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(000)神の子とネフィリム 創世記6章4節

2018年04月24日 | 創世記



創世記6章4節の日本語訳をご覧ください。とんでもないことが書いてあります。

文語訳 創世記6:4
當時(このころ) 地にネピリムありき 亦(また) 其(その) 後(のち) 神の子 輩(たち) 人の 女(むすめ)の所に入りて子女(こども)を生(うま)しめたりしが其(それ)等(ら)も勇士(ゆうし)にして古昔(いにしへ)の名聲(な)ある人なりき

口語訳 創世記6:4
そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

新共同訳 創世記6:4
当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

新改訳 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。


『神の子が人間の女に子どもを生ませた』『神の子が人間の女に、ネフィリムを生ませた』何ですか、このふざけた訳文は更に、神学者のセンセイたちは『神の子、ネフィリム』とは、『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』などと、馬鹿げた解釈をしています。これじゃ『聖書なんか神話だよ。聖書は作り話だよ』といってるようなものです。日本語訳聖書も、聖書解釈も、いずれもデタラメです。『直訳、トランスペアレント訳』で翻訳するから、とんでもない誤訳になるのです。創世記6:4は、『直訳、トランスペアレント訳』が、言語学上間違った翻訳方法であることを実証する個所です。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 創世記6:4 
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


この記事の目次
・輪郭を描く
・創世記6:4ヘブライ語
・神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈
・ラヘムの解釈
・ハッギボリーン、ハッシェームの解釈
・間違った翻訳理念


~輪郭を描く~

翻訳をおこなったセンセイと神学者のセンセイは、既存の聖書解釈や神学に洗脳されています。人間が作った聖書解釈は、一度頭の中から消し去って、聖書に書かれてることを素直に解釈してください。そうすれば、何が正しいかはっきりと分かります。ネフィリムということばが現れるのは、創世記6章と民数記13章です。ここから、ネフィリムの輪郭を描いてみます。創世記6章は、大洪水のお話しで、1~7節は、神さまが大洪水を起こすことになった原因が書かれています。新改訳の訳文は、誤訳悪訳が含まれていますが、取りあえず、そのまま引用させていただきます。

新改訳 創世記6:4~7
4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

神学者のセンセイ、よくご覧ください。大洪水の原因は『人間による悪のまん延』です。『天使、堕天使、サタン、宇宙人』に関する記述はどこにもありません。大洪水のお話しと『天使、堕天使、サタン、宇宙人』は無関係です。また『巨人、カインの子孫』に関する記述もどこにもありません。ですから『巨人、カインの子孫』と大洪水も無関係です。何の関係もありません。

次、民数記13章にも『ネフィリム』が登場するのでご覧ください。イスラエル民族がカナンの地を攻め取る前、モーセは偵察隊を送り込みます。任務を終えた偵察隊は次のように報告します。

新改訳 民数記13:28、13:33 偵察隊のことば
28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

先ず、偵察隊の『ネフィリム人を見た』は虚偽報告だと分かりますよね。ノアの洪水でネフィリムは全滅したのですから、モーセの時代に生きてるはずがありません。『ネフィリム人を見た』は、カナン占領に乗り気でない連中が、見てきたことに尾ひれを付けて言ったデマカセです。次の申命記1章は、モーセが偵察隊の虚偽報告を非難したことばです。

新改訳 申命記1:28 モーセのことば
私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た』と言って、私たちの心をくじいた。」

ここで、モーセは『ネフィリム』ということばを削除しています。もし、カナンにネフィリムが本当にいたのであれば、モーセは『偵察隊はネフィリムを見たと言い、私たちの心をくじいた』と言っていたはずです。モーセが、ネフィリムについて言及しなかったのは、それが根も葉もない嘘であるとモーセが知っていたからです。偵察隊の虚偽報告に神さまも怒り、カナンの地に入ることが許されたのは、ヨシュアとカレブ・・・になったということです。

『ネフィリム人を見た』これが虚偽報告であることは、ヨシュア記で明確になります。モーセの後継者ヨシュアは、実際にカナンを占領しますが、ヨシュア記に『ネフィリムと戦った』という記述は、どこにもありません。『ネフィリムを見た』は、デマカセだったということです。

先ほどの民数記13:33に『自分たちはいなごのようであった』とありました。『これは、ネフィリムと偵察隊の身長差が大きいことを示す比喩だ。ネフィリムは巨人であった』と解釈する学者が多くいますが、これも間違った解釈です。ヘブライ語で『いなご ハガーブ』が比喩として使われる場合、大小の比較ではなく、『手足のか細いこと、貧弱さ、無力さ』を象徴するものとして引用されるのです。

ここで整理をします。創世記6章、洪水の原因は『人間による』悪のまん延であって、『天使、堕天使、サタン、宇宙人』は無関係だということ。また、創世記6章、民数記13章、申命記1章の中に『カインの子孫、巨人』についての記述はありません。ですから、これとネフィリムも無関係です。ネフィリムは大洪水で全滅しているのですから、モーセの時代に生き残っているはずがありません。原文の輪郭が設定できれば『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人』こうした、デタラメな解釈は生まれないのです。この様に、ヘブライ語の語学知識がなくても、原文の輪郭を設定することができます。以下、ヘブライ語を詳しく見てみましょう。

『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人』説は却下!



~創世記6:4ヘブライ語~

Biblehub 創世記6:4
発音 aoal.org
הַנְּפִלִ֞ים הָי֣וּ בָאָרֶץ֮ בַּיָּמִ֣ים הָהֵם֒ וְגַ֣ם אַֽחֲרֵי־כֵ֗ן אֲשֶׁ֨ר יָבֹ֜אוּ בְּנֵ֤י הָֽאֱלֹהִים֙ אֶל־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם וְיָלְד֖וּ לָהֶ֑ם הֵ֧מָּה הַגִּבֹּרִ֛ים אֲשֶׁ֥ר מֵעֹולָ֖ם אַנְשֵׁ֥י הַשֵּֽׁם׃

ハンネフィリム ハユー バアレツ バイヤミーム ハヘム ベガム アハレヘン アシェル ヤボーウー ベネ ハエロヒム エルベノート ハアダム ベヤレドゥー ラヘム ヘンマー ハッギボリーン アシェール メオーラム アンシェー ハッシェーム

創世記6:4の輪郭は、下図のようになります。


解釈文(訳文ではありません)
ある時、ネフィリムが現れ全地に広がった。
連中は結婚し、子どもが生まれた。子どもたちは親の悪いおこないを受け継いだ。
子どもたちも悪事をおこない、悪名を轟(とどろ)かせた。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。



『ネフィリムとは、天から落ちてきた者、堕落した者という意味だ』と間違った説明をする方が多くいます。辞書でネフィリムの意味を調べると、代表される定義として『fall』が書かれています。直訳グセが染み付いた方は『ネフィリム=fall=落ちてきた者=堕落した者』こういう理解をするようです。通訳翻訳で直訳をすると必ず誤訳になります。また辞書も人間が作ったものですから、間違った説明、悪い説明が載ってる場合もあります。辞書を100%信用することはできません。創世記6章の文脈で、名詞ネフィリムは『暴力で人を支配する者』という意味で、これはナファール『武力で人を屈服させる』という動詞から派生しています。以下、ことばの定義をご覧ください。

הַנְּפִלִ֞ים ハンネフィリム(5303) Strong's Exhaustive Concordance
弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者、語源となる動詞ナファール

נָפַל ナファール(5307)動詞 Biblehub.com
武力を使う、人を屈服させる、悪人

הָי֣וּ בָאָרֶץ֮ ハユー バアレツ(1961、776)熟語
全地に広がる、全地を覆う

בַּיָּמִ֣ים הָהֵם֒ バイヤミーム ハヘム(3117、1992) 慣用句
その時、ある時、その頃、当時

וְגַ֣ם ベガム(1571)
また、更に

אַֽחֲרֵי־כֵ֗ן アハレヘン(310、3651)
~をして、~の後は

אֲשֶׁ֨ר アシェル(834)
who,that

יָבֹ֜אוּ ヤボーウー(935)
結婚する、めとる

בְּנֵ֤י הָֽאֱלֹהִים֙ ベネ ハエロヒム(1121、430)熟語
男、神に創られた男

אֶל־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם エルベノート ハアダム(413、1323、120)熟語
女、神に創られた女

וְיָלְד֖וּ ベヤレドゥー(3205)
生ませる、生む

לָהֶ֑ם ラヘム(1992)
~と同じような

הֵ֧מָּה ヘンマー(1992)
they、~のように

הַגִּבֹּרִ֛ים ハッギボリーン(1368)
ならず者、ゴロツキ、強者(つわもの)、勇士

אֲשֶׁ֥ר アシェール(834)
who, which, that

מֵעוֹלָ֖ם メオーラム(5769)
当時、昔の

אַנְשֵׁ֥י アンシェー(376)
連中、やから、男

הַשֵּֽׁם׃ ハッシェーム(8034)
悪名、名前、高名


6章4節を解釈するポイントが三つあるので、詳しく説明させていただきます。
・神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈
・ラヘムの解釈
・ハッギボリーン、ハッシェームの解釈


~神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈~

『ベネ ハエロヒム』は、忌避の規則によって、ハンネフィリムの代用語になっているので(上図参照)、ネフィリムと『ベネ ハエロヒム』は同一人物です。また『ベネ ハエロヒム』と『エルベノート ハアダム』は特殊な表現で、創世記2章が引用されています。

新改訳 創世記2:7
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

ベネ ハエロヒム⇒神に創られた男⇒ネフィリム

新改訳 創世記2:22
神である主は、人(=adam)から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人(=adam)のところに連れて来られた。

エルベノート ハアダム⇒アダムから創られた女⇒女子一般を指す



神学者は『ベネ ハエロヒム=the sons of God=神の子たち』と直訳してきましたが、聖書に『神さまに長男がいた。長女がいた』と書かれているでしょうか?そんなことは書かれていません。当時のヘブライ語ネイティブは『ベネ ハエロヒム』は、比喩で『神に創られた男⇒ネフィリム』という意味だと理解していました。しかし、古代イスラエル人が当たり前のように身につけた文化を、現代日本人は持っていません。『ベネ ハエロヒム⇒神の子たち』と直訳すると、『神の子とは、天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・である』こうした、デタラメな解釈が起こるのです。通訳翻訳は、文化の違いを配慮して訳文を作らなければなりません。直訳(トランスペアレント訳)は、異文化コミュニケーションを考慮しない『手抜き仕事』ですから、必ず誤訳になります。

