聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ヘブライ語ハガーブ いなごの解釈 民数記13章ほか

2018年05月27日 | ことばの解釈

חָגָב ハガーブ いなご

聖書の中で『イナゴ』に関する記述がありますが、『חָגָב ハガーブ いなご』は、旧約聖書の中で5回使われています。
レビ記11:22
民数記13:33 比喩
歴代誌下7:13
伝道者12:5 比喩
イザヤ40:22 比喩

5か所のうち、比喩として使われているのは3か所ですが、日本語訳聖書は、3か所とも誤訳されています。たかがイナゴ、されどイナゴです。


この記事の目次
・民数記13:33
・伝道者12:5
・イザヤ40:22
・フーグの意味
・比喩ハガーブのまとめ
・バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?
・食べてもよいイナゴ
・余談あれこれ



~民数記13:33~

モーセはカナンの地を征服する前、偵察隊を派遣し、任務を終えた偵察隊は次のように報告します。

新改訳 民数記13:33
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

『自分がいなごのように見えた』とはどういう意味でしょう?ウエブサイトを見ると『いなごは小さいことの象徴で、アナク人が大きな体を持つのに対し、偵察隊の身長がとても小さいことを意味する。つまり、アナク人(ネフィリム)は巨人であるという意味だ』このように解説する方が多いようですが、これは間違っています。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 民数記13:33
カナンにいたのはアナクの子孫で、あれは伝説のゴロツキ集団ネフィリムに違いありません。連中の体つきに比べると、私たちは華奢(きゃしゃ)で、モヤシみたいなものです。


Biblehub.com

民数記13:33



הָיָה ハヤー(バンネヒー) (1961)
~である、~となる

עַ֫יִן アーイン(ベエネエーヌー) (5869)
見た目、姿かたち、目

חָגָב ハガーブ(カハガビーム) (2284)
イナゴのように

33節後半は、私たちの目には自分(の手足)が、イナゴの(手足)ように(か細く)映る⇒私たちの体は華奢で、モヤシみたいなものだ、という解釈になります。

『ハガーブ いなご』は、小さいことを象徴するのではなく『イナゴのように手足が細く、華奢(きゃしゃ)な体つき』『弱さ、無力さ』を象徴することばになります。

余談ですが『アナク族は巨人である』という神学者もいますが、これも嘘です。聖書に『アナク族は屈強な体格をしている。体つきが大きい』こういう記述はありますが、『巨人である』とは書いていません。オランダ人は身長が高いことで知られていますが、オランダ人は『巨人』であると、普通、言わないですよね。『体が大きい=巨人』ではありません。


~伝道者12:5~

伝道者の書12章は、健康が損なわれた老人の哀れな姿を描写しています。5節に『いなご ハガーブ』が使われています。

新改訳 伝道者12:5
彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。

『彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる』とはどういう意味なんでしょう?『アーモンド、いなご、ふうちょうぼく、永遠の家・・・』文脈が支離滅裂で、これでは読んでも意味が分かりません。詳しく説明すると、文字数がオーバーしてしまうので、ここでは『イナゴ』の解釈だけに留めます。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 伝道者12:5
年をとれば、髪の毛は白くなり、足腰が衰え、健康が損なわれる。悲しみながら晩年を過ごし、死んで墓に葬(ほうむ)られる。


Biblehub.com

伝道者の書12:5


סָבַל サバール(ベイスタベル)(5445)動詞
(重いものを)背負う、かつぐ、運ぶ

חָגָב ハガーブ(ヘハガーブ)(2284)
イナゴ、バッタ

ベイスタベルは『(重いものを)運ぶ』という意味です。文法的な話をすると、基本形はサバールですが、ヒトパエル形になったのがベイスタベルです。ここは『あたかも、重い物を運ぶように、歩くことがしんどくなる』という意味ですから、『ベイスタベル ヘハガーブ』は『脚がイナゴの脚のように細くなる。歩くのがしんどくなる⇒年をとると足腰が弱くなる』ということです。イナゴ(ハガーブ)は、老人のやせ細った脚の比喩として使われています。

伝道者12章は、希望を失った老人の姿を様々な比喩を使い表現しています。興味のある方は、次のサイト(英語)をご覧ください。
MacLaren's ExpositionsBiblehub Ecclesiastes 12:5



~イザヤ40:22~

イザヤ40:22にも、ハガーブが使われています。

新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。



新改訳の訳文を読んでも、意味が分かりません。『主は地をおおう天蓋の上に住まわれる』これはデタラメです。ヘブライ語『יָשַׁב ヤシャーブ』は、この文脈では『(王座に)座る』という意味で『住む』ではありません。ヘブライ語『חוּג フーグ』は『~の中』という意味で『天蓋』は誤訳です。『薄絹』も誤訳で、これはヘブライ語『דֹּק ドーク』から翻訳されました。ドークは『テントを覆う外皮(布地、皮)』のことです。70人訳は、ドークを『καμάραν 屋根、覆い』と訳出しています。καμάρανκαμάρακλίση参照。 ドークは『テントを覆う布』のことです。引用サイトRoger Pearse.comAcademic.com。 ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


Biblehub.com
イザヤ書40:22


יָשַׁב ヤシャーブ(ベヨシュベーハ)(3427)
住む、座る、王座に着く

『ベヨシュベーハ カハガビーム』は『(地上の王様なんて、)イナゴが王座に着くようなものだ⇒人間の権力など無きに等しい』という意味です。

解釈文を作ると、次のようになります。
神さまは大地を創り、その真ん中を自分の王座にした。あたかも、テントを一張(ひとはり)立てるように、主は、いとも簡単に大空をお創りになった。この大空は主が住む王宮の屋根。主の王宮は、大地の真ん中に立つ。地上の王様なんて無力なものさ。

ヘブライ語はハイコンテクストになっていて、多くのことばが省略されています。日本人に分かる訳文を作るには、省略されたことばを再現しなければなりません。かといって、だらだらと長い訳文を作ることはできません。訳文の文字数に制限があるからです。原文放棄をおこなって、訳出すると次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


ハガーブ(カハガビーム いなご)は、人間の無力さの比喩として使われています。


~フーグの意味~

イナゴから話しが逸れますが、『主は・・・天蓋の上に住む』これは誤訳です。天蓋は、ヘブライ語フーグを翻訳したもので、ウエブサイトを見ると間違った説明をする方がいます。『חוּג フーグの意味は「circle,vault」と定義されている。従って「天蓋」以外に「地球は丸い」という解釈も可能である』と仰っていますが、『天蓋、地球は丸い』どちらも誤訳です。『聖書の中で、地球は丸いということを言わせたい』こういうあらぬ先入観を抱いて原文を見ると、歪んだ解釈が際限なく生まれます。ヨブ記22章、箴言8章にも、フーグが使われていますが、『天蓋、地球は丸い』という解釈が当てはまるでしょうか?当てはまらないのです。フーグは『中心、真ん中』という意味で使われています。新改訳は全て誤訳です。フーグは、次の3か所で使われています。
ヨブ22:14
箴言8:27
イザヤ40:22

以下、赤い字が『フーグ』の訳語にあたることばです。

新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』




新改訳 箴言8:27
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

私訳 箴言8:27
主は、深い海の真ん中をわかち、大空を創られた。知恵なるお方もそこにいた。




新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。





ヨブ記の私訳が分かりにくいと思うので、説明をさせていただきます。私訳には『フーグ』に相当する訳語がないので、腑に落ちない方がいることでしょう。ここは表と裏、二通りの解釈ができます。表(おもて)の解釈をすると『天国に雲がかかったらどうなるだろう。神さまは何も見えなくなり、天国の中を歩くこともできなくなる』となります。ヘブライ語 הָלַך  ハラーク(1980)は『歩く』以外に『おこなう、生きる、働く、従う・・・』という意味があります。従って、『天国の中を歩くこともできなくなる』というのは『神としての働きができなくなる⇒神は人間のおこない(悪事)を見張ることができなくなるだろ。そうなりゃこっちのもの。やりたい放題さ』ということです。ヘブライ語が語る意味、ニュアンスを、適切な日本語で表現すると、次のようになります。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』


新改訳は意味不明です。
新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と

『直訳(トランスペアレント訳)が原文に忠実な翻訳だ』という方がいますが、それは嘘ですよ。



~比喩ハガーブのまとめ~

話しを『ハガーブ いなご』に戻し、以上検討してきた内容をまとめてみます。

ハガーブが使われた個所まとめ


חָגָב ハガーブ(2284)は、バッタ、イナゴという意味ですが、חָגָּא ハッガー(2283)は、恐れ、心くじけるという意味があります。ヘブライ語は、韻をふんだ表現や、発音が似たことばを代用することを好みます。ハガーブ(イナゴ)と、ハッガー(恐れ、心くじける)を掛けことばとして使っている、そのように見えます。



~バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?~

新改訳 マタイ3:4、マルコ1:6
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

この個所について『バプテスマのヨハネが食べていたのは、イナゴではなくイナゴ豆のことだ。蜜とはハチミツではなく、なつめやしの蜜だ』この様に、奇をてらった解釈をする神学者(聖書学者)がいるようです。都会に住む人からすれば、イナゴと野蜜を食べるなんて、気色(きしょく)悪く感じるのでしょう。こうした解釈は、自分の知識や価値観に合うよう、歪められたものです。

こんにちでも、ユダヤ教の過越祭に、イナゴを食べる習慣が残っています。イナゴに、ハチミツを付けて食べることがあるんです。自分が育った日本の文化、価値観のまま原文解釈をすると、必ず誤訳になります(自文化の干渉)。聖書が書かれた時代、その地域の文化、価値観に沿って、理解しなければなりません。下の動画は、現代ユダヤ人が、イナゴと野蜜を食べる様子を映したものです。

Crickets, Grasshoppers, Locusts,



how to cook locusts - honey crunch locust - Arthropod Food Club



The Crunch of the Matter: the Kashrut of Locusts. Would you eat one?



バプテスマのヨハネは、文字通り『イナゴと野蜜』を食べていたのです。神学者がいうニセ情報に騙(だま)されてはいけません。



~食べてもよいイナゴ~

レビ記11章に食べてもよいイナゴが書かれていますが、名称がはっきりと確定されてないようです。

レビ記11:22 新改訳
それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。

様々な英訳を調べましたが、Chabad.orgの解釈が、日本人に最も理解しやすい訳し方だと思い、下の表にまとめました。




BBC.comの記事にも、次のように紹介されています。
・・・ユダヤ教には食事規定がある。昆虫の中で食べることができるのは、イナゴのみ。野生のイナゴといっても様々な種類がある。このうち律法で食べることが許されているのは『赤イナゴ、黄イナゴ、斑点イナゴ、白イナゴ』の4種類・・・
Locust is the only insect which is considered kosher. Specific extracts in the Torah state that four types of desert locust - the red, the yellow, the spotted grey, and the white - can be eaten.

細かいことかも知れませんが、こうしたイナゴの名称についても、日本語訳聖書の翻訳改定に反映されるべきだと思います。新改訳2017を見ると、第三版のままでした。


イスラエルにもイナゴの大群が発生しますが、多くはエジプト経由で飛来してきます。




Israel Fighting Off Locust Invasion



כָּשֵׁר Kosher コーシャー Kosher foods 適合食品
כַּשְׁרוּת Kashrut カシュルート 食物規則、聖潔規定



~余談あれこれ~

2013年3月3日付けの、Atlantic.comは、イナゴの大群がエジプトを襲ったことを報道しています。この年の過越祭は、イナゴの大量発生から3週間後おこなわれています。出エジプト記にも、イナゴの大量発生が書かれていますが、イナゴの発生から過越祭(初子の死)まで、何日経っていたのでしょう?3週間位だったのでしょうか?出エジプト記を見ると、イナゴの大量発生(10章)⇒暗やみの難(10章)⇒初子の死(12章)という流れで、イナゴの発生から2~3週間後、初子の死が起こったように見えます。出エジプト記の記述は、現代のカレンダーとほぼ一致します。『出エジプト記の出来事なんか作り話しだ』と、一笑に付すことはできないでしょう。


来たる2018年12月、日本聖書協会は共同訳聖書を出版するようですが、この中で『いなご⇒ばった』と訳語の変更をするそうです。理由は『ヘブライ語アルベは、サバクトビバッタを指す』ということですが、これは改悪ですぞ。旧約聖書に出てくる『אַרְבֶּה アルベ』、バプテスマのヨハネが食べた『ἀκρίς アックリース』共に、食べることが許された昆虫です。ここが肝心です。日本にもイナゴを食べる地域があります。『イナゴの佃煮』は有名です。しかしですね『バッタの佃煮』というものを、私は聞いたことがありません。『イナゴは食用に使われるが、バッタは使われない』日本人の多くは、こういう理解をしているはずです。ここでいう『イナゴやバッタ』は昆虫学の分類でいう『イナゴやバッタ』ではなく、食文化として定義される『イナゴやバッタ』です。もし聖書に『ユダヤ教ではバッタを食べる。バプテスマのヨハネはバッタを食べていた』と書かれていたら、『ユダヤ人はバッタを食べるのかよ。なんでイナゴを食べずにバッタを食べるんだ?』こういうトンチンカンな印象を日本人に与えることになるでしょう。

聖書に書かれた『清い動物、清くない動物』は、現代動物学の分類とは異なる基準で書かれています。その中で、動物のひづめに関する規定、反芻(はんすう)に関する規定について書かれていますが、現代の動物学が定義する、ひづめや反芻とは、異なる視点で定義されています(ここは翻訳困難な箇所です)。聖書に書かれた昆虫名も、現代昆虫学の分類法とは異なる見方で、分類、命名されています。

聖書の翻訳に、一部の人しか知らない専門用語を引っ張って来たり、一部の人しか知らない専門的分析をおこない、聖書のことばを意味不明なものにおとしめる、こういうことをやってはダメです。例えば、聖書の中で『土台』と翻訳されたところがあります。

出エジプト記29:12
その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。

ルカ6:48
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。

専門的にいうと『土台』というのは、木造建築に使われる部材で、基礎の上で水平に横たわる角材のことをいいます。土台はアンカーボルトで鉄筋コンクリートの基礎に締め付け、しっかり固定される、そういう部材です。




土台が使われるのは、木造建築だけで、石やレンガで壁を作るイスラエルの組積造建築に、土台(木材)はありません(基礎はあります)。




ユダヤ教の祭壇は、石、金属で造られます。ですから、木造建築の様な土台は存在しません。また、アカシア材で造られた移動式の祭壇もありますが、これは、基礎に固定することはないので、これにも土台は存在しないのです。




理屈っぽくいうなら『土台』ということばが、聖書に登場するのは間違っているといえるでしょう。しかし、日常会話の中で一般の人が使う『土台』の意味は、もっと広く『基礎、基本、原則』という意味が含まれています。

土台とは  goo辞書より引用
1 木造建築の骨組みの最下部にあって、柱を受け、その根本をつなぐ横材。建物の荷重を基礎に伝える。
2 建築物の最下部にあって、上の重みを支えるもの。基礎。「土台石」
3 物事の基礎。物事の根本。「信頼関係を土台から揺るがす事件」
※1は現代建築の専門用語としての定義。2は古い時代の建築用語。3は日常語としての定義。

一般の方が日常語として『土台』ということばを使う場合、『基礎』という意味で使う場合が多いのです。ですから、聖書の中で『土台』ということばを使ってはダメだとはいえないのです。『建築用語では、土台と基礎は、それぞれ違うものを指す』ということを知っているのは、日本人の中でも1%位しかいないでしょう。不必要な専門的解釈で書かれた翻訳は『オレって専門的知識があるんだぜ。頭いいだろ』という、翻訳者の自己陶酔に過ぎません。

要は『イナゴをバッタに変更すると、却っておかしな日本語になるぞ。不用意に専門用語を使ったり、余計な専門的解釈を持ち込むな』ということです。聖書の中で書かれているのは『食べることが許された昆虫(イナゴ)』についてです。これは食文化の視点から見た昆虫(イナゴ)ですから、日本語に翻訳する場合、同じく食文化の視点で訳語の選択をしなければなりません。食べることができるのは『イナゴ』と訳出するのが正解です。バッタじゃ変でしょ。ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が言うように『原文と訳文の間に等価性を与えなさい』ということです。

日本聖書協会も『格調高く美しい日本語を目指して』翻訳をしたようですが、こういうトンチンカンな理念を掲げると、頭でっかちな文章、意味不明な聖書ができあがります。日本語に翻訳できるにも関わらず、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで済ませる。必要がないところで、専門的解釈を持ち込む。現代日本人が理解できない、古い漢語で表現する。難解で意味不明な聖書ができあがるのは当然です。『格調高く美しい日本語を目指す』ことが、皮肉にも、読者に不利益をもたらすのです。

通訳翻訳において最も大切なのは、日本人に誤解を与えない訳文、理解しやすい訳文を作ることです。聖書を誤訳し、間違った聖書解釈を作ってきたのは、ほかでもない神学者や聖書学者です。言い換えると翻訳の素人が聖書を翻訳しているということです。聖書翻訳というビッグビジネスが、神学者によって利権化され、誤訳悪訳をおこない、意味不明な聖書を高値で販売する。それでいて理事や翻訳者はきっちり報酬を得る。こうした利権構造は、読者が不利益をこうむるだけです。神さまも、望まれないことだと思うのです。

『חָגָב ハガーブ いなご』の解釈について、あれこれと書かせていただきました。たかがイナゴ、されどイナゴです。



(000)ロバの首を折る? 出エジプト記13章ほか

2018年05月22日 | ことばの解釈

ロバの首を折る?


モーセ率いるイスラエル民族がエジプトを出発したあと、シナイ山で神さまから律法を受け取ります。次の一文は律法の一節です。

出エジプト13:13(34:20) 新改訳
ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

『ロバの首を折る?』どうやってロバの首を折るのでしょうね?筋骨たくましい男性が、ロバの首を締め上げると、ロバは悲鳴を上げ、バタバタともがきます。更に力を加え締め上げると、バキバキッと音を立てながら首の骨が折れ、ロバは苦しみながら完全に絶命するまで、10分、20分という時間が掛かることでしょう。神さまは本当に『ロバの首を折れ!』と命じたのでしょうか?従来の日本語訳聖書は、עָרַף アーラーフを『首を折る、首をねじる』と訳出していますが、これは誤訳で、正しくは『(けがれた動物の)首を切り落とす』という意味になります。


この記事の目次

・従来の日本語訳
・輪郭を描く
・屠殺のやり方と血液
・家畜への思いやり
・輪郭を設定する まとめ
・アーラーフ 英語の解説
・なぜ誤訳が起こるのか


~従来の日本語訳~

従来の日本語訳は全て『首を折る』と翻訳しています。

出エジプト13:13 文語訳
又(また)驢馬(ろば)の初子(うひご)は 皆(みな)羔羊(こひつじ)をもて 贖(あがな)ふべし もし贖(あがな)はずばその頸(くび)を折るべし ・・・

出エジプト13:13 口語訳
また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。・・・

出エジプト13:13 新共同訳
ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。・・・

どの訳文も『首を折る』と訳出しているので、『首を折る』で正しい解釈なんだと思ってしまいますよね。ご注意願いたいのは、従来の日本語訳がいずれも同様の解釈をしている場合、二つのことが考えられます。一つは、いずれも正しく解釈されている場合、もう一つは、解釈が困難であるため、訂正されることなく誤訳が踏襲(とうしゅう)されてしまっている場合です。文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳がどれも同じ解釈になっているからといって、正しく翻訳されているとは限らないのです。眉にたっぷりつばを塗って読まなければなりません。


~輪郭を描く~

『首を折る』と訳出されたのは、ヘブライ語『アーラーフ』という動詞ですが、どのような意味で使われているのか、ことばの輪郭を描いてみます。アーラーフは、次の箇所で使われています。それぞれの文を見ると、共通する点が見えてきますよ!

出エジ13:13
出エジ34:20
申命記21:4
申命記21:6
イザヤ66:3
ホセア10:2

出エジプト13:13 新改訳
ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

出エジプト34:20 新改訳
ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

申命記21:4 新改訳
長老たちは・・・いつも水の流れている谷へ連れて下り・・・子牛の首を折りなさい

申命記21:6 新改訳
・・・その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、

イザヤ66:3 新改訳
・・・犬をくびり殺す者・・・その心は忌むべき物を喜ぶ。

ホセア10:2 新改訳
10:2 ・・・主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。

アーラーフは、聖書全体で6回しか使われない特殊なことばになります。使用頻度(ひんど)が少ないことばを翻訳する場合、細心の注意が必要です。上記で、ロバ、犬という動物が出てきますが、律法によると、ロバ、犬は『けがれた動物』と判断されます(レビ11章、申命記14章)。ユダヤ教では、清い動物と、けがれた動物とでは取り扱い方が異なるということが分かります。次に、ホセア書を見ると、偶像をけがれた動物に見立て、『けがれた動物の首を切り落とすように、偶像神の柱を切り落とせ!』と、嫌悪感(モダリティ)を含んだ表現になっていることが分かりますよね。ヘブライ語『アーラーフ』は、けがれた動物を屠殺(とさつ)する場合に使われることばです。

清い動物を屠殺する場合『アーラーフ』ということばは使われませんが、唯一の例外が申命記21章子牛(清い動物)の屠殺です。申命記21章の儀式は、特殊な儀式で、野山で殺人事件が起こり、その事件が迷宮入りした場合におこなわれるものです。牛は清い動物で、神殿で犠牲に使われますが、ここでは、忌まわしい殺人事件の清算として使われているため、通常とは異なった屠殺方法、アーラーフがとられている、そのように見えます。


~屠殺のやり方と血液~

ユダヤ教で動物が犠牲として捧げられる場合、必ずその血液が儀式の中で使われます。動物を犠牲にする儀式の中で、血液は重要な意味を持ちます。

レビ記17:11
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

仮に『首を折る』という屠殺方法がおこなわれた場合、動物の血が流されない屠殺になります。血が流されない儀式が、神との和解、罪の清算として効力を持つのでしょうか?ユダヤ教の考え方からすると、そのような儀式は考えられません。血は命の代償を象徴するもので、儀式の中で血液が使われることは絶対条件であるからです。血が持つ象徴性からして、『首を折って』屠殺するというやり方は、贖(あがな)いの条件を満たさないということが分かります。

イスラム教にハラール(ハラル)という食物規定がありますが、ユダヤ教にはカシュルート(כַּשְׁרוּת Kashrut)と言われる食物規定があって、家畜の屠殺の仕方についてまで細かなルールが決められています。モーセ五書には明示されていませんが、ユダヤ教の考え方からすると、清い動物を屠殺する時のやり方と、けがれた動物を殺す時のやり方は当然違うよね、そういう考えがあって然るべきでしょう。

次に、ユダヤ人がどのように屠殺をするのかについて『ミルトス』と『Chabad.org』の二つのウエブサイトから引用させていただきます。動物を屠殺する場合『絶命するまでの時間が極力短時間であること、動物に苦痛を与えないこと』が基本的な考え方になっています。

ミルトスより引用
「コーシェル」を満たす屠殺の方法
屠殺者は動物を殺す場合、もっとも苦痛の少ない方法で、一瞬に殺さなければいけなません。鋭い刃物を用い、頸動脈を一刀で処置します。

Chabad.orgより引用
Why Shechitah Is Important
(私訳)ユダヤ教の屠殺方法は、短時間で、動物に苦痛を与えないやり方になっています。・・・
動物の肉を食べる習慣は、律法が積極的に認めるものではありませんでした。ノアの時代まで人間が動物の肉を食べることは、律法上認められていません。大洪水がおさまり、ノアは船を出たあと真っ先に動物を屠殺し神に捧げます。この時初めて、神は人間が動物の肉を食べることを認めたのです。また、動物に対し残酷な屠殺方法をおこなわないことを前提に肉食が認められている、私たちユダヤ教徒はそのように理解しています。

This is an effective, swift and pain-free stunning procedure.
The Torah does not regard meat-eating as something to be taken for granted. Before Noah , human beings were not permitted to eat meat. Then, in a law given by G‑d to Noah after the Flood, meat eating became permitted as long as the animal is killed first. We generally understand this law, applying to all humanity, as demanding avoidance of wanton cruelty to animals.


次に、使徒行伝の記述を見てみます。使徒行伝15章は『エルサレム会議』に関する記述があり、『絞め殺した動物の肉』は食べてはいけないという記述があります。

使徒15:20 使徒15:29 使徒21:25 新改訳
・・・絞め殺した物(動物の肉)と血とを避けるように書き送るべきだと思います。

使徒行伝の記述から『絞め殺す』という方法が、ユダヤ人にとってタブーであったことが分かります。『絞め殺した動物の肉』を食べることが容認できなかったのは、動物に苦痛を与えるやり方であるということと、血液が抜かれていないからだと思います。『首の骨を折る』屠殺も、動物に苦痛を与え、かつ血液が抜かれないやり方になります。ユダヤ教の儀式の中で『首の骨を折る』屠殺がおこなわれていたとは考えにくいことです。


~家畜への思いやり~

また、律法には、家畜に対し配慮や思いやりを持った取扱いをしなければならないことが規定されています。

出エジプト20:10
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。

出エジプト23:12
六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

出エジプト23:4、5
4 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。
5 あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。

出エジプト23:19
・・・子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

申命記22:10
牛とろばとを組にして耕してはならない。

申命記25:4
脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

労働する家畜に、週一の休日を与えることなんて、現代日本人よりも恵まれた労働環境ではありませんか!以上の戒めには『家畜だからといってぞんざいな扱いをしてはいけないぞ、十分な配慮をしないさい』という意味が書かれています。首を折って屠殺する方法は、動物に苦痛を与えるやり方ですから、家畜に優しい律法の精神と矛盾しますよね。


~輪郭を設定する まとめ~

これまで検討してきた内容をまとめてみます。

・動物が犠牲として捧げられる儀式において血液は不可欠な要素である。
・律法は動物を清いものと、けがれたものに分けていて、扱い方が異なる。
・動詞アーラーフは、けがれた動物を屠殺する場合に使われている。
・Kosher(コシャー、カシュール、コーシェル)には、極力動物に苦痛を与えることがない屠殺方法とするよう規定されている。
・律法には、家畜に対し配慮や思いやりを持った取扱いをしなければならないことが規定されている。
・首を折るような、動物に苦痛を与える屠殺方法が存在したことを示す資料がどこにも見あたらない。

ユダヤ教の動物犠牲が持つ意味合いから考えると、アーラーフを『首を折る』と解釈するのは不合理で、血液が伴わない儀式は、贖いの意味を持たないのです。アーラーフは、けがれた動物の屠殺方法で、首を切り、出血が伴い、家畜に苦痛を与えることなく、短時間で絶命させるやり方であろう、つまり『首を切り落とす』という意味であろうと予想できます。

ヘブライ語の語学知識や神学的知識に頼ることなく『アーラーフ』の輪郭を掴むことができましたね。


~アーラーフ 英語の解説~

ヘブライ語アーラーフが、英語でどのように定義されているか見てみます。アーラーフは、ズバリ『首を切り落とす』という意味だと説明されています。

Biblehub.com
Strong's Exhaustive Concordance
アーラーフは、首を切り落とす、首を打ち落とす、切りはなす、首をはねるという意味。
that is beheaded, break down, break cut off, strike off neck

Shiurim
Bekhorot, Chapter 1, Mishnah 7
ミシュナーによると、出エジプト13:13の解釈は『・・・大型の刃物(ナタ、斧)を使い、ロバの首を背中側から切断し、死体は土の中に埋める』ということになります。ミシュナー(Mishnah)は、律法を更に細かく解釈した口伝(くでん)律法で、旧約聖書には含まれていませんが、ユダヤ教徒の実生活を規定するものになります。

Biblehub.com
Gill's Exposition of the Entire Bible Exodus 13:13
Gill's Exposition(解説書)にも同様の記述あり。

Chabad.org
Shemot - Exodus - Chapter 13
ユダヤ人が英訳した聖書にも『you shall decapitate it ロバの首をはねなさい』とあります。

Glosbe.com
ヘブライ語-日本語辞書にも、アーラーフは、『斬首する、首をはねる』と解説されています。

清い動物を屠殺するやり方は、大型の包丁を使いのどの側から切り込んで頸動脈を切断します。一方、けがれた動物を屠殺するやり方が『アーラーフ』です。時代劇を見ると侍が切腹するシーンがありますが、この時、介錯人が付き添います。介錯人は、一刀両断で首を切り落としますが、アーラーフは、このようなやり方で、ナタ、斧のような刃物を使い、背中側からひと振りで動物の首を切り落とす、そういう意味になります。


日本の聖書翻訳は、神学者や聖書学者がおこなってきたようですが、ユダヤ教の動物犠牲の儀式についても、長年にわたり学者が研究してきたテーマだと思います。この動物犠牲の儀式こそ、イエス・キリストの十字架刑を予見するもので、人間の贖罪、神との和解を象徴するものです。これはイエス・キリストが救い主であることを示す、キリスト教の中心的テーマです。また、律法にもあるように、儀式の中で流される動物の血液だけが、人の命の代償として認められています。もし、神学者や聖書学者が、翻訳をおこなっているのであれば、ロバの『首を折る』という解釈は間違っていると分かって当然ではないでしょうか?

『break donkey's neck』とGoogle検索をすれば、『(斧を使い)ロバの首を切り落とす』と解説する英語のウエブサイトがたくさん見つかります。英訳聖書の『break its neck』は『首を切り落とす』という意味です。日本語訳聖書で、100年にわたり誤訳が訂正されないのはなぜなのでしょう?


