分かれしたところ』となります。『壁が枝分かれしたところ』というのは、『辻、十字路、街角』という意味です。

日本人には、理解しにくいかも知れませんが、日本人にとっての『道』は、ユダヤ人の『壁に挟まれたところ』になります。日本人にとっての『辻、十字路、街角』は、ユダヤ人の『壁が折れ曲がったところ』になります。下の写真をご覧いただければ納得していただけると思います。


エプ アクローン デ テーケオンは『辻、十字路、街角』という意味になります。ことばと文化は密接につながっています。文化を理解することなしに翻訳はできません。また、プロの翻訳者であれば、翻訳辞書に頼る翻訳ではダメです。人が作る辞書、文法書には不完全さがあるからです。

余談になりますが『インターリニア聖書を手に入れれば、正しく原文解釈ができる』と、お考えの方がいると思いますが、そんなことはありません。ABPが『城壁の上』と誤訳しているように、当てがわれた訳語が間違っているということは、しばしばあります。インターリニアも、一翻訳に過ぎないのです。ご注意ください。

20、21節をウラの解釈で翻訳すると、次のようになります。

私訳 箴言1:20~21 70人訳
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 街角で会う人は主をおそれることを教え、城門前、長老は励ましのみことばを語った。


これで、原文の輪郭がかなり掴めたと思います。次からヘブライ語の解釈に入りますが、ここで作った輪郭が、ヘブライ語の解釈に役立つことになります。これまでは下準備です。


~ヘブライ語 箴言1:20~21~

箴言1:20
חָ֭כְמֹות בַּח֣וּץ תָּרֹ֑נָּה בָּ֝רְחֹבֹ֗ות תִּתֵּ֥ן קֹולָֽהּ׃
ホフモート バフーツ タロンナー バレホボート ティッテン コラ

חָ֭כְמֹות ホフモート chokmoth(2454) 知恵、堅実さ、勤勉さ、計画性
בַּח֣וּץ フーツ chuts(2351) 家の外、路地、道
תָּרֹ֑נָּה ラナン ranan(7442) (喜び、悲しみなどの)声をあげる、歌う
בָּ֝רְחֹבֹ֗ות アレホーブ rechob(7339) 広場、通り
תִּתֵּ֥ן ナタン nathan(5414) 与える、届ける、増し加える
קֹולָֽהּ׃ コール qol(6963) 声、叫び、楽器の音


箴言1:21
בְּרֹ֥אשׁ הֹמִיֹּ֗ות תִּ֫קְרָ֥א בְּפִתְחֵ֖י שְׁעָרִ֥ים בָּעִ֗יר אֲמָרֶ֥יהָ תֹאמֵֽר׃
ベローシュ ホミヨート ティクラ ベピッテ シェアリム バイール アマレーハ トメール

בְּרֹ֥אשׁ ロシェ rosh(7218) 一番、代表者、in front, in first place
הֹמִיֹּ֗ות ハーマー hamah(1993) 騒々しい、騒ぐ、吠える
תִּ֫קְרָ֥א カラ qara(7121) 呼ぶ、叫ぶ、招く、名付ける
בְּפִתְחֵ֖י ペタハ pethach(6607) 玄関、門、入り口
שְׁעָרִ֥ים シャハール shaar(8179) 街、門
בָּעִ֗יר イール iyr(5892) 街、城塞都市
אֲמָרֶ֥יהָ アイマー emer(561) ことば、言ったこと、(知恵のことば)
תֹאמֵֽר׃ アーマー amar(559) 言う、答える、命じる

ヘブライ語も、ギリシャ語とほぼ同じ内容で書かれています。

20節前半、ホフモート バフーツ タロンナーを、字義通り解釈すると「その名を『知恵』という女がいた。通りでは、知恵の歌を口ずさむ」という意味になります。70人訳と同じです。ヘブライ語タロンナー(歌う)の解釈に混乱がみられます。新改訳は『大声で叫び』と訳し、英訳でも『大声をあげる』という訳が多いようです。辞書を見ると、タロンナー(ラナン 7442)は、歌うという意味と、大声をあげるという意味があります。どちらの訳語を選択すればよいのか迷うところです。

先ほどの70人訳を見ると、ここは『フムネイタイ(5214) 讃え歌う、高らかに歌う』と訳されています。従って、『歌う』という訳語が相応しいと言えるでしょう。訳語の選択に迷った場合、70人訳は有力な判断材料になります。私はウラの解釈で訳文を作るので、歌うでも叫ぶでもほとんど影響ないのですが、翻訳をする人にとって参考になるところなので、説明させて頂きました。

20節後半、バレホボート ティッテン コラを、字義通り解釈すると『広場では、高らかに歌っていた』という意味です。20節は、70人訳と同じ意味です。ウラの解釈で訳文を作ると、次のようになります。

ウラの解釈 私訳 ヘブライ語
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。


~『城壁の上』は間違い-2~

21節は、ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)の、解釈に混乱が見られます。70人訳でも同じ箇所に混乱が見られました。英訳では『城壁の上』と解釈しているものがありますが、この解釈は無理があります。

on top of the wall 城壁の上 
New International Version ほか

ヘブライ語は、ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)となっていて、『壁』ということばはありません。ヘブライ語で『壁の上』をいい表す場合、『עַל־ הַ֣חֹמָ֔ה アル・ハホマー』という表現になります(2列王3:27、6:26、6:30、18:27)。ABPのように、70人訳を底本にした場合『壁の上』と誤訳しがちです。こうした影響を受け、『壁の上』という誤訳が生まれたのだと思われます。ホミヨート(騒々しい)には、『壁』という意味がないのですから、普通に考えて、ベローシュ ホミヨートを、『壁の上』と訳出することはあり得ないからです。

ベローシュ ホミヨートの解釈は、20節からの文脈を確認することで導き出すことも可能です。20節を見ると、フーツ(路地)、アレホーブ(広場)と表現され、21節で、『ベローシュ ホミヨート』が表れ、このあと、城門ということばが続きます。70人訳のところで説明させていただきましたが、路地⇒広場⇒街角⇒城門、これはならず者が家を出てから城門に至る道順を示しています。この一連の用語の中に『壁の上』という表現が入るのは、唐突で不自然だということが分かりますよね。忍者じゃないんですから。ABPの翻訳者は、輪郭の設定をおこなっていないことが分かります。きちんと輪郭が設定できていれば、『壁の上』という誤訳は生じないのです。原文の輪郭を設定することは、非常に重要です。


また、ベローシュが『大通り、目抜き通り』という意味を表す場合もあります。
哀歌4:1 the head of every street 目抜き通り、幹線道路

ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)を字義通り解釈すると、『一番にぎやかな大通り』という意味になります。21節後半に『城門』ということばが出てくることも考慮すると、ベローシュ ホミヨートは『城門を通る一番にぎやかな大通り』という意味だと推測できます。

70人訳は、エプ アクローン デ テーケオン『辻、十字路、街角』という表現でした。これも、人通りが多く、にぎやかなところですから、70人訳の翻訳者は、こうした意味をギリシャ語に翻訳したのでしょう。

以上をまとめると、ベローシュ ホミヨートは『城門から伸びる大通り』という意味だと理解します。

21節真ん中、ベピッテ シェアリム バイールを、字義通りに言うと『街の城門の前』という意味になります。城門前は、裁判、重要な取引、告示をする時、重要な会議場になります(創23章、申21章、ルツ4章、哀歌5章、イザ29章、アモ5章)。『城門前』は、街の長老や街の主要人物を、象徴する場所です。