『ベネ ハエロヒム』『エルベノート ハアダム』これは、次のようなニュアンスを含んでいます。
アダムは神に創られた、また、エバも神に創られた。人間は、本来良いおこないができるよう創られたではないか。それが、今はどうだ。悪い行いだけが親から子へ、子から孫へと引き継がれている。残念で仕方ない。

余談ですが、『ベネ ハエロヒム』これと良く似た表現が、ルカ福音書にあります。
新改訳 ルカ3:38
エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である



『アダム トゥ セウ』は『血縁上アダムは神の子である』という意味ではありません。これも比喩で『神がアダムを創った』という意味ですから『アダムは神に創られた』と訳出しなければなりません。『アダムは神の子』と直訳すると、創世記6:4と同じような誤解を読者に与えるからです。

話しを戻します。ベネ ハエロヒムの解釈をまとめると、次のようになります。
・『ベネ ハエロヒム』は、ネフィリムの代用語である。
・創世記1、2章を引用した表現になっている。
・『ベネ ハエロヒム⇒神に創られた男⇒ネフィリム』『エルベノート ハアダム⇒アダムから創られた女⇒女子一般』このように解釈する。


~ラヘムの解釈~

日本語訳も英訳も『לָהֶ֑ם ラヘム』の意味を、誤解しています。英訳聖書は『ラヘム=to them』と解釈し、『they bore children to them 女は子どもを生んだ』この様に直訳(word-for-word)しています。これは間違った解釈です。日本語訳は『ラヘム』を無視して翻訳しているので、ラヘムの意味がなくなっています。創世記6:4は、5:3の表現を引用して作られています。両者が並行関係にあると分かれば、ラヘムの意味も分かります。

創世記5:3 Biblehub.com
וַֽיְחִ֣י אָדָ֗ם שְׁלֹשִׁ֤ים וּמְאַת֙ שָׁנָ֔ה וַיֹּ֥ולֶד בִּדְמוּתֹ֖ו כְּצַלְמֹ֑ו וַיִּקְרָ֥א אֶת־שְׁמֹ֖ו שֵֽׁת׃
バイヒー アダム シェロシーム ウメアト シャナー バイヨーレッド ビッドムトー ケツァルモー バイイクラ エトシェモー シェット

私訳 創世記5:3
アダムが130歳の時、男の子が生まれた。その子が自分とそっくりだったので、セツ(そっくり)と名付けた。




6:4ラヘムは『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』という意味です。原文に『悪い性質を持った子ども』ということばがないのは、ハイコンテクストになっていて、ことばの省略が起きているからです。6:4は、ハンネフィリム(ならず者)、ハッギボリーン(乱暴者)、ハッシェーム(悪名高い)、こうした悪い印象のことばで、ネフィリムが形容されています。従って『親と同じ子ども』というのは『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』という意味になります。

またまた余談ですが、新改訳の訳文がおかしな日本語になっているので指摘させていただきます。アダムの寿命は何歳でしょうか?

新改訳 創世記5:3
アダムは、百三十年生きて、に似た、のかたちどおりの子を生んだ。はその子をセツと名づけた。

新改訳の訳文は『アダムの寿命は130歳であった・・・』という意味になっていますが、アダムは930歳まで生きています。直訳するから誤訳悪訳になるのです。『彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ』こんなおかしな日本語見たことがありません。また、短い文の中で『彼』を3回も使っていますが、『彼』を一切使わなくても日本語を作ることができます。日本語は、基本的に人称代名詞を使ってはいけない言語です。私訳は、次のようになります。

私訳 創世記5:3
アダムが130歳の時、男の子が生まれた。その子が自分とそっくりだったので、セツ(そっくり)と名付けた。



~ハッギボリーン、ハッシェームの解釈~

日本語訳聖書をご覧ください。『勇士、英雄』『名がある、有名、名高い』と翻訳されています。

文語訳 創世記6:4下
・・・勇士にして古昔(いにしへ)の名聲(な)ある人なりき

口語訳 創世記6:4下
・・・彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

新共同訳 創世記6:4下
・・・大昔の名高い英雄たちであった。

新改訳 創世記6:4下
・・・これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

これを読んだ読者は『ネフィリムは、良い人なんだ!正義の味方なんだ!』と理解しますよね。従来の日本語訳聖書は、どれも誤訳しています。



創世記6:1~7は、大洪水が起こされたのは、人間の悪がまん延したからだという内容が書かれています。であれば、この文脈の中で『正義の味方ネフィリム様が登場』するのは、すっとんきょうですよね。ネフィリム様が、悪人をバッタバッタとやっつけたのでしょうか?そんなことは書かれていません。

ハッギボリーンは、文脈によって『勇士』という意味があれば『乱暴者』という意味にも変化します(ホセア10:13 但し、従来の日本語訳聖書は誤訳しています)。また、ハッシェームは、文脈によって『高名な』という意味があれば『悪名高い』という意味に変化もします(エゼキ22:5 汚名)。創世記6:4は『人間の悪がまん延した。けしからん』という文脈ですから『悪名をはせた乱暴者』という意味になります。

以上、検討してきた内容をまとめてみます。
・ネフィリムは『悪名をはせた乱暴者』
・ベネ ハエロヒム『神に創られた男⇒ネフィリム』
・ラヘム『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』
・『ハッギボリーン 乱暴者』『ハッシェーム 悪名高い』

創世記6:4は、次のように翻訳しなければなりません。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。
※ネフィリム:弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者、乱暴者


新改訳(誤訳) 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

従来の日本語訳聖書は『神の子が人間の女に子どもを生ませた』『神の子が人間の女に、ネフィリムを生ませた』と誤訳してきました。また、神学者は『神の子、ネフィリム』とは、『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』などと、馬鹿げた解釈をしてきました。この様に日本語訳聖書は、間違った翻訳が100年にわたり引き継がれています。日本の中から選ばれし翻訳者が、100年かかっても誤訳が訂正できないのは、なぜでしょう?それは『直訳、トランスペアレント訳』という、間違った方法で翻訳してきたからです。


~間違った翻訳理念~

新改訳の翻訳理念をご覧ください。青字は私見です。
新日本聖書刊行会 聖書翻訳の理念より引用

1.聖書信仰
聖書を誤りなき神のことばと告白する、聖書信仰の立場に立つ。
⇒刊行会がいう、聖書信仰とは、過去、翻訳されてきた聖書のことで、原語で書かれた底本のことではない。既存の翻訳聖書に信仰の基盤を置いているため、既存の翻訳に間違いがあっても、訂正することがタブー視され、過去の誤訳が延々と引き継がれている。従来の日本語訳聖書はいずれも以下の誤訳を引き継いでいる。『神の子が人間の女に子どもを生ませた。創世記6:4』『イザヤは不倫をして子どもを生ませた。イザヤ8:3』『信徒は不正な金で仲間を作れ。ルカ16:9』。これが聖書信仰に基づいた翻訳、誤りなき神のことばだと言えるのか?聖書の原文をないがしろにし、既存の翻訳や聖書解釈を偏重するから、誤訳が訂正されないのではないか。

2.委員会訳
特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳である。
⇒『神の子が人間の女に子どもを生ませた。創世記6:4』こういうデタラメな翻訳をおこなっておいて、これが神学上正しい翻訳、言語学上妥当な翻訳だと言えるのか?委員会訳が正しい翻訳だという根拠はどこにあるのか?既存の神学に適合させて翻訳したため、間違った聖書解釈が、そのまま翻訳に反映されている。『神の子やネフィリム』が『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』など、馬鹿げた解釈を作ってきたのは神学者ではないか。翻訳に神学を持ち込むから誤訳になる。両者は一線を画すべき。委員会訳が正しい翻訳で、個人訳が間違った翻訳だという印象操作は止めるべき。

3.原典に忠実
ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。
⇒新改訳創世記6:4で『ラヘム』が翻訳されていない。これは意図的な削除で、原文に安易な修正を加えている。また新改訳は『ハッギボリーン 乱暴者』『ハッシェーム 悪名高い』と訳すべきところを『ハッギボリーン 勇士』『ハッシェーム 名のある者たち』と反対の意味に誤訳している。また『イザヤは不倫をして子どもを生ませた・・・イザヤ8:1~10』『信徒は不正な金で仲間を作れ・・・ルカ16:9~13』これらも、原文の語彙、文法に手を加え原文とは全く異なる訳文が作られている。ヘブライ語、ギリシャ語に意図的な修正を加えているのは新改訳である。こうした誤訳をしておいて新改訳が『原文に忠実』だといえるのか?翻訳には『原文の輪郭設定、ハイコンテクストの解釈、モダリティの解釈、忌避の規則の解釈、コロケーションの理解、原文放棄・・・』こうした作業が必要になる。翻訳は、単語から単語に直訳することではない。直訳、トランスペアレントという翻訳方法が原文に忠実であるというのは、デタラメ。現代言語学は『直訳、トランスペアレント訳』を否定する。

4.文学類型
行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする。
⇒これは、直訳、トランスペアレント訳が、正しい翻訳方法であるかのような印象操作に過ぎない。新改訳 イザヤ書8章1~10節は、原文と異なる訳文が作られていて、ヘブライ語の文法に手を加え、主語の入れ替えまでやる作為的な異訳をおこなっている。ルカ16章9~13は、文法や語彙の解釈からして、あり得ないほどの超意訳で翻訳し、全く意味が異なる誤訳になっている。行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳をおこなっているのは、新改訳聖書で、理念と実際の訳文に整合性がない。また、聖書の『文学化』が強調されるため、難解で意味不明な表現を生み出している。『文学』の強調は、読者にとって何の益もない。

5.時代に適応
その時代の日本語に相応しい訳出を目指す。
⇒これは形骸化した理念。新改訳 創世記6:4『神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができた・・・』このヘンテコな訳文が現代の日本語だというのか?新改訳 創世記5:3『アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた』こんなおかしな訳文が日本語か?新改訳の訳文は、意味不明なものが多く、現代日本語とはかけ離れたものになっている。