~なぜ誤訳が起こるのか~

『break one's legは、脚(あし)の骨を折るという意味だ』と、中学で教わっていると思います。ですから日本の聖書翻訳者は、英訳聖書で『break its neck』と訳されているのを見て、『首の骨を壊す、首を折る』と直訳で理解したのでしょう。これが誤訳の原因です。『break /one's /neck』これらの単語は、中学1年で教わる基本語彙になります。むつかしい単語は一つもありません。動詞breakには、『壊す』以外に『切る、割る、分ける』という意味もあるのですから『break one's neckは、首を切り落とすという意味だ』と、理解できそうなものです。確かに、英語のbreak one's neckが『首の骨を壊す、首を折る』という意味で使われる場合はありますが、文脈によっては、break one's neckが『首を切り落とす』という意味に変化する、こういう理解ができなきゃダメですよね。本来は、英語入門レベルの知識です。

新改訳はトランスペアレント訳がお好きなようですが、これは、どのような文脈であっても『break one's neck=首を折る』と、一語一訳式に翻訳するやり方になります。原語と目的言語の対応関係を、翻訳者が勝手に固定しているのです。『ことばの意味というものは、文脈と共に変化する』というのが、言語理解の基本になるのですが、トランスペアレント訳は、こうしたことを認めない立場なので、当然意味のズレ、誤訳が生じることになります。

日本の英語教育(学習塾、予備校も含めた大学受験システム)は、文法主義、語彙詰め込み主義、一語一訳主義の上に成り立っていて、こうした学習方法は生徒に直訳思考を植え付けることになります。中学高校で真面目に直訳で英語を学習した人であれば、大学に進学しヘブライ語やギリシャ語を学習する時も、直訳思考で学習します。こうした方が聖書翻訳をおこなうと、直訳で翻訳をするのは当然のなりゆきです。直訳思考が染み付いてしまった方は『break its neck』が『首を折る』という意味だと理解できますが、『首を切り落とす』という別の意味があることを理解できません。文脈が変わればことばの意味も変化する、つまり『言語というものは直訳できない仕組みを持っている』ということを知らないからです。

翻訳委員会の中には翻訳チェッカーがいることと思いますが、チェッカー自身も直訳思考でしか理解できないので『break its neck=首を折る』と直訳されていれば、正しく翻訳されているんだと誤解してしまうのです。委員会の中に翻訳チェッカーがいたとしても、チェッカーとしての役割が果たせていないのです。

リビング・バイブルは、次のように訳出しています。
出エジプト13:13
ただし、ろばの初子の場合は身代わりに子羊や子やぎをささげることができる。そうしない場合はろばは殺す。・・・

現代訳聖書も『・・・そのろばの初子は殺される・・・』と訳出しています。

リビング・バイブルと現代訳の翻訳者は『アーラーフ=首を折ると解釈するのはおかしいなあ』と感じたので『殺す』と訳出したのでしょう。リビング・バイブルと現代訳は、訳語の選択を慎重におこない、誤訳となることを避けたということが見て取れます。直訳主義者からは不評のようですが、リビング・バイブルも現代訳も、翻訳スキルが高いということが分かりますよね。

文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳は、個人訳ではなく委員会訳です。一方、リビング・バイブルと現代訳は個人訳です。日本では『個人訳は信用できない。委員会訳が正しい翻訳だ』と言われていますが、実際に出エジプト記13章のアーラーフを検討すると、委員会訳が全て誤訳となり全滅していますが、個人訳の方が良い訳し方になっていることが、お分かりになったことでしょう。委員会訳が正しい翻訳で、個人訳が不正確だというのは、全くいわれのない偏見です。

『聖書が誤訳されているという批判はけしからん』と目くじらを立てるセンセイ、『日本語訳聖書は正しく翻訳されています。問題ありません』とまやかしの安全宣言をだすセンセイ!日本語訳聖書の中で、誤訳が延々と踏襲(とうしゅう)されているという事実に目を向けてはいかがですか?日本語訳聖書を見ると、100年間、誤訳が踏襲されている箇所は少なくありません。この出エジプト13:13『首を折る』、出エジプト15:20『女預言者ミリアム』、ルカ16章『不正な管理人』、箴言12:15、16にも見られます。

目くじらセンセイと、まやかしセンセイが、もし信仰をお持ちであるのであれば、神の前に誠実(pistos)であるということがどういうことなのか、考えていただきたいのです。誤訳されている箇所は、誤訳されていると、事実を素直に受け入れることが、誠実さだと私は思います。誤訳だと分かったら、訂正をすればいいだけのことですよね。ご自分の神学者としてのメンツや、組織(神学者コミュニティ)の体裁(ていさい)を繕(つくろ)うことの方が大切で、誤訳を認めない、誤訳されたままの聖書(神のことば)を出版する。これが神の前に誠実(pistos)だといえますか?ウエブサイトを見ると、誤訳されてる事実をもみ消すかのようなご発言がありますが、これは神さまのみこころに反することではないでしょうか?

『聖書のような文書は直訳で翻訳するのが相応しい』『原語の意味を正確に翻訳するには直訳が良い』とおっしゃる方がいますが、言語学的に見て全く根拠がありません。この記事で示したように『break its neck=首を折る』と直訳したことが、誤訳の原因なんですよね。ことばの意味というのは、文脈が変わるとことばの意味も変化します。原文の意味を正確に訳出するのであれば、文脈に合わせ、訳語を変えてゆかなければならないはずです。

実は、直訳と意訳はコインの裏表のような関係になっています。直訳主義(トランスペアレント)で訳された新改訳聖書を例に挙げると、びっくりするような超意訳をやってる個所があるんです。ギリシャ語を読める方はご確認ください。ルカ16章9~13のギリシャ語と新改訳を見比べると、文法や語彙の解釈からして、あり得ないほどの超意訳で翻訳し、全く意味が異なる誤訳になっています。『聖書と翻訳 ルカによる福音書16章-1~8』をご覧ください。

ヘブライ語を読める方は、イザヤ書8章1~10節、ヘブライ語と新改訳の訳文をご確認ください。ヘブライ語の文法に手を加え、主語の入れ替えまでやる作為的な異訳をおこなっているので、当然の如く誤訳になっています。詳しくは『聖書と翻訳イザヤ書8章-1~9』を参照願います。

『直訳が良い、意訳は相応しくない』と宣言する、新改訳ですが、実際の訳文を見ると、直訳された箇所と意訳された箇所が入り混ざって訳文が作られています。一見すると矛盾しているように見えますが、直訳も意訳も、どちらも直訳主義者が考案した翻訳方法で、直訳と意訳の両方をつぎはぎしながら訳文を作っているのです。原文テクストの意味を、最もふさわしい目的言語に翻訳するには『原文放棄』という方法以外にないと私は思います。『直訳は誤訳 オバマ大統領広島演説より-1~3』に詳しく書かせていただいたので、参照願います。

『聖書のような文書は直訳で翻訳するのが相応しい』『原語の意味を正確に翻訳するには直訳が良い』というご意見は、全くデタラメです。日本の外国語教育が、文法主義、語彙詰め込み主義、一語一訳主義で教育する限り、日本人の直訳思考が変わることありません。そして、直訳で翻訳をする限り、いつまでも誤訳が引き継がれてゆくのです。






(000)ルカによる福音書16章-8

2018年05月21日 | ルカによる福音書

ἔλαιον エライオン オリーブ油


この記事は、ルカによる福音書16章1~14節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


この記事は、以下の内容を記述します。

・解釈文(原文放棄をしていない訳文になる前の状態)
・私訳
・ウラの解釈
・神学の偶像化
・くさやのテイスト



~解釈文~

これは律法学者たちが理解した、表(おもて)の解釈です。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

ルカによる福音書16章1~14節 

『イカサマ会計士』

1)イエスさまは弟子たちに次の話しをします。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいました。ところが、この会計士を陥れようと企てる者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の資産を無駄づかいしています。それも湯水のように使っているんですよ』と告げ口をしたのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているぞ。とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったなあ。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中からあるじに負債がある顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事です。会計士は『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』と会計士は命じました。
8)神を敬う信仰者より、世俗に生きる人の方が一枚上手(うわて)なのです。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。
9)いいですか、お金の偶像マモンさまのイカサマ術を使い仲間をつくること、ここが大切なところです。一文無しになった時、この仲間がうやうやしくあなたを出迎え、とこしえにその家に住まわせてくれるでしょう。
10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。
13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。そのように主なる神とマモンの両方に仕えることはできないのです』
14)私有財産を増やすことが大好きなパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わると馬鹿にしたように笑い声をあげた。




~私訳~

解釈文に原文放棄という処理をし訳文を作ります。

ルカによる福音書16章1~14節 

『イカサマ会計士』

1)イエスは弟子たちに次のたとえ話しをされた。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいた。ところが、この会計士を陥れようとする者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の私有財産を湯水のように使っています』と告げ口されてしまったのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているが、とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったな。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中から負債を抱える顧客を選び、一人ずつ呼び出します。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事。『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』このように会計士は命じたのです。
8)神を敬う信仰者より、世俗の人間が一枚上手(うわて)ではありませんか。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。
9)いいですか、マモンさまが教えるイカサマ術、それを使って仲間をつくることが大事な点です。もし一文無しになったなら、その連中がうやうやしくあなたを出迎えて、いつまでもその家に住まわせてくれるでしょう。
10)始めは幼い信仰でも、やがて敬虔な信仰者に育ちます。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になるのです。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)これは他民族の宗教ですが、イカサマ稼業を身に付けたいのであれば忠実に従いなさい。
13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。イスラエルの神とマモンさま、その両方に仕えることはできません』
14)私有財産を増やすことに余念がないパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わるとあざけるように笑い出した。



~ウラの解釈~

上記の訳文は表の解釈になっています。このお話しは終始一貫アイロニー表現で書かれているので、その真意も示さないと、翻訳作業が終わったことになりません。ウラの意味は律法学者たちへの痛烈な批判です。

ルカによる福音書16章1~14節

『イカサマ会計士』

1)イエスは弟子たちに次のたとえ話しをされた。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいた。ところが、この会計士を陥れようとする者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の私有財産を湯水のように使っています』と告げ口されてしまったのです。

金持ち:父なる神
会計士:イエスさま
告げ口した人:律法学者たち
私有財産:神の国を受け継ぐ権利

律法学者たちは、取税人、売春婦たちを同じユダヤ民族とは見做さなかったので、イエスさまが取税人たちに福音を伝えることを、無駄な伝道だと馬鹿にしていました。管理人があるじの財産を無駄遣いしているというのは、イエスさまが神の救いを取税人たちに教えていることを自虐的に語ったことばです。

『イカサマ会計士』は、律法学者のひねくれた視点で綴られています。違う言い方をすれば、イエスさまが自虐的な語り口で語ったともいえるでしょう。実際には自虐を通り越し、とんでもない自己破壊的な表現(9~13節)になっているのですが。

しかしこの話しに秘められた真意は、アブラハムの子孫である取税人たちへの愛と、律法学者たちへの痛烈な批判です。『不正な管理人』はアイロニー表現となっていて、始めから最後まで表とウラの二重構造になっています。なぜこんな面倒な話し方をしたのでしょうか?それは、イエスさまがユダヤ人として生まれ、ユダヤ文化を身に付けていたからです。ユダヤ人はこうしたアイロニー表現を使うことがあります。



2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているが、とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったな。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。

会計士が退職に追い込まれるということの真意は、律法学者たちの策略でイエスさまが受難に追い込まれるという意味です。力仕事をする人やホームレスというのは、こうした人たちを律法学者たちが見下していたということで、イエスさまがそのように思っていたということではありません。


4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中から負債を抱える顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると

負債を抱えた顧客というのは、自らの罪に打ちひしがれる取税人や売春婦たちを意味します。受難を目前にした日々、イエスさまが熱心に取り組んだのは、取税人たちへの宣教であったということです。


6)『オリーブ油100樽です』との返事。『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』このように会計士は命じたのです。

オリーブ油100樽、小麦10トン分の未払いというのは、個人では払いきれないほど大きな負債だという意味です。オリーブ油は高貴さを象徴し、小麦(パンの原料)は世俗を意味します。ある人は神に対する大きな罪を犯し、ある人は社会生活で大きな罪を犯していることを表しています。『オリーブ油100樽、小麦10トンの負債』なぜか心に浸み入る表現です。

律法学者たちから見れば、罪深い取税人が天国に入るというのは納得できないことでした。しかし、大きな負債を抱えた人を罪から開放することが神さまのみ心だという意味になっています。



8)神を敬う信仰者より、世俗の人間が一枚上手(うわて)ではありませんか。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。

イエスさまが取税人たちに宣教する姿を見て、律法学者たちは『イエスは庶民を食い物にする下心があるに違いない。何とずる賢い奴だ』と見ていました。ところがここ8節で初めて、イカサマ会計士とあるじが同じ穴のムジナであったことが分かります。この真意は、律法学者たちにはずる賢く見えたイエスさまの宣教活動こそ、父なる神が喜ぶことであるという意味です。

あるじがイカサマ会計士を讃えたというくだりは、律法学者たちの常識を覆(くつがえ)すどんでん返しが起こったぞということです。『放蕩息子』でも帰宅した息子を父親が大歓迎しますが、これもどんでん返しになっています。律法学者から排斥されたイエスさまですが、地上の働きを終えたあと父なる神から栄誉をお受けになります。『放蕩息子』と『不正な管理人』は共にアイロニー表現で書かれた並行記事で、つながりがあるということが分かるでしょう。



9)いいですか、マモンさまが教えるイカサマ術、それを使って仲間をつくることが大事な点です。もし一文無しになったなら、その連中がうやうやしくあなたを出迎え、いつまでもその家に住まわせてくれるでしょう。

清廉潔白を装い大衆のハートをガッチリ掴んだイカサマ伝道師イエス。そして、お金を騙し取るテクニックにかけては天下一品の取税人。この両者が手を組んだからには、何かやらかすだろう。多くの民衆からお金を巻き上げる荒稼ぎを企(たくら)んでいるのではないか。こうした律法学者たちの見方を逆手に取った表現になっています。

9~13節にイエスさまの爆弾発言が書かれています。何と『宗教法人マモン教』の旗揚げを宣言されたのです。イエスさまが『マモン』といういかがわしいことばを使ったのには理由があります。当時ユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は支配下の国から税金を取り立てる代役を、現地のユダヤ人におこなわせます。取税人は自分の生活費や遊興費を得るため、不正に上乗せした金額を取り立てていて、こうした詐欺行為が横行していました。そのため取税人に『お金に汚い非国民』というレッテルが貼られます。『金銭欲、非国民』というイメージに重ねて『外国の宗教、マモン』ということばが使われているのです。ですから、マモナースを『富』と意訳してはダメな理由が分かりますよね。マモナースは文字通り『偶像神マモン』と訳出しなければなりません。

イカサマ宗教を使い、どんどん信徒を増やしなさいと命じる辺りは、新手(あらて)の宗教活動そのものです。こんにちでも、新興宗教の幹部が神様のように崇められるように、イカサマ宣教師が失職した日には、忠実な信徒がうやうやしく面倒をみてくれるだろうと語ります。ここの真意は、取税人たちへの宣教に取り組むことへの奨励と、宣教者が地上での働きを終え天国に入る時、先に救われた取税人たちが感謝をもって出迎えてくれるという意味になります。



10)始めは幼い信仰でも、やがて敬虔な信仰者に育ちます。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になるのです。

『律法学者たちをご覧なさい。始めは幼い信仰でもあのように立派な信仰者に育つではありませんか』と、表面上は褒めていますが、その真意は律法学者の偽善に対する皮肉です。また、イカサマ伝道師の成長というのは、イエスさまにならう福音伝道者の成長を自虐的に表現したものです。


11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)これは他民族の宗教ですが、イカサマ稼業を身に付けたいのであれば忠実に従いなさい。

イエスさまの戒めを忘れることなく、取税人たちの宣教にまい進しなさいという意味になります。


13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。イスラエルの神とマモンさま、その両方に仕えることはできません」

弟子に向かって『君たちはユダヤ人として生きてきたが、イスラエルの神と外国のマモンどっちを選ぶんだ。(当然マモンだよね)』と選択を迫っています。イスラエルの神というのは、律法学者たちの偽善的信仰を意味し、マモンは新しい契約に基づく信仰という意味になります。律法学者たちは形式上ユダヤ教の教師ですが、その心はマモンの奴隷になっているという批判も込められています。

マタイ福音書は、不正な管理人のお話しからこの1節だけを残し記述しています(マタイ6:24)。



14)私有財産を増やすことに余念がないパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わるとあざけるように笑い出した。

14節はアイロニー表現ではないので、文字通りの解釈になります。ルカ16章では『フーパルホー 私有財産』ということばが、1節と14節で繰り返し使われています。1節では、イエスさまが『あるじの財産=神の福音 フーパルホー』を取税人たちに惜しみなく与えている様子を表現し、14節では、律法学者たちが『この世の財産 フーパルホー』の奴隷になっていることを表現しています。『フーパルホー』を繰り返し使い、クスッと笑えるオチを与えて文末を締めくくる、そういう表現技巧です。イエスさまは、イカサマの奨励、イカサマを駆使した信徒拡大、新興宗教マモン教の設立を公に宣言したのですから、律法学者たちがあざ笑うのも無理ありません。ウラの意味までは理解していなかったのですから。



~神学の偶像化~

ある神学者は『8節以降は後世の人が加筆したお話しだ』と主張しています。既存の聖書翻訳では1~7節の内容と、8節以降の内容に文脈のつながりが見られなかったためです。しかし、この『聖書と翻訳』で示したように『不正な管理人』の文章は計算されつくした構成になっていて、前後関係も密接につながっています。1~14節はまとまった一つのお話しであって、8節以降が後世の加筆だというのは、神学者の見たて違いです。

8節以降が正しく翻訳されてこなかった理由を説明させていただきます。英訳聖書は現在40以上の翻訳がありますが、英訳、日本語訳のいずれを見ても、8~13節の翻訳を間違えており、同じ内容で訳されていました。ギリシャ語を見ると、イエスさまが『イカサマ伝道を奨励し、マモン教を信仰しなさい』という内容なのでびっくりします。私もギリシャ語を見て、一瞬頭が真っ白になりました。

神学者がこの箇所を読んだ場合『イエスさまが、イカサマを奨励したり、マモン教を信仰しろなどと言うはずがない。このようなことばは神学的解釈と矛盾するから、原文はほかの意味で解釈しなくてはならないはずだ』と考え、原文とは異なる訳文が作られます。それはあたかも『主よ、そんな大それたことを発言してはいけません』と神学者がイエスさまを叱責する行為です(マタイ16:22)。神学者は自分が持つ知識を動員し、間違った解釈を正当化することもできるので更に厄介になります。

いずれにせよ、実際の原文が『マモン教を信仰しろ』と語っているのであれば、素直にその通り訳出することが翻訳者のつとめであって、自分の先入観に合わせて解釈をねじ曲げるなら、それは翻訳ではなく創作です。

本来、神さまと人間の関係というのは、神さまが主で人間は従です。そうであれば、聖書の原文が主であって、神学上の解釈は従であるはずです。ところが神学者が翻訳をすると、神学に適合するよう神のことばをコントロールすることが起こり、神学が主となり神さまのことばが従となります。これは神学の偶像化ではないでしょうか?この神学の偶像化がイザヤ書8章8節の翻訳でも起こっていて、新改訳は次のように翻訳しています。

8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。

新改訳では、『インマヌエル』を人名として解釈し、『広げた翼』を神がイスラエルを保護する象徴として解釈しています。これが誤りであることは『イザヤ書8章-5』 『イザヤ書8章-7』で詳しく書かせていただきました。翻訳者がなまじっか神学的知識を持っていると、『インマヌエルはイエス・キリストの意味だ』『翼とは神の保護だ』と誤訳したくなるのです。

インマヌエルがイエス・キリストを暗示するのは、イザヤ書7:14この箇所だけです。イザヤ書8章8節のインマヌエルまでイエス・キリストを示すように解釈をするのは過剰な拡大解釈になります。イザヤ書8章8節とルカ16章は、キリスト教神学者が原文解釈をコントロールし、原文の意味を大きく変えた創作文です。

あのイチロー選手が、次の動画でうまいことを言ってるので引用させていただきます。野球選手が氾濫する情報に踊らされていることへの警告です。『トラやライオンはウエイトトレーニングをしない。今の野球選手は、過度なウエイトトレーニングをやっているが、筋肉を大きくすることが却って体の故障につながっている。今の時代、情報が多すぎるので頭でっかちになりがちだ』という内容です。


該当箇所は、6:53~10:00にあります。

情報が豊富になることが却って、翻訳を混乱させている面があります。ルカ16章6,7節で、管理人はオリーブ油と小麦の負債を減額しますが、ある神学者は『元の売値には利息分が上乗せされており、管理人が減額したのはこの利息分だけなので何ら不正には当たらない』と合理的な解釈をしています。しかし、これを裏付ける記述は聖書のどこにも書かれていません。神学者が自分の知識を寄せ集め、屁理屈で原文解釈をねじ曲げているのです。

翻訳者であるなら原文に対し『しもべは聞きます。お話しください(サムエル上3:10 )』という姿勢を貫かなくてはなりません。原文解釈に自分の先入観を持ち込むということは『しもべが語ります。お黙りください』と言っているのと同じです。聖書翻訳には神学上の知識や考古学の知識が必要だと思われているようですが、敢えて言わせていただきますが、こうした専門知識がかえって原文解釈をねじ曲げる原因にもなる。そういう危険性をはらんでいるという認識も必要です。

不正な管理人を解釈する上で、ルカがこの福音書を書いた目的、ルカの人物像、ルカのイエス像から理解しなくてはならないのですが、ほとんどの翻訳者はこうした原文の輪郭を把握する作業をおこなっておらず、単語や文法といった表面的な目に見えるところでしか解釈していないようです。『放蕩息子』のお話しもアイロニー表現で書かれていて、放蕩息子はイエスさまを暗示しているのですが(ルカによる福音書16章-2)、こうしたことを理解している神学者はいないようです。『放蕩息子』がアイロニー表現であることが理解できないのであれば、『不正な管理人』もアイロニー表現であることが理解できないでしょう。

スポーツ選手にとって人体を理解しているかどうかが、パフォーマンスに大きな差が付くように、翻訳者が言語の本質を理解しているかどうかは、訳文の品質に大きな差となり現れます。イチロー選手も言っているように『見えるところではなく、見えないところに注目する(第二コリント4:18)』というのは、どんな仕事においても大切なことであるはずです。

一語一訳主義や直訳主義に言語の本質はありません。言語には恣意性があるという理解が言語の本質になります。原文解釈をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学などの知識と、翻訳スキルが必要になります。こうした土台なしに、小手先の神学的知識に頼って原文解釈をしてはいけないのです。



~くさやのテイスト~

日本では、みそ、醤油、納豆、漬け物など発酵させた食品がよく使われますが、その中でも、くさや、ふなずし、なれずしは、格別の臭さと旨さで知られています。強烈な悪臭は食べる気を失わせますが、一度食べたらやみつきになるそうです。『不正な管理人』は表面上の解釈は、悪臭放つお話しですが、ウラの意味では、取税人たちへの愛が生き生きと描写されています。原文には、神さまの愛、自らの罪深さに対する悔い改め、地上でどのように生きていけばよいかの指針を読む人に訴えるものがあって、これが『不正な管理人』が書かれた意義だと思うのです。翻訳を通しこれらのものを日本人に伝えることができるかどうかが、原文に忠実な翻訳かどうかの判断基準になるべきです。新改訳のように『直訳、ぎこちない訳文』という愚かな理念を掲げるようでは、原文の意図を日本人に伝えることなどできませんよ。

一度『不正な管理人』の味を知ってしまうと、やみつきになることでしょう。







(000)ルカによる福音書16章-7

2018年05月20日 | ルカによる福音書

ἐκμυκτηρίζω エクムクテリゾー あざ笑う


この記事は、ルカによる福音書16章13~14節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章13~14節~

新改訳
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。


一般的に不正な管理人のお話しは1~13節までで区切られていますが『不正な管理人』の原文解釈をしてみると、14節が果たす役割が非常に大きく、14節は『不正な管理人』と強く結びついていることが分かります。段落分けをするのであれば、14節は『不正な管理人』に含めるべきだと思います。


13~14節で検討すべき箇所が4つあります。

・しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません
・富
・さて、金の好きなパリサイ人たちが
・一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた



~しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません~

16章13節



κυριοσ(2962) kurios クリオス 名詞
神、主なる神、主人、雇い主、メシア

οικετεσ(3610) oiketes オイケテス 名詞
雇い主と同じ屋根の下で暮らしている下男。雇い主とその家族に対し誠意と真心をもって働く男子。

新改訳は『しもべ、主人』と訳出していて、これでも構わないと思います。ギリシャ語には『しもべ』を意味することばがたくさんあります。一般的に、身分、職位の解釈は難易度が高いので慎重な解釈が必要だということは申し上げておきます。



~富~

9、11、13節で『富』ということばが出てきますが、これはギリシャ語の『マモナース』ということばです。これは『偶像神マモン』という意味で、『富』と意訳するのは間違いです。新改訳がどうして直訳理念を守らないのか理解できません。詳しくは『ルカによる福音書16章-5 ~富~』の記事を参照願います。



~さて、金の好きなパリサイ人たちが~

16章14節



φιλάργυρος(5366) philarguros フィラルグロス 形容詞
お金を愛する、お金に目がない、貪欲な

ὑπάρχω(5225) huparcho フーパルホー 動詞
所有する



フィラルグロス

『フィラルグロス』は『フィロス 愛する』+『アルギロス 銀』ということばの組み合わせになっていて、『お金を愛する、私腹を肥やす』という意味になります。

話は逸れますが、ルカ福音書を執筆した『ルカ』とパウロ書簡に登場する『ルカ』が同一人物かどうか議論されることがありますが、ギリシャ語の語彙に着目するなら答えが出ると思います。新約聖書で『フィラルグロス お金を愛する』という形容詞が使われるのは、ルカ16:14と第二テモテ3:2の2箇所だけです。

第二テモテ3: 2
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者(フィラルグロス)、大言壮語する者・・・

また名詞『フィラルグリア』が使われているのは、第一テモテ6:10だけになります。

第一テモテ6:10
金銭を愛すること(フィラルグリア)が、あらゆる悪の根だからです・・・

滅多に使われないことばがルカ福音書とパウロ書簡に集まっているのですから、同一人物が書いた可能性が極めて高いと言えるでしょう。

第二テモテ4:11 
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください・・・



フーパルホー

ルカ16章の中で『フーパルホー 私有財産』ということばが、1節と14節で繰り返し使われています。1節で、イエスさまが『あるじの財産=神の福音 フーパルホー』を取税人たちに惜しげもなく与えていると表現し、14節では律法学者たちが『この世の財産 フーパルホー』の奴隷になっていることを皮肉って表現しています。『フーパルホー』を繰り返し使いクスッと笑えるオチを与えて文末を締めくくる、そういう表現技巧です。これは14節を『不正な管理人』に含めるべき理由の一つになります。

フーパルホーはお話しを締めくくる重要な表現なので、1節と14節は同じ訳語を与えた方が良いのです。新改訳は、Van Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用し『直訳、トランスペアレント訳』が良いのだと主張していますが、1節と14節で同じ『フーパルホー』が使われているにも関わらず、違う訳語を与えるのは翻訳理念と矛盾しています。看板倒れの翻訳に名前を引用されては、ヴァン・ルーエン博士もさぞご迷惑でしょう。新改訳は翻訳理念に反して訳出された箇所が沢山あります。

次のように同じことばで訳出しておけば、原文の技巧を訳文で再現することができます。



『放蕩息子』では兄と弟に父の財産(ουσια(3776) ウーシア)が分配されます。これは神さまのみことば(父の財産)が、律法学者(兄)とイエスさま(弟)に平等に与えられていたのですが、イエスさまが取税人たち(遊女)に福音を伝道することを財産の無駄遣いだと、律法学者は悪しざまに非難したという意味になっています。放蕩息子もアイロニー表現で書かれていて、二つのお話しは並行関係にあります。



~一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた~

16章14節

『あざ笑っていた』と訳されたのは『エクムクテリゾー』というギリシャ語です。
εκμυκτεριζο(1592) ekmuktérizó エクムクテリゾー 動詞
鼻先を上げてあざ笑う、嘲笑する、見下したように笑う

新約聖書で2回しか使われておらず、2回ともルカ福音書で使われています。もう1か所は十字架の場面です。

ルカ23:35 新改訳
・・・指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った・・・

『エクムクテリゾー』とほぼ同じことばに『ムクテリゾー』ということばがあるのですが、このことばが使われているのはガラテヤ6:7の1か所だけです。

μυκτηρίζω(3456) muktérizó ムクテリゾー 動詞
意味は『エクムクテリゾー』と同じです。

ガラテヤ6:7
・・・神は侮られるような方ではありません。・・・
ここガラテヤ書簡にも、ルカの筆跡が見え隠れします。


ところで『あざ笑う』という意味で一般的に使われるギリシャ語は『エンパイゾー』で、新約聖書では13回使われています。

εμπαιζο(1702) empaizo エンパイゾー 動詞
からかう、あざける、茶化す

四福音書の中ではマタイ、マルコ、ルカの三人が『エンパイゾー』を使っているのに対し、『エクムクテリゾー』を使っているのはルカだけです。二つのことばを使い分ける語彙と表現力がルカにはありました。ルカ福音書を見ると、ルカしか使っていないことばというのが至る所にあり、ルカはギリシャ語の表現力が抜きんでていたことが分かります。ルカの文章力なくして『不正な管理人』を書きあげることはできなかったのです。



~16章13~14節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。そのように主なる神とマモンの両方に仕えることはできないのです』
14)私有財産を増やすことが大好きなパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わると馬鹿にしたように笑い声をあげた。



~関連語句の分類~

次の図のように原文に表れる関連語句を整理しておけば、原文と訳文が大きく逸れることがありません。





~100年経っても変わらない~

聖書が日本語に翻訳され、一般向けに出版されたのは明治時代のことで、当時はヘブライ語やギリシャ語を理解できる日本人が一人もいない時代でした。それから100年の年月が経ちましたが、聖書の翻訳、原文解釈は進んでいるのでしょうか?残念ながら、誤った訳文が訂正されることなく、ずるずると引き継がれています。ルカ16章10~12節をご覧ください。

文語訳 1887年+1917年
10)小事に忠なる者は大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり。
11)さらば汝等もし不義の富に忠ならずば、誰か眞の富を汝らに任すべき。
12)また汝等もし人のものに忠ならずば、誰か汝等のものを汝らに與ふべき。

口語訳 1955年
10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11)だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。


新共同訳 1987年
10)ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
11)だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
12)また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。


新改訳 1970年、2003年
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。


私訳(解釈文)
10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。


従来の日本語訳はいずれも解釈を間違えており、また読んでも意味が分かりません。訳文も日本語の言いまわしをちょっと変えてるだけです。この程度の仕事しかしていない翻訳者に、お金を払って欲しくないですね。このありさまでは手抜き作業だと言われても仕方ないでしょう。というのも、10~12節のギリシャ語は、ごくごくシンプルな文法しか使われていないので、ギリシャ語初心者でも解釈できるレベルだからです。一つ一つの単語の解釈にしても、全て辞書に載ってる定義から選べば済みます。ギリシャ語を読める方がいたら試していただきたいのですが、原文を素直に読めば私訳と同じ解釈になるはずです。私はひねった解釈は一つもしていません。原文解釈をねじ曲げているのは既存の日本語訳聖書です。

明治の先人たちはベストを尽くして翻訳したことと思いますが、自分たちの作った訳文が100%正しいとうぬぼれる翻訳者はいなかったでしょう。自分たちが解釈しきれなかったところは、次の世代にひも解いてもらいたい、そういう思いであったと思います。過去の聖書翻訳の間違いを訂正することは気が引けるとか、過去の翻訳者に対し失礼にあたるのではないかといった身内への遠慮があるようですが、もし、神学者コミュニティーのメンツを守ることが優先されているとするなら、いつまで経っても原文に忠実な翻訳などできるはずがありません。翻訳に間違いがあることを知りながら訂正をしないということは、テキストの執筆者や神に対し失礼なこと、また読者に対し失礼なことです。

こんにち誰が聖書の翻訳をおこなっているのかが、次の記事に書かれています。

Christian Today『新しい訳は・・・4年後の完成』より引用
『同協会の大宮溥理事長は、新訳を急ぐ理由について、聖書翻訳に携わる神学者や聖書学者といった人材が今後減少するかもしれないという懸念を語った。戦後の日本では、聖書翻訳に携わることができる人材の豊かな蓄積があった。だが、こうした人材の高齢化により今後その蓄積が乏しくなっていく可能性がある・・・』

聖書翻訳を実際に担当しているのは『神学者や聖書学者』で、今後もその方針は変わらないのだと記事に書いてあります。言い換えるとプロの翻訳者は今までも使っていないしこれからも使う予定がないという意味です。果たして『神学者や聖書学者』がプロとして翻訳をする能力があるのでしょうか?それが無理だというのは、100年経って何も訂正されない訳文が示すところです。

更に誤訳された例を挙げさせていただきましょう。出エジプト記の『女預言者ミリアム』です。『ミリアムは女預言者であった』『聖書に登場する最初の女預言者はミリアムである』と解説されていますが、この誤りは聖書の誤訳から発生しています。

新改訳 出エジプト15:20
アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。

『女預言者ミリアム』と翻訳する聖書が多いのですが、ミリアムは女預言者ではありません。出エジプト記を注意して読めば分かるはずですが、エジプトを脱出する時、預言者として任命されたのはモーセだけです。アロンは代弁者として任命されていますが、ミリアムに関する召命はありません。

新改訳 出エジプト7:1
主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。

出エジプト15:20は次のように解釈しなければならないのです。



私訳 出エジプト15:20
アロンの姉ミリアムに主の霊が下った。ミリアムがタンバリンを打ち鳴らすと、女たち全員がタンバリンを打ち鳴らしミリアムに続いて踊り始めた。

ある神学者は『ミリアムは弟モーセが生まれたとき、知恵を働かせモーセの命を救ったので女預言者という称号が与えられた』と解説していますが、これは苦し紛れの解釈で、遊女ラハブはイスラエルから来た偵察者をかくまったことで、イスラエルの勝利に貢献しました。しかし、女預言者という称号は与えられていません(ヨシュア2章、6章、ヤコブ2:25)。女預言者という称号は、民族救済に貢献したとか、タンバリンを叩いたという理由で与えられるものではないことが分かります。

この文脈では『主の霊を受けた女、ミリアム』という意味で記述されています。『ネビーアー』の解釈について『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』に詳しく書かせていただいたので参照願います。神学者が『聖書に登場する最初の女預言者はミリアムだ』という先入観を持って翻訳をしているから、このか所が誤訳だとは気が付かないのです。この誤りも100年間訂正されていませんよ。

更に誤訳された例を挙げさせていただきましょう。イザヤ書8章1~10節も大きな誤訳になっています。どこが違うかピックアップできないくらい間違いが沢山あります。『イザヤ書8章-1~9』に書かせていただいたので参照願います。この誤りも100年間訂正されていません。

翻訳者の方が公の場で『ヘブライ語は難しい。コイネー・ギリシャ語は難しい』という発言をされていますが、原文解釈が進まないのはヘブライ語やコイネー・ギリシャ語が難しいからでしょうか?ご自分の翻訳する能力の低さを棚に投げ、原文のせいにするというのは不謹慎じゃないでしょうか?もし『難しい』と思うのであれば、プロとして翻訳を引き受けるべきではありません。委員会は、スキルのない人を翻訳者として採用していると告白しているようなものです。

翻訳スキルを持たない『神学者や聖書学者』が翻訳をおこなうから誤訳が起こり、誤訳が訂正されないまま放置されているのです。『神学者や聖書学者』は担当分野において、専門家であるということは間違いないでしょう。しかし、翻訳の分野においては素人だという認識を謙虚に受け入れるべきではないでしょうか?