余談になりますが、21節後半を字義通り解釈すると、アマレーハは『(三人称女性)ことば』という意味で、トメールは『(三人称女性)言う』という意味です。『知恵という名の女は、知恵のことばを語る』となります。ヘブライ語の原文解釈は以上です。私訳は次のようになります。

私訳 箴言1:20~21 ウラの解釈 ヘブライ語
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 大通りで会った人、城門前の長老は、みことば語り戒めた。


新改訳 箴言1:20~21
20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

どちらの訳文が日本人に理解しやすいかは、一目瞭然でしょう。


~オモテとウラどちらで訳出するか~

箴言1:20~21のように、原文が擬人化された表現になっている場合、オモテとウラ、両方の解釈ができます。この場合、どちらで訳出したら良いのでしょう?原文の意味が分かるよう、ウラの訳出をすれば良いのです。

ところが、新改訳は、翻訳としての『新改訳聖書』の立場で、次のように述べています。
・・・むしろ分かりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってでなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることにより、また説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、「ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない」のだと言います。つまりは牧師や注解者の仕事が重要で意義深いはずであることを明らかにするのです・・・

新改訳の翻訳者が翻訳できない難解箇所を、『牧師が説明すればいいのだ』というのは、理不尽な責任転嫁にすぎません。私に言わせれば、下手クソな翻訳をやった委員会の尻ぬぐいを、牧師に押し付けているだけです。

聖書と翻訳 箴言-2で、取り上げた個所を例にしてみましょう。新改訳は、次のようにオモテの解釈で訳出しています。

新改訳 箴言1:15~19 オモテの解釈
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

果たして一般の牧師が、ヘブライ語を調べ、次のように解釈できるのでしょうか?新改訳のセンセイが言うように『何度も読み返せば、自ずと意味が理解できる』ようになるでしょうか?

私訳 箴言1:15~19 ウラの解釈
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


新改訳とは逆に、聖書の訳文がウラの解釈で訳出されていたら、原文解釈はものすごく楽になります。例えば、牧師は、次のように解説できます。

「15節を、ヘブライ語で字義通り解釈すると『悪人と一緒に、邪悪な道を歩くな』という表現になっています。これは聖書に書いてある通り『悪人の悪だくみに手を貸すな』という意味になります」。これで立派な原文解釈になっています。

聖書本文が、きちんと意味を示していれば、原文を確認する時、非常に楽になります。反対に、意味不明な直訳文では、原文をどう解釈して良いのか分からない、手がかりが何もない、ということになります。オモテとウラ、両方の解釈ができるような場合、ウラの訳出をするのが良いということです。私は通訳をしてきましたが、通訳を一言で言えば『意味を訳出すること』です。これは、翻訳でも同じです。

『ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない』とは、新改訳聖書刊行会の迷言ですね。信徒が日々聖書を読むことを否定するとは、呆れたものです。刊行会が翻訳した聖書に、次のように書いてあります。

ヨシュア1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

刊行会にとって、神のことばそのものより、刊行会のセンセイのほうが権威があるんだと、自惚れてるようです。神学が偶像化しているのです。イザヤ書8章で『イザヤは不倫をして子どもを生ませた』、ルカ16章で『不正な富で友を作れ』といった訳文になっていますが、あれは誤訳をしたのだと思っていましたが、そうではなく、意図的にこういう訳に変えたんじゃないですか?また、不忠実な翻訳になるよう、わざと直訳主義で翻訳しているのではありませんか?刊行会は、日本のキリスト教会を堕落させる働きをしているようにも見えるのです。

刊行会が、ウエブサイトで『聖書の難解個所は、牧師が説明すればいいのだ』と公言しているのですから、そこはきちんと筋を通し、新改訳を使っている教会や牧師に対し、『翻訳協力費』として、月々支払いをするべきです。自分のことばに責任を持ち、行動で示してもらいたいものです。

もし『刊行会』が大人の対応を心得ていれば『できる限りの力は尽くしたつもりですが、訳文に辻褄が合わない個所、意味が分かりにくい個所もあると思います。訳文の至らない個所については、牧師諸先生方のご協力を賜り、教会の中で解き明かしをしていただくよう、お願い申し上げます』と言えたはずです。『新改訳の翻訳理念や「新改訳聖書」の立場』を読むと、子どもじみた、ひねくれた物言いで、読んで不愉快に感じます。

うちの教会の週報には『毎日聖書を読むこと マタイ4:4』と印字されています。また、『マタイ4:4 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』『詩篇1:2 主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』『詩篇119:127 私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します』などの聖句を引用し、信徒が日々聖書を読むことの大切さを、うちの教会は教えています。新改訳聖書に載ってるみことばなんですがね。



(000)箴言-2

2018年05月08日 | 箴言

אָרַב アラーブ 待ち伏せする


この記事の目次
・箴言1:15~19全体
・箴言1:15
・箴言1:16
・箴言1:17
・箴言1:18
・箴言1:19
・原文の意図を翻訳する


~箴言1:15~19全体~

新改訳を例にあげ訳文の検討をしてゆきます。口語訳、新共同訳を取り上げてもいいのですが、うちの教会で指定されているのが新改訳で、長年新改訳に親しんできたということもあり、敬意を表し新改訳を取り上げさせていただきます。次の、新改訳と私訳を読み、どこが違うかご確認ください。

箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

新改訳は、文脈が支離滅裂。意味不明な日本語になっています。直訳で翻訳するから意味不明になり、かつ原文とは異なる意味になるのです。聖書は難解な読み物だという人がいますが、そうではありません。ヘブライ語を見ると、きちんと意味が理解できました。次の私訳がヘブライ語が語る意味です。聖書が難解なのは、翻訳がヘタクソだからです。

箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。



~箴言1:15~

בְּנִ֗י אַל־תֵּלֵ֣ךְ בְּדֶ֣רֶךְ אִתָּ֑ם מְנַ֥ע רַ֝גְלְךָ֗ מִנְּתִיבָתָֽם׃
ベニー アルテレック ベデレック イッターム メナ ラグレハー ミネティバターム

בְּנִ֗י ベーヌ ben(1121) 息子、子孫、末裔
אַל־ アラ al(408) no 否定詞
תֵּלֵ֣ךְ ハラーク halak(1980) 歩く、行く、旅立つ、従う、おこなう
בְּדֶ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離  
אִתָּ֑ם イート eth(854) 面して、接近して、一緒になって
מְנַ֥ע マナ mana(4513) 維持する、保持する、立ち入らない
רַ֝גְלְךָ֗ レゲル regel(7272) 足
מִנְּתִיבָתָֽם׃ ナティーブ nathiyb(5410) 道、旅路、人生、方法

15節前半、ベニー アルテレック ベデレック イッタームは、『息子よ、いいかい。悪人の仲間に入り、悪事に手を染めてはいけないぞ』という意味です。出だしのことば、ベニーは『息子よ、聞きなさい』と、慈しみを込めた呼びかけです。同時に、ここが話しの始まりであることをも示します。70人訳では、この箇所は省略され、独立したギリシャ語として翻訳されていません。ハイコンテクストとして処理されているということで、これも一つの訳出方法です。