6.今後も改訂
聖書研究の進展や日本語の変化に伴う必要な改訂を行う。
⇒正しい翻訳聖書がなければ、神学が正しく研究できるはずがない。原文解釈がなおざりにされたまま放置されてる一方、聖書解釈や神学が先行してドンドン作られる。だから、聖書の原文と神学に乖離(かいり)が生まれる。根拠が希薄な神学の成果をもって、原文解釈を変えようとするのは本末転倒である。原文解釈の進展に伴って神学が変わる、これが本筋だろう。原文(神のことば)は神学の僕(しもべ)ではない。神学を偏重する姿勢を改めないと、いつまでたっても正しい翻訳は生まれない。



神学者のセンセイ、間違った翻訳、間違った聖書解釈が作られてきた原因は、神学者が神のことば(原文)から権威を奪い、人間が作った神学(聖書解釈)の方に権威を与えてきたからです。新改訳の翻訳理念に、そのことが表れてるではありませんか。これは神学の偶像化で、かつて、パリサイ派や律法学者が陥った二の舞を演じているのです。

申命記4:2
私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

黙示録22:18~19
18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

マルコ7:6~8、7:13(マタイ15:7~9)
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。


(000)神の子と人の娘がご乱行? 創世記6章1節

2018年04月23日 | 創世記






新改訳第三版 創世記6:1~2
1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

新改訳聖書は『地上の人口が増えた。神の子は地上の女と結婚した』こういう解釈をしていますが、全く意味が違います。創世記6章は、大洪水のお話しが書かれていて、1~6節は、大洪水が起こされた『原因』が書かれているのですが、従来の聖書はここがきちんと翻訳されていません。ヘブライ語が語る『意味』は、次のようになります。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。


なぜ、こういう訳文ができたのか、説明させていただきます。

この記事の目次
・ヘブライ語の記述形式
・生めよ。ふえよ。地に満ちよ
・出産4点セット
・創世記6:1 ヘブライ語
・キー・ヘッヘルの解釈
・ハアダマーの解釈
・並行表現(対句)
・性別の明示
・新改訳2017はどうなの?



~ヘブライ語の記述形式~

『聖書は直訳で翻訳するのが良い』『直訳が正しい翻訳方法である』こういう理念で聖書は翻訳されてきました。これは全くのデタラメです。プロがおこなう通訳翻訳において、単語から単語に直訳するようなことはしません。言語というのは、直訳できない仕組みになっているからです。原語と目的言語の間には、根本的な違いがあります。言語構造の違い、コンテクストの違い、文化の違い、コロケーション(定型表現)の違いなどです。文の意味というのは、単に、一つひとつの単語に分散しているのではなく、表現形式も意味を担っています。創世記6:1~2を原文解釈する場合、聖書ヘブライ語の定型表現の知識がないと理解できません。従来の日本語訳聖書、英訳聖書は、どれも、創世記6章を誤訳しています。翻訳する人物が、単語から単語に直訳することしか知らず、定型表現(コロケーション)に関する知識がないからです。ここ1~2節を解釈するのに必要な三つの表現形式、『記述形式』『人口増を祝福する時に使われる定型表現』『出産4点セット』について説明させていただきます。

先ず『記述形式』から説明させていただきます。聖書ヘブライ語は、始めに『主題』を書き、そのあと『内容』を書く。始めに『結果』を書き、そのあと『理由』を書く。こうした書き方を好みます。

ヘブライ語聖書の記述形式


自分が翻訳してるテキストが『主題』を語っているのか、又は『内容』を語っているのか、どちらなのか理解できれば、原文解釈が大きく逸れることはありません。創世記6章1節は『結果:子どもがたくさん生まれた』、2節『その理由は~』こういう記述形式になっています。



~生めよ。ふえよ。地に満ちよ~

神さまは人間を祝福し『生めよ。ふえよ。地に満ちよ』と言われました。この言い回しが所々出てきます。

創世記1:28 新改訳第三版
・・・神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・・

創世記9:1 新改訳第三版
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

出エジプト1:7 新改訳第三版
イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。



以上の文に共通して使われることばがあります。『生む パラ―(6509)、増える ラバー(7235)、広がる マレー(4390)』これら三つの動詞と、『エレツ(地)』です。この四つのことばが、ワンセットになっています。



創世記6:1を見ると、動詞『ラローブ 増える』は使われていますが『生む パラ―、広がる マレー』がありません。また、エレツの代わりに『アダマー』が使われています。ここは、祝福の定型表現になっていないので、創世記6:1の人口増加は、神さまが祝福するものではないということが分かります。



~出産4点セット~

聖書の中で『子どもが生まれた』ことをいう場合、正式な夫婦の間に生まれたこどもか、そうでないかの区別があります。以下の文は、正式な夫婦の間に子どもが生まれたことを表しています。

創世記4:1 新改訳第三版
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み・・・

出エジプト記2:21~22 新改訳第三版
21 ・・・そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。
22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。・・・

ルツ記4:13 新改訳第三版
こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

サムエル記上1:19~20 新改訳第三版
19 ・・・エルカナは自分の妻ハンナを知った。・・・
20 ・・・ハンナはみごもり、男の子を産んだ。・・・その名をサムエルと呼んだ。

イザヤ書8:3 私訳
その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。・・・


上の文は、定型表現(コロケーション)になっていて、次の4つのことばが使われています。
出産4点セット
①男性(夫)
②めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)

③女性(妻)
④妊娠し、出産する



出エジプト記だけ、形が崩れていますが、敢えてこれを載せました。定型表現が崩れた理由は、モーセとチッポラの結婚が、ユダヤ教の正式な手続きを経ておらず、正式な夫婦として認められていなかったからでしょう。モーセは血統上イスラエル民族ですが、エジプト人の文化や価値観を身に付けて育ちました。チッポラは外国人(ミデヤン人)です。モーセ夫妻がイスラエル民族の一員になるには、チッポラの改宗が必要になります。この時はまだ律法が与えられる前ですが、『モーセは外国人を妻にしている』と、ミリヤムが非難していることから分かります(民数記12章)。また、モーセ夫妻は、生まれた男の子に割礼を施していなかった(出エジ4章)ということですから、イスラエルの慣習に背(そむ)いていることが分かります。出エジプト記だけ、表現形式が崩れているのは、こうした背景があるように思います。モーセをヒーローの様に持ち上げる方がいますが、ヘブライ語聖書を見ると、イスラエルの『リーダーとして不適切な人物』として描かれています。では、創世記6:1~2が『出産4点セット』になっているかどうか、調べてみます。

出産4点セットの確認


創世記6:1~2は『4点セット』になっていないので、祝福された結婚や出産ではないことが分かります。新改訳は、次のように翻訳しています。

新改訳第三版 創世記6:1~2
1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

『妻とした(結婚した)』この様に書かれていると、読者は『これはおめでたいことだ』と理解しますよね。しかし、ヘブライ語の表現形式から分かるのは、その男女関係が『不道徳な関係、喜べない出産』であるということです。トランスペアレント訳は必ず誤訳になります。

以上、検討した内容をまとめると、原文の輪郭は、次のようになります。
・1節、結果。2節、理由。
・出産4点セットになっていないので、神さまが認めない悪い男女関係があった。
・1節、沢山の子どもたちが生まれた。2節、不適切な男女関係が原因で。

ヘブライ語の表現形式を理解していれば、この様に原文の輪郭を把握できます。



~創世記6:1 ヘブライ語~

創世記6:1
Biblehub.com
発音 aoal.org

וַֽיְהִי֙ כִּֽי־הֵחֵ֣ל הָֽאָדָ֔ם לָרֹ֖ב עַל־פְּנֵ֣י הָֽאֲדָמָ֑ה וּבָנֹ֖ות יֻלְּד֥וּ לָהֶֽם׃
バイヒー キー ヘッヘル ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー ユバノート ユラドゥー ラヘム



解釈文 創世記6:1
その後、世の中はひどく不道徳になった。不適切な男女関係により、多くの男児、女児が生まれた。


創世記6:2
וַיִּרְא֤וּ בְנֵי־הָֽאֱלֹהִים֙ אֶת־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם כִּ֥י טֹבֹ֖ת הֵ֑נָּה וַיִּקְח֤וּ לָהֶם֙ נָשִׁ֔ים מִכֹּ֖ל אֲשֶׁ֥ר בָּחָֽרוּ׃
バイイルウー ベネー ハエロヒム エト ベノート ハアダム キー トボート ヘンナー バイイクフー ラヘム ナシーム ミコール アシェール バハールー



解釈文 創世記6:2
アダムとエバは、本来、正しく振る舞えるよう神に創られたではないか。それが今では、男たちは女性をつかまえて凌辱するようになった。女性は魅力的であったので、皆が被害にあった。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。



創世記6:1~2 ヘブライ語が語るイメージ




~キー・ヘッヘルの解釈~

1節を解釈する上で、重要なことばが二つあります。『キー・ヘッヘル』と『ハアダマー』です。これは、とても悪い印象を持つことばですが、従来の翻訳聖書は、このキーワードを誤解しているので、間違った翻訳になっています。

キー・ヘッヘルとハアダマー


一つ目のキーワードは『キー・ヘッヘル』で、これは『実にけがれてる、実に不道徳だ』という意味です。創世記1章、天地創造の場面で『キー・トーブ 実に良かった』が繰り返し使われていますが、『キー・トーブ 実に良い』の対義語が『キー・ヘッヘル 実にけがれてる』になります。『キー』は、強調、強意で『実に、全く、とても』という意味です。

כִּי キー(3588) 辞書に間違いあり
強調、強意、実に、全く、とても

『ヘッヘル』は『けがれる、不道徳をおこなう』という意味です。

חָלַל ハラール、ヘッヘル(2490) 辞書に間違いあり
けがす、悪事に染まる、辱める、侮辱する、名声を落とす

『キー・ヘッヘル』は『(世の中は)実に不道徳に(なった)』という意味です。ところが英訳は『when~began to』と誤訳し、新改訳は『始め~したとき』と誤訳しています。全然意味が違います。ヘブ-英辞書が間違った定義を載せていることが原因です。