『神学者や聖書学者』が10年20年と年月をかけその専門性を深めていくように、『通訳、翻訳』という仕事も10年20年をかけその専門性を深めています。大学でコイネー・ギリシャ語やヘブライ語を勉強したから、翻訳ができるとお考えのようですが、そうだとしたら考えが甘いのです。100年経っても誤訳が訂正されず放置されたまま。小学生以下の日本語文。これでは素人の仕事です。

通訳や翻訳をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学などの専門知識も必要です。こうした知識のほかに、翻訳スキルを身に付けないと、通訳も翻訳もできません。通訳者や翻訳者はこのスキルを身に付けるため何年もの年月を費やしています。これを身に付けることなく終わってしまう人が多く、習得困難なスキルでもあります。こうした基礎的な学習をおこなっていれば『直訳主義』『ぎこちない訳文が良い』という愚かな翻訳理念は生まれないのです。

正しい翻訳スキルを身に付けていれば、正しい言語観を持つことができます。正しい言語観を身に付けていれば、どの民族の言語でも習得することができ、どの言語でも正しく翻訳することができます。残念ながら日本の英語教育は大学受験という枠組みの中では役立ちますが、通訳や翻訳の実務では使いものになりません。受験英語で教えている言語観が偽りの言語観だからです。直訳主義、一語一訳主義は、誤った言語観を象徴するものです。誤った言語観が土台になっていれば、ヘブライ語やギリシャ語を勉強しても、誤った翻訳しかできません。新改訳は『直訳主義』だそうですが、誤った言語観に立脚していると公言しているようなものですよ。

翻訳が改定されるたび多額の費用が使われます。100年という長い時間と多額の費用をかけても、誤訳が訂正されないのはなぜでしょう?組織の要職に就いている人物が翻訳に関して素人だということ。また『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と嘆く、青色吐息の翻訳者に翻訳をやらせているからではありませんか?翻訳委員会のメンバーがどのようにして選考されているのかも不透明です。委員会が掲げる翻訳理論、ニュースレターでの発言、実際の聖書の訳文を見る限り、プロの仕事ではなく素人の仕事だという印象を受けています。

今から30年前、ギリシャ語のテキストを買い独学しようとしましたが、分からなくてすぐ投げ出しました。それ以来ギリシャ語を勉強したことはありません。『聖書と翻訳』の記事で『不正な管理人』を取り上げることに決めたのが4か月前のことで、ギリシャ語学習歴は現在4か月です。ギリシャ語学習歴4か月の人間に、このような指摘を受けるようでは、恥ずかしいですよね。

翻訳委員会と出版社は、捧げられた多くの献金、販売される聖書の価格を思い起こしてもらいたいのですが、こんなお粗末な仕事で、献金を捧げた人、聖書を購入する人に対し、申し訳ないと思わないのでしょうか?重要なのは、正しい言語観、正しい学習法、正しい翻訳スキルを身に付けているかどうかというところにあるのです。100年という長い時間、そして多くの費用をかけても誤訳が訂正されない聖書翻訳なんて、笑いもの(エクムクテリゾー)ですよ。



~利用したウエブサイト~

以下のウエブサイトを使い原文解釈をさせていただきました。

英-ギリシャ語対訳サイト
Bible.org
Bible Hub
Study Bible

70人訳 英-ギリシャ語対訳サイト 旧約
Study Bible

ギリシャ語発音機能付きサイト
StudyLight.org
StudyLight.org
FORVO

コイネー・ギリシャ語聖書音読サイト
Koine Greek New Testament

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(000)ルカによる福音書16章-6

2018年05月19日 | ルカによる福音書

αδικοσ アディコス いかさま


この記事は、ルカによる福音書16章10~12節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章10~12節~

新改訳
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。


10~12節は、全文を検討することにします。



~10節の文法構造~

10節前半の構造を図で表します。

ο πιστός εν ελαχίστω 
ホー ピストス エン エラヒストーイ

και εν πολλώ πιστός εστιν
カイ エン ポロ―イ ピストス エスティン



『小さな信仰は、大きな信仰になる』というシンプルな文法構造です。10節後半もこの図と同じ解釈になります。



~小さい事に忠実な人は~

16章10節



πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が(篤い)

ελαχιστος(1646) elakhistos エラヒストス 形容詞
最も小さい、(身分が)低い、つまらない

『ホー ピストス』が『信仰、信仰を持つ人』という名詞、主部になっています。『エン エラヒストーイ』は従属部で形容句です。『ホー ピストス エン エラヒストーイ』は『小さな信仰⇒幼い信仰』という意味になります。これは『名詞+形容句』といった至ってシンプルな文法、入門レベルの知識ですが、新改訳は入門レベルの解釈でつまづいています。大学では何を教えているのでしょう?これでは素人の仕事ですよ。

『ホー ピストス』は『冠詞+形容詞』の形ですが、コイネー・ギリシャ語では名詞化する場合が多々あり、『ホー ピストス』が名詞化している例が、黙示録3:14にあります。





~小さな事~

新改訳が解釈を間違えた理由を説明させていただきます。ルカ19章17節でよく似た表現が使われていて、新改訳では『・・・あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』と訳されています。



γινομαι(εγένου)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲノウ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

新改訳の翻訳者は19章『小さな事』という訳し方を、そのまま16章に持ち込みます。



19章の解釈を16章に持ち込むことによって、16章の解釈が原文から大きく逸れることになります。

新改訳 ルカ16:10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

私訳 ルカ16:10 原文放棄をしていないので訳文ではありません。
始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがては一人前のイカサマ師になります。

19章の『小さな事』という解釈がそもそも間違いだったのですが、新改訳の翻訳者はそれに気付かないまま16章に当てはめたと思われます。19章での意味は『小さな従順』で、16章での意味は『小さな信仰』となります。『からし種のような小さな忠実さでいいからそれを保ちなさい』というお話しと重なるところがあります(マタイ13:31、マタイ17:20、マルコ4:31、ルカ13:19、ルカ17:6)。



~大きい事にも忠実であり~

16章10節



ギリシャ語では『小さな信仰は、大きな信仰になる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めは小さな信仰であっても、やがて立派な信仰者に育つ。律法学者たちが良いお手本だ』という意味です。

ここ10節は『信仰の成長』について記述していますが、これは8節『神を敬う信仰者(光の子ら)』を受けたことばで、『神を敬う信仰者』を展開させた表現になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳10~13節を読むとチグハグな文脈になっています。文脈に合わせた解釈が全くできていません。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを公言していますが、自分の作った訳文が文脈に合おうが合うまいが知ったことじゃありません、手抜きで翻訳しますというのが、新改訳聖書なのです。

πολύς(4183) polus ポルース 形容詞
(人、物が)多い、(期間、日数が)長い、(信仰、恐れが)増し加わる

『エスティン』の基本形は『エミー』になります。
ειμι(1510) eimí エミー 動詞
to be, to exist, to happen(~になる)



~『エミー』の解釈~

新改訳 10節
小さい事に忠実な人、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人、大きい事にも不忠実です

ギリシャ語では『エミー』という動詞が使われていて、新改訳は『AはBと同じだ。CはDと同じだ』という訳文にしていますが、間違っています。ここは『AはやがてBになる』『CはやがてDになる』という意味です。



10節のエミーは『~になる』という意味で使われていて、英訳聖書でも『can be』『will be』と訳されています。

例)Common English Bible
Anyone who can be trusted in little matters can also be trusted in important matters. But anyone who is dishonest in little matters will be dishonest in important matters.

同様の解釈をする英訳聖書はたくさんあります。
Easy-to-Read Version
GOD'S WORD Translation
Good News Translation
International Children’s Bible
Living Bible
New Century Version
New International Version
New International Reader's Version
Names of God Bible



~小さい事に不忠実な人は~

16章10節



αδικοσ(94) adikos アディコス 形容詞
不当な、よこしまな、罪深い

9節まで、会計士のイカサマ行為が書かれていますが『アディコス』はそれを受けた『イカサマ』という意味です。文脈を見れば分かることです。



~大きい事にも不忠実です~

16章10節



ギリシャ語では『小さなイカサマは、大きなイカサマになる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めはウブなイカサマ伝道師でも、やがて一人前のイカサマ伝道師になる』ということです。

8節『世俗に生きる人(この世の子ら)』を受けたことばで、『世俗に生きる人は・・・一人前のイカサマ伝道師になる』という意味になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳は『大きい事にも不忠実です』と訳し、全然違う意味になっていますが、新改訳のどこが原文に忠実なのでしょうね。



~ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら~

16章11節



9、11、13節に出てくる『富』ということばは、ギリシャ語の『マモナース』で、『偶像神マモン』という意味です。

πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が篤い

ουκ(3756) ou、ouk ウー、ウーク 否定詞
no、not

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる



~だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう~

16章11節



αλετηινοσ(228) alethinos アレーテノース 形容詞
本当の、忠実な、誤りがない、真理の、本物の

πιστευο(4100) pisteuo ピスチュオー 動詞
本物だと認める、信用する、納得する

το αληθινόν 冠詞+形容詞
ト アレーシノン 名詞化
本物⇒本物のイカサマ師


新改訳は『富を任せる』と訳出しました。原語を見ていただけると分かりますが、『富』『任せる』というギリシャ語は使われていません。新改訳はここで超意訳をやっています。もし直訳で訳すのであれば、原文には『富』ということばがないのですから、勝手に付け足してはいけないはずです。また『ピスチュオー』は『人を信用する、人を認める』という意味ですから、『(富を)任せる(与える)』と訳すのは、デタラメではありませんか?どうしてここで直訳理念から逸れた訳し方をするのでしょう?

『ピスチュオー』はよく使われる動詞ですが、十字架の場面でも使われています。『(富を)任せる(与える)』という意味があるかどうか、ご覧いただきましょう。

マタイ27:42 新改訳
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから(ピスチュオー)。

新改訳はここでも間違いを犯しています。一般の日本人がこの訳文を読んだ場合『十字架から降りることができたら、神として信じてやろう』という理解をします。しかし、原文では『十字架から降りることができたら、王様として認めてやる』という意味になっています。新改訳は訳語の選択を誤っているのです。英訳でも『we will believe in Him イエスを王様として認めてやってもいいぞ』と訳していますよ。

New American Standard Bible
“He saved others; He cannot save Himself. He is the King of Israel; let Him now come down from the cross, and we will believe in Him.

『believe in him』の『him』は『the King of Israel』を指しています。英訳では『王様として認めてやってもいいんだぜ』という意味です。新改訳を調べれば調べるほどデタラメな訳がボロボロと出てくるので、嫌気がさします。『ピスチュオー』は『本物の王様として認める』という意味で使われているのですから、『ピスチュオー』に『(富を)任せる(与える)』という意味はないということが分かるでしょう。ルカ16:11とマタイ27:42では『ピスチュオー』が『本物だとみなす、認める』という意味で使われています。これを見て、新改訳が原文に忠実な翻訳だといえますか?



~また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら~

16章12節



αλλοτριος(245) allotrios アロットリオス 形容詞
他人の(もの)、自分以外の、外国の、見知らぬ

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲネステ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

ここでの『アロットリオス』は『外国のもの』という意味で、11節の偶像マモンを受けた表現です。文脈を見れば分かることです。

ルカ16章9~13節は、同じようなフレーズを繰り返し、表現を展開させています(反復表現)。これと似たような表現が、イザヤ書8章4~6節にも見られました(ヘブライ語 masows ことばの解釈参照)。ルカ16章の反復表現は、ヘブライ語の影響を感じさせます。



~だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう~

16章12節



11、12節は否定詞『ウ-ク not』、疑問詞『ティス who』が使われており、反語表現になっています。コイネー・ギリシャ語では、違和感なく理解できる文体なのでしょうが、これを直訳されても意味が分かりません。12節を例に説明させていただきます。

解釈文(1)反語表現を残した解釈
自分はユダヤ人だから外国の宗教であるマモンなんかまともに信仰できない、そういう人がいたらどうなるだろう。あなたにイカサマを伝授する人がどこかにいるのですか?どこにもいません。

ギリシャ語テキストでは、ハイコンテクスト(ことばが省略された表現)になっているため、日本人に理解できる訳文を作ろうとすると、消された多くのことばを再生しないと訳文が成立しません。そのため冗長な文になってしまいます。日本語として相応しい表現に変えるため、解釈文(1)に原文放棄という処理をおこない解釈文(2)を作ります。

解釈文(2)
偶像マモンは外国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰することです。

通訳や翻訳において、原文の文体(表現形式)を、目的言語に持ち込むことはできないというのが基本です。このことを理解していない翻訳者が多いと思います。言語には恣意性があるのですから、基本的にギリシャ語の文法や修辞技法を、訳文に持ち込もうなどと考えてはいけないのです。

日本語に翻訳された聖書を読む人の99%は、聖書には一体何が書かれているのか、聖書に書かれている意味を知りたくて読むはずです。ギリシャ語の文法を知りたくて読むのではありません。ギリシャ語の文法通りに訳すことにこだわった直訳というのは、必然的に意味不明な訳文になります。新改訳ルカ16章が典型的な例です。翻訳という仕事は、日本人が読んで理解できる訳文を作って初めて、翻訳の目的を達成することができます。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを言っていますが、ぎこちなさを通り越し意味不明な訳文におとしめているではありませんか。

デタラメに翻訳された聖書を元にして、牧師が正しく説教を作ることができるでしょうか?神学者が正しく聖書解釈ができるでしょうか?デタラメな聖書を読んで信徒が神さまのみ心を正しく理解できるでしょうか?もし信仰の拠りどころが聖書であるとするなら、翻訳が正しくおこなわれているかどうかということは重要なことだと思うのです。単なる批判であれば誰にでもできますが、日本では聖書の訳文が建設的に批判されたということがほとんどなかったと思います。より正しい日本語訳のため、更に建設的な批判がおこなわれることを望みます。



~16章10~12節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。






(000)ルカによる福音書16章-5

2018年05月18日 | ルカによる福音書

μαμμονασ マモナース 偶像神マモン


この記事は、ルカによる福音書16章8~9節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~アイロニー表現と二重構造~

1~7節は原文解釈にさほど難しいところはないと思います。ところが、新改訳では8節から読んでも意味が分からない訳文になります。それは、原文の輪郭を把握せず、ギリシャ語の単語をただ直訳しているからです。

8節以降の解釈をする前に、アイロニー表現の仕組みと翻訳の仕方を確認させていただきます。ギリシャ語原文を見ると、字義通り解釈できる表(おもて)の意味と、秘められた裏の意味とがあります。表の意味というのは、律法学者たちが理解した内容で、イエスさまが語ったことば通りの解釈になります。一方、ウラの意味というのは、弟子たちに伝えたかったイエスさまの真意になります。ユダヤ人のようなアイロニー表現を理解できる文化を持っていないと、ウラの解釈はかなり難しいと思います。

『不正な管理人』がどのようなお話しなのか、それを知る重要な手がかりが14節にあります。
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

ルカは『このお話しは、お金に関する内容ですよ。笑えるお話しですよ。パリサイ人はそのように理解しましたよ』というヒントを与えています。これは輪郭を把握する上で、重要な情報です。つまり、表(おもて)のストーリーは、笑えるお金のお話しだということです。一方ウラの解釈、イエスさまの真意は、律法学者たちへの痛烈な批判です。しかし、律法学者たちはウラの意味までは理解していなかったということになります。

『不正な管理人』は表と裏の二重構造になっています。ユダヤ人のようにアイロニー表現を理解できる文化を持っていれば、一つのテキストから表の解釈とウラの解釈、両方の解釈が可能です。




日本人にはユダヤ人の強烈なアイロニー表現を理解する文化がありません。日本語に訳出する場合、表の訳文を作るのかウラの訳文を作るのかで、原文解釈の仕方が違ってきます。どっちで訳すか決めて取り掛からなければなりません。新改訳が意味不明な訳文になったのは、原文の構造を理解せずただ直訳したからです。



14節に『金の好きなパリサイ人たちがあざ笑った』というくだりがあるので、表の解釈で訳出せざるを得ません。もし、ウラの解釈で訳出すると『パリサイ人たちが、あざ笑った』というくだりとつじつまが合わなくなります。

プロの翻訳者であれば、原文の構造を把握できたはずです。また、アイロニー表現の訳出の仕方も分かっていたはずですが、新改訳の翻訳委員会にはプロの翻訳者がいなかったのでしょう。新改訳は、理論武装をし立派な肩書を持つ学者で脇を固めていますが、翻訳の良し悪しというのは訳文の品質で評価されます。翻訳の仕事で一番大切にしなければならないのは訳文の品質です。優先順位からすると、翻訳理念や学者の肩書というのは、二の次三の次になります。訳文の品質から目を背け、翻訳理論やメンバーの肩書ばかりを吹聴するようでは本末転倒です。読んで意味が分からない訳文、小学生以下の文体、この程度の翻訳者にお金を払う必要はないでしょう。


『ヘボ将棋、王より飛車を可愛がる』




~ルカによる福音書16章8~9節~

ルカによる福音書16章8~9節 新改訳

8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。


8~9節で検討すべき箇所が4つあります。

・この世の子ら
・光の子ら
・わたしはあなたがたに言います
・富



~この世の子ら~

『この世の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオイ トウ アイオーノス トウトウ』です。
υιοί του αιώνος τούτου
フイオイ トウ アイオーノス トウトウ
世俗の人間、地上の人間

ηυιοσ(5207) huios フイオース(フイオイ)
息子、子孫、末裔(まつえい)、人間

ルカ20章でも同じフレーズが使われています。
新改訳 ルカ20:34
・・・「この世の子らは、めとったり、とついだりするが

ここは、次のように訳出しないと日本人読者に理解できません。
私訳 
・・・「地上の人間は、めとったり、とついだりするが

新改訳は16章も20章も『この世の子ら』と直訳していますが、ギリシャ語『フイオース』は『子ども』を意味しているのではありません。『フイオース』は『息子、子孫、末裔(まつえい)、人間・・・』という意味があり、文脈に合わせて訳語を選択しなければならないのです。ここでは『地上の人間、世俗の人間』という意味で使われています。現代訳では『この世の人たち』、リビング・バイブルでは『この世の人々』と考慮された訳になっていました。

16章8節で『この世の子ら』と『光の子ら』という表現が出てきますが、これは『不信仰な世俗の輩(やから)イエスたち』と『清廉潔白な律法学者たち』を対比しています。律法学者たちのひねくれた見方を引用した、アイロニー表現です。



~光の子ら~

『光の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオース トウ フォートス』です。

υιούς του φωτός
フイオース トウ フォートス
神のしもべ、神の子とされた人

πηοσ(5457) phos フォース(フォートス)
光、神の栄光、普遍性、聖なるきよさ、ともしび

『光の子ら』と直訳したのでは、日本人には意味が分かりません。現代訳では『信者たち』、リビング・バイブルでは『神を信じる者たち』と日本人が理解できることばに訳出しています。訳文の品質はこうしたところに表れます。この様な配慮ができないとすれば、プロとして翻訳をする資格はありません。

8節の文脈に当てはめると、表の意味は、神に従う者、この文脈では律法学者たちになります。ウラの意味は、偽善の律法学者たちということです。



~わたしはあなたがたに言います~

福音書の中で『私はあなたがたに言います』という表現がしょっちゅう出てきますが、日本語ネイティブの会話でそんな言い方はしませんよね。記憶をたどってみても、生まれてからこのかた、家庭での会話、友人との会話、職場での会話で『私はあなたがたに言います』と、自分が言ったことがなければ、誰かが言ったのを聞いたこともありません。

マタイ 5:44 弟子と群衆への語りかけ 山上の垂訓
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイ 12:31 律法学者たちへの反論 ベルゼブル論争
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし・・・

新改訳ではマタイ5章も12章も『わたしはあなたがたに言います』と全く同じことば遣いにしています。不自然に感じないでしょうか?同じ表現では、感情を持たないロボットが語っているような印象を受けるのですが、イエス・キリストという人物は、ロボットのように感情を持たなかったのでしょうか?山の中腹に腰かけ群衆に語った時の語り口と、律法学者に反論する時の語り口では、それぞれ違っていただろうと解釈するのは常識です。

聖書の中に『イエスは笑った』という表現はありませんが、イエスさまはニヒルな方で笑うことをしなかったのでしょうか?そうではないと思います。対人関係において、微笑んだり、愉快に笑うことができない人物だとしたら、他人に自己開示できない人物、つまり他者と信頼関係を築くことができない人物だったということになります。他人に対し笑うことができないというのは、心のどこかに深い傷を負っていることの表れだと思います。感情のコントロールができず、感情の起伏が激し過ぎるというのも問題ですが、人前で笑うことができない人物だとしたら心に大きな問題を抱えていたといえます。

イエスさまは『傷のない子羊』として十字架に架かってくださったのですから、情緒面も健全に発達しており、喜怒哀楽を適切に表現していたはずです。もし、感情を適切に表現できない人物であったとしたら『心に傷を持つ子羊=供え物不適合』となるので、十字架に架かり罪をあがなうことはできなかったはずです。また、笑うことができないロボットのような人物のもとに、庶民は集まってこなかったと思います。新改訳を読むとイエスさまがロボットのように無表情であったという印象を受けますが、『傷のない子羊』イエスさまは笑うこともできるお方で、ロボットの様に無表情であったとは考えられません。神学上もイエスさまは100%人間で、かつ100%神であったといいますよね。



新改訳の訳文は全体的に無機質で、人の暖かさ、冷酷さなど感情のひだを消し去った訳文にしています。直訳をすることによって、原文の意味やニュアンスを殺し、無機質な日本語にしているのです。原文が語ってないことを、ドラマチックに飾りたてる必要はありませんが、原文解釈をすれば読み取れるはずの心理描写というものもあります。それを読み取る力量がないとすれば、原文に忠実な翻訳はできないですよね。直訳のどこが原文に忠実な翻訳なのか、全く理解できません。

弟子の中には漁師を生業(なりわい)としていた人もいます。イエスさまの周りには社会の底辺で生きる人や女性たちがいました。そうした人たちに向かって『私はあなたがたに言います』と冷たい口調で語ったのでしょうか?違うと思います。イエスさまは、聖書を学んだことがない人にも分かるよう配慮をして語っていたはずです。だからこそ、イエスさまを慕い庶民が集まって来たのではないでしょうか?こころに傷を負って生きてきた人たちというのは、自分を見下す人、見下したことばにとても敏感です。イエスさまが『私はあなたがたに言います』と冷やかな口調で言ったとしたら、こうした人は集まってこなかったと思います。直訳をするから原文と違う意味になるのです。どのような言語の翻訳、通訳でも言えることですが、プロがする仕事として直訳というのは絶対にあり得ない翻訳のやり方です。

話しが逸れてしまいましたが、『わたしはあなたがたに言います』と訳されたのは、『υμίν λέγω フミン レゴー』『λέγω υμίν レゴー フミン』というギリシャ語で、『これから大切なことを言いますよ』『よく注意をして聞きなさい』『結論を言いますよ』『話しの内容が変わりますよ』と、これから言うことを強調する時に使うことばです。

新改訳 16章9節
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。

次のように訳出しないと、日本語になりません。

私訳  16章9節
いいですか、不正の富を使い友をつくること、これが大切です。

文脈によって訳語は変わりますが、こういう訳出になるはずです。



~富~

9、11、13節で『富』ということばが出てきますが、これはギリシャ語の『マモナース』ということばです。マモナースを『富』と訳出するのは間違いです。

μαμμονασ(3126) mammonas マモナース
金銭を支配する偶像神マモン

偶像神マモンが、いつどこで生まれたのか明らかではありませんが、マモンが金銭を象徴する偶像神だということは当時の共通認識だったようです。マモーナスということばは、新約聖書で4回しか使われないのですが、そのうち3回が『不正な管理人』で使われています。ルカ16章9、11、13節で使われ、残りの1回はマタイ6:24です。

マタイ6:24 新改訳
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは神にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。

ルカ16章 新改訳 3箇所
9)・・・不正の富(マモナース)で、自分のために友をつくりなさい。・・・
11)ですから、あなたがたが不正の富(マモナース)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富(富ということばは原文にない。真実)を任せるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神(セオス)にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。」

マモナースを解釈するヒントは13節にあります。13節の中に『セオス(イスラエルの神)』『マモナース(偶像神マモン)』ということばが対比されています。

θεός(2316) theos セオス
神、イスラエルの神

また、ギリシャ語で『富』を意味する一般的なことばは『プルートス』になります。
πλουτοσ(4149) ploutos プルートス
富、財

ルカ8:14 新改訳
・・・この世の心づかいや、富(プルートス)や、快楽によってふさがれて・・・

ルカ福音書の中を見ると『マモナース』と『プルートス』両方のことばが使われており、ルカは『マモナース 偶像神マモン』と『プルートス 富、財産』と、二つのことばをきちんと使い分けているのです。

もし、16章で『富』という意味を示したかったのであれば『プルートス』が使われていたはずです。ルカが『マモナース』を使った理由は、『偶像神マモン』という意味を表したかったからです。マモナースを『富』と異訳することは間違いです。従って、13節は『ふたりの神に仕えることはできないぞ。イスラエルの神か、偶像神マモンか、どっちなんだ』という内容になります。9、11、13節の『マモナース』は『偶像神マモン』という意味であって、『富』という意味で使われていません。

もし『トランスペアレント訳』にするのであれば、『マモナース』と『プルートス』は別の訳語になるはずですが、新改訳は『マモナース』も『プルートス』も『富』ということばでくくっています。このように、新改訳の翻訳者はやってることがアベコベです。


~富は2回、マモナースは1回?~

新改訳の9節訳文を見ると、『』ということばが2回出てきます。ところが、ギリシャ語テキストでは『マモナース』が1回しか使われていません。もし直訳で訳すのであれば、ギリシャ語テキストで『マモナース』が1回しか使われていないのですから、訳文も『富』が1回だけになるのではないのでしょうか?新改訳は翻訳理念の中で『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避ける』と言っていますが、9節の訳文は原文に安易な修正を加えています。11節もこれとまったく同じです。

ルカ16:9 新改訳 富×2回
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

ルカ16:11 新改訳 富×2回
ですから、あなたがたが不正のに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことのを任せるでしょう。




組織で翻訳するということは、チェック体制があるということだと思うのですが、それが機能していなかったことが露呈されています。原文に『マモナース』が1回しか使われていないのに、訳文で『富』を2回使うというのは目立つので、どうしてこのような訳文を作ったのか指摘を受けるはずです。そうであれば9、11節の訳し方がおかしいとチェックをする者が気が付かなくてはなりません。チェック体制があったにも関わらず誤訳が通ってしまったとしたら、仕事に対する誠実さがないのか、能力がないのかのどちらかでしょう。

『聖書翻訳は委員会訳が良い。個人訳は不正確だ』と言われてきましたが、実際に訳文を検討してみるとその逆で、委員会訳に多くの間違いが含まれていること、個人訳でも品質の高い訳文になっているということがお分かりになるでしょう。『組織で翻訳するから正しい翻訳ができる。個人訳は不正確だ』というのは、根拠のない誤った先入観です。豊洲市場の盛土問題に見られるように、係長、課長、部長のハンコが押されていながら『どうして盛土がなくなったのか分かりません。誰が原因なのか分かりません』という結論です。組織による行動は往々にして無責任な結果を招くということを、わきまえておくべきでしょう。

新改訳は『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。これが原文に忠実な翻訳方法だ。原文に安易な修正を加えてはいけない』と言っていますが、ふたを開けてみると、言ってることとやってることが違う。デタラメだということです。新改訳は翻訳の『手抜き』を正当化したいがため、後付けで『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語が良い』と言ってるに過ぎません。理念と実際の訳文に整合性がないということが、お分かりいただけたでしょうか。


~16章8~9節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

8)神を敬う信仰者より、世俗に生きる人の方が一枚上手(うわて)なのです。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじだったというのです。
9)いいですか、お金の偶像マモンさまのイカサマ術を使い仲間をつくること、ここが大切なところです。一文無しになった日には、この仲間がうやうやしくあなたを出迎え、とこしえにその家に住まわせてくれるでしょう。







(000)ルカによる福音書16章-4

2018年05月17日 | ルカによる福音書

γραμμα グラマー 帳簿


この記事は、ルカによる福音書16章5~7節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章5~7節~

ルカによる福音書16章5~7節 新改訳

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った




5~7節で検討すべき箇所が5つあります。

・彼、あなた、その人
・(ひとりひとり)呼んで
・言う、言った
・小麦百コル、油百バテ
・証文



~彼、あなた、その人~



『私、あなた、彼、彼女』といった人称代名詞を多用しないというのは日本語の大きな特徴ですが、小学2年生でも理解していることが分かります。英語の文では、人称代名詞『 I, you, he, she 』が多用されます。しかし、日本語で人称代名詞を使うのは、そこに特別な意味がある時だけです。翻訳者はこうした言語構造の違いを理解し、誤解なく両者が通じ合える訳文を作らなければなりません。因みにギリシャ語の場合、動詞の語尾を変化させることで人称の区別をするので、英語のように『 I, you, he, she 』と独立した単語として現れない場合が多々あります。

例えば、ギリシャ語で『私は言う λέγω レゴー』と言うことばは『彼は言う λέγει レゲイ』と、語尾を変えることで、人称の区別をします。ギリシャ語の『λέγει レゲイ』を日本語に翻訳する場合『イエスさまが言った』や『ペテロが言った』と文脈に合わせて訳語を変えなければなりません。具体例を挙げてみます。





ギリシャ語ではどれも『レゲイ』ですが、日本語では基本的に人称代名詞を使わないので『主人は言った、管理人は言った、ヨハネは言った』と訳出しなければならないはずです。

なぜ新改訳は『私、あなた、彼、彼女』を多用し、わざわざおかしな日本語にするのでしょう?それは『主人は言った、管理人は言った』といちいち訳語を変えるのは面倒なので、基本的に『彼は言った』でいいじゃないか。聖書がおかしな日本語になったって関係ないよと、委員会の中で身勝手な取り決めをしているからです。

委員会は、こうした手抜き作業を正当化するため『直訳が良い、トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語のほうが良い』と、事あるごとに詭弁(きべん)を弄(ろう)している、そうとしか思えません。

小学生のお子さんをお持ちの方であればお分かりだと思いますが、子どもが作文の中で『私、あなた、彼、彼女』という代名詞を繰り返し使うでしょうか?そのようなことはないはずです。日本語では人称代名詞を多用しないということは、小学校低学年でも理解しています。聖書の中で人称代名詞が多用されているということは、聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれているということです。






~(ひとりひとり)呼んで~

『(ひとりひとり)呼んで』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『プロスカレオマイ』という動詞です。

προσκαλεομαι(4341) proskaleomai プロスカレオマイ
(上位の者が下位の者を)呼ぶ。呼び寄せる。
(上位の者がグループの中から)幾人かを選ぶ。召し寄せる。

5節の文脈で理解すると『プロスカレオマイ』というのは、管理人が帳簿を開き、債務者リストの中から目ぼしい人物を選んで呼び寄せたということです。詳しくは『ルカによる福音書16章-3 ~(主人は、彼を)呼んで~』の記事で記述しています。興味のある方はご参照ください。



~言う、言った~

5~7節の間で『言う』ということばが6回使われていますが、小学生でもこんなおかしな書き方はしません。

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った



『言う』が何度も繰り返されているので、幼稚な日本語になっています。ギリシャ語も幼稚な表現になっているということなのでしょうか?そうではありません。『言う』と訳されたのはコイネー・ギリシャ語の『レゴー』『エポー』二つのことばが使われていて、それぞれ次のような意味があります。

λεγο(3004) lego レゴー
言う、語る、説明する、述べる、教える、告げる、呼ぶ、名付ける、申しつける、命じる


επο(2036) epo エポー
答える、返事をする、命じる、呼ぶ、話す、告げる


『レゴー』『エポー』それぞれ幅広い意味があり、日本語に訳出する場合、文脈に合わせて適切な訳語を選択するという作業をしなければならないのですが、新改訳では両方とも『言う』という訳語に限定していることが分かります。そのため『言った』を繰り返す幼児文になったのです。新改訳がトランスペアレント訳が理念だというのであれば、少なくとも、レゴーとエポーは違う訳語になるはずですよね。新改訳は、理念に反することをやっているのです。

新改訳がこうした愚かな訳文を作るのは、前述した通り『文脈によってどの訳語を選択するかを考えるのは面倒なので、機械的に訳語を決めてしまおう。そのため聖書の訳文がぎこちない訳になったって仕方ないじゃないか』そのような取り決めがなされているからです。

これは『彼、彼女』『言う』に限ったことではなく、聖書全体がこうした訳しかたになっています。これが専門家がやる仕事でしょうか?通訳業務の一翼を担ってきた者として申し上げますが、このような手抜き作業は、聖書を読む人への裏切り、そして執筆者への侮辱にほかなりません。

日本人であれば、少なくとも次のように言い換えるはずです。

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と尋ねると、
6)その人は、『油百バテ。』と答えた。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と命じた
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と尋ねると、『小麦百コル。』と答えた。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と命じた


『・・・言った。・・・言った。・・・言った』と、おかしな日本語聖書を一般の日本人が読んだとしたら『聖書って味気ない文章の本だな。ルカっておかしな文を書くんだな』という誤解を与えることになります。これでは素人の仕事です。何故こんなことになったのでしょう?