新改訳は『わが子よ』と直訳していますが、まあ、これでも構わないでしょう。気になるのは『わが子よ』という出だしにすると『わが子よ~するなかれ』という古典的な言い方になるのかなと感じます。ここで『わが子よ』と、わざわざ古めかしい文言をあてがう必要性はないと私は思います。また、舌っ足らずで、中途半端な言い方に聞こえます。仮に『わが子よ、聞きなさい』としても、現代の日本人が使う言い回しではないので、しっくりした訳出だとは思いません。また『わが子よ』は、親が権威を笠に着たような言い方で、子どもを見下している感じを受けます。原文の、慈しみを込めた呼びかけというニュアンスが再現されていません。

『ベニー』は、慈しみを込めた呼びかけで、かつ、話しの出だしとして働いています。現代の日本人が、同じような場面で使うとしたら『いいですか』と言うと思います。私訳は『いいですか』と訳出しました。これは、原語が持つ『ことばの機能』に着目し、それと等価な働きを持つ目的言語に翻訳するというやり方です。アメリカの言語学者ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が提唱した翻訳手法で、functional equivalence 機能翻訳法とか等価翻訳法と呼ばれるものです。

15節原文に『悪人』ということばはありませんが、イッターム(一緒に)ということばが、三人称複数形になっています。これは、with them 『彼らと一緒に』という意味で、『彼ら』というのは、さかのぼって10節の『chatta ハッター 悪人、ならず者(複数形)』を指しています。アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の仲間に入り悪事をおこなうな』という意味になります。

話は逸れますが、日本語訳聖書を見るとやたら『罪人』ということばがでてきます。本当に全部『罪人』と訳出して良いのか疑問に感じています。英訳を見ると、ハッタ―を、men, offenders, sinful, sinners, who have sinned(人間、法令違反者、犯罪者、ワル、悪党、前科者)と、文脈に合わせ様々な訳語を当てています。日本語でも同じく、文脈に合わせ訳語が変わるはずです。新改訳のように直訳で翻訳すると、何でもかんでも『罪人』で翻訳します。これは素人仕事で、全く愚かなことです。

次に、新改訳は『彼らといっしょに・・・』と直訳しました。新改訳は、人称代名詞、私、あなた、彼、彼女を頻繁に使いますが、日本人は基本的に人称代名詞を使いません。日本語の訳文で人称代名詞を使うと、不快な日本語になります。日本語訳聖書を見ると、神さまに対し『あなたは・・・』と呼びかけているか所がありますが、日本人が目上の人に対し『あなたは』と言うと、馴れ馴れしく、侮辱的な意味を含みます。こどもが親に向かって『あなたは・・・』というと大変なことになりますよね。新改訳は人称代名詞を多用しますが、不快な日本語で、ネイティブが使う日本語ではありません。プロとして翻訳の仕事をするのであれば、基本的に、人称代名詞は使わない。こうした配慮ができないようではダメです。

また、新改訳は『彼らといっしょに道を歩いてはならない』と直訳しています。『道を歩く』は、どことなく詩的な表現ですが、原文は詩的な表現をしている訳ではありません。ことばの使用頻度を見ると分かります。

アラ al(408) no 否定詞 725回
ハラーク halak(1980) 行く 1,549回
デレック derek(1870) 道 706回
イート eth(854) 一緒に 809回

それぞれ使用頻度が高いことばなので、日常語であることが分かります。日本語も日常語で訳出すればよいのです。従って、アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の悪だくみに手を貸すな』という私訳になりました。

15節後半、メナ ラグレハー ミネティバタームは、前半の文と同じ内容を繰り返し、『意味を強調する構文』になっています。『絶対~してはいけないぞ』という意味です。15節最後で、ミネティバターム(道)が使われたのは、直近でデレック(道)が使われたので、忌避の規則によって、ことばを言い換えているのだと思われます。こうして、次のように訳出しました。

箴言1:15 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。

箴言1:15 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。

新改訳のように、直訳すると意味が曖昧な訳文になります。翻訳者は、原文が意図しているもの、何が言いたいのかを理解することが重要です。ヘブライ語は日本語とは全く異なる言語構造を持っているので、直訳しても、原文と同じ意味の訳文にはなりません。


~箴言1:16~

כִּ֣י רַ֭גְלֵיהֶם לָרַ֣ע יָר֑וּצוּ וִֽ֝ימַהֲר֗וּ לִשְׁפָּךְ־דָּֽם׃
キー ラグレヘム ララ ヤルース ビーマハルー リシュポク ダーム

כִּ֣י キー ki(3588) ~だから、理由は、~とき、~だが
רַ֭גְלֵיהֶם レゲール regel(7272) 足、歩み、仲間になること
לָרַ֣ע ラー ra'(7451) 悪いこと、災い、災難
יָר֑וּצוּ ルーツ ruts(7323) 走る、見張る、使者
וִֽ֝ימַהֲר֗וּ マーハ―ル mahar(4116)急いで~する、手際よく~する、慌てて~する
לִשְׁפָּךְ־ シャーファーク shaphak(8210) (血や水が)流される、(感情が)湧き上がる
דָּֽם׃ ダーム dam(1818) 血液、血

16節前半、キー ラグレヘム ララ ヤルースは、『連中は、悪事ばっかりおこなっている』という意味です。新改訳は『彼らの足は悪に走り』と直訳していますが、これは誤訳です。ヘブライ語には『足、歩く』を使った言い回しがよくありますが、これは『(やましいことを)おこなう』という意味で使われています。ヤルース(ルーツ)は『走る』という意味のほか、『何かを活発におこなう』という意味もあります。『悪人は、悪いことが大好きで、悪い事ばっかりおこなっている』という意味です。ラグレヘムは、レゲール(足)が3人称複数形なので『彼らの足⇒連中はいつも(やましいこと)をやっている』という意味になっています。

16節後半、ビーマハルー リシュポク ダームは、『巧妙に人を殺す』という意味です。新改訳は『血を流そうと急いでいる』と直訳しただけです。ビーマハルー(マーハ―ル)は『急ぐ』という意味のほか『テキパキとこなす、巧みにこなす』という意味もあります。この文脈では『人殺しにたけている、巧妙に人を殺す』という意味です。ルーツとマーハ―ル共に『慣れている』という意味があります。忌避の規則によって、違うことばで言い換えています。

リシュポク ダームを、新改訳は『血を流す』と直訳していますが、これは『人を殺す』という意味です。日本語訳聖書を読むと『血を流す』ということばがよく出てきますが、読んで違和感を感じます。日本人が『血を流す罪』ということばを聞いた場合、三つの解釈ができます。一つは、人殺しという意味。二つ目は、暴力により他人に怪我を負わせた罪。三つめは、怪我や病気で、体から出血した状態が、宗教上不浄とみなされる罪です。ヘブライ語の単語を直訳しただけでは、日本人に通じません。文脈に合わせ、日本人が理解できることばで訳出しなければなりません。こうして、次のように訳出しました。

箴言1:16 私訳
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。

箴言1:16 新改訳
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。

新改訳は直訳していますが、これをご覧いただければ『直訳は誤訳』だということが、よく分かるのではないでしょうか。


~箴言1:17~

כִּֽי־חִ֭נָּם מְזֹרָ֣ה הָרָ֑שֶׁת בְּ֝עֵינֵ֗י כָל־בַּ֥עַל כָּנָֽף׃
キヒナム メゾラー ハラーシェット ベエネ コル バーアル カナップ

כִּֽי־ キー ki(3588) ~だから、理由は、もし~しても、~だが
חִ֭נָּם ヒナーム chinnam(2600) 無駄、~しない、自由に
מְזֹרָ֣ה ザーラー zarah(2219) 広げる、散り散りになる、風に飛ばされる
הָרָ֑שֶׁת レシェット resheth(7568) 網
בְּ֝עֵינֵ֗י アイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野
כָל־  コール kol(3605) すべて、全部、完全、いつも
בַּ֥עַל バハル baal(1167) 主人、男、世帯主
כָּנָֽף׃ カナーフ kanaph(3671) 翼、角、端部、折り目、スカート