英訳、日本語訳聖書 ヘッヘルの誤訳


ヘッヘルがどの様な意味を持つのか、実際に使われた文を見てみます。
エゼキエル20:9 ヘッヘル


私訳 エゼキエル20:9
もし、あの時、イスラエルを見捨てていたら、私の名声は地に落ちたことであろう。しかし、約束通りイスラエルをエジプトから救い出すことで、私が万物の主であることを諸国の王に示したのだ。


『ヘッヘル』は『主の名が侮辱される、主の名声が地に落ちる』という意味で使われています。そもそも、ヘッヘルに『begin 始め』という意味は存在しません。長い間、神学者や聖書学者が、間違った定義を辞書に載せ、間違った翻訳をおこなって来たのです。『キー・ヘッヘル』は『実にけがれてる、実に不道徳だ』という意味です。



~ハアダマーの解釈~

二つ目のキーワードは『ハアダマー』です。ヘブライ語で『土、土地、国土・・・』を意味することばに『エレツ』と『アダマー』があります。『エレツ』と『アダマー』は異なるニュアンスがあって、文脈によって使い分けられています。使用頻度からすると、エレツを使うことが圧倒的に多いのですが、たまにアダマーが使われます。『アダマー』が出てきたら、要注意。『アダマーは、あらまあ!』覚えやすいでしょ。

アダマーとエレツの使い分け


創世記6:1は、アダマー(ハアダマー)が使われているので、人間の不道徳や罪について書かれていることが分かるのです。



~並行表現(対句)~

1節後半は、同じような表現が繰り返されています。『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー』と『ユバノート ユラドゥー ラヘム』です。これは並行表現で、同じような意味を、違うことばに置き換え表現されています。



始めに『ユバノート ユラドゥー ラヘム 女児も同じように生まれた』に着目します。ユバノートは『複数形、娘、女性、女児』などの意味があります。この文脈における意味は『女児、女の子』という意味です。なぜそういう解釈になるかというと『ユラドゥー 生まれた』という動詞が使われているからです。普通、生まれてくるのは、大人じゃありませんよね。『こども、赤ちゃん』です。従って『ユバノート ユラドゥー ラヘム』は『女児も同じように生まれた』となります。同じ解釈を『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー』に当てはめると『沢山の男児が地上に生まれた』こういう解釈になります。

動詞の解釈に注意が必要です。『ラローブ 数が増えた』と『ユラドゥー 生まれた』は、似ている意味のことばが使われています。二つの動詞は、別々の事柄を説明しているのではなく、同じ事柄を別のことばで言い換えているのです(忌避の規則、代用語の使用)。『沢山の男児が地上に生まれた。同様に、多くの女児も生まれた』こういう意味になります。



~性別の明示~

ヘブライ語は『男児が生まれた~』『女児が生まれた~』と、わざわざ男と女を分けて表現しますが、日本語は、そうした区別はしません。言語によって、表現方法が違うのです。



実務的な話しになりますが、翻訳は文字数との戦いでもあります。限られた文字数の中に、原文の意味を凝縮させなければならないからです。『性別の明示』で表現された文を、日本語に翻訳する場合、文字数を確実に減らすことができます。これは、使わなければならないテクニックです。従来の日本語訳聖書で、こういう翻訳手法が使われていないのは、基礎的な知識もスキルもない人物が翻訳をおこなっているからです。

ここまで検討した内容をまとめます。
・キー・ヘッヘルは『(世の中は)実に、不道徳に(なった)』という意味。
・ハアダマーが使われてるので、1節は、人間の不道徳や罪について書かれている。
・1節後半『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー ユバノート ユラドゥー ラヘム』は『多くの男児、多くの女児が生まれた』という意味。
・ヘブライ語では性別を明示する表現になっているが、これを直訳してはいけない。

解釈文 創世記6:1
その後、世の中はひどく不道徳になった。不適切な男女関係により、多くの子どもが生まれた。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。




~新改訳2017はどうなの?~

2017年秋、新改訳2017が出版されました。『新改訳2017 特徴』が、次のように謳(うた)われています。

3.原典に忠実
ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。

1.翻訳理念の継承による改訂
従来の日本語の聖書翻訳においては、それまで使用されていた翻訳聖書の翻訳理念が受け継がれずに、全く新しい形で翻訳がスタートする、という形が常でした。そのため、大正改訳 → 口語訳のように、翻訳原則そのものが変更されるということも起こっていました。新改訳2017はこの反省に立ち、一つ前の第三版までの大きな翻訳理念を継承し、その上であらたな時代に相応しい訳として大改訂を行う、という方針を執っています。今回の大改訂では、聖書全体33,000節のうち、9割の節に何らかの修正や変更が加えられています。

2.第三版から継承した特徴
原文が透けて見える(トランスパレントな)訳
新改訳が目指しているトランスパレント(transparent)な訳は、日本語と文章の読みやすさを犠牲にすると考えられがちです。確かにそのような側面もないわけではありません。しかし、トランスパレントであるがゆえに、原文の意味が日本語文にも鮮明に浮き上がるようにすることが可能であると考えています。原文に忠実であり、かつ日本語として自然な文章が可能である、という立場に立って、日本語の面からの検討が進められています。

3.今回の大改訂での変更
文脈の流れを重視
従来の新改訳では、それぞれの節は正しい訳になっていても、節と節の間の関係が分かりにくいケースがありました。一般に、節ごとに文法的な修飾関係のみに基づいて訳出すると、節間のつながりが分からなくなる場合が多くあります。今回の改訂では、複数節にまたがる情報の流れに注目し、原文における情報の提示順序を意識しながら、訳文の検討を行っています。


新改訳2017は、本当に原文に忠実に翻訳されているのか、見てみましょう。
新改訳2017 創世記6:1~2
1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。


2017の訳文は、誤訳されているので、原文に不忠実な翻訳です。2017が、第三版からどのように変更されてるか見てみましょう。

新改訳第三版と2017の比較


上の図から分かる通り、『2017』はどうでもいいようなところを、訂正したに過ぎません。2017は『聖書全体の9割を変更した大改訂』だと自慢していますが、重箱の隅をつつくような訂正をおこなったところで、間違った意味で翻訳されていたら、何の意味がありますか?創世記6:1~2は誤訳されたままではありませんか。新改訳は『原文に忠実に翻訳』されていません。『原文が透けて見える』とか『原文の意味が日本語に鮮明に浮き上がる』というのもウソです。翻訳理念がデタラメなんです。新改訳の訳文を読んで、どこに『キー・ヘッヘル』が使われてるか透けて見えるでしょうか?『アダマーとエレツ』の違いが透けて見えますか?透けて見えないですよね。『トランスパレントは、原文の意味を変えてしまう』『トランスパレントは、原文に不忠実で、かつ、おかしな日本語になる』。『トランスパレントは、原文が透けて見えない』これが実態です。

2017が誤訳になった原因は、次の通りです。
・新改訳の翻訳者は、ヘブライ語の定型表現を理解していない。『結果⇒理由』『人口増を祝福する時の定型表現』『出産4点セット』。表現形式を理解せず、直訳したため1節、2節の文脈につながりがなくなっている。
・訳語の選択を間違っている。『キー・ヘッヘル』は『(世の中は)実に不道徳に(なった)』という意味ですが、新改訳は『始め~したとき』と誤訳している。
・『ハアダマー』は、人間の不道徳や罪を指摘する文で使われる。こうしたことが理解されていない。
・『ラヘム』は『同じように、同じく』という意味だが、新改訳は『彼らに(生まれた)』と誤訳している。
・新改訳は、1節後半が『並行表現(対句)』になっていることを理解していない。これを理解していれば『沢山の男児が地上に生まれた。同様に、多くの女児も生まれた』こういう解釈になる。
・ヘブライ語は『男児が生まれた~』『女児が生まれた~』と、男と女を分けて表現することを好む。ヘブライ語は『性別の明示』をするが、日本語はしない。新改訳が『人が~増え、娘たちが~生まれた』と直訳したのは、言語によって表現形式が異なることを理解していないから。

2017を翻訳した人物は、翻訳のイロハも知らない素人です。プロの翻訳者として基礎的な知識がない。訓練もされてない。プライドが高いので、謙虚に人から学ぶくことができない。誤訳悪訳をおこなっておいて、自分たちを正当化するため、デタラメな翻訳理念を吹聴しているに過ぎません。組織が大きくなり経済力を持つと、組織にこびる提灯(ちょうちん)持ちが現れます。『原子力発電所は安全です!重大事故が起きる確率なんて百万分の一に過ぎません!プルトニウムが含まれる水を飲んでも健康被害はありません!』福島の事故が起こる前、こう言い放ったのは、原子力村の御用(ごよう)学者さんでした。『聖書翻訳村』の中にも『トランスパレントは、原文に忠実な翻訳方法です。日本語として自然な文章が可能です。新改訳は原文に忠実です』とデタラメを語る、提灯学者がいるのではありませんか?翻訳をおこなう委員会は、お金と『聖書翻訳者』という肩書を手に入れることしか頭にないんじゃないですか。これじゃ『ホラッチョ神学者』が作った『ホラッチョ聖書2017』です。

もし、正しい翻訳作業をおこないたいのであれば、トランスパレントという『間違った翻訳理念を継承』してはいけません。『原文放棄』という翻訳に変えるべきです。





(000)地は茫漠としてた? 創世記1章2節

2018年04月22日 | 創世記


創世記1:1に続き、2節も誤訳になっています。日本語訳聖書は、この聖書の冒頭部を誤訳し、100年間訂正されていません。『直訳、トランスペアレント訳』で翻訳するから、誤訳になるのです。私訳は次のようになります。

私訳 創世記1:2
大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


この記事の目次

・原文の輪郭を設定する
・無の象徴
・トーフー バボーフー
・70人訳
・英訳聖書
・死の象徴
・生の象徴
・まとめ


~原文の輪郭を設定する~

『聖書と翻訳』で書いてきたことですが、原文の輪郭を設定することは、とても重要な作業です。これができれば、8割がた理解できたようなものです。


私はヘブライ語や神学の専門知識がないので、これに関しては全くの素人です。そうではありますが、ある外国語の通訳をやってきて、言語というものがどういうものなのか、原文解釈、通訳翻訳とはどういう作業なのか、理解を深めてきたつもりです。最近、聖書をヘブライ語やギリシャ語で読みたいという方は増えているように感じます。外国語を学習する時、気をつけていただきたいのは、文法や辞書に依存した学習をしてはダメだということです。こうした学習は、直訳思考を作るので、間違った原文解釈をすることになります。単語の解釈、文の構造、ヘブライ語・・・小さなものから大きなものまで『輪郭を描く』作業をやってみてください。きっと役に立ちます。というより、これができないと原文解釈はできません。