『この様な翻訳じゃまずいんじゃないですか?翻訳理念など根本的なところに問題がありますよ』といった周囲の助言に、委員会は耳を傾けてこなかったのではありませんか?委員会の中で、お粗末な翻訳をしていることを黙認し翻訳者としてお金をもらっていた人もいたはずです。

また、長い間この翻訳委員会をお膳立てし、担ぎあげてきた周りの人にも問題があります。実際の訳文を具体的に検討することなく『直訳こそが原典に忠実な翻訳方法です』『新改訳は原典に忠実な翻訳です』との発言が繰り返されてきました。翻訳者が拠りどころとするのは言語学と心理学の理論ですが、直訳を正当化する方が、何の理論を根拠に直訳を正しいとするのか、根拠となる理論の提示を見たことがありません。また、新改訳訳文の間違いを指摘することに対し、それがあたかも神への冒涜であるかの様な目つきで見る、そうした雰囲気を周りの人が作ってきたように感じます。

教会の祈り、奉仕者、献金が集中すると、いつの間にか組織そのものが神格化されるということがあります。やがて組織の頂点に立つ人物のことばが絶対視され、周囲の人が盲目的に服従する、そういうことが起こるのです。イエスさまは律法学者の過ちを厳しく批判されましたが、サンヘドリンにも組織の神格化と退廃がありました。十字軍の遠征、贖罪符の販売、教会のカルト化・・・これらは共通して組織の神格化、代表者の絶対化、盲目的服従が起こっています。教会やクリスチャンは、こうした過去の過ちから教訓を得ているでしょうか?

オーバーだと思われるかもしれませんが、聖書の翻訳委員会にも同じような匂いを感じるのです。翻訳をやる人もただの人間なのですから、翻訳委員会も人間の集まりに過ぎません。人間がやることですから、翻訳に間違いがあって当然のことです。

ところが、翻訳委員会に神聖不可侵さを与え、その翻訳理念『直訳』を絶対視し、周囲の人がこれに盲目的に追従している、そのように感じるのです。新改訳も一翻訳に過ぎないのですが、新改訳に神のことばと同格の地位を与え、訳文の誤りを指摘することがタブー視されている。そのような臭いがプンプンしています。

教会やクリスチャンが犯してきた『組織の神格化』という過ちが克服されない限り、『宗教って怖い面があるよね』『キリスト教って残酷なことをしてきたよね』という世間の見かたは、いつまでたっても変わらないでしょう。

困ったことですが、一度できあがった『裸の王様』は、簡単に王座を明け渡しません。周りの人も『王様は何て素敵な翻訳をされるのでしょう!直訳こそ忠実な翻訳方法だわ!』と、自分でも見えていない衣装をほめそやします。もし『王様!裸ですよ』と指摘をしようものなら、袋叩きの目に合います。偉くなった王様は、下々のことばなど全く耳を貸さなくなる、そういうものです。



~カノジョのたんじょう日~




新改訳の翻訳委員会の先生は、次の規定をご存知でしょうか?
日本翻訳協会『翻訳者の倫理綱領』
(5) 手に負えないものを引受けない責任
プロフェッショナル・トランスレーターは、自身の力量にあまる翻訳サービスを引受けてはならない。

委員会は『私、あなた、彼』『・・・言った。・・・言った』という『もっとがんばりましょう』レベルの日本語、これを改めることから着手しなければなりません。ギリシャ語の知識とか翻訳スキルとかそういった高度な知識が議論できるレベルに至ってないのです。新改訳訳文のレベルから判断すると、とてもじゃありませんがプロの翻訳者を名乗ってはいけません。このような組織が聖書翻訳を引き受けること自体、倫理規定にもとるのです。



~油百バテ、小麦百コル~

各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。



新改訳は『百パテ、百コル』と表記しましたが、日本にはパテ、コルという度量衡はありません。ユダヤの度量衡表記を読んでパッと理解できるのは、牧師や神学者の中でも1%もいないと思います。文語訳、口語訳は『樽、石』と日本人に分かる単位に置き換え訳出しています。プロの翻訳者として当然の仕事です。先輩方が良いお手本を示しているにも関わらず、新改訳は『パテ、コル』と直訳し意味の分からない訳文にしてしまいました。これでは新改聖書です。

イザヤ書8章-2』の記事で、新改訳は『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』とヘブライ語読みのまま表記し、日本語の解説を入れることも怠っていることを指摘させていただきました。それと同じ過ちをここで繰り返しているのです。一般の読者には理解できない、翻訳者がヘブライ語の知識をひけらかすような訳文は、翻訳者の自己陶酔を見せつけられるようで不愉快です。



~板前になったやく君~

小学生だったやく君も社会人となり、憧れだった板前さんになりました。かつての恩師は、独立したやく君の晴れ姿を一目見ようとお店に行きました。そこでアナゴを注文したのですが・・・(;O;)



『先生、僕は小さい頃から新改訳を読んできたんですが、ある時、直訳こそ真理だって悟ったんです。寿司っていうのはネタが命なんですが、生きたまんま、一切手を加えないネタをお客さんに提供すること、これが原材料に忠実な仕事だって気が付いたんです。よその店じゃ、アナゴを下処理し、焼いてタレまで塗ったくるじゃないですか。あんな細かい作業、手間のかかる仕事ってのは、言うなれば意訳なんです。意訳はやってはいけない邪道なんですよ。だからうちは、タコ、サンマ、ホタテ、カニ、ウニ・・・一切下処理なし、生きたまんま提供してるんです』

『やく君、君の熱意には感心するけど、君はお客さんのことを考えているだろうか。お寿司を食べに来る客というのは、君の講釈にお金を払うんじゃなく、プロが握るおいしいお寿司に対しお金を払うんじゃないかな。生きたタコを丸ごとカウンターに出されたって客は食べられないだろう。このアナゴだって生きたまんま出されても食べられないよ。お客がおいしく食べられるよう包丁を入れ、調理をする、それがプロの仕事だろ。生で出せるネタ、火を通さないとダメなネタ、酢で絞めた方が良いネタなど、素材に合わせた処理法や調理法があるんだよね。お客さんのことに気を配れない、独りよがりなお店じゃまずいんじゃないかな。そんな商売だったら素人にもできるよ』

『先生、新改訳の理念というのは、ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的じゃあない。牧師や注解者のところに行ってみんなと一緒に学ぶものだっていうことなんです。だから生きたアナゴが食べられなければ、持ち帰って捌(さば)ける職人を見つけ捌いてもらえばいいんですよ。途中腐って食えなくなるかも知れませんが、それはうちの責任じゃないですから。誰かに捌いてもらうことで、人と人との交わりだってできます、大切なのは交わりなんです。あくまでうちは直訳で出す。あとのことは一切知りません。うちボッタクリじゃありませんよ。直訳がポリシーというだけです』  翻訳としての『新改訳聖書』の立場参照


ヘブライ語の『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』『パテ、コル』を直訳で訳文に載せるというのは、生きてるアナゴをそのままお客に出すようなものです。



~証文~

証文と訳されたのは、ギリシャ語の『グラマー』という名詞で、幅広い意味があります。

γραμμα(1121) gramma グラマー
文字、手紙、記録、報告書、メモ書き、会計帳簿、伝票、本

各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。



『証書、証文』ということばが使われたのは、古い時代背景に合うことばが良いだろうという考えがあったからでしょう。そういう訳出もあると思います。しかし、聖書が現代語に翻訳され出版されるというのは一般の人に読まれるという訳ですから『受領書、受取書』あたりの訳語が読者にとって読みやすく親切だと思います。


6,7節で、管理人はオリーブ油と小麦の負債を減額します。ある神学者は『管理人は不当に利息を上乗せしていた分を減額したのである。従って管理人が顧客の負債を減らしたことは不正に当たらない』と合理的な解釈をしています。しかし、これは何とも身勝手な解釈で、これを裏付ける記述はどこにも書かれていません。管理人はイカサマをおこない、あるじはそのことを褒めたと原文に書かれているのですから、そのまま受け入れたら良いのです。神学者であれば、人間の知恵を加えて聖書解釈をねじ曲げることが許されるのでしょうか?神学者が人間的知識を駆使し原文解釈をすることは、訳文を歪める危険があるという認識を持っていただきたいものです。

オリーブ油は高貴さの象徴で、ある人は神に対し大きな罪を負っているということを意味し、小麦はパンの原材料ですから世俗社会を象徴し、ある人は社会生活の中で大きな罪を抱えているという意味を表しています。不正な管理人がアイロニー表現で書かれていることが分かれば、人間の知恵で聖書解釈をねじ曲げなくともきちんと理解できます。ウラの意味は『ルカによる福音書16章-8』にまとめて書かせていただきました。



~16章5~7節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

5)会計士は、取引先の中からあるじに負債がある顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事です。会計士は『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』と会計士は命じました。





(000)ルカによる福音書16章-3

2018年05月16日 | ルカによる福音書

διασκορπίζω ディアスコルピッゾ お金を湯水の如く使う


この記事は、ルカによる福音書16章1~4節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章1~4節~

輪郭の設定が終わったので、細部の解釈に入ります。

ルカによる福音書16章1~4節 新改訳

1)イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された
2)主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3)管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4)ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』



1~4節で検討すべき箇所が6つあります。

・管理人
・(財産を)乱費している
・訴えが出された
・(主人は、彼を)呼んで
・土を掘るには力がないし
・こじきをするのは恥ずかしいし



~管理人~

『管理人』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『オイコノモス』という名詞です。
οικονομοσ(3623) oikonomos オイコノモス
管理者、会計士、執事

このお話しを見ると、『管理人』が勤めていた職場は、小麦やオリーブ油の仕入れ、卸し問屋を営む商家で、そこで店の帳簿を預かる『大番頭』として働いていたことが分かります。こんにち一部の業界で『番頭』ということばもまだ使われていますが、一般の人に『番頭』は馴染みがないことばになったので、現代語としては『会計責任者』あたりのことばが適当かと思われます。

日本語訳では次のように訳されています。
文語訳  支配人
口語訳  家令
新共同訳 管理人
現代訳  管理人
リビング 計理士

冷静に考えていただきたいのですが、農産物を商う問屋業に『支配人、家令、管理人』という職位があるでしょうか?ないですよね。現代の人が『支配人』と聞くと、蝶ネクタイをしたホテルの支配人というイメージになるでしょう。『家令』と聞くと、貴族のお屋敷にいる執事というイメージになるのではないでしょうか。『管理人』と聞くと、マンションの管理人というイメージになると思うのです。そもそも農産物を商う問屋に『支配人、家令、管理人』という職位がないのですから、従来の訳語はふさわしくないのです。





こうしたことを念頭にリビングバイブルでは『計理士』という訳語を選択したようです。『農産物問屋で働く計理士』であれば、違和感なく理解できます。リビングバイブル訳文の品質は優れているほうだと思います。通訳や翻訳において、職業、地位、身分をどう翻訳するかというのは、意外と難しいものなのですが、こうした細かなところに翻訳者のスキル、訳文の品質が表れるのです。

訳語を決めるのに、辞書の中から単語を選ぶだけでは中学生がやることと変わりありません。プロの翻訳者であれば、辞書に記載されてない別の定義がないかを検討することも必要です。また、選択した訳語が読者にどのようなイメージを与えるのかを考え、読者が読んで理解に困るような訳語、違和感を与える訳語を選択しないということも、忘れてはなりません。

オイコノモスの訳出についていえば、リビングバイブルは合格、ほかは不合格です。



~(財産を)乱費している~

『(財産を)乱費している』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『ディアスコルピッゾ』という動詞です。
ギリシャ語 διασκορπίζω(1287) diaskorpizo ディアスコルピッゾ

・(手で握った種を)まき散らす
・(元いた場所から人、羊が)散り散りにされる
・(手元にあるお金を)湯水の如く使う

ディアスコルピッゾは、新約聖書全体で9回しか使われていないことばです。滅多に使われないことばですが、放蕩息子のお話しと、続く不正な管理人のお話しで使われています。新改訳は次のように訳出しています。

ルカ15:13 新改訳 放蕩息子
・・・弟は・・・湯水のように財産を使ってしまった。

ルカ16: 1 新改訳 不正な管理人
・・・管理人が主人の財産を乱費している・・・

『ディアスコルピッゾ』を、15章では『湯水のように・・・使った』と訳出し、16章では『乱費している』と訳語を変えています。新改訳の翻訳理念は『直訳、トランスペアレント訳』だということですが、おかしくないでしょうか?新改訳の理念通り翻訳するなら、15章も16章も同じ訳語にならなくてはならないはずです。自ら掲げる理念と違うことをやっているのです。

放蕩息子と不正な管理人は、並行関係にあるたとえ話しになっています。そのことを読者に示唆する目的で『ディアスコルピッゾ』が繰り返し使われているのです。執筆者ルカは『放蕩息子と不正な管理人は同じ人物を意味しているからね』というヒントを読者に送っているのですから、次のように訳出しなければならないでしょう。

ルカ15:3 放蕩息子
弟は・・・父の遺産を湯水のごとく使った

ルカ16:1 不正な管理人
管理人があるじの財産を湯水のごとく使っている

『湯水のごとく使う』と同じ訳語を与えておけば、ギリシャ語で読んだ時と同じように『放蕩息子と不正な管理人は関連があるんだよ』というヒントを、日本語読者にも与えることができます。

ルカが気を利かせわざわざ『ディアスコルピッゾ』を繰り返しているのですから、こういう箇所こそ『トランスペアレント訳』にしなくてはなりません。新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていないのです。新改訳は、やってることがアベコベです。



~訴えが出された~

ギリシャ語で『訴える』という時に使う一般的な動詞は『カテゴレーオー』です。

κατηγορεω(2723) kategoreo カテゴレーオー
(裁判のような場で相手の罪状を)訴える
例)ルカ23:2 (祭司長たちはピラトに)イエスについて訴え始めた。


ところがルカ16:1で『訴えが出された』と訳出されたことばは『διαβαλλο(1225) ディアバロー』というギリシャ語で、新約聖書の中ではここでしか現れない動詞です。ディアバローは、その意味を調べる客観的データが極めて乏しいのですが、翻訳辞書に依存する翻訳ではダメです。翻訳辞書を見ただけでは50%しか意味が把握できないからです。ディアバローの意味を輪郭を捉える方法で解釈します。

情報源として『70人訳聖書』と『ヘブライ語聖書』に当たります。70人訳を見ると、ダニエル3:8とダニエル6:24の2か所で『ディアバロー』が使われています。参考までに日本語訳を引用させていただきますが、新改訳より新共同訳の方が適切な訳出になっているので、新共同訳で引用させていただきます。

ダニエル3:8 参考 新共同訳
さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、

ダニエル6:24 参考 新共同訳
・・・ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた・・・

新共同訳で『中傷する』『陥れる』と訳出されたのはギリシャ語の『ディアバロー』で、アラム語をたどると『akal qerats アカール ケラーツ』ということばになっています。ダニエル書はヘブライ語とアラム語で書かれています。



『ディアバロー』も『アカール ケラーツ』も、ほぼ同じ意味になっていることが分かります。ここで導き出されたことばの定義を、実際にダニエル書3章の文脈に当てはめ再確認します。ダニエル書3章は次のようなお話しです。


ネブカドネツァル王は法律で『国民は、王が造った金の偶像を拝まなければならない。拝まないものは死刑に処す』と定めていたのですが、ユダヤ人は拝むことをしませんでした。以前からユダヤ人を憎んでいたカルデヤ人は、待ってましたと言わんばかりに王様に告発をします。

ダニエル書3章 新共同訳
8)さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、
9)ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。
10)御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。
11)そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。
12)バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
13)これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。



この文脈から判断すると、ギリシャ語『ディアバロー』とアラム語『アカール ケラーツ』の意味は、『告げ口をして人を陥れる』という場面で使われることばだと分かります。

これをルカ16章1節に当てはめてみると『あの管理人は資産を湯水のごとく使っていると告げ口し、管理人を陥れようとする者がいた』という内容になり、ピッタリと文脈に合います。

新改訳は『カテゴレーオー』と『ディアバロー』のどちらも、『訴える』と同じことばに訳出していますが、これも新改訳の翻訳理念『直訳、トランスペアレント訳』から逸脱した訳し方です。新改訳の理念通りに訳出するのであれば『カテゴレーオー』と『ディアバロー』はそれぞれ異なる意味を持つのですから訳語も異なるはずです。

新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていないのです。これでは有名無実の翻訳理念で、看板倒れではないでしょうか。新改訳はやってることがデタラメです。


余談になりますが、70人訳聖書はルカが生きていた時代には完訳されていました。ギリシャ語に通じているルカは、70人訳聖書を読んでいたことも考えられます。『聖書』といえば当時は『旧約聖書』しかなかった時代です。旧約聖書の中でもダニエル書の『燃える炉』のお話しは、強い印象を与えるところだったはずです。

カルデヤ人がユダヤ人を陥れる崖っぷちの場面と、管理人が退職を余儀なくされる場面、この二つの場面を、ルカはダブらせながら書いたのではなかろうか。そのような気がします。『ディアバロー(陥れる)』が使われているのは、ダニエル書とルカ福音書だけなのです。



~(主人は、彼を)呼んで~

新改訳を見ると、2節と5節で『呼ぶ』ということばが使われています。

新改訳 16:2 (主人は、彼を)呼んで(言った)
新改訳 16:5 (管理人は)主人の債務者たちをひとりひとり呼んで・・・

ところが、原文では違うギリシャ語が使われているのです。

新改訳 16:2 (主人は、彼を)呼んで(言った)
πηονεο(5455) phone フォネオー
声を出す、はっきりと声を出す、泣き叫ぶ。

新改訳 16:5 (管理人は)主人の債務者たちをひとりひとり呼んで・・・
προσκαλεομαι(4341) proskaleomai プロスカレオマイ
(上位の者が下位の者を)呼ぶ。呼び寄せる。
(上位の者がグループの中から)幾人かを選ぶ。召し寄せる。

ギリシャ語で違う単語なんだから、訳文も違うことばで訳すべきだということを言いたいのではありません。そうした言語観は間違っています。しかし、原文が何らかの理由があってことばを使い分けているのであれば、その意図を訳文に反映させなければならなりません。そうした検討を怠っているということを指摘したいのです。

2節で使われた『フォネオー』というのは、主人が大きな声で『お~い○○君、ちょっと来てくれえ!』と管理人を呼び寄せたということです。

一方5節で使われた『プロスカレオマイ』というのは、管理人が帳簿を開き、債務者リストの中から目ぼしい人物を選んで呼び寄せたということです。

新改訳の翻訳理念『直訳、トランスペアレント訳』通りに訳出するのであれば『フォネオー』と『プロスカレオマイ』はそれぞれ異なる訳語になるはずですが、理念が看板倒れになっているのです。なぜ理念に反する訳出をしたかというと新改訳にとって『直訳、トランスペアレント訳』が大切な理念なのではなく、本音は翻訳作業の単純化、手抜きで、これが新改訳の本当の翻訳理念だからです。

『フォネオー』も『プロスカレオマイ』も訳し分けるのが面倒だから『呼ぶ』に統一しておこうよ。その方が簡単でしょ。聖書の訳文が読みにくくなったって構わないさ。別に銘文を作る必要なんかないんだから、手抜きをしないとやってられないよ。委員会はそのように考えていたのでしょう。



~土を掘るには力がないし~

現代の日本人が『土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし』という文を読んだ場合、土木工事の土方作業をイメージすると思います。しかし、ルカはここで土方作業ということを言いたかったのではないはずです。

『土を掘る』と直訳されたのはギリシャ語のスカプトーということばで、新約聖書の中では3回しか使われないことばですが、その3回ともルカ福音書で使われています。

σκαπτω(4626) skapto スカプトー
土を掘る、地面を掘り下げる、地面に穴を掘る、

ルカ6:48 新改訳
・・・地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて・・・

ルカ13:8 新改訳
・・・木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

スカプトーは、土方作業という意味でなく、土を掘り起こすという動作を表し、畑や農園で土を耕すという意味でも使われます。不正な管理人のお話しの中で、オリーブ油と小麦に関する記述があるので、この金持ちは農産物の取引をしていたことが分かります。

このお話しを聞いた当時の人は『スカプトー(土を掘る)というのは、農作業のことだな』と理解したのではないでしょうか?つまり管理人は『今まで取引先であった農園に雇ってもらうことも考えたけど、そんな体力ないしなあ・・・』と考えた。そのように理解した方が文脈に合っています。

そうだとすると『土を掘るには力がないし・・・』と直訳するのではなく、『農作業をするほどの力もないし・・・』又は『力仕事をするだけの体力はないし・・・』と訳出した方が誤解の起きない訳文になります。こうした細かい配慮を積み重ねることが、訳文全体の品質を上げることなのです。

参考までに現代訳では『肉体労働をするほど体力は無いし・・・』と訳出しています。現代訳は細かなところまで配慮して翻訳されていることが分かります。ところが、このように細やかな配慮をした翻訳をすると『意訳をしている!原典に忠実でない!』と直訳主義者が騒ぎ出します。これこそディアバローする(人を陥れる)ことです。



~こじきをするのは恥ずかしいし~

『こじきをする』と訳されたのは、ギリシャ語の『エパイテーオー』という動詞で、新約聖書の中で使われているのは2箇所だけで、2箇所ともルカ福音書の中にあります。

ルカ 18:35 新改訳
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた

επαιτεο(1871) epaiteo エパイテーオー
こじきをする、物乞いをする

放送業界や出版業界では、差別や侮辱をすることばをリストアップし、リストに挙げられたことばがタブー視されているということがあります。本来『こじき』は侮蔑を意味することばではなかったのですが、ことばが大衆化される過程で、いつしか元来の意味が薄れて行き、侮蔑的な意味あいが強くなりました。ことばは時間と共に意味を変える、そのような側面があります。

こんにち見られる差別用語の自粛を見ると行き過ぎた『言葉狩り』になっているのではないかとも感じられますが、こうした風潮は今後も続くでしょう。行き過ぎた配慮、過敏な対応をする必要はないと思いますが、10年後、社会が『こじき』をどのように認識しているかを考えると・・・聖書の訳語として『こじき』は避けた方が賢明ではないかと思われます。聖書翻訳の改定作業には、時代を反映した訳語の変更もすべきでしょう。



~16章1~4節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

『イカサマ会計士』

1)イエスさまは弟子たちに次の話しをします。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいました。ところが、この会計士を陥れようと企てる者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の資産を無駄づかいしています。それも湯水のように使っているんですよ』と告げ口をしたのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているぞ。とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったなあ。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。





(000)ルカによる福音書16章-2

2018年05月15日 | ルカによる福音書



この記事は、ルカによる福音書『不正な管理人』(一部放蕩息子に関する記述もあります)の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~背景を理解する(つづき)~

ユダヤ教主流派との対立とイエス像

律法学者たちは、イエスさまに付きまとい鵜の目鷹の目であら探しをし、大げさに騒ぎ立てては敵対心をあらわにします。

ルカ6章 新改訳
1)ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2)すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがた(イエスの弟子たち)は、安息日にしてはならないことをするのですか。」


ルカ7章 新改訳
34)人の子(イエス)が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。

ルカ11章 新改訳
15)しかし、彼ら(律法学者)のうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。


イエスさまも黙ったままではいません。辛辣(しんらつ)なことばで反論します。ルカ11章後半を見ると痛烈なイエスさまのことばがとうとうと書かれていますが、これはルカ福音書の特徴でそこにルカのイエス像を見ることができます。

ルカ11章 新改訳
38)そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。
39)すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
40)愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
41)とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
42)だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
43)わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
44)わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
45)すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
46)しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
47)わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました
48)したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。
49)だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
50)それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
51、52)わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」
53)イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
54)彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。


イエスさまが持つ辛辣な一面をありのまま表現したところがルカ福音書の特徴で、これは『不正な管理人』を解釈するカギとなります。ルカがことさらイエスさまの辛辣さを強調したというよりは、他の福音書執筆者はイエスさまのこうした一面をちょっとばかり削り落として書いたと思われます。



15章から理解する

15章の終わりが『放蕩息子』で、16章が『不正な管理人』と、章が分かれているので読者はここでテーマが変わっているという印象を受けてしまいます。困ったことですが、聖書に付けられた章節の区切りは、ストーリーの区切りと一致しておらず、古い時代の印刷技術、レイアウト技術に合わせる格好で、文脈とは無関係に章節が割り当てられたという経緯があります。イエスさまが『不正な管理人』を語ることになったきっかけを知るには、15章冒頭を見なければなりません。

ルカ15章 新改訳
1)さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2)すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人(イエス)は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。
3)そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。


15章4節からイエスさまの反論が始まります。失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子、不正な管理人の内容は、律法学者たちへの反論です。『不正な管理人』の解釈が混乱を招き『小さなことに忠実であれ』 『お金を上手に使いなさい』 『この世の手段を使ってでも仲間を増やしなさい』と様々ですが、そうではなく律法学者たちへの反論として『不正な管理人』のお話しが配置されており、内容も律法学者たちへの反論になります。

失われた羊と失われた銀貨は、誰が読んでも理解できる内容ですが、放蕩息子と不正な管理人はアイロニー表現になっているので、アイロニーを考慮した解釈をしなければ理解できません。





~15章放蕩息子とアイロニー表現~

ルカ15章 新改訳 放蕩息子
11)またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12)弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13)それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14)何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15)それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17)しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18)立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19)もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20)こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21)息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22)ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23)そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24)この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
25)ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
26)それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27)しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28)すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29)しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30)それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31)父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32)だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」



ユダヤ人(ヘブライ語)には並行表現といって、同じようなフレーズを繰り返す表現方法が多用されます。そのように『放蕩息子』と『不正な管理人』も並行関係にあるお話しになっていて、別々に解釈するのではなくセットにして解釈しないと理解できません。先ず『放蕩息子』をささっと解釈します。

福音書には多くのたとえ話しがありますが『ぶどう園のあるじと、殺された息子』 『ぶどう園のあるじと、いちじくを守る園丁』というたとえ話しがあります。ぶどう園のあるじというのは父なる神を意味し、殺された息子、ぶどう園の園丁というのはイエスさまを意味します。

これはお決まりのパターンなのです。このパターンを放蕩息子のお話しに当てはめてみます。すると、裕福な父というのは父なる神を意味し、放蕩息子(弟)というのはイエスさまを意味すると分かります。

『ええっ?放蕩息子は外国で女遊びをした遊び人として描かれているんだから、イエスさまじゃないだろ』と感じることでしょう。そう思ってしまうのは誤った先入観があるからです。先入観を捨て、このお話しがアイロニー表現であることに気がつくことができれば、矛盾なく理解できます。



~放蕩息子 ストーリーの把握~

律法学者たちは『イエスは罪深い者どもの仲間になってるじゃないか。イエスという奴は何て薄汚いやつなんだ』と侮辱します(15:2)。律法学者たちの腹の内をお見通しのイエスさまは、自虐的な語り口(アイロニー)で、『放蕩息子』のお話しを始めます。


イエスさまは律法学者たちに向かってお話しになりました。「あなたがたはこのように言っている。『我々律法の教師は、取税人や売春婦たちを同じユダヤ人とは認めない。そのような輩(やから)に神の国を教えるなんて全くの無駄。遊女に金を散財するようなものだ。イエス、そのうちお前が伝道できなくなるよう追い込んでやるから待っていろ。食いぶちをなくしたお前は、取税人の家にもぐりこみ、おまんまを頂戴するのさ。ブタの餌を食うようなもんだぜ。身をやつしたお前は『お父さん私が間違っていました』って泣いて後悔するのさ。まったく愉快だぜ、ガッハッハ』