17~19節が意味上まとまっているので、原文解釈をする時は、17~19節のつながりに注意して解釈をします。17,18節の比喩を字義通り、オモテで解釈をするのか、意味に重点を置きウラの解釈をするのかの検討が必要になります。17~19節、私訳と新改訳を、読み比べてみてください。

私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


新改訳 オモテの解釈
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

新改訳の訳文は、おかしな日本語になっているので、単純に比較はできませんが、この場合ウラの解釈をした方が、読みやすい訳文になることがお分かりになると思います。比喩や修辞表現を訳出する場合、文字通り訳出するか、意味を汲んで訳出するか、翻訳者は選択を迫られます。これはケースバイケースの判断になりますが、どちらが読みやすいかが判断基準になります。新改訳は直訳主義なので、こうした検討はしていません。以下、17節の解釈をします。

17節前半、キヒナム メゾラー ハラーシェットを、字義通り解釈すると『網を仕掛けても意味がない』という意味です。悪人の悪知恵を、次のように表現しています。

16節、ビーマハルー リシュポク ダーム『巧妙な手口で人を殺す(悪知恵)』
17節、メゾラー ハラーシェット『網を仕掛ける(悪知恵)』
18節、アラーブ『待ち伏せする(悪知恵)』

悪人の悪知恵を、ことばを変えながら展開していますが、これは、ヘブライ語の特徴的な表現方法です。16~18節は、きちんと文脈が通っているのですから、訳文も、文脈が理解できるものでなければなりません。新改訳の様に、一つひとつの単語を直訳してゆくと、支離滅裂な文脈になり、読んでも意味が分からなくなります。

17節後半の解釈に混乱が見られます。ベエネ コル バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる』という意味です。70人訳(ギリシャ語)を見ると『πτερωτοίς』という訳語が使われていて『翼』に関連した意味があるのですが、意味がはっきりと解明されていません。ギリシャ語を見ると、翼、鳥といった、単純な解釈はできないということが分かります。

コルは『全ての』という意味のほか『まったき、完全な』という意味もあります。続く、バーアルは『主人、所有者』という意味でここでは単数になっているので、コル・バーアルは『全ての主人たち』ではなく『全能なる主人』=『神』という意味を婉曲的に表現しているのです。

新改訳は『鳥がみな(コル)見ている・・・』と訳しましたが、文法的に見てもデタラメです。ヘブライ語は『כָל־בַּ֥עַל コル・バーアル』となっています。コルとバーアルが、マッケフ(連結記号)で、一体になっているので、コル(全き)はバーアル(主人)を修飾していると解釈しなければなりません。



バーアルはそもそも動物を意味することばではありません。成人、世帯主、一人前の男性・・・を意味することばです。旧約聖書の中で、『バーアル』が、鳥や動物を意味することばとして使われている箇所は、どこにもありません。

新改訳は『ベエネ(見る) コル(全て)』という切り取り方をしたため、『みな見てる』と誤訳したのです。ベエネ コル・バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる⇒天におられる主が見ている』という意味になります。文法的に、何も難しいところはありません。こういう簡単な箇所が翻訳できないのですから、素人翻訳者だといわれても仕方ないですよね。これが大学で教えるヘブライ語教育のレベル、神学者の中から選ばれし翻訳者のレベルだということです。

『天におられる主が見ている』は繰り返し語られる、箴言の重要なテーマで、5章、15章に同じ意味のことばが現れます。

箴言5:21
21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

箴言15:3
3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。


以下、字義通りのオモテの訳文と、意味を汲み取ったウラの訳文を作ったので、ご覧ください。

箴言1:17 私訳 オモテの解釈
17 罠を仕掛けても意味がない。翼を持ったお方が見てるから。

箴言1:17 私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。

箴言1:17 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。

実は17節は、とても重要な箇所です。1:15~19の主題が『主は悪人に報いを与える』ということなんですが、『神』について表現しているのは17節しかないのです。コル バーアル カナップを、『鳥』と訳出すると『主が悪人に報いを与える』というテーマを読者は理解できなくなります。箴言という書物は、宗教とは無関係の『処世術』を書いたものではありません。『1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ』とあるように、主を恐れることを教えているのです。残念ながら、新改訳17節の訳文に『主を恐れなさい』というメッセージはありません。


~箴言1:18~

וְ֭הֵם לְדָמָ֣ם יֶאֱרֹ֑בוּ יִ֝צְפְּנ֗וּ לְנַפְשֹׁתָֽם׃
ベヘーム レダマム イェエローブ イツペヌー レナプショタン

וְ֭הֵם ヒーム hem(1992) they, these, those, like
לְדָמָ֣ם ダーム dam(1818) 血液、血
יֶאֱרֹ֑בוּ  アラーブ arab(693) 待ち伏せする、身を隠す
יִ֝צְפְּנ֗וּ ツァファン tsaphan(6845) 隠す、隠れる、しまう、蔵に収める
לְנַפְשֹׁתָֽם׃ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、心、命を宿すもの

17節同様、18節も比喩として書かれています。字義通りの解釈をすると、前半、ベヘーム レダマム イェエローブは『悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる』という意味です。後半、イツペヌー レナプショタンは『悪人は人を殺そうと待ち構えるが、反対に自分が殺される』という意味です。18節を字義通り解釈すると次の訳文になります。

私訳 オモテの解釈
18 悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる。人を殺そうと待ち構えても、反対に自分が殺されることになる。

これは、『悪人がたくらんだ悪だくみは、そのまま自分の身に降りかかる。どんな悪だくみを考えても無駄。神さまは悪人に報いを与えるからだ』という意味です。ここ18節は、11節の表現を引用した、並行箇所となっています。私訳は次のようになりました。

箴言1:18 私訳
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。

新改訳の訳文をご覧ください。『彼ら』とは何を意味しているのでしょう。
箴言1:17、18 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。

文脈を見ると『彼ら=鳥』という意味になります。『鳥は待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない???』。これでは意味が全く分かりません。こういう意味不明な訳文を神学者のセンセイは『格調高い訳文でございます』とおっしゃるようです。基本的に日本語は人称代名詞を使いません。直訳をし人称代名詞を使うからおかしくなるんです。こんな意味不明な日本語、小学生でも作りません。

箴言の文体は、1節の前半と後半を対照的に表現する形(対比表現)なので、基本的にこの形を守るべきだと思います。新改訳の訳文は、前半部と後半部の区別がなく、対照的な言い回しにもなっていません。特に18節の訳文が、だらだらとした訳文で、もっと短くまとめるべきです。ヘブライ語は短いことばで、リズムよく読めるようになっています。ヘブライ語のリズム感まで訳出しろとは言いませんが、できるだけ歯切れのよい訳出を心がけなくてはなりません。だらだらと長い訳文にした割には、何を言いたいのか意味不明です。翻訳というのは、他人が読むものなのですから、読者が理解できるよう訳出しなければなりません。聖書翻訳に携わるセンセイは、日本語の作文を練習しなければなりません。小学2年生でも、こんなおかしな作文書きませんよ。ヘンテコな日本語が、神さまのことばなんでしょうか?聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれています。親として、こんなヘンテコな日本語は、子どもに読ませたくありません。