2節はどの様な仕組みになっているのでしょう。輪郭を描いてみると次のことが分かります。上図参照。
・創造三日目、大地が創られるので、2節の時点で大地は存在しない。
・トーフーとバボーフーは、同じ意味を持つことばである。同義語反復。
・ベホーシェクとテホームは、同じような意味を持つことばである。類語。
・『アルペネ テホーム』と『アルペネ ハマーイム』は、対照的に表現されている。対句。

2節は、次の3つのテーマに分かれてることが分かります。
・無の象徴 ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー
・死の象徴 ベホーシェク アルペネ テホーム
・生の象徴 ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム

原文解釈をする時、細かく文法解釈をすると、全体像を見失い必ず誤訳します。原文を読んで、翻訳者が頭の中ではっきりとイメージを作ることが肝心です。やみくもに、イメージを作ってはいけませんが、原文の輪郭が把握できれば、イメージが湧きあがるはずです。以下、無の象徴、死の象徴、生の象徴、3つのテーマ毎に、説明させていただきます。


~無の象徴~

ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー




私訳
大地はまだ、影も形もなかった・・・


創世記1:2 引用サイト
Biblehub.com
発音 aoal.org

וְהָאָ֗רֶץ ベハアレツ(776)
土地、国土、大地、陸地

הָיְתָ֥ה ハヤター(1961)
~である、~になる、~に転じる、現れる

תֹּהוּ トーフー(8414)
形がない、空っぽ、虚栄心、無秩序、荒地、使いものにならない、空想

בֹּהוּ バボーフー(922)
空っぽ、空虚、無駄、使いものにならない


~トーフー バボーフー~

次の日本語訳を読んでも意味が分かりません。

文語訳 創世記1:2
地は 定形(かたち)なく 曠空(むなし)くして・・・

口語訳 創世記1:2
地は形なく、むなしく・・・

新共同訳 創世記1:2
地は混沌であって・・・

新改訳 創世記1:2
地は茫漠(ぼうばく)として何もなかった・・・

新改訳は『地は茫漠として何もなかった』と訳しました。これを読んだ読者は、どのような景色を思い浮かべるでしょうか?



『茫漠』ということばは、次のように定義されています。『広々としてとりとめのないさま。例文 茫漠たる砂漠地帯』goo辞書より引用。新改訳の訳文は、天地が創られる前、既に『広々としてとりとめのない大地』が存在していたという意味になっています。また、どの日本語訳も『定まった形がなく、荒涼たる大地が存在していた』という表現になっていますが、これでは文脈に矛盾する表現になります。何故なら、天地創造の三日目初めて大地は創造されるのですから、この時点で、大地は存在していないからです。



ヘブライ語を調べなくても『大地が存在していたと翻訳する聖書は誤訳だ』と分かりますよね。『形なく、むなしく』『茫漠として何もなかった』これは、ヘブライ語『トーフー バボーフー』を直訳したものです。トーフーもバボーフーも、それぞれ『ない、存在しない』という意味のことばで、同じ意味のことばが繰り返される、同義語反復になっています。『トーフー バボーフー』はセットで解釈しなければなりません。『ないよないよ、なんにもないよ』という意味です。従って『ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー』は『大地はまだ、影も形もなかった・・・』という意味です。これだと天地創造の文脈に合いますよね。日本語訳は『トーフー=形がない』『バボーフー=むなしい』と一語一語直訳(トランスペアレント訳)したから、誤訳になったのです。

日本語訳をおこなったセンセイは『トーフー バボーフー』の意味が理解できないようですから、もう少し、説明させていただきます。


~70人訳~

ヘブライ語『トーフー バボーフー』が、ギリシャ語では『アホラトス ケイ アカタスコバストス』と訳されています。これがどういう意味なのか調べてみましょう。

70人訳 創世記1:2
αόρατος και ακατασκεύαστος
アホラトス ケイ アカタスコバストス



αόρατος アホラトス(517)
目に見えない、姿かたちがない

ακατασκεύαστος アカタスコバストス(180.2)
備わっていない、用意されてない

κατασκευάζω カタスケワッゾー(2680)
準備をする、整える、手配をする

アホラトスもアカタスコバストスも『存在しない』という意味が繰り返されています。ヘブライ語の同義語反復がきちんと表現されてます。『ないよないよ、なんにもないよ』という意味ですから『大地は影も形もなかった』という解釈になります。全く難しくありませんよね。


~英訳聖書~

英訳聖書はほとんどが悪訳になっています。原因は『word‐for‐word トランスペアレント』で訳すからです。

The earth was without form and void・・・
私訳 大地は形なく、空っぽで・・・

これは意味不明な英文で、解釈に混乱を招いています。英語の解説書を見ると『大地は、謎めいた状態で存在していた』『荒涼とした大地が存在していた』と説明されています。しかし『天地創造の前から荒涼とした大地があった』という解釈は根本的に間違っていますよね。大地は三日目に創られたのですから。英訳聖書も『トーフー=without form』『バボーフー=void』と直訳(word‐for‐word)で翻訳したため誤訳になった実例です。

次の英訳は、ヘブライ語が語る意味を正しく訳出しているので、ご覧ください。
Chabad.org
Now the earth was astonishingly empty,
astonishingly empty 全く何もない
私訳 この時、大地は影も形もなかった、

以上のことから、大切なことを学ぶことができます。多くの英訳は『トーフー=without form』『バボーフー=void』と、word‐for‐wordで訳したため、意味不明な訳文となり間違った聖書解釈を生み出しました。一方、Chabad.orgは、ヘブライ語の語彙や文法通り翻訳していません。意味を訳出することに注意を注いだのです。その結果、ヘブライ語の意味を最も正しく表現できました。原文を忠実に翻訳するということは、原語の文法や語彙をコピーして、目的言語に貼り付けることではありません。

文法、語彙、構文というのは、意味を入れる器にすぎません。通訳翻訳の目的は、器の中に入った中身(意味、ニュアンス)を、移し替えることです。聖書を読む人の99%は、原語の知識を全く持たない人たちです。多くの方は、聖書が語る『意味』を知りたくて読むのであって、原語の文法を知りたくて読むのではありません。直訳(トランスペアレント訳)は、器を模倣することに終始しますが、そうすることで、器も中身(意味、ニュアンス)も、どちらも壊しているのです。新改訳の訳文をご覧ください。

新改訳 創世記1:1~2
1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

新改訳のセンセイは『トランスペアレント訳をすることで、原文が透けて見える』と、絵空事(えそらごと)をいっていますが、この訳文を読んで『なるほど、ヘブライ語の文法が透けて見えた。ヘブライ語の単語が透けて見えた』という読者がいるでしょうか?ヘブライ語の名詞には男性、女性の区別がありますが、新改訳の訳文を読んで、その区別が透けて見えるでしょうか?ヘブライ語の動詞の接頭辞接尾辞が透けて見えますか?『トランスペアレント訳をすることで、原文が透けて見える』なんてデタラメだということです。トランスペアレント訳は、読者にとって何の益もありません。直訳(トランスペアレント訳)は、原文の文法を模倣することで、器(原文の文法)も、中身(意味、ニュアンス)も、どちらも失っている。これが実態です。

意味が壊れた訳文、間違った翻訳を、聖書読者は望んでいるのでしょうか?直訳(トランスペアレント訳)された訳文は、読者を欺きます。それだけではありません。翻訳をおこなった神学者自身をも欺くのです。間違った翻訳の上に、間違った聖書解釈が作られ、間違った神学が作られているからです。

『トーフー バボーフー』を、一語一語翻訳してはいけません。熟語(慣用句)としてとらえ『大地は影も形もなかった』この様に、翻訳しなければならないのです。トーフーもバボーフーも、どちらも名詞ですよね。たった名詞二つの解釈すらできない人物が、聖書翻訳者を名乗り、誤訳悪訳をおこない、翻訳料はきっちり頂く。日本の聖書翻訳事業は、神学者によって利権化され、既得権益に成り下がっています。


~死の象徴~

ベホーシェク アルペネ テホーム




私訳
・・・深い海の底は暗やみに覆われていた・・・


וְחֹשֶׁךְ ベホーシェク(2822)
暗やみ、悲惨さ、滅亡、死、邪悪さ

עַל־פְּנֵי アル・ペネ(5921、6440)
~の上に、~を覆う、~を包む

תְה֑וֹם テホーム(8415)
奥深いところ、海の底、墓

以下の日本語訳は、何が言いたいのでしょう。読んでも意味が分かりません。

文語訳 創世記1:2
・・・黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり 神の靈 水の 面(おもて)を 覆(おほひ)たりき

口語訳 創世記1:2
・・・やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

新共同訳 創世記1:2
・・・闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新改訳 創世記1:2
・・・やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

日本語訳は『暗やみが水面上にあった。神の霊も水面上にあった。両方とも水面上にあった』という解釈をしています。


日本語訳は誤訳です。神の霊と、暗やみの位置関係を、間違って解釈しています。正しくは『暗やみは海の底、神の霊(ルアハ)は海の上』こういう位置関係を表しています。直訳やトランスペアレント訳にこだわる限り、聖書は誤訳だらけになります。



ヘブ-英辞書を見ると、アルペネは『upon the face ~の上』と解説されていますが、日本の翻訳者はアルペネに『~を覆う、~を包む』という意味があることを見落としています。創世記8章(ノアの洪水)をご覧ください。



『アルペネ テホーム 海の底を覆う』は『アルペネ ハマーイム 海の上を覆う』と対照的な関係(対句)になっています。テホーム(深いところ)というのは『海の深いところ、海の底』という意味です。ベホーシェク(暗やみ)も、テホーム(深いところ)も、死の世界を象徴することばです。『アルペネ テホーム 海の深いところは、暗黒(死)の世界』だ、『アルペネ ハマーイム 海の上は、神のいのち(ルアハ)が満ちた世界』だと、生と死を対照的に表現しています。



『ベホーシェク アルペネ テホーム』これを品詞でいうと『名詞+前置詞+名詞』です。日本の中から選ばれし聖書翻訳者は『名詞+前置詞』すら翻訳できないレベルなんですね。大学で教えるヘブライ語は『名詞+前置詞』すら教えられない、そういうレベルなんでしょうね。誤訳をするレベルが、余りにも低すぎませんか?