ところで次のことが分かるだろうか?この放蕩息子の帰りを待っていたのは、ほかでもないあの父親だということを。父親は「お前の帰りを待っていた。死んでいたと思っていたが、生きかえったではないか。お前に私の家督(かとく)すべてを継がせよう」といい抱きしめた。

死んで復活した息子。更に父親が持つ天国の家督権を全て受け継いだ息子というのは、誰のことでしょうか?イエスさましかいません。『でも、イエスさまが父親の財産を外国の女遊びに使ったというのはおかしいじゃないか!』という疑問が出てきます。この疑問に突き当たると回れ右をし、もと来た道を戻って帰る方が多いと思いますが、勿体ないことです。

イエスさまは『そうだよね、おかしいよね。でもどうしてだと思う?』と尋ねているように思います。ユダヤ人であれば『そっか!律法学者たちのひねくれた見かたを引用した言い方にしているんだ。アイロニー表現だったのか。俺たちいつも使ってるもんな!』と気が付くはずです。

対立する律法学者とイエスさまの関係を、真面目な兄と不真面目な弟になぞらえアイロニー表現でお話しになったものなのです。『放蕩息子=イエスさま』という解釈をすれば、ストーリー全体のつじつまが合います。『放蕩息子』のお話しは、罪びとが改心し父親と和解する感動ストーリーとして解釈されてきましたが、そうではなく律法学者に対する痛烈な反論です。もし、この放蕩息子の解釈でつまづくようであれば、続く不正な管理人の解釈もできません。言い換えると、不正な管理人の解釈ができなかったのは、放蕩息子の解釈ができていなかったからです。



『放蕩息子』の次に『不正な管理人』の話しが続くのですが、意図的にこの順番で構成されています。『放蕩息子』を先に読ませることで、読者に対し『アイロニー表現で書かれてるけど、これくらいのアイロニーなら理解できるよね』というメッセージを送り、読者にアイロニー表現に対するウオーミングアップをさせているのです。続く『不正な管理人』に入ると、アイロニー表現が雨あられと降り注ぎます。



~不正な管理人 登場人物と比喩の解釈~

『不正な管理人』の中で登場する人物と、それが何を意味するか検討します。

先にも書きましたが『ぶどう園のあるじと、殺された息子』というたとえ話しで、ぶどう園のあるじというのは父なる神を意味し、殺された息子や園丁というのはイエスさま意味します。15章で放蕩息子(弟)というのは、イエスさまを意味していました。

従って16章『金持ち、イカサマ管理人、密告者』の関係は『父なる神、イエスさま、律法学者』を意味し、不正な管理人とは、イエスさまのことだと分かります。ストーリー後半『この世の子、光の子』は『いかがわしいイエスたち、清廉潔白な律法学者たち』を意味します。『ええっ?イエスさまが不正な管理人?』と驚かれるかもしれませんが、素直に解釈することが肝心です。

放蕩息子も不正な管理人も、律法学者たちが『イエスは罪深い輩(やから)の仲間になっている』という侮蔑に対する反論として配置されています。イエスさまは『なるほど。清廉潔白な神のしもべ律法学者さまと、いかがわしい目で見られる私たちと、果たしてどちらが父なる神のみ心に適うのだろうか?』と、二つのたとえ話しの中で問いかけているのです。

放蕩息子のお話しでは、真面目な兄=律法学者で、不真面目な弟=イエスさまでした。不正な管理人のお話しでは、密告者=律法学者で、不正な管理人=イエスさまを意味しています。どちらのお話しも不真面目な方が称賛を得るという内容です。律法学者にはイエスさまの宣教がいかがわしく見えたのですが、イエスさまの宣教こそ父なる神のみ心だと、律法学者に反論をしています。

鏡をのぞくと、左右が反転した画像になりますが、アイロニー表現の解釈というのは、歯科医が歯鏡に映った反転画像を見るような感じでおこないます。



・ある金持ち
父なる神さま

・資産管理者(不正な管理人)
イエスさま

・財産の乱費
主人の大切な財産を無駄づかいしているということですが、その真意は『取税人のように社会からつま弾きされた人たちへの伝道』を意味します。アイロニー表現です。

・財産乱費の密告者
正義感あふれた告発者ということですが、その真意は偽善の律法学者たちを意味します。アイロニー表現です。

・主人の債務者
神さまから離れて生きる罪深い人のことですが、その真意は神に愛される取税人や売春婦たちを意味します。アイロニー表現です。

・この世の子ら
俗世で生きるずる賢い人のことですが、その真意は福音を委ねられたイエスさまと弟子たちを意味します。アイロニー表現です。

・光の子ら
神に従う正しい人のことですが、その真意は偽善の律法学者たちを意味します。アイロニー表現です。


執筆者ルカは『放蕩息子のお話しがアイロニーだって気がついたよね。じゃあ『不正な管理人=イエスさま』というのもすぐ分かるでしょ。この話しもアイロニー表現になってるから、そういう風に理解するんだよ』と含みを持たせた構成になっているのです。ルカの執筆力はこうしたところに発揮されています。

『放蕩息子』と『不正な管理人』は並行関係にあるお話しです。それぞれの比喩、アイロニー表現を下の表にまとめました。





~不正な管理人 ストーリーの把握~

律法学者たちは『イエスは罪深い者どもの仲間になってるじゃないか。イエスという奴は何て薄汚いやつなんだ』と侮辱します(15:2)。律法学者たちの腹の内をお見通しのイエスさまは、自虐的な語り口(アイロニー)で、『不正な管理人』の話しを始めます。強烈なアイロニー表現です。


イエスさまは弟子たちに向かってお話しになります。「律法学者たちは次のように言っている。『我々律法の教師は、取税人や売春婦たちを同じユダヤ人とは認めない。そのような輩(やから)に神の国を教えるなんて全くの無駄。財産を浪費するようなものだ。イエス、お前は神の国を説き取税人たちと親しくしているが、きっと下心があるに違いない。そのうちお前が伝道できなくなるよう追い込んでやるから待っていろ。食いぶちをなくしたお前は、取税人の家でずっと世話になるのさ。実のところ自分の食いぶちつなぎで取税人と親しくしているだけだろ。お前はとんでもない悪知恵のかたまりだ。イエス、おぬしもワルよのう。ガッハッハ』。

ところで次のことが分かるだろうか?この不正な管理者をほめたのは、ほかでもないあの金持ちだということを。

弟子たちよ聞きなさい。私の宣教活動を不正呼ばわりする奴らにはそうさせておけば良い。私にならい、不正と揶揄(やゆ)される宣教活動をおこないなさい。ユダヤ社会から疎外された罪人の友となり福音を語ること、彼らはそれを不正呼ばわりするのだから」。



不正な管理人の話しは強烈なアイロニー表現で書かれています。マタイ、マルコ、ヨハネがこれを書かなかったのは、『良い子には読ませたくないお話し』だったからです。ルカがあえて不正な管理人を書いたのは、この話しの中にルカが伝えたかったイエス像、福音観があったからでしょう。

ここまで輪郭を作る作業をしてきましたが、これで80%は理解できるようになったと思います。一応コイネー・ギリシャ語で原文を調べる作業もしていますが、ここまではコイネー・ギリシャ語の語学知識に頼ることなく、輪郭を作ることができます。

翻訳者にとって輪郭を作るという作業がとても重要なんだということを理解し、翻訳作業に活かしていただけると幸いです。但しこれができるようになるには訓練が必要です。通訳の現場経験を重ねることが一番役立ちます。机の上で翻訳をしていたのでは身に付けることができないものです。

新約聖書の翻訳をする上で、勿論ギリシャ語を勉強することは必要ですが、通訳や翻訳という仕事は、ギリシャ語を勉強すればできるというものではないのです。語学知識とは全く異なる翻訳(通訳)スキルというものがあるのですが、これを身に付けずして通訳や翻訳はできません。多くの人がこのことに気がついていないのです。

従来『放蕩息子=不正な管理人=イエスさま』という解釈はされてこなかったので『そんな筈ないだろ』と思われている方がいると思います。原文をコイネー・ギリシャ語で見るなら、更に有力な情報があるのでその一つを紹介させていただきます。

ルカ15:13 新改訳 放蕩息子
・・・弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった

ルカ16: 1 新改訳 不正な管理人
・・・ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。


『湯水のように財産を使う』『財産を乱費する』と訳されたのは、ギリシャ語の動詞 διασκορπίζω diaskorpizo(ディアスコルピッゾ)で、実は同じ動詞が使われていたのです。ディアスコルピッゾには、以下の意味があります。

・(手に掴んだ種を)まき散らす
・(元いた場所から人、羊が)散り散りにされる
・(手元にあるお金を)湯水の如く使う

細やかな配慮ができる翻訳者であれば、次のように訳出するでしょう。
15:3)弟は・・・父の遺産を湯水のごとく使った
16:1)管理人があるじの財産を湯水のごとく使っている

このように同じことばで訳出すれば、ルカがギリシャ語に込めた意図を、日本語の訳文で再現できます。『ディアスコルピッゾ』は新約聖書全体で9回しか使われていないことばです。滅多に使われないことばが、放蕩息子で使われ続く不正な管理人で使われているのです。ギリシャ語で読んだ読者は『放蕩息子と不正な管理人はつながりがあるかもしれないな』とピンと来るよう仕組まれています。

ルカはこうした意図を持って『ディアスコルピッゾ』という動詞を繰り返し使ったのです。それは、放蕩息子=不正な管理人=イエスさまと、理解できるようにしてあげようという読者への配慮で、同じ動詞が繰り返し使われているのは偶然ではありません。

イエスさまや弟子たちが使う日常のことばはアラム語(ヘブライ語に近いことば)だったと言われています。ところが福音書を始めとする新約聖書は、コイネー・ギリシャ語で書かれています。つまり、ルカはアラム語→コイネー・ギリシャ語に翻訳をして執筆したことになります。ギリシャ語に翻訳しつつ、それぞれの文に『ディアスコルピッゾ』を繰り返し使ったところに、ルカの秀でた文章構成力が表れています。

新改訳の先生にお願いしたいのですが、ルカが気を利かせわざわざ『ディアスコルピッゾ』を繰り返しているのですから、こういう箇所こそ『トランスペアレント訳』にするべきです。新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていません。やってることがアベコベなんです。

原文に忠実に翻訳するというのはどういうことなのでしょうか?単にギリシャ語の単語を日本語の単語に置き換えること、直訳やトランスペアレント訳をすることでしょうか?そうであれば、中学一年生の語学力で十分できます。

今から2000年前、イエスさまが語った不正な管理人のお話しを聞いた人が、何を感じ何を思ったのか。ルカが書いた記事を読んだ当時のクリスチャンが、そこから何を感じ何を思ったのか。当時の人が受けた心理的影響を、翻訳を通し同じ心理的影響を現代日本人に与えること。これが原文に忠実に翻訳するということです。

『直訳やトランスペアレント訳が良いのだ』『ぎこちない訳文でいいのだ』と公言されると、世間の人に『どうせ翻訳者なんてその程度のレベルだよな』という誤解を与えることになります。高い技術を身に付け通訳や翻訳をしている人の迷惑なので、そうしたご発言は止めていただきたいものです。




(000)ルカによる福音書16章-1

2018年05月14日 | ルカによる福音書


この記事は、ルカによる福音書16章『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


『不正な管理人』は難解なたとえ話だと言われてきました。ところがこの箇所も『輪郭を捉える』方法を使うと、簡単に紐とくことができます。イザヤ書8章の翻訳記事で繰り返し申し上げたことですが、原文解釈をする時大切なことは、原文の輪郭を把握することです。



~ルカによる福音書16章1~14節 新改訳~

不正な管理人

1)イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2)主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3)管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4)ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。






新改訳の訳文を読んでも何がいいたいのか、私にはさっぱり理解できません。『不正な管理人』は、イエスさまが難解なたとえ話しを語ったのだと言われてきましたが、そうではありません。私はコイネー・ギリシャ語を習ったことはありませんが、この箇所を原文で読むと、きちんと理解できるストーリーになっていることが分かりました。『不正な管理人』が難解なのは、翻訳者(翻訳団体)の原文解釈をする能力が極めて低く、誤訳されていることが原因です。

翻訳や通訳というのは異なる民族の仲立ちをし、両者が理解しあえる関係をつくることです。『私はコイネー・ギリシャ語の専門家であって、日本語の専門家ではないから、おかしな訳文でも仕方ないのだ』と言えるでしょうか?もし、そのようにお考えの翻訳者がおられたら、ご自分のギリシャ語研究に専念なさっていただき、翻訳に関わるべきではないと思います。厳しい言いかたに聞こえるかも知れませんが、当たり前のことを申し上げてるだけです。

聖書翻訳に携わる方が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と口にされますが、プロとして仕事を引き受けた方がこのようなことを公の場で言われるのは考え物です。一般の学習者が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と嘆くのは一向に構いません。しかし、プロとして仕事を引き受けた方が『コイネー・ギリシャ語は難しい』ということばを言われると、言い訳がましく聞こえてしまいます。翻訳団体は、翻訳スキルのない翻訳者にお金を払い仕事をさせているということになりますがどうなのでしょうね。



~輪郭を描くポイント~

イザヤ書8章では、単語の解釈の間違い(普通の文字、書け、女預言者、近づいた、インマヌエル・・・)、文法解釈の間違い(忌避の規則、コンテクスト・・・)など難易度がやや高い箇所もありました。このことは『聖書と翻訳2~10』『ヘブライ語 masows ことばの解釈』『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただいたので興味のある方はお読みください。

それに比べ『不正な管理人』では、単語や文法解釈をするうえで難しいところはないようです。にも関わらず意味不明な訳文になっているのは、直訳で訳文を作るからです。最近は『直訳』ということばが使いにくくなったのか『トランスペアレント』と言い換える先生もいるようです。

余談ですが、ヘブライ語の言語構造と英語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で似通ってるところがあり、学者向けの聖書翻訳であれば、トランスペアレント訳も可能かもしれないな?といった感じはします。その一方、ヘブライ語の言語構造と日本語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で違いが大きいため、トランスペアレント訳は不可能です。

ヘブライ語テクスト→英語訳の関係と、ヘブライ語テクスト→日本語訳の関係とは同じではないので『英訳でトランスペアレント訳が可能なんだから、日本語訳でも可能なんだ』という理屈は成り立たないのです。新改訳の先生はVan Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用し『直訳やトランスペアレント訳が良い』と言っていますが、こうした言語構造の違いを理解されていないようで、言語というものを理解していないということが分かります。


原文解釈をする場合、単語の解釈と文法解釈で終わってる翻訳者が多いのですが、それではダメです。単語と文法の解釈では、原文解釈は50%しかできません。コイネー・ギリシャ語のテキストが読めなくても、きちんと輪郭を設定することができれば、不正な管理人は80%解釈できます。今回輪郭を描くのに、次の3点を検討します。

・背景を理解する
  執筆者ルカとは何者か
  下僕に転落したテオピロ?
  ルカ福音書の独自性とアイロニー表現
  ルカが見たイエス像
  15章から理解する

・登場人物と比喩の把握
・ストーリーの把握



~背景を理解する~

執筆者ルカとは何者か

パウロが書いた手紙の中に『ルカ』に関する記述が現れます。このルカとルカ福音書を書いたルカは、同一人物だと言われています。

コロサイ4:14 
愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

第二テモテ4:11 
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください・・・

ピレモン24節 
私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。

パウロの伝道旅行には、医者ルカが同行していました。デマス、マルコ、アリスタルコがどのような仕事についていたのか記述されていませんが、ルカだけ医者という職業が書かれています。なぜルカだけ『医者ルカ』と書かれたのでしょう?

パウロは目の病気にかかっていたと言われています。そのため自分の手で文字を書くことが困難で、パウロが話したことばをほかの者が筆記していたようです。『ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています(ガラテヤ6:11)』。目の悪い人が、自分の手で文字を書くとどうしても『大きな字』になります。

・・・私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした・・・あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで・・・私を迎えてくれました・・・あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか(ガラテヤ4:13~15)』。ガラテヤでの伝道は、パウロの目の病気が悪化した時期であったことをうかがわせます。

・・・ステパノの血が流されたとき・・・彼を殺した者たちの着物の番をしていた・・・(使徒22:20)』。パウロが石を手に取ることをしなかったのは、目が悪く、ステパノ目がけ石を投げることができなかったためで、それで上着番をすることになったのではないかとも言われています。

(パウロ)は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった(使徒9:9)』。このように新約聖書で、パウロの目に関する記述があちこちで見られます。

パウロのアシスタントとして、目の治療ができ、かつ執筆力に長けた人物がいたとしたら、伝道旅行の随行者としてうってつけの人物ではないでしょうか?『医者ルカ』と、敢えてルカの職業を明らかにしたところに、目を治療してくれるルカに感謝を表したのだと思います。

イエス・キリストの生涯(福音書)を書いた執筆者が4人いた(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のに対し、使徒行伝を書いたのはルカひとりです。なぜでしょう。イエスさまの周りには12弟子がいたので、複数の人が福音書を書くことができました。しかし、使徒行伝のほとんどはパウロの伝道旅行に関する内容で、旅先におけるパウロの言動を知る人物は一人か二人しかいなかったはずです。使徒行伝を執筆した『ルカ』と、パウロに同行した『医者ルカ』は同一人物である可能性が高いといえます。

そうであれば、パウロ書簡の幾つかはルカが代筆していたことも考えられます。新約聖書27巻のうち、ルカの手で書かれた書簡は2つ(ルカ福音書、使徒行伝)だけではなく、もっと多かったのかもしれません。ルカには執筆の賜物があったということがうかがえます。


下僕に転落したテオピロ?

ルカ福音書と使徒行伝は『テオピロ』という人物に捧げられたものだというのが従来の解釈です。『テオピロ』に関する記述が、ルカ福音書と使徒行伝の2か所に現れます。『テオピロ』とは何者なのでしょう。

ルカ1章 新改訳
2、3)私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿

使徒1章 新改訳
1)テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて・・・

読んで違和感を感じないでしょうか?福音書では『尊敬するテオピロ殿』とうやうやしく訳出し、使徒1章では『テオピロよ』と呼び捨てです。これでは、身分の高かったテオピロが、いつの間にか下僕に転落したという表現になります。もしくは、執筆者ルカは社会常識がない尊大な人物だという訳出になっています。

ルカは『尊敬するテオピロ殿』とテオピロを持ち上げていますが、その一方『あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います』と生意気な口の利き方をしているという訳文です。新改訳は、ルカは生意気で嫌味っぽい人だという印象を読者に与えていますが、このような解釈には根拠がなく、翻訳者(翻訳団体)の翻訳技術が低いため、執筆者ルカの人格を傷つける訳文におとしめているのです。

日本文化の中で育った人間として申し上げますが、初めの書簡(福音書)で『尊敬する○○殿』とうやうやしく書いた相手に対し、二番目の書簡(使徒行伝)で『○○よ』と呼び捨てをする、こういう無礼な感覚を理解できません。これはギリシャ語の知識があるかないかといった問題ではありません。翻訳者が日本人としての社会常識を身に付けているかどうかといったレベルの問題だと思います。自分の愛読する聖書が、乱雑に翻訳されてることを見ると本当にがっかりします。

テオピロ(Θεόφιλος Theophilos)は、ギリシャ語の名詞で『神に愛された人』『神のしもべ』という意味があり、人名として解釈できることばです。『尊敬する・・・殿』と訳されたのはギリシャ語の『κράτιστε kratiste クラティステ』ということばで、これは『気高い、親愛なる、閣下』という意味があります。ちなみに口語訳では『テオピロ閣下』と訳出しています。原文を見ると確かに福音書では『kratiste 気高い、親愛なる』が記載されているのに対し、使徒行伝では『kratiste』が書かれていません。なぜなのでしょう?

この問題を解決し訳文に反映させるのは翻訳者の仕事です。ところが、新改訳の翻訳者はこの問題解決を放棄しているのです。一般の日本人が読んだら『ルカっておかしな書き方するんだな。常識がない人だな』と受け取ってしまいます。このようなおかしな訳文を出版することは、執筆者ルカを侮辱することです。通訳や翻訳で絶対やってはいけない誤訳というのは、発言者(著者)の人格を棄損する通訳(翻訳)をすることです。このような翻訳者は翻訳に関わってはいけないと思いますし、組織で翻訳されているのであれば、チェック機能を働かせない組織のリーダーにも責任があります。国語の専門家がいるのであれば、その専門家がきちんと仕事をしていないということになります。翻訳委員会は、立派な肩書を持つ先生を集めたのかも知れませんが、それにしては訳文の品質が低く、申し訳ありませんが見掛け倒しの委員会という印象を受けます。

使徒1章の『テオピロ』は、日本語訳では次のように訳されています。

文語訳 テオピロよ
口語訳 テオピロよ
新改訳 テオピロよ
新共同訳 テオフィロさま
現代訳 テオピロ閣下
リビング 神を愛する親愛な友へ

日本人が手紙を書く場合、相手を『○○よ』と呼び捨てにするということは、普通はありません。家族、友人であってもそうです。文語訳、口語訳、新改訳は直訳をしたようですが、このことからも直訳は原文の意図を歪めるということが、お分かりになると思います。新改訳は『直訳やトランスペアレント訳が正しい翻訳法だ』と言っていますが、これは言語学的根拠のないことで、言語には恣意性があるという前提で翻訳にあたらなければならないのです。

コイネー・ギリシャ語の名詞には、男性、女性、中性の区別がありますが、この性の区別をどうやって日本語に直訳するのでしょうね?名詞一つとっても言語というものは直訳できないもので、異なる構造を持つ二つの言語間で、直訳をすればいいんだという考えはナンセンスなのです。

また新改訳は翻訳理念の中で『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』と言っていますが、プロの仕事というものをご存じないようです。プロの通訳や翻訳の仕事と言うのは『的確な原文解釈をする』というのは当たり前のことですが、その上で『いかに聞きやすい(読みやすい)日本語に訳出するか』『いかに誤解を生じない表現にするか』を日々追及しています。これはプロの翻訳者として当たり前のことです。新改訳の先生がおっしゃる『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』というご発言は、素人翻訳者の開き直りとしか聞こえません。

話しを戻しますが、ある解説書では、テオピロは個人名ではなく『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカ福音書の『クラティステ テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』をうやうやしく言った表現である。使徒行伝の『テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカは教会の兄姉のために書簡を書いたという解釈をしていました。こうした解釈も可能だということです。これ以上書くと一つの記事で納まりきらなくなるので深入りしないでおきますが『テオピロ』の解釈には以下のものがあります。

・個人名:一般のローマ市民
・個人名:アレクサンドリア出身のユダヤ人
・個人名:ローマ帝国の高官
・個人名:パウロの法律顧問
・個人名:サドカイ派の高位の祭司  Theophilus ben Ananus 
・クリスチャン、教会への敬称表現:『神に愛された兄弟姉妹たち』

『クラティステ』は、ギリシャ語で手紙を書く時の敬称語ですから、『拝啓』と訳出をすればしっくりとした日本語になります。

ルカ1章 私訳
拝啓。・・・・テオピロ様・・・

使徒1章 私訳
テオピロ様・・・

日本人の感覚として、手紙を受け取る相手に対し『テオピロよ』と呼び捨てをするというのは、不適切です。一方『閣下』と訳出するものもありますが、テオピロなる人物がどのような身分の人か分かっていないのですから、『閣下』という訳語は、早計に過ぎます。



ルカ福音書の独自性とアイロニー表現

ルカ1章1~3節を見ると『多くの人がすでに福音書を書いていますが、すべてのことを詳しく洗い直し、順序立てて書きました』とルカが述べています。イエスさまの公生涯がほかの人によって既に書かれていたにも関わらず、敢えて福音書執筆を決意したというくだりに、ルカが自分の記事の中に他の福音書にはない独自性を与えているということがうかがえます。

ルカ福音書の『放蕩息子』『不正な管理人』は、ほかの福音書にはないお話しです。マタイ、マルコ、ヨハネは『放蕩息子』『不正な管理人』の話しを知らなかったのでしょうか?そうではないはずです。この話しは、律法学者たちがイエスさまと卑しい身分の人たちを愚弄したことを受け、イエスさまが反論するという場面を表したものです。イエスさまのそばには侮辱を受けた取税人たちもいます。その場の空気は張りつめていたことでしょう。ドラマチックな場面というのは、記憶として鮮明に残るものです。その場に弟子たちもいたのですから、弟子たちがこの話しを知らなかったとか、忘れたというのは考えにくいことです。

マタイは『不正な管理人』の1節だけを切り取って書き残しています。『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません(マタイ6:24、ルカ16:13)』。マタイは『不正な管理人』のお話しを知っていたようです。

ルカ以外の福音書執筆者もこの話の存在を知っていたにも関わらず、あえて記述しなかった理由があったのです。それは、このお話が非常に強烈なアイロニー表現(皮肉を込めた痛烈な表現)であるため、記録として残すことをためらったからでしょう。

執筆者の心には『強烈なアイロニー表現を読んだ読者は、イエスさまは陰険な人物だと誤解するのではないか』との不安があったはずです。また『不正な管理人』を執筆する者には、読者に誤解を与えないよう書きあげる表現力が要求されます。ルカにとっても『不正な管理人』の執筆はリスクが伴うことでしたが、裏を返せば、そこまでして書いた『不正な管理人』の話しに、ルカが持つイエス像や福音観を見ることができるのです。

『不正な管理人』をギリシャ語で読んでみると、無駄のないことば使いにルカの文章力を感じ、同じことばを繰り返す変則技、豊富な語彙に、ルカの自信に満ちた筆跡を感じます。ルカは綿密な分析力があり、優れた文章構成力と表現力を持った人物だということが分かります。新改訳は『テオピロよ』とおかしな訳文で出版しましたが、ルカの執筆力はそのような低いレベルではないのです。翻訳委員会の質の低さがそのまま、訳文の質の低さとなって表れている。そのように思えてなりません。

※アイロニー
アイロニーというのは、相手をやり込めるための強烈な皮肉を交えた表現です。例えば、待ち合わせに遅刻をしたことに対し『君は時間に几帳面な人だねえ』と言われたらかなりこたえるのではないでしょうか?『遅刻するなよ』より『君は時間に几帳面な人だねえ』のほうがはるかに精神的ダメージが大きいですよね。言われた側は、ことばを額面通り理解するのでなく、その裏に隠された真意を詮索しなければなりません。

ユダヤ人と付き合ったことがある方であれば分かると思うのですが、ユダヤ人の会話には、時にビックリするほどの激しいやり取りがあります。それはことばの格闘技『ことばのK-1』です。激しいことばの応報の中に、皮肉たっぷりのアイロニー表現も使われます。アイロニーは変則技のようなもので、不意を突き相手の思考を撹乱する攻撃法です。アイロニーを言われた人はその真意を悟った瞬間、マットに崩れ落ちるのです。



『Irony and Meaning in the bible(聖書の中のアイロニー表現)』と検索をかければ、ものすごい数の英語の記事が出てきます。聖書の原文解釈をする上でユダヤ文化を理解することは欠かせません。日本人を含めた非ユダヤ人にとって、アイロニー表現は理解しづらい面があるようですが、聖書翻訳者にとってアイロニー表現を理解することはとても重要なことです。




(000)イザヤ書34章11節後半

2018年05月13日 | イザヤ書



この記事は『聖書と翻訳 ヘブライ語の解釈 イザヤ34章11節前半』の続きで、11節後半の解釈をしてみます。

この記事の目次
・11節後半の解釈
・文法解釈の間違い
・巻尺と下げ振り
・トーフー ボーフーの間違った解釈
・旧約聖書の神は怒りっぽい神?
・感動ポルノと聖書翻訳


~11節後半の解釈~

新改訳は次のように翻訳しています。
新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

全く意味が分かりません。これを読んで理解できる日本人はいないと思います。11節前半は、表と裏、両方の解釈ができましたが、同じように後半も両方の解釈ができます。ヘブライ語が語る真意は、裏の解釈です。

וְנָטָ֥ה עָלֶ֛יהָ קַֽו־תֹ֖הוּ וְאַבְנֵי־בֹֽהוּ׃・・・
・・・ベナター アレハー カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー

私訳 表の解釈 イザヤ34:11後半
・・・巻尺も、下げ振り(さげふり)も使わずに。

私訳 裏の解釈 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。




従来の日本語訳聖書は、間違った文法解釈をしていて、更に、ここが比喩として表現されていることを見落としています。


~文法解釈の間違い~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

新改訳は『直訳、トランスペアレント訳』が翻訳理念だと宣言しているにも関わらず、ここ11節は、原文の文法を無視して翻訳しています。主語が『主は・・・』となっていますが、ヘブライ語に『エロヒーム、ヤーウェー 神、主』といったことばはありません。次の図をご覧ください。



なぜ新改訳は、原文にない『主』ということばを主語にしたのでしょう?二つの理由が考えられます。一つ目の理由は、英訳聖書がそのような解釈をしているので、英訳の真似をしたということです。

New International Version 誤訳
・・・God will stretch out over Edom the measuring line of chaos and the plumb line of desolation.
・・・神は混乱の測りなわでエドムを測り、荒廃の下げ振りを伸ばす。??? ←意味不明、誤訳

二つ目の理由は、文法解釈の間違いです。文法的な話になるので、苦手な方は読み飛ばしていただいて結構です。11節の中に動詞は三つあります。11節前半の『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』、11節後半の『ベナター アレハー 計測する、あてがう』です。『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』の主部は『4つの鳥』で、これは異論がないでしょう(新改訳は誤訳しています。詳しくは、ヘブライ語の解釈 イザヤ書34章11節前半参照)。次『ベナター アレハー 計測する、あてがう』についてですが、この動詞の主部になれるのは、『4つの動物』か『巻尺、下げ振り』しかありません。ヘブライ語の語順は、基本的に『動詞+主語』ですから『ベナター アレハー 計測する、あてがう』が動詞で、主部は『巻尺、下げ振り』になります。基本通り素直に解釈すればいいんです。

さて、『וְנָטָ֥ה  wenatah ベナター(5186)計測する、あてがう』は『動詞、カル形、三人称、男性、単数』の形になっています。カル形は、一般的に能動態として解釈されるので、新改訳は、次のように考えたのでしょう。『三人称、男性、単数』が主語になるから、主語は・・・「He」じゃないかな?英訳もそう解釈している。「主が縄を張る・・・」できた!』

ところがです、この文脈の中で、ベナターは『受動態』に変化しています。『カル、三男単は、受動態に変化する場合がある』これは、ヘブライ語文法、入門レベルの知識です。新改訳のセンセイ!『聖書ヘブライ語』入門レベルのテキストを見返してください。載ってるはずですよ。主部は『巻尺と、下げ振り(否定名詞句)』。動詞は受動態なので、『巻尺も、下げ振りも使われない(無生物主語+動詞受動態否定)』となります。文法上、この解釈しかできないんです。意味だって文脈とピッタリ合っています。

『そんなはずないだろ。カル態は能動態だろ』と、納得できない方がいると思うので、説明させていただきす。聖書の中で『ベナター (カル、三男単)』が、どのように使われているか確認すればよいのです。ベナターが使われているのは、次の4か所になります。出エジプト33:7、イザヤ34:11、エレミヤ43:10、エゼキエル30:25。ヘブライ語をご覧ください、4か所ともベナターの主語は『もの(無生物)』で、動詞は『受動態、三男単』になっています。ところが、新改訳は、4か所ともぜ~んぶ誤訳してます。文字数の都合上、ここでは詳しく説明しませんが、入門レベルの文法知識があれば、理解できるはずです。

ヘブ-英インターリニアを見てみましょう。次のインターリニアは文法解釈を間違えています(He shall stretch out)。


King James Version 誤訳
・・・and he shall stretch out on it the line of confusion, and the stones of emptiness.
・・・彼(主)は、混乱の縄を伸ばし、空っぽの石を敷きつめる???