~箴言1:19~

כֵּ֗ן אָ֭רְחֹות כָּל־בֹּ֣צֵֽעַ בָּ֑צַע אֶת־נֶ֖פֶשׁ בְּעָלָ֣יו יִקָּֽח׃ פ
ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァー エト ネペシュ ベアラーブ イーカハ

כֵּ֗ן ケーン ken(3651) つまり、このようにして、そして、従って
אָ֭רְחֹות オーラハ orach(734) 道、方法
כָּל־ コール kol(3605) すべて、全部、いつも、何でも
בֹּ֣צֵֽעַ バツァ batsa(1214) 貪る、貪欲になる、欲深くなる、欲にまみれる
בָּ֑צַע ベツァ betsa(1215) 奪い取った物、襲い奪った物、強奪品
אֶת־ イート eth(853) 定目的語記号
נֶ֖פֶשׁ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、命を宿すもの
בְּעָלָ֣יו バハル baal(1167) 持ち主、主人、男
יִקָּֽח׃ ラカハ laqach(3947) 取る、受け取る、持ってくる
פ petucha 段落記号

19節前半、ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァーは『貪欲な者、荒くれ者はみな自滅の道を辿ることになる』という意味です。後半、エト ネペシュ ベアラーブ イーカハは『人から奪った金品を自分の物にするような人間は、悪行の報いを受ける』という意味です。後半は前半と同じ意味を繰り返す強調構文で『必ず~なる』という意味になっています。

箴言1:19 私訳
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。

箴言1:19 新改訳
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主(バハル)のいのちを取り去ってしまう。

『持ち主のいのちを取り去ってしまう?えっ?悪人が死ぬだけじゃなく、元の持ち主も一緒に死ぬ運命なんですか?そりゃ理不尽じゃないですか』と言いたくなります。これも直訳をしたためおかしな訳文になったのです。新改訳が『持ち主』と訳した元のヘブライ語は『バハル』ですが、バハルが意味するのは『略奪品を懐に入れた者=悪人』のことです。命が奪われるのは『悪人』です。『バハル=持ち主』このように、直訳すると誤訳になります。

日本語で『持ち主』というのは、正当な所有権を持つ人が、対象物を所持している、そういう人のことです。他人の物を奪った強盗のことを、日本語では『持ち主(所有者)』とはいいません。小学生でも理解していることです。新改訳の訳文は、こういう小学校作文レベルの間違いが非常に多くあります。委員会には有名な国語学者もいたそうですが、この国語学者は、お金だけもらって、きちんと仕事をしていなかったということになりますね。日本の中で選ばれしセンセイの翻訳がこの有様です。これでは、献金を捧げた人、祈りをささげた人、聖書を購入した人は、納得できないんじゃないでしょうか?


~原文の意図を翻訳する~

私訳と新改訳で、何が違うか読み比べてみてください。重要な違いがあります。

箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

箴言1:15~19が伝えたいことは『悪事に手を染めるな。主は必ず悪人に報いを与える』ということです。こうした意味が新改訳の訳文から伝わってくるでしょうか?箴言は聖書の一部ですから、当然、神さまのみことばです。ところが新改訳の訳文は『主が悪人に報いを与える』という中心的なテーマが、翻訳されていないのです。新改訳は、神さま不在の文言になっています。これが私訳と新改訳の一番大きな違いです。

新改訳は『神の主権、神の正義、神の臨在』を聖書から消して翻訳しています。これは、重大な問題ではありませんか?ヘブライ語テキストの字面をながめただけでは、確かに『神、主』ということばは見つかりません。しかしプロの翻訳者であれば、文脈の中に神の存在を見つけられるはずです。具体的に言うと17節、ベエネ コル バーアル カナップ『翼を持ったお方が見ておられる』という一文が神さまのことを譬えています。『ここをオモテの解釈で訳したら、日本人に理解できない訳文になってしまうな。神さまが見ていると分かるよう、ウラの解釈で訳出しないとならないな』プロの翻訳者であれば、こういう判断ができなきゃダメです。

英語のテストで、日本語になっていないヘンテコな訳文を作って提出したら、不合格ですよね。日本語訳聖書はこの程度のレベルだということです。日本の聖書翻訳レベルは中学生、日本語の文章力は小学生以下です。こんなお粗末なレベルで、よく翻訳者としてお金を受け取れますよね。はっきり言わせていただきますが、素人が聖書翻訳をやっています。だから、聖書のことばを壊すのです。

こうしたお粗末な聖書翻訳が『祈りと献金で支えられた翻訳事業』に相応しいことでしょうか?私には、神学者が多くの信徒の献金を食い物にし、聖書の販売価格から不当なお金を懐に入れているとしか思えません。プロとして翻訳する技術を持たない素人が、あたかもプロの様な振りをして、商品として求められる品質に至らないお粗末な仕事をし、献金を集める、お金だけはきっちりいただく。これを世間では、ボッタクリとか、詐欺といいます。神学者のセンセイは、こうしたことを意図的におこなっていないと思いますが、『意図的でない』ことも、また問題です。不適切な翻訳をおこない、不適切な報酬を得ることが、代々続けられてきたので、心が麻痺してしまっているのではありませんか?

聖書翻訳事業、聖書翻訳の『組織』に根本的な問題があります。翻訳者個人の技量の問題だけではありません。そしてそれを支える『神学者コミュニティ』、大学の教育にも問題があります。大学で教えるヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の授業について申し上げますが、一般の『ヘブライ語教養課程』と、翻訳者を対象にした『ヘブライ語専門課程』を区別するべきです。牧師が必要とされる知識については『教養課程』とし、通訳翻訳者を目指す人には『専門課程』とする。大学で、こうした環境整備ができていないのではないでしょうか?神学校のセンセイ!真面目に検討してください。そして、謙虚に勉強し直してください。


目的言語における文字数の等価性について

通訳で考えると分かりやすいのですが、話し手が1分間話したことばを、もし通訳者が2分間かけて通訳したら、ひんしゅくを買います。これは、やってはいけないことです。話し手の話しが終わると、会場から拍手が起こる、笑い声が起こるという、会場の反応も起こるので、同時通訳の場合、話し手の話しが終わるタイミングで、できるだけ通訳も終わるよう努力します。話し手の話しが終わり、会場の拍手も鳴りやんでも、まだ通訳が終わっていないのでは、気まずくなります。通訳においては、話し手の話した時間と、通訳者が通訳する時間にも、等価性が求められます。

翻訳をする場合も、原則は同じだと私は思っています。旧新約を合わせた聖書は5cm位の厚さになります。同じサイズの聖書なのに、ある翻訳は5cmの厚さで、別の翻訳は10cmの厚さだったら困りますよね。カバンに入らなくなるだろうし、一日一章読むのに倍の時間掛かるということになります。翻訳は、解説文を作ることではありません。そういう意識を持って翻訳をする必要はあります。原文の一つひとつの単語に気を取られると、ダラダラと冗長な文になり、訳文ではなく解説文になってしまいます。これではダメです。

ヘブライ語は他の言語に比べ、文字数が少なくて済む、文章表記が短くて済む傾向があります。一般的に、翻訳をすると、目的言語の方が長い文になる傾向がありますが、ヘブライ語をほかの言語に翻訳すると、これが顕著に表れます。


上の図のように、ヘブライ語を英文に翻訳すると、1.5~2.0倍の長さになります。


日本語(私訳)は1.3~1.7倍の長さになります。

次に、箴言1:15~19をヘブライ語で朗読した時間と、日本語訳(私訳)を朗読した時間とを比べてみると、どちらも、35秒前後になりました。音声に置き換えると、時間的に等価性が守られていることが分かりました。日本語の訳文は、この程度の長さが丁度よいということです。