聖書翻訳をおこなったセンセイ、いい加減、文法書と辞書に依存した翻訳は卒業したらどうですか?文法書と辞書に依存する翻訳というのは、機械翻訳とおんなじです。機械翻訳は自分が作った訳文が、非文になろうが、文脈にそぐわなかろうが、訂正することができません。一方、人間は、自分が作った訳文に目を通し、おかしな日本語になっていたら訂正することができます。訳文を推敲(すいこう)するのは、当たり前のことです。日本語訳聖書が、おかしな日本語、文脈に合わない翻訳のまんま出版されたということは、翻訳者が意思を持たない機械よろしく、主体性がなく、判断する力がないということです。直訳をする人は、自分の頭で考えることができない思考停止に陥っているのです。教育は両刃の剣です。間違った教育(直訳主義)を施せば、間違った信念に束縛されることになるのですから。

古代イスラエル人は、大地の下に、死後の世界と巨大な水源があると考えていたようです。次の図は、古代イスラエルの宇宙観を表したものです。


ベホーシェク アルペネ テホームは『・・・深い海の底は暗やみに覆われていた・・・』という意味になります。


~生の象徴~

ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム





私訳
・・・神の息吹は風のように海原を包んでいた・・・


וְר֣וּחַ べルーアハ(7307)
風、呼吸、魂、命、霊なる神

אֱלֹהִ֔ים エロヒム(430)
神、神々

מְרַחֶ֖פֶת メラヘフェト(7363)
揺れ動く、ゆっくり動く、空に舞う、羽ばたく

עַל־פְּנֵ֥י アルペネ(5921、6440)
~の上に、~を覆う、~を包む

הַמָּֽיִם׃ ハマーイム(4325)
水、海、川、尿、精液、体液、洪水

ルアハは『風、呼吸、魂、命、霊なる神』など、様々な意味を持つことばですが、ユダヤ人は、これらの意味を、ルアハひと言でいいます。日本語訳聖書をご覧ください。愚かにも『ルアハ=霊』と訳語を固定していることが分かります。

文語訳 創世記1:2
・・・神の靈 水の 面(おもて)を 覆(おほひ)たりき

口語訳 創世記1:2
・・・神の霊が水のおもてをおおっていた。

新共同訳 創世記1:2
・・・神の霊が水の面を動いていた。

新改訳 創世記1:2
・・・神の霊が水の上を動いていた。

以上の訳文を日本人が読んだらどのように感じるでしょうか?『神の霊が水の上を動いていた。うらめしや~』という、おどろおどろしいニュアンスを感じるはずです。



日本語訳聖書は『ベルーアハ エロヒム=神の霊』と一語一訳(トランスペアレント訳)しています。『ルアハ=霊』と解釈することは、神学上正しいのかもしれませんが、翻訳上大きな問題があります。日本語の『霊』ということばは、次のような意味を持ちます。
霊 goo辞書より引用
1 肉体と独立して存在すると考えられる心の本体。また、死者の魂。霊魂。たま。「祖先の霊を祭る」
2 目に見えず、人知でははかりしれない不思議な働きのあるもの。神霊・山霊など。

現代の日本人が『霊』ということばを聞くと、『幽霊、亡霊、御霊前・・・』など、『化け物、死者の霊』と結びついた、暗く冷たいイメージを思い浮かべる、そういう方が多いと思います。一方、ヘブライ語のルアハは『神の息吹、風、いのち、魂、霊なる神・・・』と、生命を想起させるニュアンスがあることばです。

『ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム』ここは、生命の創造を予感させる、明るい表現になっていて、3節の『光の創造』の導入を担っているという側面もあります。文脈によっては『ルアハ』を『霊』と訳さなければならない場合もあるかも知れませんが、この文脈で『霊』と訳しちゃダメでしょ。日本語に訳出するということは、日本語訳を読んだ読者にどの様な心理的変化を与えるか、こうしたことに対する配慮も必要です。ヘブライ語で書かれた聖書は、本来、カラフルに表現されています。悲しみに沈む顔、喜びにあふれた顔、喜怒哀楽にあふれた表情があるのです。新改訳を長年読んでいますが、新改訳聖書って、意味不明で、ヘンテコな日本語で、陰気で、読んでいてウンザリしてきます。

ことばが持つニュアンスへの配慮が必要。


ことばには、辞書には載ってない、使い方や、ニュアンスがあります。一語一訳式にことばの意味を固定してはダメです。文脈に合わせ訳語を変えてゆかなければならないのです。ルアハは、聖書の中で377回使われることばで、聖書の思想を支える重要語ですから、脚注欄か巻末に、用語の解説を載せた方が良いと思います。

私訳
・・・神の息吹は風のように海原を包んでいた・・・
脚注
息吹:ヘブライ語、ルアハ。呼吸、風、いのち、魂、霊なる神などの意味がある。命の象徴。



~まとめ~

以上、解釈してきたことをまとめてみます。

・無の象徴 ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー
大地はまだ、影も形もなかった

・死の象徴 ベホーシェク アルペネ テホーム
深い海の底は暗やみに覆われていた

・生の象徴 ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム
神の息吹は風のように海原を包んでいた

私訳を二つ作ります。AとBどちらがイメージしやすい文でしょう?
A 大地はまだ、影も形もなかった。深い海の底は暗やみに覆われていたが神の息吹は風のように海原を包んでいた。
B 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが深い海の底は暗やみに覆われていた

どちらかというと、Bの方がイメージしやすく、Aの方がイメージしにくいと思います。直訳をする方は『ヘブライ語が表現する順番通りに翻訳しなければならない』と考えるので、Aの訳文が正しいと考えます。しかし『原語が表現する順番に従って、訳文を作らなければならない』という考えそのものが、間違いなんです。枕草子『春はあけぼの』の原文と、英訳をご覧ください。

枕草紙
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく・・・

Ivan Morris訳
In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills・・・

『春はあけぼの。』を『In spring it is the dawn that is most beautiful. 』と翻訳しています。しかし、日本語には『美しい、素晴らしい』ということばはありません。これは『勝手な付け足し』でしょうか?確かに付け足しになっていますが、『勝手な』付け足しではありません。春の章は、ハイコンテクストになっていて『美しい、素晴らしい』ということばが、省略されています。夏の章になって『をかし』が現れます。

夏の章
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし

春の章では、『をかし』が省略されていているので、読者は『春はあけぼの・・・で、それがどうしたの?』と思わされます。しかし、夏の章まで読むことで『春は夜明け前がきれいね』と理解できるシステムになっています。ところが、英語はこの日本語のシステムを直訳して表現することができないのです。

『春はあけぼの=spring is dawn』と直訳したのでは、意味が通じない非文になります。『In spring it is the dawn that is most beautiful. 』ここまで、表現しないと英語が成立しないのです。『原語が表現する順番に従って、訳文を作らなければならない』という考えそのものが、間違いだと分かりますよね。

また、形容詞の使い方は、言語によってクセがあります。英文の中で形容詞が連続する場合、これを日本語に直訳できないことは知られたことです(複数の形容詞の順序参照)。同様に『状況描写、人物描写』にも言語によって表現する順番が違うので、直訳できません。日本語の場合『海の上』を先に表現し、次『海の底』を表現した方が日本人に理解しやすい文になります。逆にすると理解しにくい文になります。創世記1:2は、Bの翻訳が相応しいと思います。

私訳 創世記1:2
大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。



次の、新改訳と私訳を読み比べてください。意味が違うのはいうまでもありませんが、『印象』も大きく違うはずです。

新改訳 創世記1:1~2
1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

私訳 創世記1:1~2
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


私訳の方が、天地創造の情景がはっきりとイメージできると思います。ヘブライ語聖書は、基本的に分かりやすいことばで書かれています。神学者や聖書学者は『聖書は難解だ。ヘブライ語は難解だ』と言ってきました。私はそのようには感じません。私が今まで見てきた範囲についていえば、聖書ヘブライ語は、理路整然と記述する言語なので文脈に太い背骨が通っています。誤解が生じないように度が過ぎるくらい、丁寧に表現されているという印象を受けます。神学者、聖書学者のセンセイ!ヘブライ語が難解なのではありません。直訳、トランスペアレント訳というやり方が間違っているのです。そして、翻訳をおこなってきた神学者が、翻訳について不勉強だから難解に感じるのです。

アダムとエバが善悪を知る木の実を食べた後、神さまが『あの木の実を食べたのか?』と尋ねると、アダムは『主よあなたが創った女が悪いんです』といい、エバは『主よあなたが創ったヘビが悪いんです』と、責任転嫁をします。聖書翻訳者や神学者がいう『ヘブライ語は難しい。聖書は難解だ』も、こざかしい責任転嫁に過ぎません。プライドが高く、自分が傷つくことを恐れてるので、素直に『自分の勉強不足』を認めることができないのではありませんか。ヘブライ語に限ったことではありませんが、通訳翻訳は、誰でもできる仕事ではありません。専門的な知識や経験が必要になります。しかし、十分に訓練された翻訳者でも、歯が立たない難解なところがあるということも事実です。そうだとしても、きちんとした技術を持った翻訳者がおこなえば、現在難解といわれる個所の95%は、明確な日本語で翻訳できるはずです。聖書の中で本当に難解といわれる個所は、現在いわれてる量の5%になるでしょう。

私訳 創世記1:1~2
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


(000)ベレシートの解釈 創世記1章1節

2018年04月21日 | 創世記


『初めに、神が天と地を創造した』は、旧約聖書の最初のページに書かれた、出だしのことばです。日本語訳聖書は、出だしから誤訳になっています。次の1~3節をお読みください。神さまが、最初に創造したものは『光』ですよね。

創世記1:1~3 新改訳
1 初めに、神が天と地を創造した。 ※天=シャマイム、地=エレツ
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