誤訳となっているのは、King James Versionだけではありません、ほとんどの英訳が、主語を『Lord, God, He(=Lord/God)』と誤訳しています。神学者がおこなう翻訳というのはこの程度だということです。辞書、文法書、インターリニアを、三種の神器の如くあがめる方がいますが、どれも鵜呑(うの)みにできる代物(しろもの)ではありません。はっきり言わせてもらうと、神学者や聖書学者が作った、辞書、文法書、インターリニアというのは、所詮、素人が作ったものなんです。素人がやることですから、間違った解説、不適切な説明、誤訳は、至るところに含まれています。

通訳翻訳を経験した方であれば分かると思いますが、辞書、文法書、インターリニアに書いてあることを、100%信用することはできないのです。信用できるのは、せいぜい50%程度です。ところが学校では、辞書や文法書を、絶対的基準のように扱い、辞書と文法書に依存させてしまうのです。もし、辞書、文法書、インターリニアを有効に使いたいのであれば、そこにかなりの不完全さがあることを弁(わきま)えておくことが大切です。

新改訳の翻訳理念は『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする』『行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする』このように述べています。ここ11節を見れば分かるように、新改訳は、原文にない『主は』ということばを創作し、主語をすり替え、原文とは異なる意味に変えています。新改訳は、原文に修正を加え、行き過ぎた敷衍訳をおこなっているのです。翻訳理念は、立派な文言で書かれていますが、実際の訳文は誤訳になっています。

中学一年生の英語のテストで、主語を間違えて翻訳したら不合格ですよね。動詞の能動態と受動態を間違えて翻訳したらバツになります。新改訳翻訳者の中には、考古学、言語学で、博士号を取得した優秀な方も中にはいるのかも知れません。ご専門の分野においては第一級の研究者かも知れませんが、だからといって、プロとして通訳や翻訳ができるというものではないのです。この記事で示した通り『主語がどれか理解できない。動詞の能動態、受動態の区別がつかない。仕方ないから英訳を真似て翻訳しちゃった』。神学者や聖書学者がおこなう聖書翻訳というのは、この程度。これが現実です。


~巻尺と下げ振り~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

これを読んで理解できる日本人は、いないと思います。一見して、日本語のように見えても、意味が成立していない文を『非文』といいます。新改訳の訳文は、非文です。いくら翻訳理念が『直訳(トランスペアレント訳)だ』といってもですね、こんな変なことば使いで出版するってあり得ないでしょ。新改訳は『その時代の日本語に相応しい訳出を目指す』という理念があるんですから、現代日本人が使うことばで翻訳するべきです。表の解釈で翻訳するのであれば、せめて『・・・巻尺も、下げ振りも使われない』と翻訳してもらいたものです。

巻尺、下げ振りは大工道具


『カーイ 巻尺』は、辞書で次のように解説されています。
קָו カーイ、カブ(6957)
縄、巻尺、規則、線、輪郭、楽器の弦

恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『カーイ 巻尺』は『律法』の比喩です(例、イザヤ28:10 但し従来の日本語訳聖書は誤訳になっています)。『巻尺⇒生活の基準となるもの⇒律法』ということです。『カーイ・トーフー』は、表の解釈をすると『巻尺がない』となり、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)』となります。


『ベアブネー 下げ振り』は、辞書で次のように解説されています。
אָ֫בֶן ベアブネー、エベン(68)
石で作られた物、石、おもり

昔、下げ振りのおもりは、石で造られていました。


恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『ベアブネー/エベン 石』は『神に選ばれた民イスラエル』の比喩です。『eben エベン 石』と『ben ベン 子孫』は発音が似ていることから、掛けことばとして使われています。『エベン 石』は『神の民イスラエル、神に従う者』を意味する比喩です。『ベアブネー・ボーフー』は、表の解釈をすると『下げ振りがない』。裏の解釈をすると『(エドムには)神に従う者がいない』となります。『カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー』は、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)、(エドムには)神に従う者がいない』という意味です。同義句反復になっていますね。



もし、現代の日本人が、古代イスラエル人と同じ文化、同じ価値観を持っているのであれば、表の解釈で翻訳された訳文から、裏の意味を推察することができるでしょう。しかし、現代日本人は、古代イスラエルの言語文化を持っていないのですから、表(おもて)の解釈で翻訳されても、その真意を理解することはできません。つまり、日本人が理解できる訳文を作るには、裏(うら)の解釈で翻訳しなければならないということです。神学者や聖書学者は『直訳が原文に忠実な翻訳方法だ。聖書は直訳で翻訳するのがよい』この様に言ってきましたが、これはウソです。

さて、以上検討してきた内容をまとめると、次のようになります。
11節後半のまとめ
・動詞『ベナター アレハー』は、『計測する、あてがう』という意味。
・ベナターは『カル、三男単、受動態』になっている。
・主部は『巻尺、下げ振り(無生物主語)』。『主』ではない。
・原文は比喩で表現されてるので『裏の解釈』で訳出する。
・カブ⇒縄⇒巻尺⇒律法(トーラー)
・エベン⇒石⇒下げ振り⇒神に従う者

11節後半は、次のように訳出しないと、日本人が理解できる訳文になりません。
私訳 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


11節全体は、次のようになります。
私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


新改訳は誤訳。読んでも意味が分かりません。
新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


~トーフー ボーフーの間違った解釈~

『תֹּ֫הוּ בֹּ֫הוּ トーフー ボーフー』は熟語で、創世記1:2、イザヤ34:11、エレミヤ4:23の、3か所で使われています。『トーフー ボーフー』を、間違って解釈する方がとても多いので説明させていただきます。多くの方が、次のように解釈してます。『創世記1:2のトーフー バボーフーは、大地が混沌とした状態、茫漠としているという意味だ!従って、イザヤ34:11のトーフー ボーフーは、大地が混沌とした状態になるという意味だ!』これは間違いです。創世記の『トーフー バボーフー』を正しく解釈すると、『(大地はまだ)影も形もなかった(否定同義句反復)』となります(聖書と翻訳 地は茫漠としてた?参照)。『トーフー バボーフー』は『ないよないよ。何にもないよ(否定同義句反復)』という意味ですから、イザヤ書34章も『エドム王国に律法はない。神に従う者は一人もいない(否定同義句反復)』という意味を表しています(詩篇14篇、53篇、ローマ3:10)。創世記とエレミヤ書は、次のように解釈しなければなりません。

『トーフー バボーフー』正訳(私訳)



トーフー ボーフーの解釈を、新改訳は全部誤訳しています。



新改訳だけではありません。従来の日本語訳聖書はどれも誤訳になっています。誤訳となった原因は、創世記で『トーフー=茫漠』『ボーフー=虚無』と、単語の意味を絞り込み、これを、イザヤ書とエレミヤ書に、強引に適用したからです。直訳グセが染み付いていると、ことばの意味を一つに絞り込み、全ての個所に同じ定義を当てはめようとします。しかし、通訳翻訳において、訳語を固定することはできません(言語の恣意性)。ことばというものは、文脈が変われば、意味も変化するからです。新改訳聖書は、直訳(トランスペアレント訳)で翻訳されているので、聖書全体にわたり誤訳悪訳があるということです。


~旧約聖書の神は怒りっぽい神?~

『旧約聖書の神は怒りっぽい神。キレやすく、懲罰を与えることが好きな神』。一方『新約聖書の神は愛の神、赦しの神』。こういう解説をするセンセイがいます。本当でしょうか?創世記6章に、神の子が人間の美しい女と肉体関係を持ち、こどもを生ませた。これに立腹した神は、大洪水を起こし人類を滅ぼした。この様に書かれています。11章は、人間がバベルの塔(高層建築物)を立てたことに、神は立腹し人間の言語を混乱させた。この様に翻訳しています。従来の日本語訳聖書は、どれもこういう訳し方をしています。如何にも『怒りっぽい、キレやすい、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。ところが、大洪水も、バベルの塔も、どちらも誤訳されています。ヘブライ語テキストには、神さまが、憤慨した理由がきちんと書いてあるんですが、間違った翻訳をしているので『怒りっぽい神、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。詳しくは、別の記事で書かせていただきます。

さて、この記事で取り上げた、イザヤ書34章も同じことです。ヘブライ語を見ると、11節に、神さまがエドム王国を滅ぼした理由が書かれているのですが、従来の翻訳聖書は、ここを誤訳し、その理由が翻訳されていません。それで『どうして神さまはエドムを滅ぼしたのだろう???』読者は、こうした疑問を抱くのです。聖書が誤訳され、悪文が作られることで『旧約聖書の神は怒りっぽい神』という間違った印象が作られています。新改訳と私訳を読み比べてください。

新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


私訳の様に訳出してあれば『エドムは滅ぼされるに値することをやっていたんだな』ということが理解できるので、『旧約の神は怒りっぽい神』という印象は受けないはずです。『旧約の神は怒りっぽい神』という歪んだ印象は、誤訳が絡んでいるのです。


通訳翻訳という仕事の目的は『意味』を伝えることであって『原文の文法や表現形式』を伝えることではありません(Dynamic Equivalence、 Eugene A. Nida 意味的等価論 ユージン・ナイダ)。ですから、聖書翻訳も『意味』を伝えることが一番大切なんです。翻訳された聖書が『意味』を表現していれば、牧師が説教の準備をする時、非常に楽になります。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


この様に聖書本文が意味を表していれば、「ヘブライ語を見ると『ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った』と書いてあるなあ。これは『エドムが不道徳と犯罪に染まっていたこと』を象徴しているのか。なるほど。またヘブライ語には『巻尺も、下げ振り(さげふり)も使われない』とあるなあ。これは『エドムに主なる神に従う者がいないこと』を象徴しているということか。なるほど・・・」。この様に理解しやすくなるはずです。聖書が直訳文で書かれていたら、ヘブライ語を見ても、何を意味しているのか理解できないはずです。日本語で書かれたウエブサイト、英語で書かれたウエブサイトを調べましたが、ここ11節について、原文の意味を正しく説明しているものを見たことがありません。一つもないはずです。聖書が読んで理解できることばで翻訳されるということは、一般信徒、求道者、牧師、学者、誰にとってもありがたいはずです。代々、日本語訳聖書は『直訳』をおこない、意味不明な聖書を出版してきました。また、聖書刊行会も、聖書協会も『格調高いことば』を翻訳理念にかかげ、あたかも、聖書が文学作品であるかのように、アカデミックな脚色を施してきたのです。これは、ヘブライ語聖書本来の姿ではありません。偽りの姿です。


~感動ポルノと聖書翻訳~

さて『感動ポルノ Inspiration porn』ということばがあります。『障がい者はみんな、ハンディキャップを抱えながら勇敢に生きているに違いない』『障がい者はみんな、感動的な生き方をしているはずだ』。こうした間違った思い込みが、社会に広がっていると、ステラ・ヤング(Stella Young)氏は語ります。障がい者が、メディアに取り上げられる場合、決まって、健常者に感動を与える存在として描かれます。障がい者を聖人君子のように祭り上げることで、健常者が何らかの利益を得る仕組みになっている。『障がい者は、健常者の欲求を満たすための、道具(感動ポルノ)ではない』と語ります。



代々、日本の神学者や聖書学者は『聖書は文学作品であるから、文学に相応しい格調高い日本語で翻訳するべきだ。ヘブライ語は難解だ、聖書は難解だ。聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要だ』このように言ってきました。これは聖書を、知識ポルノ、学術ポルノ(inteligence porno、academic porno)に仕立て上げることです。聖書は、神学者の利益や知的好奇心を満たすために存在しているのではありません。『聖書は難解な文学作品である』ということで、聖書が神学者の利益のために利用されています。日本の神学者は、ヘブライ語の原文解釈ができていません。この記事で示したように、主語がどれか理解できない、動詞の能動と受動の区別ができていないのです。主語と動詞が理解できないような人物が『聖書は文学作品である』『聖書は難解だ』などと言えるのでしょうか?間違った翻訳理念を捨て、謙虚に一から翻訳を学ばなければならないのは、神学者や聖書学者です。それができないのであれば、原文解釈も聖書解釈もする資格がないでしょう。

ヘブライ語で書かれた聖書は、本来、ユダヤ人であれば誰もが口ずさむことができることば、身近なことばで書かれています聖書と翻訳 箴言-1参照。また、ヘブライ語が難解なのではありません。翻訳をおこなう人物が、文法と辞書に依存した翻訳方法しか知らず、直訳主義で翻訳しようとするから難解に感じるのです。直訳、トランスパレント訳という方法が間違っているのです。

『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』と仰るセンセイが多くいますが、これは本来、大学で聖書を勉強する人に必要な知識であって、一般の信徒に対し言うべき言葉でないと思います。そのように語るセンセイのサイトを見ると、間違った原文解釈が載っていて『このセンセイ、本当に翻訳の知識があるのだろうか?』と疑問に思わざるを得ないものがあります。自分が翻訳について知識も経験もないのに、さも翻訳の専門家であるかのように装い、間違った解釈を公表している方がいるのです。こういうのを、羊頭狗肉(ようとうくにく)と言うのです。

神学者、牧師が大学で、専門教育を受けるのは、何のためですか?聖書の分かりにくいお話しを、一般の人が分かるよう教える為ではありませんか?分かりにくいお話しを、分かりにくいことばでしか説明できないというのは、自分自身が理解できていないということです。『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』これは、専門教育を受けた人が自分自身を戒めるために使うことばであって、一般信徒、求道者に求めることではないはずです。



現代のキリスト教神学者は、律法学者が陥った間違いを繰り返し、同じ轍を踏むことになってはいけません。イエスさまは、律法学者を次のように叱っています。
マルコ7:6~8、7:13(マタイ15:7~9)
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」



(000)イザヤ書34章11節前半

2018年05月12日 | イザヤ書


イザヤ書34:11を従来の日本語訳聖書は、次のように翻訳しています。どれも同じ内容です。

文語訳 イザヤ34:11
鵜(う)と 刺猬(はりねづみ)とそこを 己がものとなし 鷺(さぎ)と 鴉(からす)とそこにすまん ヱホバそのうへに 亂(みだれ)をおこす 繩(なは)をはり 空虛(むなしき)をきたらする 錘(おもし)をさげ 給(たま)ふべし

口語訳 イザヤ34:11
たかと、やまあらしとがそこをすみかとし、ふくろうと、からすがそこに住む。主はその上に荒廃をきたらせる測りなわを張り、尊い人々の上に混乱を起す下げ振りをさげられる。

新共同訳 イザヤ34:11
ふくろうと山あらしがその土地を奪い/みみずくと烏がそこに住む。主はその上に混乱を測り縄として張り/空虚を錘として下げられる。

新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


読んでも意味が分かりません。ウエブサイトを見ると『イザヤ書34:11は、エドムが破壊されたあと、野鳥がやって来て棲むようになるという意味だ。ここ11節は創世記1:2で使われた「トーフー ボーフー」が使われている。これは「虚無、空虚」という意味で、エドムが荒涼たる荒野になるという意味だ』。この様な解説が多いようです。

11節前半の『ペリカンたち』と、後半『虚空の測りなわ、虚無のおもり』と、どのような関係があるのでしょう?全く意味不明で、文脈が支離滅裂です。そこで、ヘブライ語を調べてみると、日本語訳は誤訳されており、聖書注解も間違った説明をしていることが分かりました。ヘブライ語が語る意味は次のようになります。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。



この記事の目次
・34章の輪郭
・ヘブライ語
・11節前半の解釈
・実は鳥(動物)の名前がよく分かっていない
・11節前半のまとめ


~34章の輪郭~

イザヤ書34章は、エドム王国の滅亡について書かれています。ここは、1~10節、11節、12~17節の3つに分けることができます。

1~10節
主の怒り、そして首都ボツラとエドム王国の滅亡が書かれています。ボツラはエドム王国の首都です。聖書註解書を見ると『恐らくボツラはエドムの首都であろう』と、曖昧な言い方になっているのですが、その理由がよく分かりません。『アモス1:12 わたしはテマンに火を送ろう。火はボツラの宮殿を焼き尽くす』つまり、ボツラに宮殿があると書かれているのですから、ボツラは首都ですよね。また、ヘブライ語聖書の中で『どこそこの国が亡びる』という場合、同時に首都名が併記される。そういう傾向があります。同じイザヤ書の8章をご覧ください。

イザヤ書8:4~6


シリヤの滅亡については首都ダマスコが代用語となり、北イスラエルの滅亡については首都サマリヤが代用語として表現されています。こうしたヘブライ語の特徴から、34章1~10節は、エドム王国の滅亡と、その首都ボツラの滅亡が書かれていることが分かります。


11節
主がエドム王国を破壊する理由が書かれています。34章の中で、エドムを滅ぼす理由が書かれているのは、ここ11節しかないので、意味上重要な節になります。エドムでどのような悪事がおこなわれていたか具体的な記述はありませんが、次のように理解することができます。

世界遺産に指定されたペトラ遺跡は、現在ヨルダン王国にありますが、ペトラは、かつてのエドム領内にあった街です。ペトラは陸の交易路に位置する街で、その当時、高価な香辛料が運ばれていたことが知られています。ペトラはかなりの経済力があり、野外劇場やプールを建設し、大規模な土木工事をおこない、水路が造られています。現代でいえば、さしずめ、アメリカのラスベガスといったところでしょう。ボツラがどのような街だったのかよく分かっていませんが、ペトラを参考にイメージしてみると良いでしょう。

ペトラ遺跡

netours.com Pool and Gardenより引用

荒野が広がる中東地域において、井戸があったり、水路があるところは特に貴重です。そこは集落になり、旅する人が足を休める宿場町になります。当時の輸送手段はラクダで、ラクダは一週間水なしで歩くことができます。カラカラに喉が渇いたラクダは、110~190ℓ(2ℓペットボトル55~95本)もの水を、10~15分で飲み干します※。
※英語のサイトから引用。喉が乾いたラクダが飲む水の量は、30~50 gallons(110~190ℓ)。

エドム国内には、飲料水が豊富に飲める街がいくつかあって、そこが宿場町となっていたのではないでしょうか。古今東西、宿場町に男性が集まると『飲む打つ買う』がおこなわれます。また、旅人のお金や、商隊が運ぶ高価な品物を狙った強盗も出没したことでしょう。性の乱れ、生まれた赤ん坊を捨てる、殺す。金銭欲と暴力。こうした不道徳と犯罪を肯定する価値観で造られたのがエドム王国であった。そのように推察します。解釈が飛躍しているように思われるかも知れませんが、この様に解釈する根拠は、ヘブライ語聖書と70人訳聖書の中にあるので後述いたします。

預言者エレミヤも、エドムの滅亡を次の様に書いています。
新改訳 エレミヤ49:7
エドムについて。万軍の主はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。

エレミヤは、テマンの街を『知恵の街、賢い街』と皮肉を込めて表現しています。様々な国の人が行き交う宿場町であれば、世界中のうわさ話しや情報が集まります。政治、経済、学問の分野でも頭脳明晰な人材がいたことでしょう。テマンは『知恵の街、賢い街』でしたが、知恵や賢さは人を傲慢にします。エレミヤは、エドムの傲慢さを指摘しています。

エドム周辺地図

ボツラとテマンの位置については諸説あり。


12~17節
12節以降は、宮殿の破壊について書かれています。1~10節が、ボツラ、エドムに関する内容で、12節から宮殿に関することが書かれています。この様に表現されると、34章前半と後半は、違う場所のことを書いているという印象を日本人に与えます。こういう翻訳の仕方は、日本語として不適切です。『ボツラの破壊、エドムの破壊、宮殿の破壊』というのは、『エドム王国が破壊される』ことを、違うことばで言い換えてるだけです(忌避の規則によって代用語が使われている)。

以上検討してきた内容をまとめます。
34章の輪郭
・ボツラ、エドム王国、宮殿は、忌避の規則による代用語である。
・11節は、主がエドムを破壊する理由が書かれている。
・エドムは、かつて交易路にある国として栄えていた。
・エドムでは、不道徳と犯罪がおこなわれ、かつ傲慢であった。

世界遺産ペトラ遺跡
Esau Structures: Petra is Mount Seir



~ヘブライ語~

イザヤ34:11ヘブライ語の輪郭を描いてみます。何度も申し上げてることですが、細かく文法解釈をしてはいけません。誤訳になるからです。
Biblehub.com
aoal.org 発音



『鳥、巻尺、下げ振り』は比喩として表現されています。表(おもて)と裏(うら)両方の訳文を作ってみます。

表の解釈 私訳 イザヤ34:11
ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った。巻尺も、下げ振り(さげふり)も使わずに。

裏の解釈 私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


וִירֵשׁ֙וּהָ֙ ビレシューハー(3423)
所有する、手に入れる

קָאַ֣ת カアート(6893) qaath
ペリカン、サギ、フクロウ。不浄の動物、レビ11:18、申命記14:17。

וְקִפֹּ֔וד ベヒポード(7090) qippod、kippod
サギ、ハリネズミ。不浄の動物だと思われるがレビ記に記載なし。

וְיַנְשֹׁ֥וף ベヤンショープ(3244) yanshuph
オオフクロウ。不浄の動物、レビ11:17、申命記14:16。  

וְעֹרֵ֖ב ベオレーブ(6158) oreb
カラス。不浄の動物、レビ11:15、申命記14:14。

יִשְׁכְּנוּ־בָ֑הּ イシュケヌー・バー(7931、in)
住む、棲家(すみか)を造る 

וְנָטָ֥ה עָלֶ֛יהָ ベナター アレハー(5186、5921)
計測する、あてがう

קַֽו־תֹ֖הוּ カーイ・トーフー(6957、8414)
巻尺がない、律法を持たない。ヨブ38:5、イザヤ44:13、哀歌2:8参照。

וְאַבְנֵי־בֹֽהוּ׃ ベアブネー・ボーフー(68、922)
下げ振りがない、主なる神に従う者がいない。

11節を前半と後半の二つに分け、詳しく説明させていただきます。


~11節前半の解釈~

・・・וִירֵשׁ֙וּהָ֙ קָאַ֣ת וְקִפֹּ֔וד וְיַנְשֹׁ֥וף וְעֹרֵ֖ב יִשְׁכְּנוּ־בָ֑הּ
ビレシューハー カアート ベヒポード ベヤンショープ ベオレーブ イシュケヌー・バー・・・

表の解釈 私訳 イザヤ34:11前半
ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った。・・・

裏の解釈 私訳 イザヤ34:11前半
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。・・・


先ず、表(おもて)の解釈をしてみます。ヘブライ語の語順通り直訳すると『ペリカンとサギがエドムを手に入れ、フクロウとカラスがそこに棲んだ』となります。新改訳はこの様に翻訳しています。この直訳文は『先にペリカンとサギがエドムの所有権を得た。そのあとフクロウとカラスがやって来てエドムに棲んだ』という意味になります。これはダメな訳文です。何故なら『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー 棲む』は、似ている意味を持つ動詞です。これは『所有する』、『棲む』別々の意味を表しているのではなく、忌避の規則によって、違うことばで言い換えてるだけです。主部(主語)は4つの鳥がワンセットになっていると解釈しなければならないので、表の解釈は『ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがやって来て、エドムに家を建て棲みついた』という意味になります。この訳文は、次のようなイメージになります。

直訳文が語るイメージ


もし、表の解釈で事足りるのであれば、表の解釈で正解ですが、これはヘブライ語が語る本意とは違うものなので誤訳になります。

ユダヤ教徒のウエブサイトに『ラビに質問』というコーナーがあって、次のような投書がありました。
『Q 犬をペットとして飼って問題ないですか?』
『Q ある観光地で、ロバの背中に乗る、乗ロバ体験があるのですが、乗っても問題ないでしょうか?』

これは、実際に現代のユダヤ人が抱える悩みや疑問です。律法(トーラー)によると、犬は不浄の動物ですから、ペットとして犬を飼って良いのかどうか、躊躇(ちゅうちょ)するということです。もし、飼っていた犬が死んだ場合、死体にさわると自分がけがれてしまうので、死体の処理に困ります(レビ11章)。ロバについては、母ロバが生む最初の子ロバは、(とさつ)して神に捧げることになっています。もし、子ロバを生かしておくのであれば、身代わりに羊を犠牲として捧げなければなりません(出エジ13:13)。こうした手続きを経てない子ロバは、不浄な動物ですから、ロバの背中に乗ることができない、躊躇するということです。

動物に対し、日本人とは全く異なるものの見方、感じ方をしていますよね。ここから学んでいただきたいのは、ユダヤ人が動物を見る場合、真っ先に思い浮かべるのは、それが『清い動物か、清くない動物か』ということと、清くない動物に対する嫌悪感や恐怖心です。ユダヤ人は数千年にわたりこうした文化、価値観を受け継いでいます。不浄の動物に対しユダヤ人が抱くネガティブな感情を、日本人は全く持ち合わせていません。

さて、11節4つの鳥(動物)は、律法上不浄の動物ですから、イザヤはこの4つの鳥に、憎しみと嫌悪感を込めて書いたということが分かると思います。11節を読んだユダヤ人も、憎しみと嫌悪感を抱いて読んでいるのです。新改訳は『ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む』ですが、これは動物の名前を羅列しただけです。日本人がこれを読んでも、そこに憎しみや嫌悪感が含まれていることを理解することができません。日本人が理解できるよう、ちょっとばかり意味を膨らませて翻訳するなら『不道徳と犯罪に酔いしれたエドム人。連中は不浄のケモノだ。ペリカンのようにあらゆる悪事をむさぼる。サギのように人をだまし、フクロウのように夜な夜な獲物を探す。エドム人はカラスのように腹黒い』このようになるでしょうか。

ヘブライ語の中に、憎しみや嫌悪感を直接表現する単語がないのは事実です。しかし、ユダヤ人が嫌う鳥の名前(不浄の動物)を、4つ列挙したところに、憎しみや嫌悪感が込められてるのです。

4つの鳥に込められたイメージ 


一見して、筆者の感情を表現する単語がない文であっても、行間に感情が埋め込まれている、こういうことが、しばしばあります。この隠された感情表現を、モダリティといいます。同じ文化圏であれば、モダリティを理解することができますが、異なる文化の人に、モダリティを読み取ることは困難になります。翻訳をする場合、隠されたモダリティを言語化し補わなければならない、そういう場合がしばしばあります。これはヘブライ語に限ったことではありません、どの言語にもあることです。言語というものは、直訳できない仕組みになっています。これが、創世記11章の言語の混乱(バラル)です。

『不道徳と犯罪を肯定する価値観で造られたのがエドム王国であった』ということを『34章の輪郭』で書かせていただきました。その根拠の一つは『4つの鳥(不浄の動物)』にあります。


~実は鳥(動物)の名前がよく分かっていない~

11節は『カアート ベヒポード ベヤンショープ ベオレーブ』と4つの鳥(動物)の名前が並んでいます。中でも『カアート ベヒポード』は解釈が混乱していて、意味が確定されていません。一番困るのが『ベヒポード』です。ほかの3つの動物は、レビ記に不浄の動物として書かれているので、的を絞ることができますが、『ベヒポード』はレビ記に登場しないからです。



不道徳と犯罪がまん延するエドムは、滅ぼされる。この文脈で、不浄の鳥『カアート ベヤンショープ ベオレーブ』3つが列挙されているので、残る『ベヒポード』も不浄の鳥(動物)であろうと推測できます。英語のサイトを見ると『この4つの動物は渡り鳥である』と解説するものがありますが、そこまで深読みできる根拠はなく、そうする必要もないでしょう。大切なのは、4つとも『不浄の動物』だという理解です。


~11節前半のまとめ~

以上検討してきた内容をまとめます。
・11節は、主がエドムを破壊する理由が書かれている。
・4つの動物は、はっきりと意味が確定できないが、4つとも不浄の動物(鳥)だと思われる。
・不浄の動物は比喩になっていて、エドム国民が、不道徳と犯罪を繰り返してきたことを意味する。
・表の解釈で翻訳すると日本人に理解できない訳文になるので、裏の解釈で翻訳する。

11節前半は、次のように翻訳しなければなりません。

私訳 裏の解釈 イザヤ34:11前半
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。・・・



(000)箴言-3

2018年05月09日 | 箴言

שַׁ֫עַר シャハール 門


この記事の目次

・表現形式を理解する
・ギリシャ語 箴言1:20~21
・『城壁の上』は間違い-1
・ヘブライ語 箴言1:20~21
・『城壁の上』は間違い-2
・オモテとウラどちらで訳出するか


~表現形式を理解する~

箴言1:20~21節を読んで、何が言いたいのか理解できるでしょうか?私には理解することができません。ヘブライ語では、擬人化された表現になっているのですが、直訳すると新改訳のようになります。20~33節が一つの段落になっているので、全体もご覧ください。

新改訳 箴言1:20~33
20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。
24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。

26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。
27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。
31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

私訳 箴言1:20~21
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 大通りで会った人、城門前の長老は、みことば語り戒めた。



箴言1:20~33節の表現形式は、下の図のようになっています。


20~21節の擬人表現は、22~25節と読み比べれば分かります。主は、街に住む多くの人を使い、ならず者に忠告を与えていたということです。かつてのユダヤ人は、20~21節を読んで、この比喩が何を意味しているのか理解していたはずですが、この擬人化された表現を日本語に直訳しても、日本人には理解することができません。ヘブライ語を読んだユダヤ人が、理解できる文面であれば、日本語の訳文も、日本人が理解できる文面でなければなりません。ここに等価性の原則が適用されるべきです。この箇所は、字義通りオモテの訳文を作っても意味がありません。意味を表したウラの解釈で訳出しなければならないということです。新改訳は、こういう検討をおこなっていません。


~ギリシャ語 箴言1:20~21~

ヘブライ語だけを検討するということでも構わないのですが、70人訳(ギリシャ語)も併せて検討すると、より立体的な解釈ができます。70人訳がヘブライ語を正確に訳出しているとは限りませんが、少なくとも解釈の方向性を知る手掛かりになるでしょう。

箴言1:20
20 σοφία εν εξόδοις υμνείται εν δε πλατείαις παρρησίαν άγει
ソフィア ヘン エクソドイス フムネイタイ ヘン デ プラテーアイス パリイシアン アゲー    

σοφία(4678) 知恵、忠告、分別、思慮
εν(1722) in, on, among
εξόδοις(1841) 旅立ち、玄関を出たところ、家の外
υμνείται(5214) 讃え歌う、高らかに歌う
εν(1722) in, on, among
δε(1161) しかし、また
πλατείαις(4113) 広場、大通り
παρρησίαν(3954) 大胆に(言う)、自由に、自信に満ちて(語る)
άγει(71) 導く、~とする、行く

Apostolic Bible Polyglot 箴言1:20
Wisdom sings praise in the streets; and in the squares in open places she celebrates.