(000)箴言-1

2018年05月07日 | 箴言

חֲשַׁב ハシャーブ 考える


この記事の目次
・箴言は死語
・格調高さがみことばを壊す
・箴言12:15
・箴言12:16


~箴言は死語~

箴言は詩篇の次にくる記事で、賢者として有名なソロモン王が書いたとされています。全部で31章あるので、一日一章読むと1か月で読むことができます。箴言には、日常生活の中で気をつけなければならい教訓が書かれています。『箴言』という書名から、何かお堅い人生訓のようなニュアンスを感じるのですが、ヘブライ語を見ると、お堅いことばで綴られているという印象を受けません。『いいか!酒と女には気をつけるんだぞ』という内容だって書かれているんです。

先ず『箴言』という書名に問題があります。『箴言』ということばを聞くと、何か正座をし背筋を伸ばし、眉間にシワを寄せて拝聴しなければならないおことば、若しくは、床の間に飾られる『銘書』のように『すばらしいですなあ。凡人には真似できませんなあ』と距離を置いて鑑賞するものという印象を受けます。『箴言』という書名には人を威圧するニュアンスを感じます。文語訳聖書に『箴言』という書名があるので、おそらく文語訳が翻訳された時に決められた書名なのでしょう。



ユダヤ教経典の書名というのは、書物の一番初めに書かれてることばが書名になっています(そうでないものもあります)。箴言1章1節の最初のことばが『mishlei ミシュレイ』なので、書名も『ミシュレイ』になっています。日本語の『箴言』はヘブライ語ミシュレイから翻訳されました。ミシュレイ(mashal マシャール)には大きく分けると二つの意味があります。

mashal(4910)動詞 (国を)治める、(自分を)律する、支配する 81回使用
mashal(4912)名詞 ことわざ、たとえ話、比喩、教え、教訓 38回使用

動詞マシャール、名詞のマシャールの両者とも、『箴言(書簡)』だけで使われることばではなく、創世記から預言書まで様々な書簡で使われています。『マシャール』は、使用頻度の高いことばなので、日常語に属すると考えてよいでしょう。日本語の『箴言』よりも軽いことばだということが分かります。

一方、日本語訳聖書の中で『箴言』ということばが使用される回数は極めて少ないことが分かります。
口語訳 9回
新共同 3回
新改訳 8回

ヘブライ語聖書の中で使われる使用頻度からすると、mashalは『教訓、訓示、教え』あたりの訳語が相応しいと思います。日本のノン・クリスチャンが、生きてる間に『箴言』ということばを、口にしたり書いたりすることは99.99%ないでしょう。『箴言』という骨董品のような漢語をあてがうことは、聖書は難解な本だという印象を与え、日本人を聖書から遠ざけることになります。

日常語として使われる『マシャール』が、日本語の死語に訳出されました。使用頻度があまりにもかけ離れた訳語をあてがうことは、誤訳になります。原語と目的言語との間で、等価性が守られていないからです。こうした珍訳が起こるのは『聖書は格調高いことばで翻訳するのが良い』という、身勝手な翻訳理念が原因です。


~格調高さがみことばを壊す~

箴言は『床の間の掛け軸』のように、鑑賞用のことばとして書かれていません。ヘブライ語では、人が口ずさみやすいようにリズミカルなことばになっています。下の動画は、箴言1章をヘブライ語で音読したものです。一番最初に『ミシュレイ』と言っています。お聞きください。

Provérbios 1 em Hebraico (Proverbs Chapter 1 in Hebrew)


箴言は、ユダヤ人の誰もが口ずさむことができるよう書かれています。

ヨシュア1:8 新改訳第三版
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

詩篇1:2 新改訳第三版
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

神さまが『多くの人に聖書のことばを口ずさんでもらいたい』という思いを持たれているのに、神学者が『めっそうもございません。庶民が使う品のないことばや日常語を使った翻訳など決してやってはいけません。何と申しますか、こう、格調高く、学術的で難解な翻訳が良いのでございます』と考えていたら、神さまの気持ちと噛み合ってないことになります。これでは聖書の存在意義を台なしにすることではありませんか?『格調高い訳文にする』というお題目が、意味不明な訳文を擁護する隠れミノに使われてきたということに気が付くべきです。読んでも意味が分からない日本語訳聖書を出版する。これでは本末転倒です。



聖書には66の書簡があります。その中には詩篇のような詩文があり、雅歌のように新婚夫婦の熱いロマンスを描写した記事があります。ヨナ書には預言者ヨナのトボケっぷりが書かれていて、不正な管理人のお話は、あのお堅い律法学者が思わず吹き出してしまう文言で綴られています。パウロ書簡でも、お堅い文体で書かれたものがあれば、そうでないものもあります。コリント書簡など、ユダヤ教の素地がない地域に宛てた手紙には、敢えて旧約聖書の聖句引用はしていません。聖書の専門用語を使うことなく、外国人が理解できることばで信仰生活の手引きを書いています。66巻からなる聖書は多様な文体で書かれています。

詩文、ロマンス、笑える小話などなど、個々の文面のユニークさを考慮することなく、何でもかんでも『格調高い言い回し、難解な言い回し』一辺倒で翻訳していいのでしょうか?そんなことをするから、聖書のことばが死ぬのです。ユダヤ人が、長い年月を通し聖書を守り受け継いできたのは、聖書のことばにいのちがあったからだと思います。ことばが持ついのちは、66巻それぞれのユニークな文体と結びついていたはずです。何でもかんでも、格調高いことばで翻訳するから、各書簡のユニークさをないがしろにし、ユニークさの中で生きていたことばを殺しているのです。日本語訳聖書を読んでも、一体何を言いたいのか曖昧で意味が伝わって来ないですよね。文中の人物が笑いもせず、怒りもせず、能面の如く無表情で、無機質な文面になっています。ヘブライ語で生き生きしていたはずのことばが、死んだ日本語に翻訳されているからです。『格調高い文面で翻訳する』という理念が、聖書のことばを壊すのです。

聖書翻訳という仕事は何のためにするのでしょうか?多くの日本人が聖書を読んで理解できるようにするためですよね。ここが一番大切なところです。そうであれば、現代の日本人が読んで理解できることばに翻訳することは、ゆずることのできない基本中の基本であるはずです。ところが『格調高い訳文にする』というトンチンカンな理念が、何でもかんでも難解なことば使いにし、みことばを壊しているのです。『箴言』という死語は一つの例です。新改訳聖書をご覧ください。イザヤ書8章の『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』は、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで、これでは日本人が読んでも意味が分からないですよね。脚注欄があるにも関わらず、意味を説明していません。ルカ16章では、『パテ、コル』とイスラエルの度量衡をカタカナ表記しただけです。ヘブライ語の音をただカタカナで表記する。こんな手抜き仕事が翻訳なのでしょうか?こうした意味不明な訳文を、神学者は『格調高い訳文でございます』と呼ぶようですが、言わせてもらえば、翻訳がヘタクソなだけです。読んで意味が分からない聖書なんて、飲んでも効かないニセ薬と一緒です。