神さまが『初めに』お創りになったのは『光』です。天地創造の順番をまとめると、次のようになります。


神さまが最初(一日目)に創ったものは『光(オール)』。『天(シャマイム)』の創造は二日目。『地(エレツ)』の創造は三日目です。ということは、「初めに、神は『光』を創造した」となるのでは???従来の日本語訳をご覧ください。どれも同じ解釈をしています。

文語訳 創世記1:1
元始(はじめ)に神 天地を創造(つくり)たまへり

口語訳 創世記1:1
はじめに神は天と地とを創造された。

新共同訳 創世記1:1
初めに、神は天地を創造された。

新改訳 創世記1:1
初めに、神が天と地を創造した。

従来の日本語訳は全て誤訳。正しくは、次のように翻訳しなければなりません。

私訳
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。・・・



この記事の目次
・輪郭を設定する
・ヘブライ語を見る
・ギリシャ語(70人訳)を見る
・英訳聖書を見る


~輪郭を設定する~

聖書ヘブライ語には、独特の表現形式があります。モーセ五書、各書簡の書き出しをピックアップしました。お決まりのパターンになっていることに、気が付くでしょうか?創世記2:4~5は、創世記の出だしではありませんが、創世記1:1~2の表現形式が踏襲(とうしゅう)されているので、ここに載せました。創世記2:4~5に、創世記1:1~2を解釈するヒントがあります。

出エジ1:1~2 新改訳
1 ・・・イスラエルの子たちの名は次のとおりである。
2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。

レビ記1:1~2 新改訳
1 主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え・・・

民数記1:1~2 新改訳
1 ・・・主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ・・・

申命記1:1~2 新改訳
1 これは、モーセが・・・アラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。
2 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。

創世記2:4~5 新改訳
4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
5 地には、まだ一本の野の潅木もなく・・・

お決まりの形式が見えたでしょうか?1節で大まかなテーマを記述し、2節で補足説明をするという形です。1節と2節の間に、接続詞(副詞)を入れてみると、より明確になります。下の表にまとめてみました。



各書簡とも1節と2節は、意味的に補完し合う関係になっていることが分かります。この形式を創世記1章に当てはめると、接続詞の欄に『その当初、その始め、その時』ということばが入ることになるのですが、これがベレシートの意味になります。ヘブライ語の語学知識に頼ることなく、答えを導き出すことができるのです。『モーセ五書各書簡の書き出しには、共通する文体がある』これに気が付ける翻訳者は、かなりのスキルがあります。原文の輪郭を設定することは翻訳作業の要(かなめ)になります。これだけでは納得できないと思うので、別の角度からも調べてみましょう。


~ヘブライ語を見る~

創世記1:1 Biblehub.com
בְּרֵאשִׁ֖ית בָּרָ֣א אֱלֹהִ֑ים אֵ֥ת הַשָּׁמַ֖יִם וְאֵ֥ת הָאָֽרֶץ׃
発音 aoal.org
べレシート バラ― エロヒーム エト ハシャマイン ベエト ハアレツ
新改訳は、בְּרֵאשִׁ֖ית ベレシートを『初めに~』と翻訳しています。



従来の日本語訳はどれも、ベレシートを『初めに・・・』と訳しています。ベレシートは旧約聖書の中で5回使われていますが、実際、どのように使われているのか調べてみましょう。

ベレシートが使われた個所 5個所
創世記1:1
エレミヤ26:1
エレミヤ27:1
エレミヤ28:1
エレミヤ49:34

エレミヤ26:1 新改訳
ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。

エレミヤ27:1 新改訳
ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがあった。

エレミヤ28:1 新改訳
その同じ年、すなわち、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主の宮で、祭司たちとすべての民の前で、私に語って言った。

エレミヤ49:34 新改訳
ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった主のことば。

ベレシートが『~の初めに、~の初め』と訳されていましたが、ちょっと違います。エレミヤ26:1を取り上げ説明させていただきます。Biblehub.comより引用



エレミヤ26:1 私訳
王ヨシヤの息子エホヤキムがユダ族の王座についた時、主のことばが私にのぞんだ。


ベレシートは『~した時、~した当初』という意味で使われてることが分かります。エレミヤ27:1、エレミヤ28:1、エレミヤ49:34も、全く同じ解釈になります。創世記1:1だけ『初めに神が・・・創造した』と解釈するのは、理屈に合わないですよね。

次に『天と地を・・・』これは直訳文(トランスペアレント訳)ですが、そうではなく『天地万物を・・・』と訳出するべきです。ここにもヘブライ語お決まりの形式があります。旧約聖書に、次のような表現があります。

・『年の初めから年の終わりまで 申命記11:12』⇒『一年中、毎日』という意味
・『わたしは初めであり、わたしは終わりである イザヤ44:6』⇒『万物を支配している』という意味
・『ダンからベエル・シェバまで 士師記20:1』⇒『イスラエルの全地に』という意味



いずれも『全て』という意味を表しています。『天と地を創造した』は、『天と地、二つのパーツを創った』という意味ではなく、『天地万物を創造した』という意味です。ヘブライ語は、ハイコンテクストになっていて『万物』ということばが省略されています。日本語に翻訳する場合『天地万物』と翻訳しなければなりません。


話しはそれますが、新改訳は日本語の作文がヘタクソなので、指摘させていただきます。翻訳という仕事は、原語に対する知識がどんなに豊富であっても、日本語を作文する力が貧弱では、何の役にも立ちません。エレミヤ26:1で『エホヤキムの治世のはじめ』という表現をしていますが『治世のはじめ』ということばは、ある決まった文脈で使われるものです。

・故桐壺院のご治世のはじめの頃に、高麗人が献上した綾織や、緋金錦(ひごんき)などがあり・・・
・アウグスツス皇帝の治世のはじめ頃になると、奴隷も主人と同じような服装になり・・・
・ルイ十四世の治世の初めの数年に大蔵卿をつとめていたニコラ・フーケは、豪勢なパーティと美しい婦人と詩を愛する・・・

『~の治世のはじめ』は、『政治、政治に関わる社会現象』について記述される場合が多いのです。もし、日本語で『エホヤキムの治世の初め・・・』という表現を使うのであれば、後続文は『・・・アッシリヤが攻めてきた』『・・・王宮建設に着手した』『・・・国民の風紀は乱れ始め』など、こうした内容が記述されるのです。『エホヤキムの治世の初め・・・主から次のようなことばがあった』という言い方は不適切です(コロケーションの不適合)。

新改訳が『エホヤキムの治世』と訳したのは、理由があります。第一の理由は、直訳思考で翻訳をしたからです。ここは英訳聖書で『the reign of Jehoiakim』と訳されています。それで、『the reign=治世』『エホヤキムの治世』と安易な直訳をしたのです。ヘブライ語『マムレフート』には『kingdom, dominion, reign 王国、支配、王座・・・』という意味があり、翻訳をする場合、文脈に合わせ適切な訳語を選択しなければなりません。この文脈の『マムレフート』は、『王座(についた時)、王位(を継いだ時)』という意味で、使われています。『治世』は不適切です。

第二の理由は、翻訳委員会が『聖書のことばは格調高い文体が良い』といった、トンチンカンな理念を掲げたことが原因です。ヘブライ語を素直に解釈すれば『エホヤキムがユダ族の王座についた時』と訳せるはずですが、『格調高い訳文』を作らなければならないという思い込みがあるので、『平易な日本語や大和ことばではダメだ。漢語を使った分かりにくい表現にしよう』とするのです。『治世』といった、硬直した日本語になったのは、翻訳理念にも問題があるのです。原文に忠実に翻訳するのであれば、『原文の文体に合わせた訳文を作る』という理念を掲げなければならないのですが、これは『格調高い訳文を作る』ことと、相いれないものです。

直訳で生じる問題を、もう一つ指摘させていただきます。『創世記1:1の文末が、ソフパスーク(:)で区切られている。だから、1節の日本語も句点(。)で区切らなければならない』と考えることです。



これも間違った思い込みです。言語には恣意性があるので、ヘブライ語のソフパスークと、日本語訳の句点は一致しない場合があります。というよりも『一致することはない』と言ったほうが正しいでしょう。例として、枕草子の『春はあけぼの』と英訳を比較します。日本語の句点の位置と、英語の句点の位置は、ずれています。

枕草紙
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

Ivan Morris訳
In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills, their outlines are dyed a faint red and wisps of purplish cloud trail over them.  

句点の位置にずれが生じる


日本語は、動詞がなくても文として成立しますが、英語は基本的に動詞がないと文が成立しません。言語構造が異なる場合、原語の句点の位置と、目的言語の句点の位置は一致しないのです。『春はあけぼの⇒Spring is dawn.』直訳主義は、このような訳文を作ることが正しいと教えますが、本当でしょうか?『春は名詞』です。『あけぼのも名詞』です。ところが『~は』は助詞です。この助詞を『is』という動詞にする時点で、直訳ではありません。通訳翻訳という仕事に、直訳(トランスペアレント訳)というのは絶対にあり得ないということが分かりますよね。意味上も『Spring is dawn.』は成り立っていません。直訳という方法は、原語の文法を目的言語の文法にそのままコピーしようとしますが、そんなことはできないのです。

次も『春はあけぼの・・・』の英訳別バージョンです。この訳文は、日本語の二文をまとめて、一文として翻訳しています。こうした訳文で全く問題ありません。

In spring, the dawn — when the slowly paling mountain rim is tinged with red, and wisps of faintly crimson-purple cloud float in the sky.  Kyotojournal.org

話しを戻すと『創世記1:1の文末が、ソフパスーク(:)で区切られている。だから、1節の日本語も句点(。)で区切らなければならない』という考えは、言語学上間違っているということです。目的言語が日本語の場合、どこに句点が入るかは、日本語のルールに従って決まります。当たり前のことですよね。ところが、『直訳』に洗脳された人は、ヘブライ語のルールに従って句点の位置を決めようとするのです。ヘブライ語を読むときは、ヘブライ語のルールで読む。日本語を作文する時は、日本語のルールで作文する。この様に、頭の中でスイッチを切り替えなければならないのですが、直訳をする人は、スイッチが常にヘブライ語に入りっぱなしになるんです。句点の位置はずれる。これは正しい言語観に基づいた解釈です。