箴言1:21
21 επ΄ άκρων δε τειχέων κηρύσσεται επί δε πύλαις πόλεως θαρρούσα λέγει
エプ アクローン デ テーケオン ケリーセタイ エピ デ ピーライス ポレオス サルーサ レゲイ

επ΄(1909) upon, on, at, by, before
άκρων(206.1) (複数形)枝分かれ、分岐、四肢
δε(1161) しかし、ところで、また
τειχέων(5038) 城壁、壁
κηρύσσεται(2784) 宣教、宣言
επί (1909) upon, on, at, by, before
δε(1161) しかし、また
πύλαις(4439) 扉、門
πόλεως(4172) 街
θαρρούσα(2293) 励ます、元気づける
λέγει(3004) 言う、教える、戒める

Apostolic Bible Polyglot 箴言1:21
And she proclaims upon the tops of the walls; and at the gates of the city courageously says,

ギリシャ語を読んで受けるイメージを、ちょっとばかり膨らませ、オモテとウラ両方の解釈をしてみます。

オモテの解釈
20 その名を『知恵』という女がいた。通りでは、知恵の歌を口ずさみ、広場では高らかに歌っていた。
21 街角では、主をおそれることを教え、城門前では『しっかりしなさい』と励ました。

20、21節は、22~25節と対応しているので、22~25節の内容と照らし合わせると、擬人化された表現の意味が見えてきます。オモテ、ウラそれぞれの意味を表にまとめました。


ならず者が家を出たあと、広場を抜け、十字路を曲がり、城門を出る。ならず者が街なかを歩く様子が、順を追って表されています。恐らく、城門を出たあとは、仲間とつるみ、悪事を働いていたのでしょう。通り、広場、十字路、城門は、都市を構成する大人を象徴的に表現しています。近所の人から長老に至るまで街じゅうのみんなが、忠告をしていたということです。

次に、ちょっとばかりイメージを膨らませ、ウラの解釈をします。

ウラの解釈
20 このならず者に、街じゅうの人が声を掛けていた。一歩家を出れば「あまり親を心配させるんじゃないよ」と近所の人が声を掛け、広場に行けば「おい、真面目に働けよ」と気にかけてくれた。
21 街角で会った人は「主をおそれなさい」と戒めて、いつも城門前に陣取る長老は「祝福される生き方をしなさい」と励ました。

20節は、解釈に難しいところはありません。私訳は次のようになります。

私訳 箴言1:20 70人訳
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。


~『城壁の上』は間違い-1~

次に、21節の解釈をします。ABPの英訳を見ると、21節、エプ アクローン デ テーケオンの解釈に混乱が見られます。ABPは、upon the tops of the walls『城壁の上で』と訳出しましたが、これは間違いです。ギリシャ語で『城壁の上』という場合、次の表現になります。

επί του τείχους
エピ トウ テークース 城壁の上
2列王3:27、6:26、6:30、18:26、18:27ほか

プロの翻訳者であれば、ことばの意味を調べるのに、辞書に頼るだけではダメです。辞書を見ても50%しか分かりません。人間が作る物には不完全さがあるからです。コイネー・ギリシャ語の英訳サイトを見ると、アクロン(単数)は『端、端部、先端、トゲ』と定義されていますが、複数形での定義が抜けています。聖書の中でアクローン(複数)ということばが使われている個所を抜き出し、それぞれの文脈からことばの意味を導き出してみます。日本語は私訳です。

άκρωνアクローン複数形(206.1)が使われた箇所
創世記47:21 四方八方(各地から)
出エジ38:16 四方の(たれ幕は)
1歴代14:15 枝の(茂み)
箴 言8:2 あらゆる(分野を極めた)
箴 言30:4 (全地の)四方
イザヤ2:2 (山の)峰
イザヤ41:9 (地の)四方八方から
イザヤ42:11 (山の)峰
イザヤ43:6 (地の)四方八方から
エレミ25:16 (ユダの地の)四方八方に
マタイ24:31 (天の)四方から

因みに、現代ギリシャ語には、以下の意味もあります。重要な情報です。
・άκρο(単数) limb 腕、足
・άκρων Limb,limbs,feet 手足、四肢
・άκρων limbs 手足、四肢

日本語では、名詞を単数、複数で区別するということをしないので、理解しにくいかもしれませんが、名詞が複数形になると、意味が大きく変化する場合があります。例えば、学校では、英語の名詞には可算名詞と不可算名詞があると教え、不可算名詞には複数形はないと教えています。ところで、『waterは不可算名詞』になりますが、実際には『waters』と複数形になることがあり、これは『海域、水域、きれいな湧き水』という意味に変化をします。複数形になると、『水』とは、かなり異なる意味に変化します。名詞の複数形は『二つ以上の~』とは限りません。意味が大きく変化する場合があるのです。学校で教えるように、文法主義で原文解釈をしてしまうと、必ず落とし穴に落ちます。人間が作る文法書には、かなりの不完全さがあるからです。

前述したように、アクロ-ン(複数)は『四方、枝、枝分かれしたもの、四肢、手足』という意味で、単数の『端、端部、先端、トゲ』とは、かなり異なる意味に変化しています。ここで導き出された意味を、箴言1:21に当てはめてみます。エプ アクローン デ テーケオンは、『壁が枝分かれしたところ』となります。『壁が枝分かれしたところ』というのは、『辻、十字路、街角』という意味です。

日本人には、理解しにくいかも知れませんが、日本人にとっての『道』は、ユダヤ人の『壁に挟まれたところ』になります。日本人にとっての『辻、十字路、街角』は、ユダヤ人の『壁が折れ曲がったところ』になります。下の写真をご覧いただければ納得していただけると思います。


エプ アクローン デ テーケオンは『辻、十字路、街角』という意味になります。ことばと文化は密接につながっています。文化を理解することなしに翻訳はできません。また、プロの翻訳者であれば、翻訳辞書に頼る翻訳ではダメです。人が作る辞書、文法書には不完全さがあるからです。

余談になりますが『インターリニア聖書を手に入れれば、正しく原文解釈ができる』と、お考えの方がいると思いますが、そんなことはありません。ABPが『城壁の上』と誤訳しているように、当てがわれた訳語が間違っているということは、しばしばあります。インターリニアも、一翻訳に過ぎないのです。ご注意ください。

20、21節をウラの解釈で翻訳すると、次のようになります。

私訳 箴言1:20~21 70人訳
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 街角で会う人は主をおそれることを教え、城門前、長老は励ましのみことばを語った。


これで、原文の輪郭がかなり掴めたと思います。次からヘブライ語の解釈に入りますが、ここで作った輪郭が、ヘブライ語の解釈に役立つことになります。これまでは下準備です。


~ヘブライ語 箴言1:20~21~

箴言1:20
חָ֭כְמֹות בַּח֣וּץ תָּרֹ֑נָּה בָּ֝רְחֹבֹ֗ות תִּתֵּ֥ן קֹולָֽהּ׃
ホフモート バフーツ タロンナー バレホボート ティッテン コラ

חָ֭כְמֹות ホフモート chokmoth(2454) 知恵、堅実さ、勤勉さ、計画性
בַּח֣וּץ フーツ chuts(2351) 家の外、路地、道
תָּרֹ֑נָּה ラナン ranan(7442) (喜び、悲しみなどの)声をあげる、歌う
בָּ֝רְחֹבֹ֗ות アレホーブ rechob(7339) 広場、通り
תִּתֵּ֥ן ナタン nathan(5414) 与える、届ける、増し加える
קֹולָֽהּ׃ コール qol(6963) 声、叫び、楽器の音


箴言1:21
בְּרֹ֥אשׁ הֹמִיֹּ֗ות תִּ֫קְרָ֥א בְּפִתְחֵ֖י שְׁעָרִ֥ים בָּעִ֗יר אֲמָרֶ֥יהָ תֹאמֵֽר׃
ベローシュ ホミヨート ティクラ ベピッテ シェアリム バイール アマレーハ トメール

בְּרֹ֥אשׁ ロシェ rosh(7218) 一番、代表者、in front, in first place
הֹמִיֹּ֗ות ハーマー hamah(1993) 騒々しい、騒ぐ、吠える
תִּ֫קְרָ֥א カラ qara(7121) 呼ぶ、叫ぶ、招く、名付ける
בְּפִתְחֵ֖י ペタハ pethach(6607) 玄関、門、入り口
שְׁעָרִ֥ים シャハール shaar(8179) 街、門
בָּעִ֗יר イール iyr(5892) 街、城塞都市
אֲמָרֶ֥יהָ アイマー emer(561) ことば、言ったこと、(知恵のことば)
תֹאמֵֽר׃ アーマー amar(559) 言う、答える、命じる

ヘブライ語も、ギリシャ語とほぼ同じ内容で書かれています。

20節前半、ホフモート バフーツ タロンナーを、字義通り解釈すると「その名を『知恵』という女がいた。通りでは、知恵の歌を口ずさむ」という意味になります。70人訳と同じです。ヘブライ語タロンナー(歌う)の解釈に混乱がみられます。新改訳は『大声で叫び』と訳し、英訳でも『大声をあげる』という訳が多いようです。辞書を見ると、タロンナー(ラナン 7442)は、歌うという意味と、大声をあげるという意味があります。どちらの訳語を選択すればよいのか迷うところです。

先ほどの70人訳を見ると、ここは『フムネイタイ(5214) 讃え歌う、高らかに歌う』と訳されています。従って、『歌う』という訳語が相応しいと言えるでしょう。訳語の選択に迷った場合、70人訳は有力な判断材料になります。私はウラの解釈で訳文を作るので、歌うでも叫ぶでもほとんど影響ないのですが、翻訳をする人にとって参考になるところなので、説明させて頂きました。

20節後半、バレホボート ティッテン コラを、字義通り解釈すると『広場では、高らかに歌っていた』という意味です。20節は、70人訳と同じ意味です。ウラの解釈で訳文を作ると、次のようになります。

ウラの解釈 私訳 ヘブライ語
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。


~『城壁の上』は間違い-2~

21節は、ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)の、解釈に混乱が見られます。70人訳でも同じ箇所に混乱が見られました。英訳では『城壁の上』と解釈しているものがありますが、この解釈は無理があります。

on top of the wall 城壁の上 
New International Version ほか

ヘブライ語は、ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)となっていて、『壁』ということばはありません。ヘブライ語で『壁の上』をいい表す場合、『עַל־ הַ֣חֹמָ֔ה アル・ハホマー』という表現になります(2列王3:27、6:26、6:30、18:27)。ABPのように、70人訳を底本にした場合『壁の上』と誤訳しがちです。こうした影響を受け、『壁の上』という誤訳が生まれたのだと思われます。ホミヨート(騒々しい)には、『壁』という意味がないのですから、普通に考えて、ベローシュ ホミヨートを、『壁の上』と訳出することはあり得ないからです。

ベローシュ ホミヨートの解釈は、20節からの文脈を確認することで導き出すことも可能です。20節を見ると、フーツ(路地)、アレホーブ(広場)と表現され、21節で、『ベローシュ ホミヨート』が表れ、このあと、城門ということばが続きます。70人訳のところで説明させていただきましたが、路地⇒広場⇒街角⇒城門、これはならず者が家を出てから城門に至る道順を示しています。この一連の用語の中に『壁の上』という表現が入るのは、唐突で不自然だということが分かりますよね。忍者じゃないんですから。ABPの翻訳者は、輪郭の設定をおこなっていないことが分かります。きちんと輪郭が設定できていれば、『壁の上』という誤訳は生じないのです。原文の輪郭を設定することは、非常に重要です。


また、ベローシュが『大通り、目抜き通り』という意味を表す場合もあります。
哀歌4:1 the head of every street 目抜き通り、幹線道路

ベローシュ(一番、代表者)+ホミヨート(騒々しい)を字義通り解釈すると、『一番にぎやかな大通り』という意味になります。21節後半に『城門』ということばが出てくることも考慮すると、ベローシュ ホミヨートは『城門を通る一番にぎやかな大通り』という意味だと推測できます。

70人訳は、エプ アクローン デ テーケオン『辻、十字路、街角』という表現でした。これも、人通りが多く、にぎやかなところですから、70人訳の翻訳者は、こうした意味をギリシャ語に翻訳したのでしょう。

以上をまとめると、ベローシュ ホミヨートは『城門から伸びる大通り』という意味だと理解します。

21節真ん中、ベピッテ シェアリム バイールを、字義通りに言うと『街の城門の前』という意味になります。城門前は、裁判、重要な取引、告示をする時、重要な会議場になります(創23章、申21章、ルツ4章、哀歌5章、イザ29章、アモ5章)。『城門前』は、街の長老や街の主要人物を、象徴する場所です。

余談になりますが、21節後半を字義通り解釈すると、アマレーハは『(三人称女性)ことば』という意味で、トメールは『(三人称女性)言う』という意味です。『知恵という名の女は、知恵のことばを語る』となります。ヘブライ語の原文解釈は以上です。私訳は次のようになります。

私訳 箴言1:20~21 ウラの解釈 ヘブライ語
20 街の誰もが忠告をした。近所の人、広場で会った人たちが。
21 大通りで会った人、城門前の長老は、みことば語り戒めた。


新改訳 箴言1:20~21
20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

どちらの訳文が日本人に理解しやすいかは、一目瞭然でしょう。


~オモテとウラどちらで訳出するか~

箴言1:20~21のように、原文が擬人化された表現になっている場合、オモテとウラ、両方の解釈ができます。この場合、どちらで訳出したら良いのでしょう?原文の意味が分かるよう、ウラの訳出をすれば良いのです。

ところが、新改訳は、翻訳としての『新改訳聖書』の立場で、次のように述べています。
・・・むしろ分かりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってでなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることにより、また説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、「ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない」のだと言います。つまりは牧師や注解者の仕事が重要で意義深いはずであることを明らかにするのです・・・

新改訳の翻訳者が翻訳できない難解箇所を、『牧師が説明すればいいのだ』というのは、理不尽な責任転嫁にすぎません。私に言わせれば、下手クソな翻訳をやった委員会の尻ぬぐいを、牧師に押し付けているだけです。

聖書と翻訳 箴言-2で、取り上げた個所を例にしてみましょう。新改訳は、次のようにオモテの解釈で訳出しています。

新改訳 箴言1:15~19 オモテの解釈
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

果たして一般の牧師が、ヘブライ語を調べ、次のように解釈できるのでしょうか?新改訳のセンセイが言うように『何度も読み返せば、自ずと意味が理解できる』ようになるでしょうか?

私訳 箴言1:15~19 ウラの解釈
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


新改訳とは逆に、聖書の訳文がウラの解釈で訳出されていたら、原文解釈はものすごく楽になります。例えば、牧師は、次のように解説できます。

「15節を、ヘブライ語で字義通り解釈すると『悪人と一緒に、邪悪な道を歩くな』という表現になっています。これは聖書に書いてある通り『悪人の悪だくみに手を貸すな』という意味になります」。これで立派な原文解釈になっています。

聖書本文が、きちんと意味を示していれば、原文を確認する時、非常に楽になります。反対に、意味不明な直訳文では、原文をどう解釈して良いのか分からない、手がかりが何もない、ということになります。オモテとウラ、両方の解釈ができるような場合、ウラの訳出をするのが良いということです。私は通訳をしてきましたが、通訳を一言で言えば『意味を訳出すること』です。これは、翻訳でも同じです。

『ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない』とは、新改訳聖書刊行会の迷言ですね。信徒が日々聖書を読むことを否定するとは、呆れたものです。刊行会が翻訳した聖書に、次のように書いてあります。

ヨシュア1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

刊行会にとって、神のことばそのものより、刊行会のセンセイのほうが権威があるんだと、自惚れてるようです。神学が偶像化しているのです。イザヤ書8章で『イザヤは不倫をして子どもを生ませた』、ルカ16章で『不正な富で友を作れ』といった訳文になっていますが、あれは誤訳をしたのだと思っていましたが、そうではなく、意図的にこういう訳に変えたんじゃないですか?また、不忠実な翻訳になるよう、わざと直訳主義で翻訳しているのではありませんか?刊行会は、日本のキリスト教会を堕落させる働きをしているようにも見えるのです。

刊行会が、ウエブサイトで『聖書の難解個所は、牧師が説明すればいいのだ』と公言しているのですから、そこはきちんと筋を通し、新改訳を使っている教会や牧師に対し、『翻訳協力費』として、月々支払いをするべきです。自分のことばに責任を持ち、行動で示してもらいたいものです。

もし『刊行会』が大人の対応を心得ていれば『できる限りの力は尽くしたつもりですが、訳文に辻褄が合わない個所、意味が分かりにくい個所もあると思います。訳文の至らない個所については、牧師諸先生方のご協力を賜り、教会の中で解き明かしをしていただくよう、お願い申し上げます』と言えたはずです。『新改訳の翻訳理念や「新改訳聖書」の立場』を読むと、子どもじみた、ひねくれた物言いで、読んで不愉快に感じます。

うちの教会の週報には『毎日聖書を読むこと マタイ4:4』と印字されています。また、『マタイ4:4 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』『詩篇1:2 主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』『詩篇119:127 私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します』などの聖句を引用し、信徒が日々聖書を読むことの大切さを、うちの教会は教えています。新改訳聖書に載ってるみことばなんですがね。



(000)箴言-2

2018年05月08日 | 箴言

אָרַב アラーブ 待ち伏せする


この記事の目次
・箴言1:15~19全体
・箴言1:15
・箴言1:16
・箴言1:17
・箴言1:18
・箴言1:19
・原文の意図を翻訳する


~箴言1:15~19全体~

新改訳を例にあげ訳文の検討をしてゆきます。口語訳、新共同訳を取り上げてもいいのですが、うちの教会で指定されているのが新改訳で、長年新改訳に親しんできたということもあり、敬意を表し新改訳を取り上げさせていただきます。次の、新改訳と私訳を読み、どこが違うかご確認ください。

箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

新改訳は、文脈が支離滅裂。意味不明な日本語になっています。直訳で翻訳するから意味不明になり、かつ原文とは異なる意味になるのです。聖書は難解な読み物だという人がいますが、そうではありません。ヘブライ語を見ると、きちんと意味が理解できました。次の私訳がヘブライ語が語る意味です。聖書が難解なのは、翻訳がヘタクソだからです。

箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。



~箴言1:15~

בְּנִ֗י אַל־תֵּלֵ֣ךְ בְּדֶ֣רֶךְ אִתָּ֑ם מְנַ֥ע רַ֝גְלְךָ֗ מִנְּתִיבָתָֽם׃
ベニー アルテレック ベデレック イッターム メナ ラグレハー ミネティバターム

בְּנִ֗י ベーヌ ben(1121) 息子、子孫、末裔
אַל־ アラ al(408) no 否定詞
תֵּלֵ֣ךְ ハラーク halak(1980) 歩く、行く、旅立つ、従う、おこなう
בְּדֶ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離  
אִתָּ֑ם イート eth(854) 面して、接近して、一緒になって
מְנַ֥ע マナ mana(4513) 維持する、保持する、立ち入らない
רַ֝גְלְךָ֗ レゲル regel(7272) 足
מִנְּתִיבָתָֽם׃ ナティーブ nathiyb(5410) 道、旅路、人生、方法

15節前半、ベニー アルテレック ベデレック イッタームは、『息子よ、いいかい。悪人の仲間に入り、悪事に手を染めてはいけないぞ』という意味です。出だしのことば、ベニーは『息子よ、聞きなさい』と、慈しみを込めた呼びかけです。同時に、ここが話しの始まりであることをも示します。70人訳では、この箇所は省略され、独立したギリシャ語として翻訳されていません。ハイコンテクストとして処理されているということで、これも一つの訳出方法です。

新改訳は『わが子よ』と直訳していますが、まあ、これでも構わないでしょう。気になるのは『わが子よ』という出だしにすると『わが子よ~するなかれ』という古典的な言い方になるのかなと感じます。ここで『わが子よ』と、わざわざ古めかしい文言をあてがう必要性はないと私は思います。また、舌っ足らずで、中途半端な言い方に聞こえます。仮に『わが子よ、聞きなさい』としても、現代の日本人が使う言い回しではないので、しっくりした訳出だとは思いません。また『わが子よ』は、親が権威を笠に着たような言い方で、子どもを見下している感じを受けます。原文の、慈しみを込めた呼びかけというニュアンスが再現されていません。

『ベニー』は、慈しみを込めた呼びかけで、かつ、話しの出だしとして働いています。現代の日本人が、同じような場面で使うとしたら『いいですか』と言うと思います。私訳は『いいですか』と訳出しました。これは、原語が持つ『ことばの機能』に着目し、それと等価な働きを持つ目的言語に翻訳するというやり方です。アメリカの言語学者ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が提唱した翻訳手法で、functional equivalence 機能翻訳法とか等価翻訳法と呼ばれるものです。

15節原文に『悪人』ということばはありませんが、イッターム(一緒に)ということばが、三人称複数形になっています。これは、with them 『彼らと一緒に』という意味で、『彼ら』というのは、さかのぼって10節の『chatta ハッター 悪人、ならず者(複数形)』を指しています。アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の仲間に入り悪事をおこなうな』という意味になります。

話は逸れますが、日本語訳聖書を見るとやたら『罪人』ということばがでてきます。本当に全部『罪人』と訳出して良いのか疑問に感じています。英訳を見ると、ハッタ―を、men, offenders, sinful, sinners, who have sinned(人間、法令違反者、犯罪者、ワル、悪党、前科者)と、文脈に合わせ様々な訳語を当てています。日本語でも同じく、文脈に合わせ訳語が変わるはずです。新改訳のように直訳で翻訳すると、何でもかんでも『罪人』で翻訳します。これは素人仕事で、全く愚かなことです。

次に、新改訳は『彼らといっしょに・・・』と直訳しました。新改訳は、人称代名詞、私、あなた、彼、彼女を頻繁に使いますが、日本人は基本的に人称代名詞を使いません。日本語の訳文で人称代名詞を使うと、不快な日本語になります。日本語訳聖書を見ると、神さまに対し『あなたは・・・』と呼びかけているか所がありますが、日本人が目上の人に対し『あなたは』と言うと、馴れ馴れしく、侮辱的な意味を含みます。こどもが親に向かって『あなたは・・・』というと大変なことになりますよね。新改訳は人称代名詞を多用しますが、不快な日本語で、ネイティブが使う日本語ではありません。プロとして翻訳の仕事をするのであれば、基本的に、人称代名詞は使わない。こうした配慮ができないようではダメです。

また、新改訳は『彼らといっしょに道を歩いてはならない』と直訳しています。『道を歩く』は、どことなく詩的な表現ですが、原文は詩的な表現をしている訳ではありません。ことばの使用頻度を見ると分かります。

アラ al(408) no 否定詞 725回
ハラーク halak(1980) 行く 1,549回
デレック derek(1870) 道 706回
イート eth(854) 一緒に 809回

それぞれ使用頻度が高いことばなので、日常語であることが分かります。日本語も日常語で訳出すればよいのです。従って、アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の悪だくみに手を貸すな』という私訳になりました。

15節後半、メナ ラグレハー ミネティバタームは、前半の文と同じ内容を繰り返し、『意味を強調する構文』になっています。『絶対~してはいけないぞ』という意味です。15節最後で、ミネティバターム(道)が使われたのは、直近でデレック(道)が使われたので、忌避の規則によって、ことばを言い換えているのだと思われます。こうして、次のように訳出しました。

箴言1:15 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。

箴言1:15 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。

新改訳のように、直訳すると意味が曖昧な訳文になります。翻訳者は、原文が意図しているもの、何が言いたいのかを理解することが重要です。ヘブライ語は日本語とは全く異なる言語構造を持っているので、直訳しても、原文と同じ意味の訳文にはなりません。


~箴言1:16~

כִּ֣י רַ֭גְלֵיהֶם לָרַ֣ע יָר֑וּצוּ וִֽ֝ימַהֲר֗וּ לִשְׁפָּךְ־דָּֽם׃
キー ラグレヘム ララ ヤルース ビーマハルー リシュポク ダーム

כִּ֣י キー ki(3588) ~だから、理由は、~とき、~だが
רַ֭גְלֵיהֶם レゲール regel(7272) 足、歩み、仲間になること
לָרַ֣ע ラー ra'(7451) 悪いこと、災い、災難
יָר֑וּצוּ ルーツ ruts(7323) 走る、見張る、使者
וִֽ֝ימַהֲר֗וּ マーハ―ル mahar(4116)急いで~する、手際よく~する、慌てて~する
לִשְׁפָּךְ־ シャーファーク shaphak(8210) (血や水が)流される、(感情が)湧き上がる
דָּֽם׃ ダーム dam(1818) 血液、血

16節前半、キー ラグレヘム ララ ヤルースは、『連中は、悪事ばっかりおこなっている』という意味です。新改訳は『彼らの足は悪に走り』と直訳していますが、これは誤訳です。ヘブライ語には『足、歩く』を使った言い回しがよくありますが、これは『(やましいことを)おこなう』という意味で使われています。ヤルース(ルーツ)は『走る』という意味のほか、『何かを活発におこなう』という意味もあります。『悪人は、悪いことが大好きで、悪い事ばっかりおこなっている』という意味です。ラグレヘムは、レゲール(足)が3人称複数形なので『彼らの足⇒連中はいつも(やましいこと)をやっている』という意味になっています。

16節後半、ビーマハルー リシュポク ダームは、『巧妙に人を殺す』という意味です。新改訳は『血を流そうと急いでいる』と直訳しただけです。ビーマハルー(マーハ―ル)は『急ぐ』という意味のほか『テキパキとこなす、巧みにこなす』という意味もあります。この文脈では『人殺しにたけている、巧妙に人を殺す』という意味です。ルーツとマーハ―ル共に『慣れている』という意味があります。忌避の規則によって、違うことばで言い換えています。

リシュポク ダームを、新改訳は『血を流す』と直訳していますが、これは『人を殺す』という意味です。日本語訳聖書を読むと『血を流す』ということばがよく出てきますが、読んで違和感を感じます。日本人が『血を流す罪』ということばを聞いた場合、三つの解釈ができます。一つは、人殺しという意味。二つ目は、暴力により他人に怪我を負わせた罪。三つめは、怪我や病気で、体から出血した状態が、宗教上不浄とみなされる罪です。ヘブライ語の単語を直訳しただけでは、日本人に通じません。文脈に合わせ、日本人が理解できることばで訳出しなければなりません。こうして、次のように訳出しました。

箴言1:16 私訳
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。

箴言1:16 新改訳
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。

新改訳は直訳していますが、これをご覧いただければ『直訳は誤訳』だということが、よく分かるのではないでしょうか。


~箴言1:17~

כִּֽי־חִ֭נָּם מְזֹרָ֣ה הָרָ֑שֶׁת בְּ֝עֵינֵ֗י כָל־בַּ֥עַל כָּנָֽף׃
キヒナム メゾラー ハラーシェット ベエネ コル バーアル カナップ

כִּֽי־ キー ki(3588) ~だから、理由は、もし~しても、~だが
חִ֭נָּם ヒナーム chinnam(2600) 無駄、~しない、自由に
מְזֹרָ֣ה ザーラー zarah(2219) 広げる、散り散りになる、風に飛ばされる
הָרָ֑שֶׁת レシェット resheth(7568) 網
בְּ֝עֵינֵ֗י アイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野
כָל־  コール kol(3605) すべて、全部、完全、いつも
בַּ֥עַל バハル baal(1167) 主人、男、世帯主
כָּנָֽף׃ カナーフ kanaph(3671) 翼、角、端部、折り目、スカート

17~19節が意味上まとまっているので、原文解釈をする時は、17~19節のつながりに注意して解釈をします。17,18節の比喩を字義通り、オモテで解釈をするのか、意味に重点を置きウラの解釈をするのかの検討が必要になります。17~19節、私訳と新改訳を、読み比べてみてください。

私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


新改訳 オモテの解釈
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

新改訳の訳文は、おかしな日本語になっているので、単純に比較はできませんが、この場合ウラの解釈をした方が、読みやすい訳文になることがお分かりになると思います。比喩や修辞表現を訳出する場合、文字通り訳出するか、意味を汲んで訳出するか、翻訳者は選択を迫られます。これはケースバイケースの判断になりますが、どちらが読みやすいかが判断基準になります。新改訳は直訳主義なので、こうした検討はしていません。以下、17節の解釈をします。

17節前半、キヒナム メゾラー ハラーシェットを、字義通り解釈すると『網を仕掛けても意味がない』という意味です。悪人の悪知恵を、次のように表現しています。

16節、ビーマハルー リシュポク ダーム『巧妙な手口で人を殺す(悪知恵)』
17節、メゾラー ハラーシェット『網を仕掛ける(悪知恵)』
18節、アラーブ『待ち伏せする(悪知恵)』

悪人の悪知恵を、ことばを変えながら展開していますが、これは、ヘブライ語の特徴的な表現方法です。16~18節は、きちんと文脈が通っているのですから、訳文も、文脈が理解できるものでなければなりません。新改訳の様に、一つひとつの単語を直訳してゆくと、支離滅裂な文脈になり、読んでも意味が分からなくなります。

17節後半の解釈に混乱が見られます。ベエネ コル バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる』という意味です。70人訳(ギリシャ語)を見ると『πτερωτοίς』という訳語が使われていて『翼』に関連した意味があるのですが、意味がはっきりと解明されていません。ギリシャ語を見ると、翼、鳥といった、単純な解釈はできないということが分かります。

コルは『全ての』という意味のほか『まったき、完全な』という意味もあります。続く、バーアルは『主人、所有者』という意味でここでは単数になっているので、コル・バーアルは『全ての主人たち』ではなく『全能なる主人』=『神』という意味を婉曲的に表現しているのです。

新改訳は『鳥がみな(コル)見ている・・・』と訳しましたが、文法的に見てもデタラメです。ヘブライ語は『כָל־בַּ֥עַל コル・バーアル』となっています。コルとバーアルが、マッケフ(連結記号)で、一体になっているので、コル(全き)はバーアル(主人)を修飾していると解釈しなければなりません。



バーアルはそもそも動物を意味することばではありません。成人、世帯主、一人前の男性・・・を意味することばです。旧約聖書の中で、『バーアル』が、鳥や動物を意味することばとして使われている箇所は、どこにもありません。

新改訳は『ベエネ(見る) コル(全て)』という切り取り方をしたため、『みな見てる』と誤訳したのです。ベエネ コル・バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる⇒天におられる主が見ている』という意味になります。文法的に、何も難しいところはありません。こういう簡単な箇所が翻訳できないのですから、素人翻訳者だといわれても仕方ないですよね。これが大学で教えるヘブライ語教育のレベル、神学者の中から選ばれし翻訳者のレベルだということです。

『天におられる主が見ている』は繰り返し語られる、箴言の重要なテーマで、5章、15章に同じ意味のことばが現れます。

箴言5:21
21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

箴言15:3
3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。


以下、字義通りのオモテの訳文と、意味を汲み取ったウラの訳文を作ったので、ご覧ください。

箴言1:17 私訳 オモテの解釈
17 罠を仕掛けても意味がない。翼を持ったお方が見てるから。

箴言1:17 私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。

箴言1:17 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。

実は17節は、とても重要な箇所です。1:15~19の主題が『主は悪人に報いを与える』ということなんですが、『神』について表現しているのは17節しかないのです。コル バーアル カナップを、『鳥』と訳出すると『主が悪人に報いを与える』というテーマを読者は理解できなくなります。箴言という書物は、宗教とは無関係の『処世術』を書いたものではありません。『1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ』とあるように、主を恐れることを教えているのです。残念ながら、新改訳17節の訳文に『主を恐れなさい』というメッセージはありません。


~箴言1:18~

וְ֭הֵם לְדָמָ֣ם יֶאֱרֹ֑בוּ יִ֝צְפְּנ֗וּ לְנַפְשֹׁתָֽם׃
ベヘーム レダマム イェエローブ イツペヌー レナプショタン

וְ֭הֵם ヒーム hem(1992) they, these, those, like
לְדָמָ֣ם ダーム dam(1818) 血液、血
יֶאֱרֹ֑בוּ  アラーブ arab(693) 待ち伏せする、身を隠す
יִ֝צְפְּנ֗וּ ツァファン tsaphan(6845) 隠す、隠れる、しまう、蔵に収める
לְנַפְשֹׁתָֽם׃ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、心、命を宿すもの