もし、イエスさまが日本の聖書翻訳委員会の翻訳会議に足を踏み入れたとしたら、会議室のテーブルをひっくり返し、パソコンを床に叩きつけ、パイプ椅子を蹴っ飛ばし『わたしのことばは、いのちのことばと呼ばれるはずだった。ところがあなた方神学者は自分たちの名誉とお金を得る手段に変えている。イザヤが不倫をして子どもを生ませたなんて(イザヤ8:3)よくもデタラメな翻訳ができたな。そんなことだから、性犯罪を犯す牧師を生み出すのではないか!また、信徒には不正な金で仲間を作れなどと(ルカ16:9)よくもデタラメが言えたな!だから、霊感商法のような詐欺行為を助長させるんじゃないか!そもそも、あなたたち神学者は翻訳をする能力がないにも関わらず、翻訳委員会を立ち上げ、意味不明な聖書を出版し私の名を汚してきた。庶民には高値で聖書を売りつけ、自分たちは甘い汁を吸う。これでは、あのパリサイ人と同じではないか!』と怒鳴り、会議室から全員追い出すのではないだろうか?イエスさまの翻訳清めが必要です。マタイ21:12~13




以下、箴言の訳文を検討してみます。

~箴言12:15~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、ヘブライ語を見ると違うところがありますぞ。

箴言 12:15 口語訳
15 愚な人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。

箴言 12:15 新共同訳
15 無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。

箴言 12:15 新改訳2017
15 愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


דֶּ֣רֶךְ אֱ֭וִיל יָשָׁ֣ר בְּעֵינָ֑יו וְשֹׁמֵ֖עַ לְעֵצָ֣ה חָכָֽם  
デレック エビール ヤシャール ベエナーブ ベショメヤ レッサー ハッハーム

דֶּ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離
אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
יָשָׁ֣ר ヤシャール yashar(3477) まっすぐな、正しい、ふさわしい、直立した
בְּעֵינָ֑יו アーイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野、姿かたち 
וְשֹׁמֵ֖עַ シャマ shama(8085) 耳にする、耳を傾ける、聞く、肝に銘じる
לְעֵצָ֣ה エッツァー etsah(6098) 話し、相談、忠告、助言
חָכָֽם ハッハーム chakam(2450) 賢い、賢明、知恵、理性、知性

クリスチャンであれば、礼拝を守ること、十一献金を捧げること、日々祈り聖書を読むことが正しいと信じ、信仰生活を守っていることと思います。従来の日本語訳は『愚か者は自分の道を正しいと思う』という訳です。では、聖書に従った信仰生活を守ることが正しいと考えることも、愚かなことになるのでしょうか?そんなことはありませんよね。従来の訳文は原文の意図を理解せず直訳しているので、原文とは違う意味になっています。

15節前半は『愚かな人というのは、自分のやり方が最も正しいと考えるうぬぼれ屋さんだ』という意味です。従来の日本語訳聖書は、この意図を訳出できていません。『デレック=道』『ヤシャール=正しい』『自分の道は正しく見える』と、直訳しています。この愚かな人物が『道(人生)』という文学的なことば使いをするでしょうか?この愚か者には自分の人生を達観する能力はないはずです。自分の失敗はすべて他人の責任、他人の成功は自分の手柄。『オレがやることに一度だって間違いはないんだ』と、うぬぼれる、そういう人物です。日本語の『道』ということばには、詩的、哲学的、内面的なイメージがあります。『道』ということばを、この愚か者に語らせたのでは不釣り合いですよね。『デレック=道』と訳語を固定してはいけません。この文脈では『方法』という意味に変化しています。

また15節は、愚かな人の目と、知恵ある人の耳と、目と耳を対比する表現になっています。ヘブライ語では目(アーイン)は罪の誘惑を象徴します。創世記3:5~6に、ヘビは『その木の実を食べると目(アーイン)が見えるようになるんだよ』とエバをそそのかし、エバの目(アーイン)にも『本当、美味しそう。賢くなれそう』と映った・・・とあります。マタイ5:29には『もし、右の目(ギリシャ語 オフサルモス)が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい』とあります。聖書を見ると『目』は罪の入り口、誘惑の象徴として使われています。



聞くという動詞シャマ(shama)は創世記3:8で使われていて『アダムとエバが、主の声を聞き(シャマ)また、主が園の中を歩いて来るのを知って・・・隠れた』とあります。

1サムエル15:22 新改訳
・・・「主は主の御声に聞き従うこと(シャマ)ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うこと(シャマ)は、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

15節は『愚かな人はその目が節穴だ。知恵ある人はその耳を働かせる』と、目と耳の働きを象徴的に表現しています。



『なるほど。ヘブライ語では目と耳が対比される形で書かれてるんだ。日本語訳も『目と耳』ということばを使い、同じ形で翻訳しなければならないのだろうか?』これは、翻訳者が必ず直面する問題です。結論からいうと、日本語訳で『目と耳』ということばを使う必要はありません。実際にやってみると分かりますが、原文の修辞表現を訳文に持ち込もうとしてもうまくいかないものです。言語には恣意性があるので、原文の表現形式を目的言語に持ち込むことはできません。場合によっては、まあまあうまくできる場合もあるかも知れませんが、基本的にできないということです。翻訳者が訳出しなければならないのは意味です。原語の語彙、品詞、文法、修辞技法を訳文に持ち込むことはできません。

また従来の日本語訳は『忠告を聞き入れる、従う』という訳し方ですが、これでは『人の忠告には従うんだぞ。従わないとダメだぞ』という意味になります。これは間違いです。ヘブライ語、シャマ shamaは、聞くという意味です。まれに『聞き従う』という解釈になることもありますが、それは、そのように解釈せざるを得ない文脈の中で成立する解釈です。70人訳では、eisakouó(1522)ということばで、これも聞くという意味です。

まわりには、正しい忠告をくれる人がいる一方、聞き流せばいいレベルの意見もあることでしょう。他人の意見全部に聞き従う人というのは、自立(自律)していない人ということになります。神さまは、本当に、他人の意見には全て聞き従えと言ってるのでしょうか?そうではありません。ヘブライ語で語っているのは『人の意見にも耳を傾けなさい。そういう謙虚さや余裕がないとダメだよ』ということで、『他人の意見には従え』とまでは言っていません。

どちらかと言うと、日本人は八方美人で、他人の意見に左右されやすいところがあります。一方、ユダヤ人は個人の意見、個性的な意見を大切にします。ユダヤ人は、意見が対立することを悪いことだとは思っていません。盲目的に他人の意見に従うということがない民族です(ステレオタイプな見かたではありますが)。

『忠告を聞き入れる、従う』は、日本的な価値観に基づいた解釈で、翻訳者が『自文化の干渉』が起こっていることに気づかないまま、翻訳作業をしたため、こういう訳文になったのでしょう。翻訳者は、『自文化の干渉』が起こらないよう、常に自分自身をチェックしなければなりません。

以上をまとめると、15節は『自分の能力を過信するな。うぬぼれるな。人の意見に耳を傾けろ』という意味が語られています。『勧めをいれる。聞き従う。忠告を聞き入れる』は、行き過ぎた解釈です。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


『でもさあ、うぬぼれるってことば、ヘブライ語にはないよね。勝手に付け足したりしていいの?』と疑問に思う方がいると思うので説明させていただきますが、これで問題ありません。ちょっと難しい話になりますが、モダリティ(modality、秘められた心理的要素)について説明させていただきます。

2016年12月27日、安倍首相は真珠湾を訪問し犠牲となった方々に慰霊の献花を捧げました。諸説ありますが、75年前、日本は宣戦布告せず真珠湾を奇襲攻撃しました。これがきっかけとなり、アメリカは『Remember Pearl Harbor』をスローガンに、第二次世界大戦に参戦することになります。この『Remember Pearl Harbor』は『真珠湾のかたきを取る』とか『真珠湾の復讐を誓う』と、日本に対する恨み、復讐心を意味しています。