私訳
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。
・・・

今から100年前、近代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は『異なる言語間において、直訳はできない!』ということを、数学的な証明方法を使って学生に講義をしました。ソシュールはこの中で『言語には恣意性がある』ということを唱えていますが、平たく言うと『言語というものは、直訳できない性質を持っている』という意味です。時代は変わり、太平洋戦争が始まると、アメリカは対戦国日本やアジア諸国の情報を集める必要性があり、コロンビア大学で最高水準の外国語教育プログラムを作ります。全米から優秀な教授、学生が集められ、日本語やアジア諸国の言語教育を授けたのです。この第二言語習得に関する研究は、重要な理論を発見します。言語が異なる場合、コンテクストに違いが生じる。モダリティに違いが生じる。コロケーションに違いが生じる、などです。これらのものは、ソシュールが唱えた『言語の恣意性』を、別の角度から証明したといえるでしょう。現代言語学は『直訳やトランスペアレント訳』を完全に否定しています。『直訳やトランスペアレント訳』を理念とする、日本の英語教育や聖書翻訳は、現代言語学から見て、間違っているのです。日本の聖書翻訳者は、こうしたことを勉強していません。


~ギリシャ語(70人訳)を見る~

『いや、まだ納得できない!』といぶかる方がまだいるかも知れないので、70人訳ではどうなっているのか、見てみましょう。

創世記1:1、Stepbible.orgBiblehub.com
εν αρχή εποίησεν ο θεός τον ουρανόν και την γην
ヘン アルケー エポイエーセン ホ セオス トン ウーラノン カイ テン ゲン
私訳 神さまが、天地万物をお創りになった時

ヘブライ語のベレシートが、ギリシャ語の『ヘン アルケー εν αρχή 』と翻訳されています。アルケーは次のような意味があります。
ἀρχή arché(746) Biblehub.com
magistrate, power, principality, principle, rule.
王権、権威、権力、絶対者、統治、定める、治める、王位に就く 

辞書を調べる時注意しなければならないのは、辞書に書いてあることが100%正しいと信じてはいけないということ。また、聖書ギリシャ語の場合、70人訳が作られた古い時代の意味と、新約聖書が書かれた時代の意味では、ことばの意味に違いが生じる、そういう場合だってあります。発音もスペルも違う場合があります。辞書には、70人訳に固有の定義なのか、新約時代のギリシャ語に固有の定義なのか、共通する定義なのか、解説されてないはずです。ここは、辞書を頼りにせず『ἐν ἀρχῇ ヘン アルケー』が使われた文をピックアップし、意味を探ることにします。使徒11章とピリピ4章が理解しやすいので、これを取り上げ説明します。

使徒11:15 Biblehub.com




ピリピ4:15 Biblehub.com


ἀρχή(ヘン アルケー、アルクサスタイ)は『~した時、~し始めた時』という意味になっていて、『初めに~した』という使われ方はしていませんよね。ヘブライ語ベレシートと同じ意味で使われています。創世記1:1は、次のように解釈します。

εν αρχή εποίησεν ο θεός τον ουρανόν και την γην
ヘン アルケー エポイエーセン ホ セオス トン ウーラノン カイ テン ゲン
私訳 神さまが、天地万物をお創りになった時


またまた余談ですが、新改訳の訳文がおかしな日本語になっているので、指摘させていただきます。私訳の方が、分かりやすいはずです。

新改訳 使徒11:15
そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。

私訳 使徒11:15
さて、私が語り始めると、以前、私たち使徒に聖霊が下った時と同様、カイザリヤの人たちにも聖霊が下ったのです。






ことばを無駄に付け足すから、意味不明な文になるのです。おかしな表現を推敲(すいこう)することなく、よくも、神のことばとして、出版できたものです。次に、直訳が必ずやることですが、日本語で人称代名詞を使うと、これまた意味不明になります。



ヘブライ語、ギリシャ語、英語は、人称代名詞を使わなければならない言語ですが、日本語は、基本的に人称代名詞を使ってはいけない言語です。新改訳のように、人称代名詞を多用した訳文、つまり、日本語のルールを無視して作られた人造語は、日本語ではありません。また、次の訳文は、間違った敬語の使い方、過剰な敬語表現になっています。新改訳の下に、敬語が使われた例文を載せました。

新改訳
聖霊が・・・私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。

news-postseven.comより引用
皇太子妃時代の若かりし美智子さまは、つばの広いブルトン帽や頭をターバンのように覆うボネと呼ばれる帽子を好んでお召しになった・・・

この文を『皇太子妃時代の若かりし美智子は・・・好んでお召しになった』と言い換えたらヘンですよね。『美智子は』と呼び捨てにしておきながら『お召しになった』と尊敬語を使っているからです。新改訳の訳文も同じです。『聖霊が』と呼び捨てにしておきながら『お下りになった』と重たい尊敬語を使うのは、文に整合性がありません。『聖霊さまが・・・』と、敬称『さま』を付けなければならないのです。そもそもこの文脈で『お下りになった』という敬語を使うのは不適切で『聖霊が・・・下った』として、問題ないはずです。過剰な敬語表現は、滑稽(こっけい)になったり、ときに慇懃無礼(いんぎんぶれい)になります。新改訳には、有名な国語学者が加わっていたそうですが、これじゃ、雇った意味がないんじゃないでしょうか?




~英訳聖書を見る~

ヘブライ語、ギリシャ語を見ると『神が~をした、その始め』『神が~した時』という意味になっていました。英訳聖書は、どのように解釈しているか見てみます。英訳は、様々な訳し方が試みられていますが、基本的な意味はどれも同じです。日本語は私訳です。

When God began to create the heavens and the earth—
神が天地創造を始めた時、
Common English Bible

When God began to create heaven and earth—
神が天地創造を始めた時、
Sefaria.org


In the beginning when God created the heavens and the earth,
神が天地を創ったその始め、
New Revised Standard

In the beginning, when God created the universe,
神が宇宙の創造を始めた時、
Good News Translation


In the beginning of God's preparing the heavens and the earth --
神が天地創造の仕事を始めた時、
Young's Literal Translation

In the beginning of God's creation of the heavens and the earth.
神が天地を創ったその始め。
Chabad.org

At the beginning of Elokim's creation of heaven and earth,
神が天地創造をされたその始め、
Chabad.org 

以上の訳文に『初めに神は天と地を創造した』という意味の英文はありませんよね。さて、英訳聖書で一番多い訳文は、次のものです。
In the beginning God created the heavens and the earth.

この英文を日本語に翻訳すると、どうなるでしょうか?直訳すると、次のようになります。

beginning=はじめ
In the beginning=はじめに
God created the heavens and the earth=神が天と地を創造した
直訳(誤訳) 初めに、神が天と地を創造した。

正しくは、次のようになります。
正訳(私訳) 神が天地万物を創られた、その始め、

『そんなはずないだろ!だって英和辞書に「in the beginning:始めは, 始めに」と書いてるじゃないか。だから「初めに、神が天と地を創造した」で、正しいんだよ!』と言う方がいると思うので、説明させていただきます。『In the beginning』が、どういう意味なのか確認すればよいのです。英語辞書に載ってる例文を引用させていただきます。参考までに、直訳と私訳を載せました。

Merriam-Webster.comより引用



Cambridge Advanced Learner's Dictionaryより引用


以上を見る限り、直訳も私訳も、意味上、大した違いはないように見えるかもしれません。ところが、次の翻訳になると、直訳と私訳とで、意味に大きな違いが生まれます。



Cambridgeの辞書が『in the beginning = when I started it』と解説していました。これが『in the beginning』の定義なんです。つまり『In the beginning God created the heavens and the earth.』は、『When God started creating the heavens and the earth.』と言い換えることができます。『神が天地万物を創られた、その始め、』という意味になりますよね。『in the beginning』は中学校で教わる基本語彙です。語彙、文法上、難しいものではありません。なぜ簡単な英語がまともに翻訳できないのでしょう?学校で教える英語が、根本的なところで間違っているから、つまり、直訳で教えるからです。

学校英語や受験英語の中においては、確かに、直訳英語は成立します。というのは、直訳が成り立たない英文は、教科書から入念に排除され、直訳だけが成り立つ『仮想直訳英語』が形作られているからです。学校教育で教えているのは『English』じゃありません。『日本式仮想直訳英語』です。大学で教える『ヘブライ語』や『ギリシャ語』も、『日本式仮想直訳ヘブライ語』や『日本式仮想直訳ギリシャ語』になってるはずです。『単語を沢山覚えなさい。文法解釈をしなさい』こういう教え方は、生徒を直訳思考に陥らせます。

『翻訳ってさあ。翻訳者によって解釈が異なるから、訳文も十人十色になるんだよね』という方がいますが、半分正しく半分間違っています。創世記1:1英訳聖書を見ると、確かに様々な訳文がありました。しかし、基本的な意味はどれも同じでしたよね。違いがあるのは、名詞の単複、定冠詞の有無、文として作るか節として作るかなど、こうした表面上の問題で、表現方法は違っても、基本的な意味はどの訳文も同じであったはずです。ところが日本語訳聖書の訳文は、単に表現方法が違うのではなく、根本的な意味が間違っているんです。プロとして相応しいスキルを身に付けた翻訳者であれば、表面的な表現方法に違いがあっても、基本的な意味は同じになるはずです。日本の聖書翻訳は、素人がおこなっているので、意味が異なる様々な訳文ができるんです。日本の聖書翻訳レベルが、いかに低いか分かりますよね。

創世記1:1は、聖句暗唱に使われる有名なみことばで、教会学校で子どもたちに教える、定番のみことばです。文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、日本語訳聖書は、100年にわたり間違ったみことばを教えてきたことになります。日本では、神学者や聖書学者が、翻訳をおこなってきました。神学に関しては専門家かも知れませんが、翻訳に関しては素人です。プロの翻訳者として、知識がなく、実務経験もない方が、翻訳をおこなえば多くの誤訳、悪文を作るのは、言うまでもないことでしょう。代々、素人翻訳者が金科玉条としてきた理念が三つあります。直訳、トランスペアレント訳、格調高い文体にする。この間違った理念が聖書のことばを壊すのです。




モーセ五書の表現形式、ヘブライ語、ギリシャ語、英語と、様々な角度から検討してきました。創世記1:1は、次のように翻訳しなければなりません。
私訳 創世記1:1
神が天地万物を創られた、その始め、