17節同様、18節も比喩として書かれています。字義通りの解釈をすると、前半、ベヘーム レダマム イェエローブは『悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる』という意味です。後半、イツペヌー レナプショタンは『悪人は人を殺そうと待ち構えるが、反対に自分が殺される』という意味です。18節を字義通り解釈すると次の訳文になります。

私訳 オモテの解釈
18 悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる。人を殺そうと待ち構えても、反対に自分が殺されることになる。

これは、『悪人がたくらんだ悪だくみは、そのまま自分の身に降りかかる。どんな悪だくみを考えても無駄。神さまは悪人に報いを与えるからだ』という意味です。ここ18節は、11節の表現を引用した、並行箇所となっています。私訳は次のようになりました。

箴言1:18 私訳
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。

新改訳の訳文をご覧ください。『彼ら』とは何を意味しているのでしょう。
箴言1:17、18 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。

文脈を見ると『彼ら=鳥』という意味になります。『鳥は待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない???』。これでは意味が全く分かりません。こういう意味不明な訳文を神学者のセンセイは『格調高い訳文でございます』とおっしゃるようです。基本的に日本語は人称代名詞を使いません。直訳をし人称代名詞を使うからおかしくなるんです。こんな意味不明な日本語、小学生でも作りません。

箴言の文体は、1節の前半と後半を対照的に表現する形(対比表現)なので、基本的にこの形を守るべきだと思います。新改訳の訳文は、前半部と後半部の区別がなく、対照的な言い回しにもなっていません。特に18節の訳文が、だらだらとした訳文で、もっと短くまとめるべきです。ヘブライ語は短いことばで、リズムよく読めるようになっています。ヘブライ語のリズム感まで訳出しろとは言いませんが、できるだけ歯切れのよい訳出を心がけなくてはなりません。だらだらと長い訳文にした割には、何を言いたいのか意味不明です。翻訳というのは、他人が読むものなのですから、読者が理解できるよう訳出しなければなりません。聖書翻訳に携わるセンセイは、日本語の作文を練習しなければなりません。小学2年生でも、こんなおかしな作文書きませんよ。ヘンテコな日本語が、神さまのことばなんでしょうか?聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれています。親として、こんなヘンテコな日本語は、子どもに読ませたくありません。


~箴言1:19~

כֵּ֗ן אָ֭רְחֹות כָּל־בֹּ֣צֵֽעַ בָּ֑צַע אֶת־נֶ֖פֶשׁ בְּעָלָ֣יו יִקָּֽח׃ פ
ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァー エト ネペシュ ベアラーブ イーカハ

כֵּ֗ן ケーン ken(3651) つまり、このようにして、そして、従って
אָ֭רְחֹות オーラハ orach(734) 道、方法
כָּל־ コール kol(3605) すべて、全部、いつも、何でも
בֹּ֣צֵֽעַ バツァ batsa(1214) 貪る、貪欲になる、欲深くなる、欲にまみれる
בָּ֑צַע ベツァ betsa(1215) 奪い取った物、襲い奪った物、強奪品
אֶת־ イート eth(853) 定目的語記号
נֶ֖פֶשׁ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、命を宿すもの
בְּעָלָ֣יו バハル baal(1167) 持ち主、主人、男
יִקָּֽח׃ ラカハ laqach(3947) 取る、受け取る、持ってくる
פ petucha 段落記号

19節前半、ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァーは『貪欲な者、荒くれ者はみな自滅の道を辿ることになる』という意味です。後半、エト ネペシュ ベアラーブ イーカハは『人から奪った金品を自分の物にするような人間は、悪行の報いを受ける』という意味です。後半は前半と同じ意味を繰り返す強調構文で『必ず~なる』という意味になっています。

箴言1:19 私訳
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。

箴言1:19 新改訳
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主(バハル)のいのちを取り去ってしまう。

『持ち主のいのちを取り去ってしまう?えっ?悪人が死ぬだけじゃなく、元の持ち主も一緒に死ぬ運命なんですか?そりゃ理不尽じゃないですか』と言いたくなります。これも直訳をしたためおかしな訳文になったのです。新改訳が『持ち主』と訳した元のヘブライ語は『バハル』ですが、バハルが意味するのは『略奪品を懐に入れた者=悪人』のことです。命が奪われるのは『悪人』です。『バハル=持ち主』このように、直訳すると誤訳になります。

日本語で『持ち主』というのは、正当な所有権を持つ人が、対象物を所持している、そういう人のことです。他人の物を奪った強盗のことを、日本語では『持ち主(所有者)』とはいいません。小学生でも理解していることです。新改訳の訳文は、こういう小学校作文レベルの間違いが非常に多くあります。委員会には有名な国語学者もいたそうですが、この国語学者は、お金だけもらって、きちんと仕事をしていなかったということになりますね。日本の中で選ばれしセンセイの翻訳がこの有様です。これでは、献金を捧げた人、祈りをささげた人、聖書を購入した人は、納得できないんじゃないでしょうか?


~原文の意図を翻訳する~

私訳と新改訳で、何が違うか読み比べてみてください。重要な違いがあります。

箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。


箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

箴言1:15~19が伝えたいことは『悪事に手を染めるな。主は必ず悪人に報いを与える』ということです。こうした意味が新改訳の訳文から伝わってくるでしょうか?箴言は聖書の一部ですから、当然、神さまのみことばです。ところが新改訳の訳文は『主が悪人に報いを与える』という中心的なテーマが、翻訳されていないのです。新改訳は、神さま不在の文言になっています。これが私訳と新改訳の一番大きな違いです。

新改訳は『神の主権、神の正義、神の臨在』を聖書から消して翻訳しています。これは、重大な問題ではありませんか?ヘブライ語テキストの字面をながめただけでは、確かに『神、主』ということばは見つかりません。しかしプロの翻訳者であれば、文脈の中に神の存在を見つけられるはずです。具体的に言うと17節、ベエネ コル バーアル カナップ『翼を持ったお方が見ておられる』という一文が神さまのことを譬えています。『ここをオモテの解釈で訳したら、日本人に理解できない訳文になってしまうな。神さまが見ていると分かるよう、ウラの解釈で訳出しないとならないな』プロの翻訳者であれば、こういう判断ができなきゃダメです。

英語のテストで、日本語になっていないヘンテコな訳文を作って提出したら、不合格ですよね。日本語訳聖書はこの程度のレベルだということです。日本の聖書翻訳レベルは中学生、日本語の文章力は小学生以下です。こんなお粗末なレベルで、よく翻訳者としてお金を受け取れますよね。はっきり言わせていただきますが、素人が聖書翻訳をやっています。だから、聖書のことばを壊すのです。

こうしたお粗末な聖書翻訳が『祈りと献金で支えられた翻訳事業』に相応しいことでしょうか?私には、神学者が多くの信徒の献金を食い物にし、聖書の販売価格から不当なお金を懐に入れているとしか思えません。プロとして翻訳する技術を持たない素人が、あたかもプロの様な振りをして、商品として求められる品質に至らないお粗末な仕事をし、献金を集める、お金だけはきっちりいただく。これを世間では、ボッタクリとか、詐欺といいます。神学者のセンセイは、こうしたことを意図的におこなっていないと思いますが、『意図的でない』ことも、また問題です。不適切な翻訳をおこない、不適切な報酬を得ることが、代々続けられてきたので、心が麻痺してしまっているのではありませんか?

聖書翻訳事業、聖書翻訳の『組織』に根本的な問題があります。翻訳者個人の技量の問題だけではありません。そしてそれを支える『神学者コミュニティ』、大学の教育にも問題があります。大学で教えるヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の授業について申し上げますが、一般の『ヘブライ語教養課程』と、翻訳者を対象にした『ヘブライ語専門課程』を区別するべきです。牧師が必要とされる知識については『教養課程』とし、通訳翻訳者を目指す人には『専門課程』とする。大学で、こうした環境整備ができていないのではないでしょうか?神学校のセンセイ!真面目に検討してください。そして、謙虚に勉強し直してください。


目的言語における文字数の等価性について

通訳で考えると分かりやすいのですが、話し手が1分間話したことばを、もし通訳者が2分間かけて通訳したら、ひんしゅくを買います。これは、やってはいけないことです。話し手の話しが終わると、会場から拍手が起こる、笑い声が起こるという、会場の反応も起こるので、同時通訳の場合、話し手の話しが終わるタイミングで、できるだけ通訳も終わるよう努力します。話し手の話しが終わり、会場の拍手も鳴りやんでも、まだ通訳が終わっていないのでは、気まずくなります。通訳においては、話し手の話した時間と、通訳者が通訳する時間にも、等価性が求められます。

翻訳をする場合も、原則は同じだと私は思っています。旧新約を合わせた聖書は5cm位の厚さになります。同じサイズの聖書なのに、ある翻訳は5cmの厚さで、別の翻訳は10cmの厚さだったら困りますよね。カバンに入らなくなるだろうし、一日一章読むのに倍の時間掛かるということになります。翻訳は、解説文を作ることではありません。そういう意識を持って翻訳をする必要はあります。原文の一つひとつの単語に気を取られると、ダラダラと冗長な文になり、訳文ではなく解説文になってしまいます。これではダメです。

ヘブライ語は他の言語に比べ、文字数が少なくて済む、文章表記が短くて済む傾向があります。一般的に、翻訳をすると、目的言語の方が長い文になる傾向がありますが、ヘブライ語をほかの言語に翻訳すると、これが顕著に表れます。


上の図のように、ヘブライ語を英文に翻訳すると、1.5~2.0倍の長さになります。


日本語(私訳)は1.3~1.7倍の長さになります。

次に、箴言1:15~19をヘブライ語で朗読した時間と、日本語訳(私訳)を朗読した時間とを比べてみると、どちらも、35秒前後になりました。音声に置き換えると、時間的に等価性が守られていることが分かりました。日本語の訳文は、この程度の長さが丁度よいということです。


(000)箴言-1

2018年05月07日 | 箴言

חֲשַׁב ハシャーブ 考える


この記事の目次
・箴言は死語
・格調高さがみことばを壊す
・箴言12:15
・箴言12:16


~箴言は死語~

箴言は詩篇の次にくる記事で、賢者として有名なソロモン王が書いたとされています。全部で31章あるので、一日一章読むと1か月で読むことができます。箴言には、日常生活の中で気をつけなければならい教訓が書かれています。『箴言』という書名から、何かお堅い人生訓のようなニュアンスを感じるのですが、ヘブライ語を見ると、お堅いことばで綴られているという印象を受けません。『いいか!酒と女には気をつけるんだぞ』という内容だって書かれているんです。

先ず『箴言』という書名に問題があります。『箴言』ということばを聞くと、何か正座をし背筋を伸ばし、眉間にシワを寄せて拝聴しなければならないおことば、若しくは、床の間に飾られる『銘書』のように『すばらしいですなあ。凡人には真似できませんなあ』と距離を置いて鑑賞するものという印象を受けます。『箴言』という書名には人を威圧するニュアンスを感じます。文語訳聖書に『箴言』という書名があるので、おそらく文語訳が翻訳された時に決められた書名なのでしょう。



ユダヤ教経典の書名というのは、書物の一番初めに書かれてることばが書名になっています(そうでないものもあります)。箴言1章1節の最初のことばが『mishlei ミシュレイ』なので、書名も『ミシュレイ』になっています。日本語の『箴言』はヘブライ語ミシュレイから翻訳されました。ミシュレイ(mashal マシャール)には大きく分けると二つの意味があります。

mashal(4910)動詞 (国を)治める、(自分を)律する、支配する 81回使用
mashal(4912)名詞 ことわざ、たとえ話、比喩、教え、教訓 38回使用

動詞マシャール、名詞のマシャールの両者とも、『箴言(書簡)』だけで使われることばではなく、創世記から預言書まで様々な書簡で使われています。『マシャール』は、使用頻度の高いことばなので、日常語に属すると考えてよいでしょう。日本語の『箴言』よりも軽いことばだということが分かります。

一方、日本語訳聖書の中で『箴言』ということばが使用される回数は極めて少ないことが分かります。
口語訳 9回
新共同 3回
新改訳 8回

ヘブライ語聖書の中で使われる使用頻度からすると、mashalは『教訓、訓示、教え』あたりの訳語が相応しいと思います。日本のノン・クリスチャンが、生きてる間に『箴言』ということばを、口にしたり書いたりすることは99.99%ないでしょう。『箴言』という骨董品のような漢語をあてがうことは、聖書は難解な本だという印象を与え、日本人を聖書から遠ざけることになります。

日常語として使われる『マシャール』が、日本語の死語に訳出されました。使用頻度があまりにもかけ離れた訳語をあてがうことは、誤訳になります。原語と目的言語との間で、等価性が守られていないからです。こうした珍訳が起こるのは『聖書は格調高いことばで翻訳するのが良い』という、身勝手な翻訳理念が原因です。


~格調高さがみことばを壊す~

箴言は『床の間の掛け軸』のように、鑑賞用のことばとして書かれていません。ヘブライ語では、人が口ずさみやすいようにリズミカルなことばになっています。下の動画は、箴言1章をヘブライ語で音読したものです。一番最初に『ミシュレイ』と言っています。お聞きください。

Provérbios 1 em Hebraico (Proverbs Chapter 1 in Hebrew)


箴言は、ユダヤ人の誰もが口ずさむことができるよう書かれています。

ヨシュア1:8 新改訳第三版
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

詩篇1:2 新改訳第三版
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

神さまが『多くの人に聖書のことばを口ずさんでもらいたい』という思いを持たれているのに、神学者が『めっそうもございません。庶民が使う品のないことばや日常語を使った翻訳など決してやってはいけません。何と申しますか、こう、格調高く、学術的で難解な翻訳が良いのでございます』と考えていたら、神さまの気持ちと噛み合ってないことになります。これでは聖書の存在意義を台なしにすることではありませんか?『格調高い訳文にする』というお題目が、意味不明な訳文を擁護する隠れミノに使われてきたということに気が付くべきです。読んでも意味が分からない日本語訳聖書を出版する。これでは本末転倒です。



聖書には66の書簡があります。その中には詩篇のような詩文があり、雅歌のように新婚夫婦の熱いロマンスを描写した記事があります。ヨナ書には預言者ヨナのトボケっぷりが書かれていて、不正な管理人のお話は、あのお堅い律法学者が思わず吹き出してしまう文言で綴られています。パウロ書簡でも、お堅い文体で書かれたものがあれば、そうでないものもあります。コリント書簡など、ユダヤ教の素地がない地域に宛てた手紙には、敢えて旧約聖書の聖句引用はしていません。聖書の専門用語を使うことなく、外国人が理解できることばで信仰生活の手引きを書いています。66巻からなる聖書は多様な文体で書かれています。

詩文、ロマンス、笑える小話などなど、個々の文面のユニークさを考慮することなく、何でもかんでも『格調高い言い回し、難解な言い回し』一辺倒で翻訳していいのでしょうか?そんなことをするから、聖書のことばが死ぬのです。ユダヤ人が、長い年月を通し聖書を守り受け継いできたのは、聖書のことばにいのちがあったからだと思います。ことばが持ついのちは、66巻それぞれのユニークな文体と結びついていたはずです。何でもかんでも、格調高いことばで翻訳するから、各書簡のユニークさをないがしろにし、ユニークさの中で生きていたことばを殺しているのです。日本語訳聖書を読んでも、一体何を言いたいのか曖昧で意味が伝わって来ないですよね。文中の人物が笑いもせず、怒りもせず、能面の如く無表情で、無機質な文面になっています。ヘブライ語で生き生きしていたはずのことばが、死んだ日本語に翻訳されているからです。『格調高い文面で翻訳する』という理念が、聖書のことばを壊すのです。

聖書翻訳という仕事は何のためにするのでしょうか?多くの日本人が聖書を読んで理解できるようにするためですよね。ここが一番大切なところです。そうであれば、現代の日本人が読んで理解できることばに翻訳することは、ゆずることのできない基本中の基本であるはずです。ところが『格調高い訳文にする』というトンチンカンな理念が、何でもかんでも難解なことば使いにし、みことばを壊しているのです。『箴言』という死語は一つの例です。新改訳聖書をご覧ください。イザヤ書8章の『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』は、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで、これでは日本人が読んでも意味が分からないですよね。脚注欄があるにも関わらず、意味を説明していません。ルカ16章では、『パテ、コル』とイスラエルの度量衡をカタカナ表記しただけです。ヘブライ語の音をただカタカナで表記する。こんな手抜き仕事が翻訳なのでしょうか?こうした意味不明な訳文を、神学者は『格調高い訳文でございます』と呼ぶようですが、言わせてもらえば、翻訳がヘタクソなだけです。読んで意味が分からない聖書なんて、飲んでも効かないニセ薬と一緒です。

もし、イエスさまが日本の聖書翻訳委員会の翻訳会議に足を踏み入れたとしたら、会議室のテーブルをひっくり返し、パソコンを床に叩きつけ、パイプ椅子を蹴っ飛ばし『わたしのことばは、いのちのことばと呼ばれるはずだった。ところがあなた方神学者は自分たちの名誉とお金を得る手段に変えている。イザヤが不倫をして子どもを生ませたなんて(イザヤ8:3)よくもデタラメな翻訳ができたな。そんなことだから、性犯罪を犯す牧師を生み出すのではないか!また、信徒には不正な金で仲間を作れなどと(ルカ16:9)よくもデタラメが言えたな!だから、霊感商法のような詐欺行為を助長させるんじゃないか!そもそも、あなたたち神学者は翻訳をする能力がないにも関わらず、翻訳委員会を立ち上げ、意味不明な聖書を出版し私の名を汚してきた。庶民には高値で聖書を売りつけ、自分たちは甘い汁を吸う。これでは、あのパリサイ人と同じではないか!』と怒鳴り、会議室から全員追い出すのではないだろうか?イエスさまの翻訳清めが必要です。マタイ21:12~13




以下、箴言の訳文を検討してみます。

~箴言12:15~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、ヘブライ語を見ると違うところがありますぞ。

箴言 12:15 口語訳
15 愚な人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。

箴言 12:15 新共同訳
15 無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。

箴言 12:15 新改訳2017
15 愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


דֶּ֣רֶךְ אֱ֭וִיל יָשָׁ֣ר בְּעֵינָ֑יו וְשֹׁמֵ֖עַ לְעֵצָ֣ה חָכָֽם  
デレック エビール ヤシャール ベエナーブ ベショメヤ レッサー ハッハーム

דֶּ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離
אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
יָשָׁ֣ר ヤシャール yashar(3477) まっすぐな、正しい、ふさわしい、直立した
בְּעֵינָ֑יו アーイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野、姿かたち 
וְשֹׁמֵ֖עַ シャマ shama(8085) 耳にする、耳を傾ける、聞く、肝に銘じる
לְעֵצָ֣ה エッツァー etsah(6098) 話し、相談、忠告、助言
חָכָֽם ハッハーム chakam(2450) 賢い、賢明、知恵、理性、知性

クリスチャンであれば、礼拝を守ること、十一献金を捧げること、日々祈り聖書を読むことが正しいと信じ、信仰生活を守っていることと思います。従来の日本語訳は『愚か者は自分の道を正しいと思う』という訳です。では、聖書に従った信仰生活を守ることが正しいと考えることも、愚かなことになるのでしょうか?そんなことはありませんよね。従来の訳文は原文の意図を理解せず直訳しているので、原文とは違う意味になっています。

15節前半は『愚かな人というのは、自分のやり方が最も正しいと考えるうぬぼれ屋さんだ』という意味です。従来の日本語訳聖書は、この意図を訳出できていません。『デレック=道』『ヤシャール=正しい』『自分の道は正しく見える』と、直訳しています。この愚かな人物が『道(人生)』という文学的なことば使いをするでしょうか?この愚か者には自分の人生を達観する能力はないはずです。自分の失敗はすべて他人の責任、他人の成功は自分の手柄。『オレがやることに一度だって間違いはないんだ』と、うぬぼれる、そういう人物です。日本語の『道』ということばには、詩的、哲学的、内面的なイメージがあります。『道』ということばを、この愚か者に語らせたのでは不釣り合いですよね。『デレック=道』と訳語を固定してはいけません。この文脈では『方法』という意味に変化しています。

また15節は、愚かな人の目と、知恵ある人の耳と、目と耳を対比する表現になっています。ヘブライ語では目(アーイン)は罪の誘惑を象徴します。創世記3:5~6に、ヘビは『その木の実を食べると目(アーイン)が見えるようになるんだよ』とエバをそそのかし、エバの目(アーイン)にも『本当、美味しそう。賢くなれそう』と映った・・・とあります。マタイ5:29には『もし、右の目(ギリシャ語 オフサルモス)が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい』とあります。聖書を見ると『目』は罪の入り口、誘惑の象徴として使われています。



聞くという動詞シャマ(shama)は創世記3:8で使われていて『アダムとエバが、主の声を聞き(シャマ)また、主が園の中を歩いて来るのを知って・・・隠れた』とあります。

1サムエル15:22 新改訳
・・・「主は主の御声に聞き従うこと(シャマ)ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うこと(シャマ)は、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

15節は『愚かな人はその目が節穴だ。知恵ある人はその耳を働かせる』と、目と耳の働きを象徴的に表現しています。



『なるほど。ヘブライ語では目と耳が対比される形で書かれてるんだ。日本語訳も『目と耳』ということばを使い、同じ形で翻訳しなければならないのだろうか?』これは、翻訳者が必ず直面する問題です。結論からいうと、日本語訳で『目と耳』ということばを使う必要はありません。実際にやってみると分かりますが、原文の修辞表現を訳文に持ち込もうとしてもうまくいかないものです。言語には恣意性があるので、原文の表現形式を目的言語に持ち込むことはできません。場合によっては、まあまあうまくできる場合もあるかも知れませんが、基本的にできないということです。翻訳者が訳出しなければならないのは意味です。原語の語彙、品詞、文法、修辞技法を訳文に持ち込むことはできません。

また従来の日本語訳は『忠告を聞き入れる、従う』という訳し方ですが、これでは『人の忠告には従うんだぞ。従わないとダメだぞ』という意味になります。これは間違いです。ヘブライ語、シャマ shamaは、聞くという意味です。まれに『聞き従う』という解釈になることもありますが、それは、そのように解釈せざるを得ない文脈の中で成立する解釈です。70人訳では、eisakouó(1522)ということばで、これも聞くという意味です。

まわりには、正しい忠告をくれる人がいる一方、聞き流せばいいレベルの意見もあることでしょう。他人の意見全部に聞き従う人というのは、自立(自律)していない人ということになります。神さまは、本当に、他人の意見には全て聞き従えと言ってるのでしょうか?そうではありません。ヘブライ語で語っているのは『人の意見にも耳を傾けなさい。そういう謙虚さや余裕がないとダメだよ』ということで、『他人の意見には従え』とまでは言っていません。

どちらかと言うと、日本人は八方美人で、他人の意見に左右されやすいところがあります。一方、ユダヤ人は個人の意見、個性的な意見を大切にします。ユダヤ人は、意見が対立することを悪いことだとは思っていません。盲目的に他人の意見に従うということがない民族です(ステレオタイプな見かたではありますが)。

『忠告を聞き入れる、従う』は、日本的な価値観に基づいた解釈で、翻訳者が『自文化の干渉』が起こっていることに気づかないまま、翻訳作業をしたため、こういう訳文になったのでしょう。翻訳者は、『自文化の干渉』が起こらないよう、常に自分自身をチェックしなければなりません。

以上をまとめると、15節は『自分の能力を過信するな。うぬぼれるな。人の意見に耳を傾けろ』という意味が語られています。『勧めをいれる。聞き従う。忠告を聞き入れる』は、行き過ぎた解釈です。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


『でもさあ、うぬぼれるってことば、ヘブライ語にはないよね。勝手に付け足したりしていいの?』と疑問に思う方がいると思うので説明させていただきますが、これで問題ありません。ちょっと難しい話になりますが、モダリティ(modality、秘められた心理的要素)について説明させていただきます。

2016年12月27日、安倍首相は真珠湾を訪問し犠牲となった方々に慰霊の献花を捧げました。諸説ありますが、75年前、日本は宣戦布告せず真珠湾を奇襲攻撃しました。これがきっかけとなり、アメリカは『Remember Pearl Harbor』をスローガンに、第二次世界大戦に参戦することになります。この『Remember Pearl Harbor』は『真珠湾のかたきを取る』とか『真珠湾の復讐を誓う』と、日本に対する恨み、復讐心を意味しています。

場面が変わり、日本人とアメリカ人が歴史談義をしたとしましょう。話が太平洋戦争の話題になり、アメリカ人にとって耳の痛い、広島長崎の原爆投下を日本人が持ち出したとします。すると、アメリカ人に『Remember Pearl Harbor』と切り返されました。これはどういう意味になるでしょう?ここでは『真珠湾をだまし討ちしたのはどこの国だい?』若しくは『引き金を引いたのは日本だろ』と、戦争の原因を指摘する。こうした意味で語られています。『Remember Pearl Harbor』というフレーズも文脈が変われば、意味も変わります。直訳はできません。

『Remember/ Pearl/ Harbor』それぞれのことばを辞書で調べても、日本に対する恨みつらみを示すものはどこにもありません。ところが『Remember Pearl Harbor』という一つのフレーズになると『にっくき日本!敵国日本』という恨み(モダリティ)を持つことばに変化します。このように、原文に感情表現を意味する単語がなくても、感情表現を引っ張り出さないと、正しい訳出ができない、そういう場合が多々あるのです。学校で教えるように、英文をバラバラに品詞分類し、単語の一つ一つを辞書で調べ、日本語の語順に並び替えるという、やり方では原文のモダリティを理解することはできません。

箴言12:15も『うぬぼれる』というヘブライ語はありませんが、原文には『うぬぼれる』というモダリティ(秘められた心理的要素)が潜在(せんざい)しています。日本語に訳出する時は『うぬぼれる』を言語化しないと、原文と同じ意味になりません。このように、潜在化しているモダリティを言語化する場合があれば、反対に、言語化されたモダリティを、潜在化させる(ことばを消す)テクニックもあります。箴言12:15で『うぬぼれる』ということばを入れることは勝手な付け足しではありません。むしろ高度な翻訳スキルがないとできないことです。学校で教える『直訳英語』は、目に見える文字だけを翻訳させますが、目に見えない文字だってあるんです。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。



~箴言12:16~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、すべて誤訳されています。

箴言 12:16 口語訳
16 愚な人は、すぐに怒をあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。

箴言 12:16 新共同訳
16 無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している。

箴言 12:16 新改訳2017
16 愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。

箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。


אֱוִיל בַּיֹּום יִוָּדַע כַּעְסֹו וְכֹסֶה קָלֹון עָרוּם
エビール バヨーム イーバダー カッソー ベホッセ カローン アルーム

אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
בַּ֭יּוֹם ヨーム yom(3117) day、日、一日、一日中
יִוָּדַ֣ע ヤダ yada(3045) 知る、(意思、感情、才能を)あらわす(to make oneself known)
כַּעְס֑וֹ カハス ka'ac(3708) くやしさ、落胆、イライラ、こころ傷つく
וְכֹסֶ֖ה カッサー kasah(3680) おおいを掛ける、おおい隠す、隠す、服を着る
קָל֣וֹן カローン qalon(7036) 恥知らず、不名誉、恥、みっともない振る舞い
עָרֽוּם アルーム arum(6175) 抜け目ない、ずる賢い、要領が良い、機転が利く

16節前半『カハス』を従来の日本語訳は『怒りをあらわす』と訳出していますが、『カハス』は傷つきやすい心の持ち主が『私は傷ついた』と落ち込んだり、プンプン怒る。イライラを、表情や態度に表すという意味です。『怒り』ではなく『イライラする』という意味です。

人間である以上、誰だってイライラすることはあります。この箴言は、こうした感情そのものを否定してはいません。イライラする感情をコントロールすることなく、表情や態度に表すのはみっともないよね。周りの人の気持ちも考えようよ。もっと要領よく自分の感情と付き合おうよ。そういう意味です。

16節後半『アルーム 要領が良い人』は、15節後半の『ハッハーム 知恵ある人』と並行関係にあります。ここは全く同じ意味ではなく、違う意味を表す目的で『アルーム』が使われています。アルームは『ずる賢い、抜け目ない』というチョイワル感を含んでいます。エバを騙した蛇はずる賢かった(アルーム)とあります(創世記3:1)。『アルーム』は単なる『知恵ある人』ではなく『要領が良い人』という意味です。

従来の日本語訳は『知恵ある人は、侮辱されても我慢する』という意味に解釈していますが、これは全然意味が違います。原文の輪郭を把握していないからこういう誤訳が生まれるのです。



『あらわす⇔隠す』と、反対の意味を持つ動詞を使っています。愚かな人は『イライラした態度をあらわす』。⇔要領が良い人は『みっともない態度はあらわさない』という形になっています。ヘブライ語はこうした、二者を対比した表現を好みます。英訳聖書でも『要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない』と訳出しているものは沢山あります。従来の日本語訳が『はずかしめを受けても黙っている』と解釈してきたのは間違いです。この翻訳をした先生というのは、神学者や聖書学者の中から選ばれし翻訳者ということなのでしょうが、文法的に難しさがあるところでもないのに、誤訳するのが不思議でなりません。日本語訳をおこなった翻訳委員会のレベルが極めて低いということです。


箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。



日本の聖書翻訳には、ヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の最高の腕を持つ翻訳者が選ばれていると、私は信じていましたが、残念ながら、間違っていたようです。率直に申し上げますが、日本語訳聖書の翻訳レベルは中学生レベルです。プロとしての腕前には遠く至っていません。翻訳技術を持たない神学者が翻訳者として採用され、商品に値しない翻訳聖書が市場で売られる。その一方、翻訳者や理事はきっちりと報酬を受け取り、『聖書翻訳者』という肩書も得ることができます。日本の聖書翻訳事業というのは、神学者には大変都合のよい構造になっているようです。現在、新たな聖書翻訳が進められていますが、日本の聖書翻訳の恥をさらす(イーバダー カローン)ということのないようにしていただきたいものです。

私はヘブライ語を習ったことは一度もありません。ヘブライ語については全くのド素人です。聖書翻訳に携わるセンセイ方のほうが、ヘブライ語については、比べ物にならないほど見識がおありだと思います。にも関わらず、エラー、誤訳となっているところが驚くほどたくさんあります。それは、原文解釈をする時の、目の付けどころが間違っているからです。また、基礎的な学習、基礎的なトレーニングをおこなっていないからです。通訳や翻訳をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学の知識が必要です。更に、頭で理解するのではなく、自分の体を使い体で覚えるトレーニングも必要です。そのためには通訳の現場経験を重ねることが一番効果的です。こうした学習やトレーニングを重ねることで通訳スキルを身に付けることができます。通訳者が、正しい通訳スキルを身に付けていれば、やがて『正しい言語観』も身に付けることができます。正しい言語観を身に付けていれば、どんな外国語でも習得することが可能になります。

プロとして通訳や翻訳をする人は沢山いますが、通訳スキルを身に付けている人、正しい言語観を持っている人というのは、ほとんどいないようです。このことは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただきました。日本の大手新聞社で働く翻訳者たちが、結構大きな間違いをおかしています。興味がある方はお読みください。

『へえ、翻訳ってこういう風にやるんだ。翻訳スキルというのは、大事なものものみたいだな』と感じていただけたらありがたいのですが。『ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ10:8』このみことばに促され、神さまから与えられた通訳技術をブログで公開させていただいています。通訳や翻訳をされる方の一助になれば幸いです。