場面が変わり、日本人とアメリカ人が歴史談義をしたとしましょう。話が太平洋戦争の話題になり、アメリカ人にとって耳の痛い、広島長崎の原爆投下を日本人が持ち出したとします。すると、アメリカ人に『Remember Pearl Harbor』と切り返されました。これはどういう意味になるでしょう?ここでは『真珠湾をだまし討ちしたのはどこの国だい?』若しくは『引き金を引いたのは日本だろ』と、戦争の原因を指摘する。こうした意味で語られています。『Remember Pearl Harbor』というフレーズも文脈が変われば、意味も変わります。直訳はできません。

『Remember/ Pearl/ Harbor』それぞれのことばを辞書で調べても、日本に対する恨みつらみを示すものはどこにもありません。ところが『Remember Pearl Harbor』という一つのフレーズになると『にっくき日本!敵国日本』という恨み(モダリティ)を持つことばに変化します。このように、原文に感情表現を意味する単語がなくても、感情表現を引っ張り出さないと、正しい訳出ができない、そういう場合が多々あるのです。学校で教えるように、英文をバラバラに品詞分類し、単語の一つ一つを辞書で調べ、日本語の語順に並び替えるという、やり方では原文のモダリティを理解することはできません。

箴言12:15も『うぬぼれる』というヘブライ語はありませんが、原文には『うぬぼれる』というモダリティ(秘められた心理的要素)が潜在(せんざい)しています。日本語に訳出する時は『うぬぼれる』を言語化しないと、原文と同じ意味になりません。このように、潜在化しているモダリティを言語化する場合があれば、反対に、言語化されたモダリティを、潜在化させる(ことばを消す)テクニックもあります。箴言12:15で『うぬぼれる』ということばを入れることは勝手な付け足しではありません。むしろ高度な翻訳スキルがないとできないことです。学校で教える『直訳英語』は、目に見える文字だけを翻訳させますが、目に見えない文字だってあるんです。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。



~箴言12:16~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、すべて誤訳されています。

箴言 12:16 口語訳
16 愚な人は、すぐに怒をあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。

箴言 12:16 新共同訳
16 無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している。

箴言 12:16 新改訳2017
16 愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。

箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。


אֱוִיל בַּיֹּום יִוָּדַע כַּעְסֹו וְכֹסֶה קָלֹון עָרוּם
エビール バヨーム イーバダー カッソー ベホッセ カローン アルーム

אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
בַּ֭יּוֹם ヨーム yom(3117) day、日、一日、一日中
יִוָּדַ֣ע ヤダ yada(3045) 知る、(意思、感情、才能を)あらわす(to make oneself known)
כַּעְס֑וֹ カハス ka'ac(3708) くやしさ、落胆、イライラ、こころ傷つく
וְכֹסֶ֖ה カッサー kasah(3680) おおいを掛ける、おおい隠す、隠す、服を着る
קָל֣וֹן カローン qalon(7036) 恥知らず、不名誉、恥、みっともない振る舞い
עָרֽוּם アルーム arum(6175) 抜け目ない、ずる賢い、要領が良い、機転が利く

16節前半『カハス』を従来の日本語訳は『怒りをあらわす』と訳出していますが、『カハス』は傷つきやすい心の持ち主が『私は傷ついた』と落ち込んだり、プンプン怒る。イライラを、表情や態度に表すという意味です。『怒り』ではなく『イライラする』という意味です。

人間である以上、誰だってイライラすることはあります。この箴言は、こうした感情そのものを否定してはいません。イライラする感情をコントロールすることなく、表情や態度に表すのはみっともないよね。周りの人の気持ちも考えようよ。もっと要領よく自分の感情と付き合おうよ。そういう意味です。

16節後半『アルーム 要領が良い人』は、15節後半の『ハッハーム 知恵ある人』と並行関係にあります。ここは全く同じ意味ではなく、違う意味を表す目的で『アルーム』が使われています。アルームは『ずる賢い、抜け目ない』というチョイワル感を含んでいます。エバを騙した蛇はずる賢かった(アルーム)とあります(創世記3:1)。『アルーム』は単なる『知恵ある人』ではなく『要領が良い人』という意味です。

従来の日本語訳は『知恵ある人は、侮辱されても我慢する』という意味に解釈していますが、これは全然意味が違います。原文の輪郭を把握していないからこういう誤訳が生まれるのです。



『あらわす⇔隠す』と、反対の意味を持つ動詞を使っています。愚かな人は『イライラした態度をあらわす』。⇔要領が良い人は『みっともない態度はあらわさない』という形になっています。ヘブライ語はこうした、二者を対比した表現を好みます。英訳聖書でも『要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない』と訳出しているものは沢山あります。従来の日本語訳が『はずかしめを受けても黙っている』と解釈してきたのは間違いです。この翻訳をした先生というのは、神学者や聖書学者の中から選ばれし翻訳者ということなのでしょうが、文法的に難しさがあるところでもないのに、誤訳するのが不思議でなりません。日本語訳をおこなった翻訳委員会のレベルが極めて低いということです。


箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。



日本の聖書翻訳には、ヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の最高の腕を持つ翻訳者が選ばれていると、私は信じていましたが、残念ながら、間違っていたようです。率直に申し上げますが、日本語訳聖書の翻訳レベルは中学生レベルです。プロとしての腕前には遠く至っていません。翻訳技術を持たない神学者が翻訳者として採用され、商品に値しない翻訳聖書が市場で売られる。その一方、翻訳者や理事はきっちりと報酬を受け取り、『聖書翻訳者』という肩書も得ることができます。日本の聖書翻訳事業というのは、神学者には大変都合のよい構造になっているようです。現在、新たな聖書翻訳が進められていますが、日本の聖書翻訳の恥をさらす(イーバダー カローン)ということのないようにしていただきたいものです。

私はヘブライ語を習ったことは一度もありません。ヘブライ語については全くのド素人です。聖書翻訳に携わるセンセイ方のほうが、ヘブライ語については、比べ物にならないほど見識がおありだと思います。にも関わらず、エラー、誤訳となっているところが驚くほどたくさんあります。それは、原文解釈をする時の、目の付けどころが間違っているからです。また、基礎的な学習、基礎的なトレーニングをおこなっていないからです。通訳や翻訳をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学の知識が必要です。更に、頭で理解するのではなく、自分の体を使い体で覚えるトレーニングも必要です。そのためには通訳の現場経験を重ねることが一番効果的です。こうした学習やトレーニングを重ねることで通訳スキルを身に付けることができます。通訳者が、正しい通訳スキルを身に付けていれば、やがて『正しい言語観』も身に付けることができます。正しい言語観を身に付けていれば、どんな外国語でも習得することが可能になります。

プロとして通訳や翻訳をする人は沢山いますが、通訳スキルを身に付けている人、正しい言語観を持っている人というのは、ほとんどいないようです。このことは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただきました。日本の大手新聞社で働く翻訳者たちが、結構大きな間違いをおかしています。興味がある方はお読みください。

『へえ、翻訳ってこういう風にやるんだ。翻訳スキルというのは、大事なものものみたいだな』と感じていただけたらありがたいのですが。『ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ10:8』このみことばに促され、神さまから与えられた通訳技術をブログで公開させていただいています。通訳や翻訳をされる方の一助になれば幸いです。